紛争ぼっ発のその他の原因
紗耶香が言った。「先生、大学の状況は良く解りましたわ。つまり大学のひどい環境は明らかになりましたけど、この当事者たち・・・つまり大学筆頭とか理事とか教授とか学生だとかの時代的気質は、紛争の原因だったと思いませんか」
「ああ、それは良い視点だ。全共闘運動はひとつつの社会革命運動だ。社会革命運動は、ひどい社会状況に自己主張する人々がいて初めて成立するのだ。今まで述べた状況の中で、ある特定の傾向を持った人々がいて全共闘は発生するのだね。
幸いな事に僕は、まるっきりその時代の人だ。・・・つまりこうだよ。飛鳥時代にたとえれば、天智天皇のドキュメントを書いている人が天智天皇の時代の人であるか、鎌倉時代の人であるかは重要な事だよ。天智の時代に生きた人ならば、その記録は彼が実際見聞きしたことであり。鎌倉時代に書かれたのであるならば、それは多くの見聞記や伝承を読んでまとめられたものだからだ。この点において、僕は天智・天武天皇期に生き、日本書紀をまとめ上げた太安万侶でいられるからなのだよ。
だから僕は僕らの時代の人々について述べよう。大学当局と学生である僕らの世代的ギャップは僕の父親と僕とのギャップに等しいと思う。当時の学生は1946年から1950年生まれだった。その親は1920年代が多かっただろうね。僕らの父親、母親は太平洋戦争のさなかに生きたひとびとだ。親のほとんどは中国やフィリピンや太平洋の島々に兵隊として強制的に送られ、母親になるだろう娘は食べるものも乏しい中で生きてきて、戦地から帰ってきた男を夫として子供を生んだ。…『戦争を知らない子供たち』『ベビイブーム』『団塊の世代』『戦後の生まれ』『フォーク世代』『完全戦後派』これらの名前は、みな僕ら1946年から10年後まで生まれの人々をさす言葉なんだ。
全共闘の学生はこれらの人によって構成されていたのだし教授たちは戦争に行った人々が多かったのだ。
広島と長崎に原爆が落とされ、天皇が敗戦の言葉をラジオで述べ(テレビはなかったからね)戦争は終わった。鬼のようなアメリカ人が描かれた愛国主義の教科書の不味い部分は墨でぬられ、軍部と封建主義がいけないもので民主主義と協議と平和が数年のうちに大事な事とされるようになった。そうして、民主主義の代表としての共産主義に多くの若い人々が惹かれるようにもなった。」