「お前の子守唄など聞き飽きた」と婚約破棄された私ですが、悪夢に蝕まれた辺境公に「お前がいないと眠れない」と溺愛されています
「——エリーゼ。お前との婚約は、今夜をもって破棄する」
その言葉は、薔薇の香りが漂う夜会の最中に、シャンパングラス越しに告げられた。
ラングフェルト侯爵家の嫡男、ユリウス・フォン・ラングフェルトは、完璧に整えられた金髪を掻き上げながら、退屈そうに言った。
夜会の喧騒の中。周囲の貴族たちの視線が、じわりとこちらに集まるのがわかる。
ユリウスはそれを楽しんでいるようにすら見えた。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
エリーゼ・フォン・ノイマイヤーは、握ったグラスの冷たさだけを頼りに声を絞り出した。
「お前は退屈だ」
ユリウスは、踊る男女を眺めながら言った。
「夜会に来れば隅で居眠りし、舞踏会に誘えば『今夜は夢守りの練習があります』。社交界でお前の隣にいると、こっちまで眠くなるんだ。——わかるか? お前といると、眠くなるんだよ」
取り巻きたちが、くすくすと笑った。
「お前の子守唄だか夢守りだか知らないが、あんなものは乳母の仕事だろう。侯爵家の嫡男の隣に立つ女が、子守唄係では格好がつかない」
「……申し訳ございません」
「謝罪は結構。もう決めたことだ」
ユリウスは新しい令嬢——フローラと名乗る赤毛の女性——の腰に手を回し、ダンスフロアへ消えていった。振り返りもしない。
エリーゼは六年間、ユリウスが悪夢にうなされるたびに屋敷を訪ね、夢守りの術で安らかな眠りを与えてきた。
幼い頃、雷の夜に泣いていたユリウスの枕元で、朝まで子守唄を歌ったこともある。
彼はそれを覚えていないのだろう。あるいは、覚えていても価値を感じなかったのだろう。
——六年間の夜が、無意味だったわけではない。
そう思おうとした。でも、思えなかった。
夜会場を出て、馬車に乗り込んで、扉が閉まった瞬間——エリーゼは両手で顔を覆った。
泣かなかった。
泣いてたまるかと思った。
けれど、膝の上に置いた手が、微かに震えていた。
◇
二ヶ月後——北の辺境、シュヴァルツヴァルト領。
婚約破棄の噂は瞬く間に広まった。「子守唄係」「眠り姫」と嘲笑され、再婚約の申し込みは一件もなかった。
そんな折、辺境から一通の書状が届いた。
『夢守りの術を扱える者を求む。報酬は応相談。至急』
差出人は、シュヴァルツヴァルト辺境公家。
北の山脈に抱かれた、冬の長い領地。王都から馬車で十日の距離。
エリーゼは迷わなかった。
もう、誰かの隣で「退屈」と言われなくていい。
◇
辺境公の居城は、灰色の石造りの古城だった。
山脈から吹き降ろす風が、外套の裾を激しく煽る。陽光は薄く、空は鉛色。王都の華やかさとは対極の、厳しく静かな土地。
城門の前に、一人の男が立っていた。
長身。痩せた体躯。黒い髪は手入れされておらず、無造作に額にかかっている。
何よりも目を引いたのは——目の下の、深い隈だった。
まるで何年も眠っていないかのような、削り取られた顔。かつては整った容貌だったのだろうが、不眠が全てを蝕んでいた。
そして。
その男の目を見た瞬間、エリーゼの夢守りとしての本能が悲鳴を上げた。
瞳の奥に、黒い澱みがある。
夢守りの術者には見える。長期間の悪夢が精神に刻んだ傷痕——「夢蝕」と呼ばれるものだ。
あれほど深い夢蝕は見たことがない。この人は、眠るたびに地獄を見ている。
——これは、放置してはいけない状態だ。
「クラウス・フォン・シュヴァルツヴァルト。辺境公を務めている」
低い声だった。掠れている。喉が渇いているのではなく、声を出すこと自体に疲弊しているような響き。
「エリーゼと申します。本日より、夢守りを担当させていただきます」
クラウスは、エリーゼをじっと見た。
