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当時の学生の心象風景

 祐司は言った。「日大はアウシュビッツの中のようだったと書いている本もありますけど、違うのですか」

「そんなことがあるものか。当時の大学生は同世代の10パーセントに過ぎない恵まれた人々だったんだよ。芸術学部のある西武池袋線江古田駅には面積当たり都内隋一喫茶店の多い場所だったんだ。ほかに武蔵大学と武蔵野音大があるから、これだけ多くの喫茶店があったともいえるけど、喫茶店繁盛の裏には芸術学部の学生が寄与していたに違いない。学部七学科一学科800人合計5600人と教職員が授業の無い時や昼食に夕方の飲み会に徘徊する、こんなアウシュビッツがどこにあるのだろうか。僕の親父は小さいながら繁盛しているスーパーマーケットをやっている。友達を見てみれば親が繁華街で多くの飲み屋ビルを持っている横田(写真学科)がいる。それから親が水道工事会社をやっている、やがて東横インの創始者の西田(付属高校で同級。恐らく大学は商学部。ホテル設備などもやっていたのだね。親をついで社長となった西田がこれにヒントを得て手狭だが安い高品質なビジネスホテルを立ち上げ手成功したんだと思うよ)がいる。親が渋谷駅前で料亭をやっている映画監督になった後輩の森田芳光がいる。やはり親が神楽坂(多分)で料亭をやっているTBSアナウンサーとなる先輩の小島一慶がいる。

 これからみれば、学生の家の豊かさが解るのじゃないかな。結構将来に不安のない連中なんだね。これがアウシュビッツなものか。大学に出入り自由、授業は厳しくない、まあまあ通っていれば大卒の免状はくれる、まさに天国ではないか。

 だから全共闘・・・この言葉は全学共同闘争委員会の訳で、日大が初めて使ったのだ。これはのちほど神田における日大の闘争委員会委員長 秋田明大あきたあけひろを選ぶ際(この時は千人ほどの学生の中に僕もいたんだ!)その会議で、「この会を全学共同闘争委員会と名付けます」という言葉を聞いた覚えがあるのだ。日大は早稲田や東大のように一つのキャンパスになく、学部ごとに点在して存在している。したがって全共闘に先立つ自治会の時代にも全学部の連携に不自由があった。日大の場合、一つの学部が普通の大学の規模があった。ここに全学共同闘争という言葉が必然的に生まれる根拠があったわけなんだ。・・・この騒乱の根はちがうところにあるのだと僕は思うよ!

 

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