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特殊スキル×ざまぁ溺愛

「お前の子守唄など聞き飽きた」と婚約破棄された私ですが、悪夢に蝕まれた辺境公に「お前がいないと眠れない」と溺愛されています

作者: にたまご
掲載日:2026/02/26


「——エリーゼ。お前との婚約は、今夜をもって破棄する」


 その言葉は、薔薇の香りが漂う夜会の最中に、シャンパングラス越しに告げられた。


 ラングフェルト侯爵家の嫡男、ユリウス・フォン・ラングフェルトは、完璧に整えられた金髪を掻き上げながら、退屈そうに言った。

 夜会の喧騒の中。周囲の貴族たちの視線が、じわりとこちらに集まるのがわかる。

 ユリウスはそれを楽しんでいるようにすら見えた。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


 エリーゼ・フォン・ノイマイヤーは、握ったグラスの冷たさだけを頼りに声を絞り出した。


「お前は退屈だ」


 ユリウスは、踊る男女を眺めながら言った。


「夜会に来れば隅で居眠りし、舞踏会に誘えば『今夜は夢守りの練習があります』。社交界でお前の隣にいると、こっちまで眠くなるんだ。——わかるか? お前といると、眠くなるんだよ」


 取り巻きたちが、くすくすと笑った。


「お前の子守唄だか夢守りだか知らないが、あんなものは乳母の仕事だろう。侯爵家の嫡男の隣に立つ女が、子守唄係では格好がつかない」


「……申し訳ございません」


「謝罪は結構。もう決めたことだ」


 ユリウスは新しい令嬢——フローラと名乗る赤毛の女性——の腰に手を回し、ダンスフロアへ消えていった。振り返りもしない。


 エリーゼは六年間、ユリウスが悪夢にうなされるたびに屋敷を訪ね、夢守りの術で安らかな眠りを与えてきた。

 幼い頃、雷の夜に泣いていたユリウスの枕元で、朝まで子守唄を歌ったこともある。

 彼はそれを覚えていないのだろう。あるいは、覚えていても価値を感じなかったのだろう。


 ——六年間の夜が、無意味だったわけではない。


 そう思おうとした。でも、思えなかった。


 夜会場を出て、馬車に乗り込んで、扉が閉まった瞬間——エリーゼは両手で顔を覆った。


 泣かなかった。

 泣いてたまるかと思った。

 けれど、膝の上に置いた手が、微かに震えていた。


            ◇


 二ヶ月後——北の辺境、シュヴァルツヴァルト領。


 婚約破棄の噂は瞬く間に広まった。「子守唄係」「眠り姫」と嘲笑され、再婚約の申し込みは一件もなかった。

 そんな折、辺境から一通の書状が届いた。


 『夢守りの術を扱える者を求む。報酬は応相談。至急』


 差出人は、シュヴァルツヴァルト辺境公家。

 北の山脈に抱かれた、冬の長い領地。王都から馬車で十日の距離。


 エリーゼは迷わなかった。

 もう、誰かの隣で「退屈」と言われなくていい。


            ◇


 辺境公の居城は、灰色の石造りの古城だった。

 山脈から吹き降ろす風が、外套の裾を激しく煽る。陽光は薄く、空は鉛色。王都の華やかさとは対極の、厳しく静かな土地。


 城門の前に、一人の男が立っていた。


 長身。痩せた体躯。黒い髪は手入れされておらず、無造作に額にかかっている。

 何よりも目を引いたのは——目の下の、深い隈だった。

 まるで何年も眠っていないかのような、削り取られた顔。かつては整った容貌だったのだろうが、不眠が全てを蝕んでいた。


 そして。


 その男の目を見た瞬間、エリーゼの夢守りとしての本能が悲鳴を上げた。


 瞳の奥に、黒い澱みがある。

 夢守りの術者には見える。長期間の悪夢が精神に刻んだ傷痕——「夢蝕」と呼ばれるものだ。

 あれほど深い夢蝕は見たことがない。この人は、眠るたびに地獄を見ている。


 ——これは、放置してはいけない状態だ。


「クラウス・フォン・シュヴァルツヴァルト。辺境公を務めている」


 低い声だった。掠れている。喉が渇いているのではなく、声を出すこと自体に疲弊しているような響き。


「エリーゼと申します。本日より、夢守りを担当させていただきます」


 クラウスは、エリーゼをじっと見た。

 値踏みではない。期待でもない。ただ、どこか諦めたような目だった。


