沈む日
あれから十年――――。
僕は、海の中にいた。
苦しくて、空気を吸いこもうと口を開けても海水がなだれ込んでくる。はなからも水が入ってくる。
死ぬのかな……。
両手を海面に向かって、求めるように伸ばす。求める? 何を?
海面は、太陽の光を受けて宝石のように輝く。青く波打つ海面は気まぐれで、光を流し、揺らし、翻弄する。
まぶしすぎて、見ていられなくて。僕は、目を閉じた。ら、
「おっはよーん、ゆーたん」
「う……ごほっ」
口の中を流れる水に、せき込む。目を開けると、栗色の髪を垂らした女が満面の笑みで馬乗りになっていた。そして、手にはなぜか水差し。
馬乗りになったまま、女はけらけらと笑う。
「いやー、ゆーたんがなかなか起きないから、水かけちゃったよー」
「…………」
どうやら、僕は水攻めにあっていたらしい。
というか、口と鼻に集中的にかけるなや。死ぬぞ。
「おはようございます……麻紀子さん。この体勢は組長に見つかるとやばいんで、降りてください」
女は――麻紀子さんはやっと僕の上から降りた。不満そうに口をとがらせる。
「つれないねー、ゆーたんは」
「つれなくて結構ですよ」
サラサラの栗色の髪、白い肌と気の強そうな美人顔の組み合わせは、どこかのフランス人形を思い起こす。実際に、どこかの国の血が混じってるんだそうだ。スタイルもいいし、完璧といっていいはずなのに、なぜか僕は魅力を感じなかった。
「おいおいー。このあたしに魅力を感じなかったら、おまえロリコンかホモだぜ」
「…………」
まあ、この性格だからかもしれないけど。
むっくりと起き上がる。服は、昨日の服――ワイシャツと、メンズスーツだった。どちらも着たまま寝ていたからよれよれになっている。
「あたしがアイロンかけてやろうか?」
「全力で遠慮させていただきます」
うっかり頼むと、着たままアイロンをかけられかねない。
ベッドから降り、着替えよう、と思ったのだが……。
「…………」
やはり、女性の前で着替えるのは少し抵抗がある。たとえそれがいくら男前な女性でも、嫌がらせでニヤニヤと笑いながら居座っている女性でも、だ。
しかし負けたような気がしてしまうので、ワイシャツのボタンを外し始める。
「ゆーたん……」
ふわっとする香り、と、背中に暖かいものがぶつかった。それは前に腕を回してくる。
「誘ってるなら、そう言えばいいのに……」
「んなわきゃないでしょ」
軽くあしらい、体から引っぺがす。つーか、今のは僕でもクラッとしたぞ。一般の男性にやると危ない行為だ。
「あっははー。いやー、ゆーたんはからかいがいがあるねー」
麻紀子さんは大笑いしながら、部屋を出て行った。まったく、嫌な人だ。
ぱちぱちと要領よくワイシャツのボタンをはずす。コンクリートの床に落ちたワイシャツには、真っ赤な血がべっとりと付着している。
「…………あ」
ふとベッドの方を振り返ると、シーツにも血が付いていた。頭をぽりぽりとかく。
また、洗わないとな……。
五畳ほどの、コンクリートの箱のような部屋。ベッドやタンスも簡素なもので、窓には鉄格子がはめられており、まるで監獄。
ここが、僕の家。
僕は眠気に逆らえず、またベッドに横になる。頭を支える枕からは、血のにおいがした。
あれから――――杏に詰め寄られ、窓から逃げ出したあの日、僕は近くに停めてあった単車を盗んで逃げた。そこをどう進んだのか覚えていない。ただ、兄に教わった単車の操縦の仕方だけは覚えていたから、事故なども起こさなかった。
まるで長い夢を見ているような、まだ夢の中をさまよっているような、そんな気分。気がつくと潮の香りをかいで、港に立っていた。飛び降りるつもりだったのか、どうなのか。どうでもよいことだと、今は思う。
このときも、僕は眠気と脱力感に逆らえなかった。ふらふらと歩き、寝る場所を探した。ほんの少しだけ扉が開いている倉庫に目が行き、そこに向かって歩いた。
暗い、倉庫の中。鉄板を張り合わせたような巨大な倉庫は寒く、それでも海辺よりはましだった。扉から差し込んでくる一筋の光の上を、おぼつかない足取りで歩いていた。
雲の上を歩いているような、現実味のない感覚。そんな麻痺した頭に、その音は響いていた。騒音、誰かが、騒いでいる。
「これで俺達ゃあ金持ちだぜぇ!」
「あの組は甘すぎんだよ! この俺たちに姫さんの子守りをさせるなんてなあ!」
姫?
