香り、誘う
日曜日、朝一番で和馬から電話がかかってきた。なんでも、サッカーの試合に欠員ができたらしいので、助っ人になってほしいとのこと。正直言って一日中手袋を触っていたかったが、あまりやることがないのに断るなんて不自然だ。二つ返事で引き受けた。
試合があるという河川敷まで自転車をこぐ。藁大橋のすぐ近くだったから、引き受けたというのもある。冷たい風が、髪をうっとおしく揺らす。手袋をしていなかったので、凍傷になるんじゃないかと思った。
自転車置き場に自転車を置き、チェーンをかける。と、後ろで勢いよく砂利をける音がした。
「ゆーうちゃんっ!」
腰のあたりに衝撃。この高い声には聞き覚えがある。僕は振り向き、その子を抱き上げた。キャーッという歓声を上げる。
「おはよう、柚子ちゃん。杏ちゃんについてきたの?」
「うん!ゆーちゃんが来るって聞いたから!」
そう言って無邪気に笑う顔は、杏にそっくりだった。重たくなってので、地面に下ろす。ふわふわとウェーブした髪は、杏とは対照的だ。小さい体は、黄色いトレンチコートに包まれている。
「お姉ちゃんね、今みんなのタオルを用意してるの!」
「なるほどね……っと」
向こうから噂の彼女が手を振って走ってきた。学校指定の青いジャージに身を包み、いつもはおろしている髪を今日はポニーテールに括ってきていた。すぐそばで立ち止まると、怒ったように声を荒げた。
「柚子! 優一君に迷惑かけちゃだめよ!」
「ちぇー。せっかくゆーちゃんと二人っきりだったのにー」
僕の足に絡みつき、怒ったように頬を膨らませる。その頬にはほんのりと赤みがさしており、頭の中にいる彼とは対照的だった。
「もう! はやくベンチに戻りなさい! クッキーもらったでしょう」
妹と同じように、姉も頬を膨らませる。どうやら癖らしかった。驚くほど似ている。
「あ! そうだった。じゃあねゆーちゃん!」
そう言うと柚子は僕の足元からあっさり離れ、グラウンドがあるだろう方向に走っていく。それを見届けた杏が、ため息をついた。
「ほんとにあの子はもう……」
「いいんじゃない? あの年頃の女の子ならあれくらい元気でないと」
「優一君までそんなこと言わないでよー」
そう言って頭を振る。それに伴って長いポニーテールが流れるように揺れる。毎度ながらきれいな髪だと思う。ふと、誰もがうらやむその髪を、軽く引っ張ってみた。
「うきゃ!」
かわいらしい声をあげて驚く。杏の髪は絹糸のような手触りで、もっともっと触っていたくなった。
「ゆ、優一君……」
困ったように顔を赤くする杏に、うっすらと微笑を浮かべる。
「かわいいね。この髪型。ひっぱりたくなるよ」
「も、もう! そんなことしてる暇があったら、早く練習して!」
ザクザクと砂利を踏んでさっさと歩いていく杏。それに僕は笑いながらついていった。
「おせー! もう練習できないじゃねえかよ!」
「だったらもっと早く連絡してよ……」
ベンチにやってきた僕に、さっそく怒鳴る和馬。部員達は部長と助っ人のやり取りを珍しいものでも見るような目で見ていた。当たり前だ。僕の体はお世辞にもたくましいとは言えない。なぜ助っ人に呼んだのかわからないのだ。
「これでも急いで来たんだから」
「だったらもっと急いで来いよ! 五分位でさ!」
無茶を言うなよ、と呆れている僕に、杏がユニフォームを持ってきた。横から口を挟む。
「無茶言っちゃだめだよ。優一君にも予定があったのに、わざわざ来てくれたんだよ?」
「う……」
そういったきり、押し黙る。キャプテンよりマネージャーが強いって、どんな部なんだ。
隣のがっしりとした一年生に、こそっと訊いてみる。
「この部ではマネージャーが強いの?」
ちょっと戸惑ったようだが、親切に教えてくれた。
「そうゆうわけじゃないんですけど……部長は杏さんには弱いんですよ。基本的に」
「ふうん……」