「……何人も来た。魔法医も、神官も、薬師も。誰も治せなかった」


「存じております」


「それでも来たのか」


 エリーゼは一瞬だけ迷い、それから正直に答えた。


「……行くところが、なかったものですから」


 クラウスは微かに目を見開いた。

 そしてすぐに視線を逸らし、城の中へ歩き出した。


「——そうか。好きにしろ」


 素っ気ない言葉だった。

 けれどエリーゼの耳には、「どうせ無駄だ」という諦めの裏に、「それでも来てくれたのか」という微かな揺れが聞こえた。


            ◇


 その夜。エリーゼはクラウスの寝室に通された。


 簡素な部屋だった。辺境公の居室とは思えないほど物が少ない。

 ベッドの脇に、空になった薬瓶がいくつも転がっていた。睡眠薬だ。どれも強いもので、常用すれば身体を壊す。


「……これ、毎晩飲んでいるのですか」


「飲まなければ眠れない。飲んでも、二刻で目が覚める」


 クラウスはベッドの縁に腰を下ろした。

 外套を脱いだその身体は、想像以上に痩せていた。骨の形が見えるほどに。


「三年前の魔獣戦争で、部下を三十七人失った」


 クラウスは天井を見ながら言った。感情のない声だった。感情がないのではなく、感情を出すと壊れることを知っている声だった。


「眠れば、あいつらが出てくる。助けを求めている。俺は手を伸ばすが届かない。毎晩同じ夢だ。三年間、一日も欠かさず」


 エリーゼは黙って聞いていた。


「慣れると思った。慣れない。薬を増やした。効かなくなった。魔法医は『精神の問題だ』と言った。神官は祈りを捧げたが、神は応えなかった」


 クラウスがエリーゼを見た。


「お前も、同じだろう」


 その目に、もう期待はなかった。


 エリーゼは静かに椅子をベッドの傍に寄せ、腰を下ろした。


「横になってください」


「……何をする」


「夢守りの術です。お休みになったら、私が夢に入ります。悪夢が来たら、追い払います」


「そんなことができるのか」


「祖母から受け継いだ術です。——祖母は、王宮の夢守りでした」


 エリーゼの祖母は、先々代の王が戦場の悪夢に苦しんだ時、唯一眠りを与えることができた女性だった。

 夢守りの術は、古代から伝わる希少な魔法。夢の中に入り込み、悪夢を形作る「蝕み」を浄化する。術者の精神力を大量に消耗するため、扱える者はほとんどいない。


 社交界では「子守唄」と笑われた。

 ユリウスには「乳母の仕事」と切り捨てられた。


 ——でも、この術は。


 エリーゼは目の前の男を見た。三年間眠れず、削り取られた顔。薬瓶に囲まれたベッド。部下の亡霊に毎晩苛まれる、壊れかけた男。


 この人には、必要なのだ。


「お願いします。ただ——横になってください」


 クラウスは数秒の沈黙の後、ゆっくりと横になった。

 瞼を閉じる。だがすぐに、眉間に深い皺が刻まれた。身体が強張っている。眠ることが怖いのだ。三年間、眠るたびに地獄を見てきた人間の、当然の反応だった。


 エリーゼはそっと手を伸ばし、クラウスの額に指先を触れさせた。

 冷たい。熱があるのかと思うほどに。


 目を閉じる。意識を沈める。


 ——夢の中に、入る。


            ◇


 夢の中は、戦場だった。


 赤い空。黒い大地。崩れた城壁の向こうに、無数の魔獣の影が蠢いている。

 そして——兵士たちが倒れていた。甲冑が砕け、旗が折れ、血が大地を染めている。


 その中心に、クラウスが立っていた。

 剣を握りしめ、倒れた部下たちに手を伸ばしている。届かない。何度伸ばしても、指先が擦り抜ける。


「——待て。まだ死ぬな。俺が——俺がもっと早ければ——」


 三年間、毎晩。この夢を見続けてきたのだ。


 エリーゼは深く息を吸い込んだ。


 夢守りの術は、悪夢を「消す」のではない。

 悪夢の核——術者には黒い蝕みとして見える——を見つけ、浄化する。蝕みは記憶と感情が絡まり合って凝固したもので、力任せに消そうとすれば術者の精神が壊れる。


 祖母が教えてくれた。


 『夢守りは、戦うのではないよ。寄り添うのだ。悪夢を見ている人の傍に立ち、「ここにいる」と伝える。それだけでいい。人は一人で見る夢に耐えられなくても、誰かが傍にいれば耐えられる』