倉庫の奥の、もう一つの部屋。その赤い光の隙間から、僕はその部屋を覗き込んだ。
「ほんとぉになぁ! どうしてあの馬鹿組が成り上がったのか理解できねぇよなぁ。まっ、俺が頭いいだけかもな」
「兄貴ぃ、一生ついていきますぜ!」
ゲラゲラという、下品で不快な笑い声。あまり柄がよさそうな連中じゃない。顔をしかめてそこから離れようとしたとき、足元のもの……落ちていた注射器を、踏んでしまった。
パキッというガラスの音。それまでの騒ぎが嘘のように、倉庫の中は静まり返る。逃げないと。そう頭では思っているのに、体はぼさっと突っ立ったままだった。この際になってもまだ、僕の頭は麻痺していた。倦怠感で、あふれていた。
だから、奴が出てきたときそんなに動揺しなかったのかもしれない。
「……おい、お前、どこのもんだ?」
逆光で部屋から出てきた男の顔は見えない。ただ、出てきたのは一人のようだ。後ろの部屋には何人かの黒い服を着た男たちがたむろしていた。じっと僕を見つめている。目の前の男は苛立ったのか、
「なんとか言えやこら!」
そんな叫び声をあげて、僕を突き飛ばした。床に散らばっている注射器がさらに散乱する。法的な薬を入れるものではないことを推測するのは、容易なことだった。
「加賀組のもんかと訊いとんだよこっちはぁ!」
叫び声をあげる暇もなく、襟を片手でつかまれる。持ち上げられる最中、手を床にさまよわせ、注射器の一つをつかんだ。いざというときのために、片手を背中に隠す。
「……何のことかわかりませんよ」
「すっとぼけやがって! おめえが加賀組のまわしもんだろ! そうだろ!」
がくがくと揺さぶられ、視界がぶれる。金髪のオールバックに、血走った目。時たま飛んでくる唾を受けながら、あまり頭がよさそうには見えないな、と感じた。
「おいサブ」
部屋の中、一番体格の良い男が、金髪の男に声をかける。どうやら、あの男がこのグループのリーダーらしい。男は振り返り、リーダーは意味ありげな笑みを浮かべた。顔がもとに戻った時、男はリーダーと同様のいやらしい笑みを浮かべていた。
「ヘっ……見られたからにはただで返せねぇなあ。安心しろや。臓器はきれいさっぱり売ってやるよ」
ポケットから、見事な修飾が施されたナイフを取り出した。茨色の柄に、十字架が彫られた光るナイフ。十字架の横には、英文が彫ってあるらしかったが読めなかった。
僕が黙ってナイフを見つめているのを、男はおびえていると勘違いしたのか、へっへっへと笑った。
「怯えて声もでねえか、ん? これはなぁ、お前が想像できねえような世界の頂点に立つお方からもらったもんなんだぜぇ。これで殺されることに、感謝しな。さあって、ちょうどよく海があるしな……へっ、最後に言い残すことは?」
「……もったいないね」
「あ?」
「そのナイフ、あんたにはもったいないよ」
その瞬間、左手に隠し持っていた注射器を、男の眼を目指して突きたてた。眼球の中心に、やわらかく吸いこまれていく針。
「う、うぎゃあああああああああああああああああああああああああ!」
男は僕から手を話し、自らの目を押さえ、注射器を押さえた。コンクリートに、ナイフのおちる音がする。
「目があ、目が目が目が目がぁ!」
「おい! サブ抜くな!」
仲間の男が声をかけた時は、すでに遅かった。金髪の男は注射器に手をかけ、目から抜いた。押さえている目から、勢いよく血が噴き出す。
「うあ、うああああああああああああああああ誰かっ、誰かぁ!」
