躍進する共産党
「1947年の二・一ゼネストは失敗に終わりました。翌年1948年には朝鮮半島支配が分裂しました。8月15日に大韓民国が、9月9日には朝鮮民主主義共和国が成立しました。言うまでもないことですが、終戦まで朝鮮半島は日本の植民地だったわけですね。さらに1949年には中華人民共和国が建国されました。こうした中、1949年日本共産党はそれまでの国会議員4人を35人に増やしました。
共産党が天下を取る日が近いと、党中央の徳田球一と野坂参三らが思っていると1950年1月、コミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局)が、その機関誌で米軍占領下において民主的な社会主義政権が樹立できるという野坂の理論を日本が資本主義国米国の植民地となることを容認するものだという激しい批判を載せたのです。
これに対して野坂・徳田らは、この批判は正当ではないという「所感」を発表します。しかし党内の宮本顕治・志賀義雄らはコミンフォルムを支持したのですね。
こうして共産党は「所感派」と、コミンフォルム支持の「国際派」に内部分裂したのです。間もなく「所感派」もコミンフォルムの批判を受け入れますが、その対立は残りました。
GHQは6月6日徳田球一・野坂参三共産党幹部の公職(議員)追放を命令します。それとともに「所感派」は党から姿を消しました。党には「国際派」が残りました。徳田らは秘かに中国に渡り、中国共産党と通じ、軍事武装共産革命路線に転じたのです。
この連携を受けて、1951年10月、日本共産党第五回全国協議会において軍事革命路線が決定されました。具体的な戦術は農村に潜んで戦力を蓄えた農村ゲリラが一再に蜂起して都市を包囲するというものです。山村に「山村工作隊」を置き、地域の最小集団「細胞」を集めて軍隊の「中核自衛隊」とするとともに、軍事行動専門の「独立遊撃隊」も組織しました。そうしてまた火炎瓶・時限爆弾の製造法の本も隠し持ちました。
さあ、ここで全学連の立ち上げですね。少し遡りますが日本共産党は戦後早々東大・京大をはじめとした学生と接触して、主要大学に学生自治会を開かせるとともに共産党の傘下の組織としました。1948年9月共産党指導のもと、全学連(全日本学生自治会総連合)が国公私立145大学30万人加入で結成されたのですね」