 エリーゼはクラウスの傍に歩み寄った。


 戦場の轟音が鳴り響いている。魔獣の咆哮。鉄と鉄がぶつかる音。絶叫。


 その中で、エリーゼは歌い始めた。


 子守唄だ。祖母が幼い自分に歌ってくれた、古い古い旋律。

 社交界では「退屈」と嘲笑された歌。ユリウスが「聞き飽きた」と切り捨てた歌。


 だが夢の中で、その旋律は光になった。


 エリーゼの声が広がるたびに、戦場の赤い空にひびが入る。黒い蝕みが、光に溶けていく。倒れていた兵士たちの姿が薄れ、代わりに——静かな草原が現れた。


 風が吹いている。穏やかな、春の風。


 クラウスが振り返った。

 伸ばし続けていた手が、下ろされている。目の奥に、困惑があった。


「……何だ、これは。戦場が——消えて——」


「大丈夫です」


 エリーゼは微笑んだ。


「今夜は、ここにいます。悪夢は来ません。——だから、安心して眠ってください」


 クラウスの目が、微かに揺れた。

 そしてゆっくりと、瞼が閉じられた。

 夢の中で、初めて——穏やかな表情を浮かべて。


            ◇


 翌朝。


 エリーゼは椅子に座ったまま、意識を取り戻した。

 全身が重い。夢守りの術は精神を大量に消耗する。一晩で体力の三割が持っていかれた感覚だった。


 ベッドの上で、クラウスはまだ眠っていた。


 静かな寝息。規則正しい呼吸。眉間の皺が消え、削がれていた顔に僅かだが血色が戻っている。


 陽光が窓から差し込み、クラウスの頬を照らした。


 ——三年ぶりの、朝まで途切れない眠り。


 その瞬間、瞼がゆっくりと開いた。

 灰色の瞳が、天井を映し、それから窓の光を映し、最後に——エリーゼを映した。


 クラウスは数秒間、何が起きたのかわからないという顔をしていた。

 それから自分の手を見た。震えていない。頭痛もない。吐き気もない。三年間、毎朝襲ってきた症状が、何一つない。


「……眠れた」


 掠れた声で呟いた。自分で自分の言葉が信じられないように。


「朝まで——眠れた」


「はい。よくお休みになれていました」


 エリーゼが微笑むと、クラウスの目に光が浮かんだ。

 それは涙ではなかった。もっと深い場所から来る、名前のない感情だった。


 クラウスはベッドの上で身を起こし——そのまま、ベッドを降りた。


 エリーゼの前に。


 跪いた。


「——頼む」


 声が、掠れていた。


「傍に、いてくれ」


 エリーゼの目から、涙がこぼれた。

 泣くつもりなどなかった。


 『お前の子守唄など聞き飽きた』


 あの夜、投げつけられた言葉が、音もなく崩れていく。


 ここに、自分の術を必要とする人がいる。

 ここに、自分の歌で救える夜がある。


「……はい。お傍にいます」


 エリーゼは涙を拭って頷いた。


「毎晩、お傍にいます。——それが、私にできることですから」


 クラウスは跪いたまま、深く頭を下げた。

 大きな手が、微かに震えていた。


            ◇


 それから一ヶ月。

 エリーゼは毎晩、クラウスの寝室で夢守りの術を施した。


 最初の一週間は、毎晩戦場の夢が現れた。だがエリーゼが夢の中に入るたびに蝕みは薄くなり、十日目には戦場は草原に変わった。二週間後には、夢さえ見なくなった。深く、穏やかな、闇の中の眠り。


