つめたいなかみ
その日は、その冬で一番寒い日だったと記憶している。はく息は白く、マフラーで口元を覆った。コンクリートの地面の上、うつむきながら学校への道をたどっていた。
「おーい! 優一!」
聞き慣れた声。振り返ると、いつも通りの彼の姿。僕も、いつも通りの笑顔を彼に向ける。
「うーっす。おはよう和馬」
汚れた黒い雪を蹴りながら、手を振って僕の隣まで走ってくる。泥水を吸い込んだスニーカーが、ひどく汚かった。
「今日もさみいな」
「ほんと。いやになるよ」
毎朝のように交わす、挨拶のような会話。それは一種の儀式のようなもので、それを行うのは話すことが何もないからに他ならなかった。
「杏ちゃんは?」
「んー。もたもたしてるから置いてきた」
頭のうしろで腕を組み、にやっと笑って見せた。振り返ると、角を曲がったところ、肩で大きく息をしている女子生徒が塀に手をあててうつむいている。彼女は、顔をあげてこちらを恨めしそうに睨んだ後、僕たちのところに駈けてきた。
「ひどいよー! どうして置いていっちゃうの!」
僕と和馬の間に並び、ふくれっ面をする少女。僕は笑いながら、杏の乱れた長い髪を手ぐしで整えてやる。
「杏が遅いせいだろ」
「和馬君が早すぎるんだよ!」
「まあまあ、痴話喧嘩はそのくらいにして。……ほい、完了」
「ちっ、痴話喧嘩じゃないもん!」
白い頬に、さっと血の気がさす。杏の髪は、走っていたのが嘘のように整った。彼女の髪は細くやわらかく、触っていてずいぶんと手触りがいい。
「優一、おまえ手袋は?」
寒空の下、手袋をしていない素手を和馬が不思議そうに見る。ああ、と相槌を打ちながら手をこすり合わせる。
「昨日学校で忘れて来てさ、この通りだよ」
「あ、私カイロ持ってるよ。使う?」
「いや、いい」
ひらりと手を振り、コートのポケットの中に手を入れる。じゃあ、と和馬が杏に手を出す。
「俺に貸してくれ」
「だめだよー。私が使うもの」
「なんで優一がよくて俺が駄目なんだよ」
「だって――――」
はく息が、白い。
僕は二人を見ていた。怯えるようないつもの笑顔を、顔に張り付けて。
教室の、どろりと淀んだ熱気。それはとてつもなく不快なものだったが、誰一人として窓を開けようとしない。今すぐにでも立ち上がって窓を全開にしたかったが、それによって人から白い眼で見られるんじゃないかと、それすら僕は恐れていた。
かりかりとシャープペンが走る音。それを聞いて、今は数学の授業だったことを思い出す。受験直前というのは、どうにもおかしな時期だ。いままでおちゃらけていた奴が、急に身を入れて授業を受け出すんだから。
終わりを告げるチャイムが鳴り、号令がかかる。お情けでやっているようなお辞儀をすると、後ろから肩を叩かれた。
「なあなあ。さっきの問題わかったか? 二の問一」
振り向くと、クラスメイトの男子が身を乗り出していた。おしゃべりで、明るい人気のあるグループの一人。かといって話していて面白いかと言われればそうではなく、彼の人気は話すときのくるくる変わる表情のおかげだろうな、と思っていた。
「ああ、あそこはね……」
問題の説明を始めると、彼はうんうんと頷きながらノートを眺める。僕の方では、口では問題の説明をしながらも、どのように顔の筋肉を使えばこの表情が作り出せるかを考えていた。
「サンキュー。やっぱり沢田は頼りになるわ」
またよろしく、と言って席を立つ。どうやら僕は、このクラスでは頼りになる存在だと思われているらしかった。成績は優秀で人望も厚い、頼れる委員長。みんなの人を見る目のなさが、あまりに滑稽でおかしかった。そんな立場を必死になって守ろうとする僕は、もっと滑稽だった。本当は、みんなに嫌われるのが怖くて、歪んだ愛想笑いを浮かべている臆病者だというのに。
だれも、気付かない。
気付きや、しない。
「優一君、ゆーいちくん!」
昼休み、教室の出入り口で、小さく手を振っている少女。――――ああ、そっか。僕の名前は優一というんだったな。
ぼんやりとした頭、ふらつく足取りで彼女のもとに向かう。あくびをする僕を見て、困ったように杏が笑う。僕が最も羨む、複雑に感情が混ざり合った笑顔。
「もー。また授業中に寝てたの?」
「いいだろ。もう勉強する必要なんてないんだし」
「でーもー。それって不公平な気がする」
不満そうに口をとがらせる。僕はそれを黙って観察していた。もちろん、気付かれないように。
「で、なんの用?」
だるそうな口調で訊く。早く用を訊かないと、弁当を食べる時間がなくなってしまう。
「ええっと……はい、これ」
そう言って、杏が手を上げて見せたものは、緑色のラベルが貼られた缶コーヒーだった。
「……杏ってコーヒー飲めたっけ」
「間違って買っちゃったの。もらってくれる?」
照れたように笑う。このようなことはよくあった。コーヒーが飲めないくせして、しょっちゅう間違ってコーヒーを買ってしまうのだ。購入の現場に居合わせたことがないので、どのようにして間違うのかは知らないが。
「いや、悪いから買うよ。いくら?」
「120円」
学生鞄から小銭入れを取り出して、硬貨を何枚か渡す。ほんのりとあたたかいコーヒーを、杏は手渡してくれた。
「えへへー。まいどありー」
「もう間違うなよ」
「はーい」
そう言うと、安は自分の教室の方向へ走って行った。僕は温かいコーヒーを、机の上に音を立てて置く。前の席の男子が、椅子を倒して話しかけてくる。
「いいよなー沢田は。かわいい幼馴染がいてよお」
曖昧に笑って、軽く返答した。何を言ったのかは覚えていないが、彼が笑ったことからして、何か気の利いた笑いを誘うようなことを言ったのだろう。
和馬と杏とは小学生のころから一緒にいた。どうしてつるみ始めたのか、いつから一緒にいたかなんて覚えていない。覚えているのは、杏と和馬が最初から一緒にいたこと、そこに僕がいつの間にか居たこと。いつしか、幼馴染と呼ばれる間柄になっていた。
この年頃の女子はあまり男性と話したがらないらしいが、杏と僕たちは違った。子供特有の冷やかしなども受けたこともなく、周りも僕たちのことを仲のいい三人組として見ているようにも思えた。
パカッと缶のふたを開け、コーヒー缶を傾ける。どろりとした苦味が舌の上を広がった。顔をしかめる。……苦い。当たり前だが。
ちらりと鞄の方を見た。誰かが抜き取っていない限り、そこには弁当が入っているはずだった。
……食欲、ないな。
結局、コーヒーも最後まで飲みきらなかった。