32:第八章 選ばれる者、選ばす者-1-
◇
二日目の早朝、陽が昇る前に宿を出る。
だが、陽ではなく本当は虫なのだが‥‥‥
ジャックは眠い目を擦って、そして首を振る。
「あの、こいつの名前ってわかりますか?」
馬を引いてきた兵に尋ねると「いえ、ありません」とにべもない返事だ。
じゃあ、自分で勝手につけるか。と、思う。
馬上での暇潰しにはなるだろう。
遠目でファーラに近付こうとする皇太子に気が付くが、それをティアラとアルジーが邪魔をし、ジュリアが馬車の中に連れて行く。その様子を見てほっと息を吐く。
そして、馬車に乗る瞬間の彼女と目が合う。
片手を挙げて微笑めばファーラは頬を染めて、そして微笑んで手を振り返してくれた。
おっしゃ!
心の中で拳を握る。
生真面目な彼女のことだ。手を振られたから振り返した。そういうところだろう。だが、嫌悪を抱く相手にはいくらなんでもしないはずだ。
ジャックは馬の首筋を優しく叩いて口角を上げた。
朝早くから夜遅くまで、馬車とそれを守る一団は速度を落とすことなく進める。途中、馬を何度か換えながら旅程は進む。見事な赤毛だから『ユフ』と名付けた馬は、途中の宿で別れることとなった。せっかく意思の疎通ができるようになったのに、残念だ。
次の馬は色付いた秋の小麦のような毛並みの馬だった。
進むほど、大地の声が鮮明になる。
耳の中でラッパが吹き荒れているようだ。
なんという、祝福された大地なのだろう。
あらゆる植物が歌っている。
――― 眩暈がしそうな程に。
「ファーラ、大丈夫か?」
休憩時間に、休む彼女たちの馬車に声をかける。
中から顔を出したファーラとティアラは微苦笑を浮かべている。
「ええ。なんというか、頭の中でお祭り騒ぎをされているような違和感はありますが‥‥‥」
「慣れるまで、数日はかかりそう。今まで、静か過ぎる大地の声に耳を傾けていたから、音量の調整が難しい感じだわ」
二人の例えに共感を覚える。
中州の国、トラガの大地の声が小さ過ぎたのだ。
それに合わせた感覚が、この大地の声たちを強く拾う。
「ジャックは大丈夫ですか?」
ファーラが心配そうに見下ろしてくる。
「大丈夫だよ。まあ、お祭りしてる大通りの近くにいる感じだけど、陽気なだけで不快は感じない」
「‥‥‥ですが」
ファーラが言い淀む。
「どうした?」
促せば、彼女はふるふると首を振る。
そして困ったように微笑んだ。
「いえ、なんでもありません」
まるで、なにか抱え込んだような微苦笑。
それがなにもない態度か。
思わずむっとして、彼女の頬をやわらかく摘む。
「なんでもない態度じゃないだろう。ほら、言え」
「ふぇっ!?」
いきなり頬を摘まれたファーラはおどおどと声をあげる。
「えぇ? あ、あの、大地の奥底の水の流れというか、なんというか、奥の奥の方が‥‥‥なんだか変な気がするんです」
「奥の奥?」
「で、でも気がするというだけなので、違うかもしれません‥‥‥」
ファーラは慌てて首を振る。
「ティアラは? 感じるか?」
尋ねればティアラは緩く首を左右に振る。
「‥‥‥いいえ。わかりません。なんとなく、微妙な揺れがあるといえばあるような気はしますが、お姉さまが言ってくださらなければわかりませんでした」
「そっか‥‥‥俺はまだ、そういう微妙な感覚がないんだよな」
ジャックはファーラの頬に添えた手はそのままに、もう片方の空いた手を口元にやる。
長い間、巫女姫として育てられたファーラの感覚のが鋭いだろう。
これは覚えておくべきことかもしれない。
「あ、あの‥‥‥手を‥‥‥」
小さな抗議の声に顔を上げれば、ファーラが顔を真っ赤にしている。
俺はにっこりと笑って、彼女の頬をやさしく撫でてから手を離した。それと同時に出発の合図が鳴った。
ちょっとでも意識して欲しい。
まだ、彼女の中で好きとか恋とか愛とかいう言葉は染み込まないだろう。
(まずは意識させるところからだよな)
頑張れ、俺! と心の中で思って、ジャックはファーラを振り返ってもう一度笑って見せた。
◇
見上げる城門はとにかくでかい。
馬車から降りるファーラの手を取り、そのまま彼女の傍に控える。
ファーラは面を覆う紗の布を優雅に翻して先に進む。ティアラも同じように。二人の姫君は凛として亡国の王女と巫女姫ということを忘れさせる。
その後ろの俺たちの後に、皇太子、そしてトラガ国の家臣たちが続く。
後ろから舌打ちや口汚い言葉が聞こえてくるが、聞こえない振りだ。
静まる城内を無言で歩を進める。
途中、検閲でもあるかと思ったが、そのまま先導する神官は無言で地下を目指す。
石畳は水で濡れ、ファーラやティアラの衣装の裾を濡らす。
薄暗い通路。
まるで意思を持つかのように現れた淡い白金の光。
静かな色を湛えた光は徐々に数を増やし、ファーラとティアラの周囲を纏わりつくように動く。
ファーラが静かに右手を上げる。
まるで、小鳥を自らの指に招くかのように人差し指を伸ばす。
すると一粒の光がその指に留まる。
ファーラの瞳が和らぐ。
そして、光はまたふよふよと彼女の指から離れ、今度はティアラの周囲を回る。
ティアラが差し出した手のひらに光は留まらず、またふわりと浮かぶ。