値踏みではない。期待でもない。ただ、どこか諦めたような目だった。
「……何人も来た。魔法医も、神官も、薬師も。誰も治せなかった」
「存じております」
「それでも来たのか」
エリーゼは一瞬だけ迷い、それから正直に答えた。
「……行くところが、なかったものですから」
クラウスは微かに目を見開いた。
そしてすぐに視線を逸らし、城の中へ歩き出した。
「——そうか。好きにしろ」
素っ気ない言葉だった。
けれどエリーゼの耳には、「どうせ無駄だ」という諦めの裏に、「それでも来てくれたのか」という微かな揺れが聞こえた。
◇
その夜。エリーゼはクラウスの寝室に通された。
簡素な部屋だった。辺境公の居室とは思えないほど物が少ない。
ベッドの脇に、空になった薬瓶がいくつも転がっていた。睡眠薬だ。どれも強いもので、常用すれば身体を壊す。
「……これ、毎晩飲んでいるのですか」
「飲まなければ眠れない。飲んでも、二刻で目が覚める」
クラウスはベッドの縁に腰を下ろした。
外套を脱いだその身体は、想像以上に痩せていた。骨の形が見えるほどに。
「三年前の魔獣戦争で、部下を三十七人失った」
クラウスは天井を見ながら言った。感情のない声だった。感情がないのではなく、感情を出すと壊れることを知っている声だった。
「眠れば、あいつらが出てくる。助けを求めている。俺は手を伸ばすが届かない。毎晩同じ夢だ。三年間、一日も欠かさず」
エリーゼは黙って聞いていた。
「慣れると思った。慣れない。薬を増やした。効かなくなった。魔法医は『精神の問題だ』と言った。神官は祈りを捧げたが、神は応えなかった」
クラウスがエリーゼを見た。
「お前も、同じだろう」
その目に、もう期待はなかった。
エリーゼは静かに椅子をベッドの傍に寄せ、腰を下ろした。
「横になってください」
「……何をする」
「夢守りの術です。お休みになったら、私が夢に入ります。悪夢が来たら、追い払います」
「そんなことができるのか」
「祖母から受け継いだ術です。——祖母は、王宮の夢守りでした」
エリーゼの祖母は、先々代の王が戦場の悪夢に苦しんだ時、唯一眠りを与えることができた女性だった。
夢守りの術は、古代から伝わる希少な魔法。夢の中に入り込み、悪夢を形作る「蝕み」を浄化する。術者の精神力を大量に消耗するため、扱える者はほとんどいない。
社交界では「子守唄」と笑われた。
ユリウスには「乳母の仕事」と切り捨てられた。
——でも、この術は。
エリーゼは目の前の男を見た。三年間眠れず、削り取られた顔。薬瓶に囲まれたベッド。部下の亡霊に毎晩苛まれる、壊れかけた男。
この人には、必要なのだ。
「お願いします。ただ——横になってください」
クラウスは数秒の沈黙の後、ゆっくりと横になった。
瞼を閉じる。だがすぐに、眉間に深い皺が刻まれた。身体が強張っている。眠ることが怖いのだ。三年間、眠るたびに地獄を見てきた人間の、当然の反応だった。
エリーゼはそっと手を伸ばし、クラウスの額に指先を触れさせた。
冷たい。熱があるのかと思うほどに。
目を閉じる。意識を沈める。
——夢の中に、入る。
◇
夢の中は、戦場だった。
赤い空。黒い大地。崩れた城壁の向こうに、無数の魔獣の影が蠢いている。
そして——兵士たちが倒れていた。甲冑が砕け、旗が折れ、血が大地を染めている。
その中心に、クラウスが立っていた。
剣を握りしめ、倒れた部下たちに手を伸ばしている。届かない。何度伸ばしても、指先が擦り抜ける。
「——待て。まだ死ぬな。俺が——俺がもっと早ければ——」
三年間、毎晩。この夢を見続けてきたのだ。
エリーゼは深く息を吸い込んだ。
夢守りの術は、悪夢を「消す」のではない。
悪夢の核——術者には黒い蝕みとして見える——を見つけ、浄化する。蝕みは記憶と感情が絡まり合って凝固したもので、力任せに消そうとすれば術者の精神が壊れる。