そういえば、昔から和馬は杏に弱かった気がする。喧嘩して殴られても、絶対に手を挙げなかったし。
冷えた青いユニフォームを着て、足をほぐす。そんな僕に、和馬が指示を出す。
「おまえはオフェンスな。他には俺と二年生が何人か」
「了解」
「俺の大切な最後の試合なんだからな。しっかりやれよ」
「わかってるって」
サッカーのことになると、普段のおちゃらけはすっかり抜ける。何かに一生懸命になれること、僕がそれをずっと嫉んでいたことを、彼は知るまい。
スパイクの紐をしっかり結び、グラウンドに出る。相手チームらしき少年が、グラウンドの端に固まって話し合っている。緑のユニフォームを着ているが、芝生のように鮮やかなものから薄い緑まで様々だ。作戦会議が終わったらしく、かけ声を上げて円は崩れた。気合い入れるぞー! おー! という勝手なアフレコをして、ぼんやりと彼らを見ていた。
お互い向かい合い、一列に並ぶ。和馬の横に僕は並んだ。すると、向かいの筋肉質な男がいやらしい笑みをこちらに向けた。
「おー? 女みたいに細っこいやつに、俺とサッカーができんのかぁ?」
呆れてしまった。挑発し、頭に血を登らせて冷静な判断を下せないようにしているのか。だとしたら、最悪の作戦だ。卑怯なうえに、あまり効果がない。いや、そんな深い意味はないのかもしれないな。いかにも脳味噌まで筋肉詰まってますってタイプに見える。こんな輩は無視するのが一番いいのだが、和馬はそれにかみついた。
「うちのピンチヒッターに何言うんだよ!」
「ほーう。そんな奴を呼ばなきゃならんほど東中の部は廃れとるんかぁ?」
「! 馬鹿にすんなよっ!」
そんな二人のやり取りを、僕は黙って見つめていた。やれやれ、東中学校と丸尾中学校は仲が悪いと聞いたけど、これは噂以上だな。和馬も和馬だ。わざわざ挑発に乗ってやることなんてないのにね。そこがまだ子供というか、中学生らしいというか。
不穏な空気のまま、審判に言われて礼をする。向こうでは丸尾中の監督らしき男が大声を張り上げている。日焼けした、いかにも頑固そうな男だ。それに対し、われらが東中の監督は青白くひょろひょろとした、眼鏡をかけた男。彼に当てはまるのはどんな表現だろうか。気の弱いサラリーマン? おどおど眼鏡? もやし、なんてぴったりだ。
キックオフは丸尾中から。先ほどの挑発男が蹴るらしい。和馬は相手チームの副キャプテンの前をうろうろとしている。キャプテンの方はというと、ばれないようにやっているつもりなのだろうか。目配せを一人の二年生としている。これはフェイントか? いや、そんなことはない。彼は必ずこの部員にパスを出す。
気付かれないように、その部員のそばに近寄る。気配を消して、二人を観察した。一瞬たりとも動きを見逃すな。見ろ。観ろ。視ろ。
笛が鳴り、予想通り彼は部員にパスを出した。部員の足元にボールが来たのと同時に、するりと横に滑り込み、ボールをかすめ取る。しまった、と口を開けて呆けている二年生の顔が、痛快だった。
「おいっ! 何やってんだよ!」
さすがに判断は速いらしく、キャプテンはすぐに指示を出す。目の前にがっしりとした男たちが立ちふさがるが、その隙間隙間をすり抜ける。ボールは芝生の上をなめるように滑り、最終目的地、ゴールに向かっていく。
が、再び目の前に男たちが。先ほどより数は増え、抜くのは無理だ。ふと、瞬間的に和馬と目が合う。足は、和馬の方へと向いていた。
「和馬っ!」
「任せろっ!」
ボールが空中を、部員たちの頭上を影を落としながら飛んでいく。その行きつく先は……決まっている。
和馬は走る。まさかだいぶ遠い和馬にパスが回るとは思ってなかったのか、和馬に付いていた部員は一人だけだ。その部員すら振り切り、走る。走る。走る。そして、ボールを、蹴りあげた。ゴールに向かって。
キーパーが走る。手は届かない。誰もが肩に力を入れた時、予想しない音がグラウンドに響き渡った。
ガァン!
