一、郷愁の朝
「……夢、か」
私は目をパチリと開き、赤茶と焦げ茶、二色で構成された煉瓦の天井を視界に納めた。
何故だろう、天井に親しみを感じる。この天井を見るのは久しぶりなような気がしてならない。
「目を覚ましたっ!」
突然耳元で大声が上がる。迷惑だなあ、起きたばかりにうるさいじゃないか。一体誰? 首をクルリと曲げると、明るい緑色のセーターの上によれよれの白衣を羽織った格好の若い実直そうな男が、私へ目にクマをこしらえた疲れた顔で微笑みかけている。彼は確か、医師をしているフィアウルさん。その彼がどうして私の寝ているベッドの枕元でしゃがんでいるのだろうか?
「アレシア……アレシアぁっ!」
私の下半身辺りから聞こえた女の声。今度は誰だ? 何だか声が掠れているようだが……いや、ちょっと待てよ、この声は……? まさか、信じられない。
私は上半身をベッドから跳ね起こして彼女の姿を確認する。
彼女を目にした瞬間、私の頭は真っ白になっていた。
「お母さん……?」
ポツリと、頭に浮かんだ単語が口から抜け出す。
「そうよ! あなたのお母さんよ!」
お母さんは椅子から勢いよく立ち上がり、飛び掛かるようにして私の頭をその胸に抱く。お母さんの胸に顔を埋められた私は心が懐かしさでいっぱいになって、気付いたらむせび泣いていた。
一年と数カ月程前の事だ。私は六歳としては異例ながらも転生した人間としての知識と経験を生かし、ロミリア共和国の最高学府である学園へと飛び入学した。そこでの生活はとても楽しく、有意義な物だった。特に、親しくさせて貰っていたサハリアおね、こほん、サハリアさんとファルサリアさんとの学生生活は転生前の退魔師人生では味わえなかった親しい人間関係を構築出来てたんじゃないかとすら思えた。
しかしそれをぶち壊しにしたのが、魔族の存在だ。彼らは自民族の繁栄の道を、自ら以外を排除する事によって成し遂げようとしたのだ。
彼らは狡猾かつ陰湿だった。各国政府に内通者を仕込み、それぞれの国の国民感情を煽った。
人々は残念ながら魔族に扇動されてしまい、二大強国ロミリア共和国とペロポネア帝国を筆頭とする各国が戦争を開始してしまった。
そんな中私は偶然にも魔族の存在に気付いてしまい、また魔族も私が気付いた事を察知した。これが全ての始まりと言えるだろう。
私の情報が魔族の本拠地に通達される前に情報保持者を殺害し、身動きを取りやすくする為に私は死んだ事にした。
そして私は一年数カ月を世界各地の捜索に費やして魔王とも呼べる存在の息の根を止めたのだが……。
魔王を倒した所までは覚えている。だがどうして私は自宅にいるんだ? あの島からここまでは、短めに見積もっても三千キロはあるぞ。
でも、今は考える事は後回しにしたい。魔王は死んだんだ。もういいじゃないか。
お母さんのそれほど豊かとは言えない胸だが、一通り泣いて落ち着いた今では気恥ずかしい。私の涙でぐしょぐしょになった毛糸で編まれた淡いベージュのワンピースから、というよりその内部の膨らみから離れようとするが、お母さんにがっちりと頭をホールドされてしまっている。となると今度は逆に、こんな事を気にしているとは思われたくない若干の意地と、もう少し位甘えても罰は当たるまいという本心が私の胸中を支配し始めた。
お母さんの胸の中にいると、何故だかとても安心するんだ。心が安らぐ。体勢からすれば、ベッドから上半身を起こした少女の顔を成人女性が胸に押し抱いているという、死角まみれで即応性にも欠ける簡単に殺害出来る体勢なのだけど。理性とは違う、何か本能的なものの働きなのかな? ま、考えるのはいいや。あと少しだけ、こうしていよう……。
「良かったわ……アレシアが生きてて」
上擦ったお母さんの声が私の耳に届く。
「本当にのぅ。儂にはまだ実感が湧かないわい」
このしわがれた声は、お祖父さんだ。その声も心なしか感情が高ぶっているように思える。お祖父さん、元気にやっていたかな。ちゃんと果物食べてビタミン摂取してたかな。
「僕も驚きましたよ。アレシアちゃんにまた会えるなんてねえ。これも、ディーウァさんのお陰ですね」
ん? ディーウァ?