祖母が教えてくれた。
『夢守りは、戦うのではないよ。寄り添うのだ。悪夢を見ている人の傍に立ち、「ここにいる」と伝える。それだけでいい。人は一人で見る夢に耐えられなくても、誰かが傍にいれば耐えられる』
エリーゼはクラウスの傍に歩み寄った。
戦場の轟音が鳴り響いている。魔獣の咆哮。鉄と鉄がぶつかる音。絶叫。
その中で、エリーゼは歌い始めた。
子守唄だ。祖母が幼い自分に歌ってくれた、古い古い旋律。
社交界では「退屈」と嘲笑された歌。ユリウスが「聞き飽きた」と切り捨てた歌。
だが夢の中で、その旋律は光になった。
エリーゼの声が広がるたびに、戦場の赤い空にひびが入る。黒い蝕みが、光に溶けていく。倒れていた兵士たちの姿が薄れ、代わりに——静かな草原が現れた。
風が吹いている。穏やかな、春の風。
クラウスが振り返った。
伸ばし続けていた手が、下ろされている。目の奥に、困惑があった。
「……何だ、これは。戦場が——消えて——」
「大丈夫です」
エリーゼは微笑んだ。
「今夜は、ここにいます。悪夢は来ません。——だから、安心して眠ってください」
クラウスの目が、微かに揺れた。
そしてゆっくりと、瞼が閉じられた。
夢の中で、初めて——穏やかな表情を浮かべて。
◇
翌朝。
エリーゼは椅子に座ったまま、意識を取り戻した。
全身が重い。夢守りの術は精神を大量に消耗する。一晩で体力の三割が持っていかれた感覚だった。
ベッドの上で、クラウスはまだ眠っていた。
静かな寝息。規則正しい呼吸。眉間の皺が消え、削がれていた顔に僅かだが血色が戻っている。
陽光が窓から差し込み、クラウスの頬を照らした。
——三年ぶりの、朝まで途切れない眠り。
その瞬間、瞼がゆっくりと開いた。
灰色の瞳が、天井を映し、それから窓の光を映し、最後に——エリーゼを映した。
クラウスは数秒間、何が起きたのかわからないという顔をしていた。
それから自分の手を見た。震えていない。頭痛もない。吐き気もない。三年間、毎朝襲ってきた症状が、何一つない。
「……眠れた」
掠れた声で呟いた。自分で自分の言葉が信じられないように。
「朝まで——眠れた」
「はい。よくお休みになれていました」
エリーゼが微笑むと、クラウスの目に光が浮かんだ。
それは涙ではなかった。もっと深い場所から来る、名前のない感情だった。
クラウスはベッドの上で身を起こし——そのまま、ベッドを降りた。
エリーゼの前に。
跪いた。
「——頼む」
声が、掠れていた。
「傍に、いてくれ」
エリーゼの目から、涙がこぼれた。
泣くつもりなどなかった。
『お前の子守唄など聞き飽きた』
あの夜、投げつけられた言葉が、音もなく崩れていく。
ここに、自分の術を必要とする人がいる。
ここに、自分の歌で救える夜がある。
「……はい。お傍にいます」
エリーゼは涙を拭って頷いた。
「毎晩、お傍にいます。——それが、私にできることですから」
クラウスは跪いたまま、深く頭を下げた。
大きな手が、微かに震えていた。
◇
それから一ヶ月。
エリーゼは毎晩、クラウスの寝室で夢守りの術を施した。
最初の一週間は、毎晩戦場の夢が現れた。だがエリーゼが夢の中に入るたびに蝕みは薄くなり、十日目には戦場は草原に変わった。二週間後には、夢さえ見なくなった。深く、穏やかな、闇の中の眠り。
クラウスの変化は劇的だった。
顔に血色が戻った。痩せていた身体に筋肉がつき始めた。判断力が戻り、領地の政務を再び自らこなすようになった。城の使用人たちが「殿が笑った」と驚くほどだった。
そしてエリーゼもまた、この辺境に馴染んでいった。
使用人たちの「エリーゼ様」がいつしか「エリーゼ嬢」になり、「うちのエリーゼ様」になっていた。
ただ一つ、城の中で奇妙な噂が立っていた。
——辺境公は、あの夢守りの令嬢が傍にいないと眠れないらしい。