最後の試合という緊張感もあったのかもしれない。いよいよというところで、力んでしまったのかもしれない。いつもなら絶対にしないミスを、絶対にはずさないゴールを、はずしてしまった。ボールが、ゴールの枠に当たって跳ね返ってきたのだ。
跳ね返ってきたボールは、幸か不幸か、僕のもとへ転がってくる。僕はそれを、何も考えずに、力いっぱい、蹴りあげた。
「……おっしゃあああああああああ!」
グラウンドに響き渡る、男の声。それはどちらのチームから出たものか、それを見るまで分からなかった。
ボールは、ゴールのネットに見事からまっていた。それを見てやっと、自分が点を入れたんだとわかる。髪は汗で湿っていて、不快だった。
「やったな! さすが優一!」
そう言って飛びついてくる和馬。汗ばんだ手が肩に回され、僕はうすら笑いをしていた。。が、その汗ばんだ手が不潔に見えて、さわられていると思うとおぞましくて仕方がなかった。
先ほど僕を女のようだと馬鹿にしたキャプテンは、呆然としていた。のは一瞬で、すぐに部員に声をかける。
「おい! 何やってんだよ! さっさと巻き返すぞ!」
慌ててそれぞれの配置につく部員達。僕も同じように、自分の指定された場所に戻った。
「はい! ゆーちゃんお疲れさま! かっこよかったよ!」
そういって、柚子は精いっぱい背伸びして、僕にタオルを渡そうとする。寒さのせいですっかり汗は消えていたのだが、笑顔でそれを受け取る。
「ありがとう、柚子ちゃん」
「えへへー。当たり前だよー。柚子はゆーちゃんのお嫁さんになるんだからー」
「ゆ、柚子っ!」
柚子の発言になぜか杏が声を荒げる。まあ、だいたいの予想はつくけど。僕はそんな杏をなだめる。
「まあまあ。誰もが一度は通る道だよ」
「うー。でもー……」
不満そうに口をとがらせる杏の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。「うにゃー」とか言ったりしてるけど、嫌がってはない。髪を括っているので、髪型が崩れてしまったがいいだろう。
結局、試合は四対二で負けてしまった。そのせいで丸尾中のキャプテンが和馬にちょっかいを出していた。わざわざかみつく和馬も和馬だ。その幼稚っぷりには敬意さえ表したくなるね。
やがて怒鳴り合いは終わり、怒った面持ちでずんずんとこちらに向かってきた。そして、僕が杏の頭の上に手を乗せてるのを見て、さらに眉を吊り上げる。
「優一! 試合に負けたのにへらへらするな!」
「はいはい」
ひょいと杏から手を離し、ポケットの中に両手を突っ込む。まあ、今怒ってるのは試合に負けたからってだけじゃなさそうだけど。
「あははー。カズ君負けてやんのー」
「うるさい!」
ごちっといい音。和馬が柚子の頭にげんこつを落としたのだ。柚子の大きな目に、みるみる涙がたまっていく。やばい、とその場にいる誰もが思った。
「う、うぐっ、ええん、い、いたいよぉ。おねーちゃぁーん!」
しゃくりをあげながら杏に飛びつく。もお……と呟きながら、杏は柚子を抱き上げだ。
「和馬君。子供相手にムキにならないの。柚子もよ。今日は大切な試合だったんだから。負けたことをからかっちゃダメ」
「だっ、だってぇ……」
嗚咽を漏らし、また涙を流す。ませてるとはいえ、まだ七歳児なのだ。そんな柚子をみて和馬は少しばつが悪そうな顔になったが、それを隠すようにぶっきらぼうな口調になった。
「杏。おまえ打ち上げの用意とかしたのかよ」
その場しのぎのごまかしで言ったのだろうが、杏はしまったという表情を浮かべた。それを見て、和馬が目を見開く。
「まだなのかよ」
「ごっめーん……忘れてた。優一君。ちょっと柚子を預かっててね」
「イエッサー」
まだぐずっている柚子を僕に渡し、駐輪場の方へと走っていく杏。毎年、この時期になると三年生の卒業祝いも兼ねて打ち上げが行われるのだ。その準備は普通マネージャーがやるのだが、そのマネージャーも卒業してしまい、杏一人だ。
それでも抜けてる所があるからなあ……。
心配になるのは和馬も同じようで、「俺、ちょっと手伝ってくるわ」と言って杏のうしろを追いかける。部員たちも着替えるためにベンチの方向に散り散りになった。残された柚子と僕。
「ほらほら、泣かない泣かない。もう二年生になったんでしょ?」
「う……ん」