芋虫のようにのたうちまわる男に異変を感じ、他の男たちも出てきた。現状を理解すると、僕をゆっくりと取り囲む。僕も揺れるように立ち上がった。手には、あのナイフを持って。
リーダー格の男が、僕を睨みつける。暗闇の中、光る目は虎のよう。
「どうゆうつもりだ……小僧」
「どんなつもりって、何のつもりもないですよ。ただの、正当防衛です」
「正当防衛……? なめんじゃねえ! やっぱり加賀組のまわしもんかよ!」
「兄貴!さっさとバラしちまいやしょうで!」
「覚悟しろやこぞぉ!」
ああ、なんというか、そう。
僕はゆっくり目を閉じる。そして小さく、呟くように言った。
「……うるさいなあ」
瞬間、男たちが飛びかかってきた。
たん、たん、たん、たん。
いつからだろうか。その音を聞いていたのは。ずいぶん前から聞いていた気もするし、ついさっき鳴り始めたような。弱々しい、それでも響く音。
冷たいコンクリートの上、大の字になって僕は横たわっていた。目を閉じ、また開け、閉じる。息を大きく吸い込むと、息がつまりそうなにおいがしてほっとした。
ああ、僕は生きている。
こんなことを感じるのはおかしいかもしれない。けれど、それでもそう思った。また行き吸い、吐き出す。恍惚とした気分で、それを繰り返した。
たん、たん、たん、たん。
ああ、不快だ。
続いている音に、顔をしかめた。ゆっくりと上半身を起こす。黒くこびりついた血と肉のアーチが、僕を中心にできている。男の金髪は、汚らしい黒色に染まっていた。
「……そっちの方が、似合うよ」
微笑んでみたけれど、返事はない。返事を求める代わりに、彼のナイフを見た。血が彫ってある文字にたまって固まったようで、赤黒い文字が浮き出ていた。
「……he was very happy」
彼はとてもしあわせでした、か。
文字を読んで、苦笑いをする。まるで、僕に言っているみたいじゃないか。
僕はとてもしあわせでした。とてもとても。
「…………よっ、と」
膝を立て、立ち上がる。葬式で着たコートは、血でかたまりすっかりだめになっている。ズボンも、ワイシャツも同様だった。
手でナイフを握り、あてもなくぶらぶらとさせる。切られたらしく、痛む足は少しずつ、少しずつ音の鳴るほうへ向かっていた。
たん、たん、たん、たん。
耳鳴りが、止まない。
音は部屋の奥、物置のような場所からしていた。重い鉄の引き戸を、手に掛ける。ガラガラと、鉄のこすれる音がした。
「んーっ、んーんーっ」
そこには、裸で両手首と足を縛られた女がいた。さるぐつわをされており、うなり声を上げている。栗色の髪は乱れ、顔に張り付いていた。体中には、紫色の痣が犬のぶちのように散らばっている。
コツン、と革靴を鳴らして近づく。手にあるナイフを握りしめた。女の顔のそばに行き、しゃがみもうとして――――。
「動くな」
かちゃりとした、鉄の音。頭に冷たいものが押しつけられ、身動きが取れなくなった。背後から聞こえてくる声と冷たい感触は、淡々と語る。
「おまえか? 奴らをやったのは。おおかた仲間割れでもしたんだろうな、まったく……」
その時、だった。
僕は床にナイフを落とした。男は、そちらに目を向けただろう。
一瞬、気を抜いてしまった。
素早くしゃがみこみ、そいつの黒い足をける。バランスを崩したすきに、低い姿勢のまま男の横を通り抜けようとして――――。
「甘いな」
「え?」
耳元の、ささやくような言葉。腹の衝撃。僕は、コンクリートの上に腹を押さえながら倒れていた。喉から胃液がこみ上げ、吐いた。
「まだまだど素人だな」
銃口が、僕の方を無機質に向いて――――。
そこで、意識が途切れた。