「こちらです」
年老いた神官が指し示す円弧状の入り口を通り抜けると、そこには船が入りそうな程に大きな空洞があった。階段を一段下がった程度の浅さのため、船は停泊できないだろうが。
その大きな場所には陣が描かれている。文字と絵と呪いだろうか。
薄暗い中ではなにが描かれているかは判別できないが、なにか禍々しい雰囲気がある。
「お姉さま、私から行くわ」
ティアラが唇を噛み締めて歩を進める。
陣の中心まで進むと片膝をついて両の手のひらを胸の前で組み合わせた。
一滴、まるで落としたかのように水が持ち上がり、そのまま彼女の周囲を水が鳥籠のように取り囲む。
水の膜に包まれ、そして淡く光り、そして再び元に戻ったかのように静まる。
ティアラは瞑っていた瞳を明け、そして微苦笑を浮かべた。
「私は、お気に召さなかったみたいですわ」
小首を傾げて淋しく微笑む。
すると、彼女の周囲の水が引いた。
石畳が現れ、水のない道が導かれる。まるで、早く出て行けというかのように。
コツコツと固い音をしてティアラはジャックたちの側に戻る。
すると、水のない道はなくなり、また周囲は水に満たされた。
「次は、わたくしですね‥‥‥」
ファーラが周囲を見渡して微笑する。
ベールを振り払う。
すると、淡い光が彼女の周囲を取り囲んだ。
まるで小鳥が懐くかのように、ファーラの周囲をふわふわと漂う。
一歩、歩を進めるごとに水が踊る。
やさしい音色。
光の乱舞。
あたたかな空気。
禍々しい気配が薄れる。
ファーラが右の手のひらを差し出し、腕で半円を描く。
すると水の籠が出来、そして鳥籠のような形を描くと共に周囲に水滴を散らして光と共に弾け飛ぶ。
まるで、ゆったりと舞うかのように水滴は光を反射させながら落ちていく。
そして気が付くと、ファーラの髪の毛は‥‥‥白金色になっていた。
肩までの緩く弧を描く髪の毛が、水滴と光の乱舞に反応するかのようにふわりふわりと踊る。
「おお!」
歓声とどよめきが起こる。
「『水の妻神』には認めていただけたようです」
ファーラが疲れたように微笑む。
経験したからわかる。神と呼ばれる彼らが身に入るのは相当体力を消耗する。
微笑みながら気丈にも立つファーラの周囲を、今度は青銀の光が取り囲む。
目を見張っていると、その光はファーラにまるで反発したかのように霧散した。
眩い光が空洞に満ち、その場にいた全員の目を眩ます。
絹を思い切り引っ張って引き千切ったかのような音が起き、そして、また暗闇に包まれる。
「あ‥‥‥」
ファーラが両膝を付く。
ジャックは彼女の側にまで近付いて、今にも崩れ落ちそうな体を支える。
「どうした?」
「‥‥‥『水の妻神』が、『水の夫神』を拒んだんです」
ファーラは目を伏せた。
「『水の妻神』が‥‥‥?」
「はい」
小さく頷く。
ジャックはファーラの膝裏に腕を差し込んで、そして抱き上げる。
水に濡れた衣装のせいでいつもよりも重く感じるが、やはり軽い。
ファーラはほうっと息を吐くとジャックの肩に頬を寄せる。
「『水の妻神』は私の婚約者を代行者として選びました。このまま『水の夫神』の代行者選びも続けますか?」
ジャックは神官に穏やかに問い掛ける。
今の時点で、この地下空洞まで来ているのは候補者は元皇太子だけ。素質があるといわれている元国王は来ていない。
ジャックは、霧散した光がまたいくつかの塊となって周囲に現れるのに気がついた。
まるで苦しげに息を荒げるファーラを、いや、彼女の中の『水の妻神』を心配するかのような光。
その光のひとつががジャックの肩に止まる。
ジャックは心の中で語りかける。
(俺を選べ!)
語りかけるというよりも命令に近い。
『水の妻神』はファーラを選んだ。
ファーラを選んだ以上、元皇太子や元国王を選べば、ファーラには触れられない。こんなふうにファーラが身を任せる男は俺だけだ。だから選べ、と―――。
光はふわりと浮き上がるとジャックの周囲をふよふよと漂い、そしてまた肩に止まった。
「‥‥‥ジャック、ごめんなさい」
ゆるりと目を開けてファーラが謝罪する。
その遠慮ばかりが先立つ態度にだいぶ慣れたけれど、やっぱり少し淋しい。
「ファーラ。俺の首に抱きつくようにできるか?」
やさしく言えばファーラは抵抗することなく細い腕を首に回してきた。
体勢を整えて薄い背中をやさしく撫でる。
「気分は?」
「悪くありませんが、どうしようもなく、眠い、です」
恥ずかしそうに言うのがなんだか可愛くて、笑みが零れる。
「落とさないから、寝ていいぞ」
冗談口調を心掛けて言えば「そんな心配は、していません」と耳元でやわらかい声が聞こえてきた。
「眠っていい」
囁けば、ファーラはとろんとした瞳を向けて、そして微笑んだ。
「ありがとう、ございます‥‥‥おやすみなさいませ」
小さな小さな言葉はジャックにしか届かないような大きさだったが、周囲が沈黙に満ち、そして空洞になっていることもありその場にいた全員に届いてた。
腕の中のぬくもりの重みが増した気がする。
どうやら、深い眠りに落ちたようだ。
青銀の光がひとつ、ふたつ、みっつと徐々に増え、二人の周りを‥‥‥いや、ファーラの周りを漂う。
「おやすみ、ファーラ」