全共闘世代の親
「僕の親父についていえば、東京郊外の子だくさんの農家の末っ子だったから職として自分から軍に応募したのだ。親父はフィリッピンに連れていかれ、米軍が支配していたコレヒドール島の攻略作戦の兵士となった。すさまじい機関銃掃射のなか敵の要塞に迫ってゆく戦いだったから、勝利しながらも甚大な兵士を失ってしまった。親父の隣を進んだ兵は撃たれて倒れたという事だよ。親父自身も、その時飛んできた銃弾で耳の横に傷を作ったのだ。親父が亡くなる前に『ほら、これがその時の傷だよ』と言って、まだ少年だった僕に見せてくれたことがあったっけ。聞いて僕は驚いたね。なぜ驚いたかと言えば、弾があと1センチでも頭のほうにずれていれば、間違いなく親父は死んでいただろうからさ。親父という人は強運な人でね、赤ん坊の時、野口英世でもないが、囲炉裏に顔を突っ込んでね、ひどい火傷をして医者から『もう、この子は助からない』と宣告されたのだけど、結局、火傷の跡が一つも残らなかった。強運の話はさらに続くのだ。その後フィリッピンにおける戦いは全滅に近い状況となったのだけれど、部隊が隊をなさないほどに減ってしまったことで、再編を期すために、日本に戻される幸運を掴むのだ。結局親父は内地勤務となり、そのまま敗戦を向かえたのだ。敵前上陸に選ばれたことは運が悪かったけれど、その悪運が幸運を呼んだのだ。しかしその強運も悪運の原因になっていたかもしれない。親父は内地に戻され、横須賀の陸軍駐屯地の准尉となり、母と結婚して横須賀の丘の上に家を借りて住んで、本部に通う日々を送っていた。しかしアメリカは横須賀も重要海軍基地として原爆投下を計画していたという話を聞いたことがある。これがもし実行されていれば、横須賀勤務は悪運となっていたはずだよ。これはまるで塞翁が馬みたいな話じゃないか。
コレヒドールの戦いは、1899年以来米軍が植民地支配していたフィリピンの攻略の最終戦なんだ。コレヒドール島は南方に伸びたバターン半島と東の半島に囲まれたルソン島マニラ湾の湾口に位置するおたまじゃくしの形をした9平方キロの島だ。この地理上の位置が、湾の奥にあるフィリピンの首都マニラを守る上に重要だった。1941年12月8日、日本はハワイの米海軍基地、真珠湾を攻めると、12月23日にマニラ湾に侵入した。これに米極東陸軍将軍マッカーサーはコレヒドール島に司令本部を置いて交戦したのだ。近場のバターン半島などで敗退が続き、1942年3月、マッカサーはフィリピン共和国大統領マニエル・ケソンとともに『アイシャルリターン』の言葉を残してオーストラリアに逃げたのだ。コレヒドールの守備隊はなお残って、要塞にこもっていたが、1942年5月6日、日本軍の決死隊によってついに落とされてしまった。」