そういって、涙と鼻水をユニフォームに擦りつける。汚いが、借りものなので良しとしよう。洗濯するのは杏なんだし。
「どうする? 立てる?」
「……うん。おろして」
そろそろ腕が限界だったので、助かった。柚子はしっかりと足を地面につけて立ち、コートの袖で目を拭っている。着替えに行こうとしたら、手をぎゅっとつかまれた。柚子がうつむきながら、僕の手を握りしめていた。
「ゆーちゃん。お散歩、しようよ」
「…………。いいよ」
冷たい小さな手に引かれ、僕は河川敷を歩き始めた。
ざくざくざく。砂利を踏むたびに音が鳴る。目は赤いままだったがだいぶ機嫌も治ったらしく、柚子は時折笑顔を見せるようになっていた。
「もー。カズ君はぼうりょくてきすぎる! 柚子を殴るなんてねー」
口を尖らせ、不満をブツブツという柚子。ふわふわと揺れる髪が愛らしい。
「そうだね。かわりにゆーちゃんがよしよししてあげよう」
そう言って撫でてやると、きゃっきゃ言って喜んだ。杏とは髪質も、手触りも違う。杏の髪は生糸のようになめらかだが、柚子の髪は羽毛と同じやわらかさがある。
顔をあげ、にこにこと笑う。その無邪気さは、僕が一生手に入らないもの、そして誰もが失った輝きを放っていた。
「えへへー。やっぱりゆーちゃんはやさしーなー。やっぱりお嫁さんになるよー」
「柚子ちゃんが結婚してくれたら、老後も安泰だねー」
「あははっ」
言葉の意味は分かっていないだろうが、それでもうれしそうだ。僕の言葉をまるっきり信じてる。目に見える僕が、本物だと信じて疑わない。僕が、一人の少年を殺したとも知らずに。それも、自分と年の近い少年を。
僕の方を見ながら話したいのか、僕の前で後ろ歩きをしながら話し始める。小さな靴の動きはおぼつかなく、見る者を不安にさせる。
「柚子ちゃん。転ばないように気をつけてね」
「わかって、きゃ!」
やはり転んだ。地面の上に尻もちをつく。僕はその隣にかがみ、手を引っ張って立たせてやった。
「大丈夫?」
「う……手が」
地面にとがった医師でもあったのだろう。見ると、尻もちをついたときの手に、赤い血がにじんでいた。小さな傷口からあふれ出た血はぷっくりとした血豆になり、みるみる膨らんでいく。それを見た僕の心臓は、どくりと動きだす。
血が。目が離せない。鼓動が速い。めまいが。貧血に似た、壊れたテレビのような視界になる。息が荒くなる。頭の中に、彼の顔が映し出される。真っ黒な血が、手の上に浮き出てきた。
「ゆーちゃん?」
首をかしげて僕を見る、柚子の顔をぎょろりと見る。食い入るようにその目を見つめて、僕はつぶやく。
「――――だろうね」
「え?」
風が、僕と柚子のあいだをすり抜けていく。草木が揺れる乾いた音。見開かれた柚子の眼。あたりには水の音だけが響く。
視線が外せない。僕はゆっくりと、ゆっくりと柚子の頭に手を伸ばして――――。
「おーい! 優一! 柚子!」
どこからか聞こえてくる声。それは、遠くから聞こえてくるように霞がかかっていた。あれ、どこかで聞いたことがあるっけ……そう、これは和馬、和馬の声だ。よろよろと立ちあがる。霞んでいる視界。ふりむくと、自転車にまたがった和馬がこちらを見ている。
「こんなところにいたのかよ。もう帰るぞ」
「あ、ああ……そうだな」
柚子の方はというと、僕の足にしがみつき、和馬に向かって舌を出している。先ほどのことをまだ根に持ってるらしい。
「べーっだ! カズ君なんかおねえちゃんにふられちゃえ!」
「ちょ、おま!」
慌てる和馬がおもしろいのか、くすくすと笑う。和馬はそんな柚子を見て、ため息をついた。
「すまんすまん。俺が悪かった。お詫びに自転車でお運びしやしょう」
「やったー! 落とさないでね!」
僕の足から離れ、自転車にぴょこんと飛び乗る。和馬が自転車にまたがったまま、こちらを向いた。
「僕は後から行くから。先に始めといてよ」
「そっかー。じゃ、出発進行!」
自転車をこぎ出し、柚子が歓声を上げる。僕はそれをうっすら微笑んだまま見送り――――姿が見えなくなったところで、川のそばに走って、思い切り、吐いた。
唾液が、嘔吐物が糸を引き、川へと流れていく。すっぱいものがこみ上げて来て、またはいた。
気持ち悪い、気持ち悪い。
僕は、あの子になんて言ったんだ?
耳が、脳が、僕が、はっきりとその言葉を覚えている。
柚子の中身はどんなのだろうね――――。