事実だった。
◇
ある夜。
エリーゼが体調を崩し、夢守りの術を一晩休んだことがあった。
翌朝、クラウスの目の下に隈が戻っていた。一晩だけで。
「……術なしでも眠れると思ったのですが」
「眠れなかった」
クラウスは素っ気なく言った。
「悪夢が戻ったのですか?」
「いや。悪夢は来なかった」
「では——」
「お前がいないと、眠れない」
沈黙が落ちた。
クラウスは窓の外を見ていた。耳の先が、僅かに赤い。
「……悪夢が怖いんじゃない。お前がいない夜が、もう耐えられない。それだけだ」
エリーゼは返す言葉を見つけられなかった。
代わりに、胸の奥で何かが温かく弾けた。
「……今夜から、もう休みません」
「身体を壊すだろう」
「壊しません。——あなたの傍にいることが、私にとっても一番安らげる場所ですから」
クラウスは何も言わなかった。
ただ、窓の外に向けていた視線を、そっとエリーゼに戻した。
目が合った。
逸らさなかった。どちらも。
◇
もう一つ、エリーゼが気づいたことがあった。
クラウスは夜になると、必ず温かい飲み物を持ってくるようになっていた。
蜂蜜入りのミルクだったり、薬草茶だったり。
「……辺境公自ら、毎晩お茶を淹れてくださるのですか」
「お前は術の後に喉が渇く。侍女に任せると温度が合わない」
「温度が合わないとは——」
「お前は猫舌だろう。少し冷ましたくらいが丁度いいはずだ」
エリーゼは思わず笑ってしまった。
クラウスは不機嫌そうに目を逸らした。だが耳は赤い。
この人は。
感情を言葉にするのが苦手なだけで、ずっと見ていてくれている。
エリーゼが術の後にどれだけ疲れているか。喉が渇くこと。猫舌であること。
言葉にはしない。けれど、毎晩の一杯に全部込めている。
ユリウスは六年間、エリーゼの夢守りを「退屈」としか言わなかった。
クラウスは一ヶ月で、エリーゼの猫舌を覚えた。
「クラウス様」
「……なんだ」
「ありがとうございます。毎晩」
「礼を言うのは俺の方だ。……もう、いい。飲め」
ぶっきらぼうに差し出されたカップから、湯気がゆるやかに立ち上っていた。
ちょうどいい温度だった。
◇
変化は、王都からやってきた。
シュヴァルツヴァルト辺境公が、三年間の不調から完全に復帰した。
領地の政務は円滑に回り始め、辺境の防衛力は戦前の水準を取り戻した。
その原因が「夢守りの術者」の存在にあるという報告が、王都の宮廷に届いた。
失われたと思われていた古代の夢守り術の再現——その報せは、貴族社会を瞬く間に駆け巡った。
そして。
その術者が、ユリウス・フォン・ラングフェルトが「子守唄係」と嘲笑した元婚約者であるという事実も。
「は? あの眠り姫が、辺境公を治した?」
ユリウスは社交界の夜会で、信じられないという顔をした。
「ユリウス様、あなたの元婚約者ですってね? 手放してしまったの?」
「まあ、もったいない。あの術があれば、ラングフェルト侯爵家の当主の持病だって——」
「フローラ様は何ができるんでしたっけ? ああ、ダンスがお上手でしたわね」
貴婦人たちの囁きが、絹の手袋の裏に棘を隠して突き刺さる。
そして——ユリウス自身に、異変が起きていた。
エリーゼが去ってから、眠れなくなっていた。
六年間、彼女の夢守りに守られていたことに気づいていなかった。術が日常の一部になりすぎて、空気のように当たり前だと思っていた。
それが消えた途端——幼少期から患っていた悪夢が、戻ってきた。
「夢守りを探せ。金に糸目はつけない」
だが王国中を探しても、エリーゼと同等の術者は見つからなかった。
夢守りの術は、血統と修練の両方を必要とする希少技術。エリーゼの祖母の血統以外に、術の継承者はいない。
眠れない夜が続く中、ユリウスは初めて気づいた。
あの「退屈な子守唄」が、自分の六年間の安眠を守っていたのだと。
だが気づいた時には、全てが遅かった。
