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郷愁の心

 ひんやりとした部屋の中、ネクタイを首に巻く。上着を羽織り、階段を下りる。

「あら、もう行くの?」

「うん。和馬たちと待ち合わせしてるからね」

 テーブルの上の鞄を肩にかけ、玄関に向かう。靴紐を結び、玄関扉を開けた。

「行ってきます!」

 そう言うが否や、走り出した。マフラーが風を受けて舞い上がる。風が頬に当たって、冷たい。そんな空気を思い切り肺の中に取り込んだ。

 今日は、和馬曰く『人生の節目』、杏曰く『大事な行事』。

 卒業式だ。



『えー、卒業生の皆さん、あなたたちは本当に……』

 長すぎる校長の話に、あくびをする。これはどこの学校でも見る光景に違いない。杏は真面目に聞いているけど、一生懸命聞くような内容じゃない。和馬にいたっては、寝てるし。

『卒業証書、授与』

 教頭の声がマイク越しに響く。マイクがだいぶ壊れていて、バリバリと音が割れていた。その音に、無意識に、彼の頭蓋骨が割れる音を連想する。

 僕の基準は、今や彼だった。この人は彼よりも大きいな。この犬の歯は彼よりも鋭い。この色は彼よりも黒い……。

 ゆっくりと、目を閉じる。頭の隅で、不格好な少年が踊っていた。頭には棒が突き刺さった少年が、血を、滴らせながら。笑顔で。



 黒い筒を持って立っていると、和馬がこちらに走ってくる。腕を引き、写真撮影をする卒業生と家族が群がる桜の木の下に僕を連れていく。そこには、同じく黒い筒を持った杏が照れたように立っていた。僕と和馬に気がつくと、頬を赤らめ、はにかみながら手招きをする。ピンクのスーツを着た杏の母親も手招きする。和馬は杏の右に並び、僕は左側に並ぶ。和馬はニカッと笑ってVサインを突きだし、杏は和馬と僕の腕をとった。カメラのレンズに向かって、僕は――――。



「ゆーちゃん!卒業おめでとう!」

「ありがとう」

 そう言って微笑み、柚子の頭をくしゃくしゃと撫でた。うにうにと喜ぶ姿はまるで猫のようだ。

「それにしても、制服姿の優一君もかっこいいわねぇ~。おばさん、もう一回嫁入りしちゃおうかな」

 杏の母親――――桃花さんは優雅に紅茶をすする。僕たちは卒業式の後、杏の家に遊びに来ていた。囲んでいるテーブルには、香り漂う紅茶とクッキーの乗った小皿が並べてある。そんな母に、杏はあわてた。

「おっ、お母さん!」

 桃花さんはうふふと上品に笑う。美しい黒髪を一つにまとめ、うっすらとアイシャドーが塗られた目は色気を感じさせる。白い肌は陶器のようだ。初対面の人間が見たら、まさか四〇代には見えないだろう。せいぜい三十の最初といったところだろうか。

「相変わらずお綺麗ですね、おばさん」

「まあまあ、お世辞も上手になって。クッキーもう一つ付けちゃう」

「あ、ずっりー! おばちゃん、俺にもくれよおー」

「うふふ。あとで洗い物してくれたらいいわよ」

「この差はなんだよー」

 ふくれっ面をしている和馬を見て、杏がおかしそうに笑う。それを見て気分を良くしたのか、「洗い物ぐらいしてやらあ」と台所に飛んで行っていた。

 椅子に座る僕の膝の上に、柚子がよじ登ってちょこんと座る。ふわふわとした柔らかい髪が顎をくすぐった。

「ねえー、柚子にお菓子ちょうだい?」

「こらっ! それは優一君のだよ!」

 そう注意をする杏に、いーっと歯を出して威嚇する柚子。

「いーっだ! おねーちゃんは羨ましいだけでしょー。柚子がゆーちゃんのお膝にいるから」

「なっ、何をいって……」

 真っ赤になって口をパクパクさせる姿は、さながら金魚のようだった。それを見ている桃花さんはけらけらと笑っている。僕も彼女を必死にまねた笑顔を顔に張り付けた。

 それにしても……と、膝の上の柚子を見下ろす。絆創膏が貼られた手のひら、そこから目が離せない。気分を落ち着かせようと息を大きく吸うと、鼻にあの臭いがした。

「っ!」

「? どうしたのゆーちゃん」

 突然揺れた僕を不思議そうに見上げる柚子。そんな柚子に、笑顔を向ける。ただし、ひきつってしまったが。

「な、なんでもないよ。それより、それよりさ。柚子ちゃんは今日、怪我でもした?」

「ううん。してないよ」

 首を振ると、髪が揺れる。それと同時に、そのにおいも広がる。

 血の、におい。

「おばちゃん! 洗い物終わったよっと」

「じゃあ、洗濯をおねがいね?」

 こんなところで血のにおいなんて、ありえない。現に誰もそのことを指摘していないじゃないか。これは幻、僕が作り出した妄想なのだ。

 それでも、確実にそのにおいは僕の鼻に忍び込んでくる。

「人使いがあらすぎるぜー」

「じゃあ、手伝おっか?」

「おお、助かる」

 これは幻覚なんかじゃない。大きく息を吸うと、あの時の鉄のにおいがする。もう一度深呼吸しても、鉄のにおいは変わらない。

 なんでなんでなんで。なんでこいつらはこのにおいに気付かない? こんなにも、こんなにも漂っているのに。こんなにも強く、存在を主張しているのに。

「じゃあ、柚子も手伝うよー」

 柚子が膝からぴょこんと飛び降りた。と、血のにおいが僕から離れる。まってくれ、と、香りの幻覚に手を伸ばす。その先にいたのは――――。

「ゆーちゃんもやろうよっ!」

 柚子。

 僕は、柚子に向かって手を伸ばしていた。口から、柚子の口から絶えずにおいが吐き出されている。そうだよ。僕にはわかる。これは、これは、柚子の内臓の匂いなんだ。

 なんて芳醇な香りなんだろう。なんて甘味で、なんて魅力的。

 本物も、こんな匂いがするのかな……。

「ゆーちゃん?」

 首をかしげて、こちらを見上げる柚子。少しだけ開いた口の中は、赤い。

「ん、なんでもないよ」

 僕は柚子に手を引かれ、歩き出した。その間も、鉄のにおいは僕を惑わし続けた。



 高校生と中学生のあいだ、そんな微妙な時期はあっという間に過ぎ、季節は入学のときを指していた。僕は拍子抜けするほどあっさりと、何事もなく、高校に入学した。

 和馬とは違うクラスだったが、杏と同じクラスだった。進学校なので不良などガラの悪い人間もいなくて、クラスメイト達は人当たりが良く居心地がいい。最高、と言える。言えるはずだった。あれを体験していなければ。

 濃密でねっとりとした、暗い色の濃厚な出来事。それに比べると高校は無味無臭で、なんというか、平和すぎた。物足りない。まるで、街へと連れてこられた田舎者。最初は喜ぶのだが、やがて気付く。何かが足りないということに。笑顔を交わしながら歩いたはずの道を、窮屈なスーツを着てうつむきながら歩むのだ。そして、田舎者はビルに囲まれた空を見てつぶやく。

 ああ、故郷へと帰りたい、と。

 僕にとっての故郷は、ここじゃない。

 あの日初めて、僕は僕の生まれた原点に還ったのだ。

 あれこそが、僕の故郷。

 異常こそが、僕の帰るべき場所。


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