「そうだったわ。あなたがアレシアを連れて来て下さったのですものね。ありがとうね、ディーウァちゃん」
「良いので御座いますよ。アレシアちゃんも望んでいたでしょう」
会話の流れとしては最後に発言した彼女がディーウァなんだろうが……私の知ってるディーウァと違うんですけど。
感傷に浸ってた気分がすっかりディーウァらしき人物のおかげで吹っ飛んでしまった。
「そんな事言わんでくれよ、ディーウァさん。儂らは君に非常に感謝しているんだ。何度感謝してもしたりない程ね、何か望みがあるなら出来る範囲で恩を返させて貰いたい」
では……と、少し考え込んでからディーウァ(仮)は躊躇いがちに口を開いた。
「もしよろしければ、この家に数カ月の間住まわせて頂けないで御座いましょうか?」
まあディーウァお金持ってないし、そうせざるを得ないよね。それはいいとして、こんな丁重な言葉を使うなんてディーウァらしくない。でも、声は間違いなくディーウァだよ。どういう事なの?
「それだけでいいのかい?」
お前は一体何者だい? 私は強く押し付けられたお母さんの胸部から無理矢理頭を回転させて片方の目をディーウァ(仮)の声がする方へ向ける。
「はい。駄目……ですか?」
狭い部屋の中、フィアウルとお祖父さんの間に立っていたのは茶髪を肩にかかりそうな位まで伸ばした十五歳前後の可愛らしい少女だった。って、ちょっと待て! お前は誰だ!?
「そんな事ないわ。大歓迎よ、ねぇお義父さん」
「勿論だよ」
咄嗟に叫んでしまったが、幸いお母さんに強く押し付けられてたのでムゴムゴと僅かに口から意味不明な音が漏れただけで済んだ。
「ありがとう御座います!」
頭を下げるディーウァ(仮)。その頭を上げる時に目が合う。ニコリと微笑み掛けられた。
「さて……そろそろ僕は帰りますね。診療所に行かないといけません」
頃合いだったらしく、フィアウルさんが立ち上がりおいとまの意を告げる。すっかり存在を忘れてたが、彼はどうしてここにいるんだろう。
「フィアウル先生ごめんなさいね。アレシアの為に徹夜させちゃって」
フィアウルさんにお礼を言うお母さん。発言からすると、私は何処か病気だったり負傷したりしてるのかな。
「何言ってるんですか、患者を助けるのが僕の誇りなんですからむしろ呼んでくれて嬉しいんです。それにアレシアちゃんにも会えたしね」
そう言い終えたフィアウルさんは、ではお大事にと言い残して部屋を出て行った。
「あぁ、マリーさんはアレシアと一緒にいてやりなさい。儂が見送るから」
「そうはいかないわ。先生には無理させちゃったんだもの。ディーウァちゃんアレシアをお願い」
「任せて下さいませ」
お母さんは名残惜しげにゆーーっくりと私を離し、ベッドに横にさせてシーツを丁寧に掛けてくれた。うーん、ベッドよりお母さんの方が色んな意味であったかかったな。
「大丈夫よ。すぐ戻ってくるわ」
私はそんなそぶりをしたつもりはなかったのだが、不安げにでも見えたのだろうか。私の肩に手を添え、安心させるようにお母さんが声を掛けてくる。
私はそれにうなづく事で返答すると、お母さんとお祖父さんはフィアウルさんの見送りに部屋を出て行ったのだった。