◇
秋の終わり。
王都から、シュヴァルツヴァルトの城に二通の書状が届いた。
一通は、王家からの正式な依頼書。
『夢守りの術を王宮に提供されたし。術者エリーゼ・フォン・ノイマイヤーを王宮付き夢守りとして叙任する用意がある』
もう一通は——ユリウスからだった。
『婚約破棄の件は再考の余地がある。改めて——』
エリーゼはユリウスの書状を最後まで読み、静かに畳んだ。
「……面白いことをおっしゃるのね」
もう、胸は痛まなかった。
あの夜会で感じた惨めさも、悔しさも、霧のように遠い。
「どうする」
クラウスが訊いた。
いつもの無表情だったが、その灰色の瞳の奥に揺れがあった。書状を持つ手が、微かに力んでいた。
「王宮の夢守りは名誉職だ。お前の術なら、相応しい」
「クラウス様は、行ってほしいですか?」
「……お前の人生だ。俺が決めることじゃない」
ああ、この人はまた。
自分の気持ちを飲み込んで、相手の自由を尊重しようとする。
眠れない夜が戻ることを恐れながら、それでも「行くな」とは言わない。
ユリウスは言った。「お前は退屈だ」と。
クラウスは言う。「お前の人生だ」と。
——答えなんて、とうに決まっている。
「お断りの返書を書きます。王家には、夢守りの術の提供は喜んでお受けしますが、拠点はシュヴァルツヴァルトに置かせていただきたいと。……ユリウス様には、何もお返しする言葉はありません」
「……いいのか」
「はい。ここが、私の居場所ですから」
クラウスは何も言わなかった。
ただ——不器用に、本当に不器用に、エリーゼの頭に手を置いた。
骨ばった、大きな手。三年間の不眠で荒れた指先。
けれど触れ方は、信じられないほど優しかった。
「——よかった」
たった四文字。
けれどその声が掠れていることに、エリーゼは気づいた。
「クラウス様」
「……なんだ」
「今夜、お渡ししたいものがあります」
エリーゼは、小さな瓶を取り出した。
淡い紫色の液体が入っている。月光に透かすと、微かに光る。
「これは——夢守りの香水です。私の術を、香りに封じ込めました。これを枕元に置けば、私がいない夜でも安らかに眠れます」
クラウスは瓶を受け取り、じっと見つめた。
「……つまり、これがあれば俺はお前なしでも眠れるのか」
「はい」
「なら——要らない」
エリーゼは目を瞬かせた。
「え?」
「お前がいない夜に眠りたいんじゃない。お前がいる夜に眠りたいんだ」
クラウスは瓶をエリーゼの手に戻した。
そしてその手を——包み込んだ。
骨ばった指が、エリーゼの細い指ごと瓶を握っている。
「俺の夜を——一生、守ってくれ」
不器用で、短い言葉。
けれどエリーゼには、六年間で一度も貰えなかった言葉よりも、ずっと重く響いた。
「……っ、はい」
涙が落ちた。瓶を握る手の甲に。
「はい——一生、お傍にいます」
クラウスの目が、微かに潤んでいた。
この三年間、誰にも見せなかった感情が、静かに溢れていた。
◇
冬の初め。
シュヴァルツヴァルトの古い礼拝堂で、ささやかな婚礼が執り行われた。
花嫁の白いドレスには、夢守りの紋様が淡い紫の糸で縫い込まれていた。
——あなたの夜を、永遠に守る。そんな祈りを込めて。
花婿は、久しぶりに穏やかな顔をしていた。
目の下の隈は消え、頬に血色が戻り、かつての精悍さを取り戻している。
誓いの言葉の代わりに、花婿は花嫁の手を取って言った。
「——もう二度と、眠れない夜は来ない」
花嫁は泣きながら笑った。
「ええ。——私がいますから」
窓の外では、北の山脈から澄んだ風が吹いていた。
子守唄など聞き飽きたと言われた声が、たった一人の夜を守り、たった一人の心を目覚めさせた。
「エリーゼ」
「はい」
「今夜も——傍にいてくれ」
「はい。明日の夜も。その次の夜も。——ずっと」
夜の帳が、二人を優しく包んでいた。