 クラウスの変化は劇的だった。

 顔に血色が戻った。痩せていた身体に筋肉がつき始めた。判断力が戻り、領地の政務を再び自らこなすようになった。城の使用人たちが「殿が笑った」と驚くほどだった。


 そしてエリーゼもまた、この辺境に馴染んでいった。

 使用人たちの「エリーゼ様」がいつしか「エリーゼ嬢」になり、「うちのエリーゼ様」になっていた。


 ただ一つ、城の中で奇妙な噂が立っていた。


 ——辺境公は、あの夢守りの令嬢が傍にいないと眠れないらしい。


 事実だった。


            ◇


 ある夜。


 エリーゼが体調を崩し、夢守りの術を一晩休んだことがあった。

 翌朝、クラウスの目の下に隈が戻っていた。一晩だけで。


「……術なしでも眠れると思ったのですが」


「眠れなかった」


 クラウスは素っ気なく言った。


「悪夢が戻ったのですか?」


「いや。悪夢は来なかった」


「では——」


「お前がいないと、眠れない」


 沈黙が落ちた。


 クラウスは窓の外を見ていた。耳の先が、僅かに赤い。


「……悪夢が怖いんじゃない。お前がいない夜が、もう耐えられない。それだけだ」


 エリーゼは返す言葉を見つけられなかった。

 代わりに、胸の奥で何かが温かく弾けた。


「……今夜から、もう休みません」


「身体を壊すだろう」


「壊しません。——あなたの傍にいることが、私にとっても一番安らげる場所ですから」


 クラウスは何も言わなかった。

 ただ、窓の外に向けていた視線を、そっとエリーゼに戻した。


 目が合った。

 逸らさなかった。どちらも。


            ◇


 もう一つ、エリーゼが気づいたことがあった。


 クラウスは夜になると、必ず温かい飲み物を持ってくるようになっていた。

 蜂蜜入りのミルクだったり、薬草茶だったり。


「……辺境公自ら、毎晩お茶を淹れてくださるのですか」


「お前は術の後に喉が渇く。侍女に任せると温度が合わない」


「温度が合わないとは——」


「お前は猫舌だろう。少し冷ましたくらいが丁度いいはずだ」


 エリーゼは思わず笑ってしまった。

 クラウスは不機嫌そうに目を逸らした。だが耳は赤い。


 この人は。


 感情を言葉にするのが苦手なだけで、ずっと見ていてくれている。

 エリーゼが術の後にどれだけ疲れているか。喉が渇くこと。猫舌であること。

 言葉にはしない。けれど、毎晩の一杯に全部込めている。


 ユリウスは六年間、エリーゼの夢守りを「退屈」としか言わなかった。

 クラウスは一ヶ月で、エリーゼの猫舌を覚えた。


「クラウス様」


「……なんだ」


「ありがとうございます。毎晩」


「礼を言うのは俺の方だ。……もう、いい。飲め」


 ぶっきらぼうに差し出されたカップから、湯気がゆるやかに立ち上っていた。

 ちょうどいい温度だった。


            ◇


 変化は、王都からやってきた。


 シュヴァルツヴァルト辺境公が、三年間の不調から完全に復帰した。

 領地の政務は円滑に回り始め、辺境の防衛力は戦前の水準を取り戻した。

 その原因が「夢守りの術者」の存在にあるという報告が、王都の宮廷に届いた。


 失われたと思われていた古代の夢守り術の再現——その報せは、貴族社会を瞬く間に駆け巡った。


 そして。

 その術者が、ユリウス・フォン・ラングフェルトが「子守唄係」と嘲笑した元婚約者であるという事実も。


「は? あの眠り姫が、辺境公を治した?」


 ユリウスは社交界の夜会で、信じられないという顔をした。


「ユリウス様、あなたの元婚約者ですってね? 手放してしまったの?」

「まあ、もったいない。あの術があれば、ラングフェルト侯爵家の当主の持病だって——」

「フローラ様は何ができるんでしたっけ? ああ、ダンスがお上手でしたわね」


 貴婦人たちの囁きが、絹の手袋の裏に棘を隠して突き刺さる。


 そして——ユリウス自身に、異変が起きていた。


 エリーゼが去ってから、眠れなくなっていた。

 六年間、彼女の夢守りに守られていたことに気づいていなかった。術が日常の一部になりすぎて、空気のように当たり前だと思っていた。

 それが消えた途端——幼少期から患っていた悪夢が、戻ってきた。


「夢守りを探せ。金に糸目はつけない」


 だが王国中を探しても、エリーゼと同等の術者は見つからなかった。

 夢守りの術は、血統と修練の両方を必要とする希少技術。エリーゼの祖母の血統以外に、術の継承者はいない。


 眠れない夜が続く中、ユリウスは初めて気づいた。


 あの「退屈な子守唄」が、自分の六年間の安眠を守っていたのだと。


 だが気づいた時には、全てが遅かった。


            ◇


 秋の終わり。

 王都から、シュヴァルツヴァルトの城に二通の書状が届いた。


 一通は、王家からの正式な依頼書。

 『夢守りの術を王宮に提供されたし。術者エリーゼ・フォン・ノイマイヤーを王宮付き夢守りとして叙任する用意がある』


 もう一通は——ユリウスからだった。

 『婚約破棄の件は再考の余地がある。改めて——』


 エリーゼはユリウスの書状を最後まで読み、静かに畳んだ。


「……面白いことをおっしゃるのね」


 もう、胸は痛まなかった。

 あの夜会で感じた惨めさも、悔しさも、霧のように遠い。


「どうする」


 クラウスが訊いた。

 いつもの無表情だったが、その灰色の瞳の奥に揺れがあった。書状を持つ手が、微かに力んでいた。


「王宮の夢守りは名誉職だ。お前の術なら、相応しい」


「クラウス様は、行ってほしいですか?」


「……お前の人生だ。俺が決めることじゃない」


 ああ、この人はまた。

 自分の気持ちを飲み込んで、相手の自由を尊重しようとする。

 眠れない夜が戻ることを恐れながら、それでも「行くな」とは言わない。


 ユリウスは言った。「お前は退屈だ」と。

 クラウスは言う。「お前の人生だ」と。


 ——答えなんて、とうに決まっている。


「お断りの返書を書きます。王家には、夢守りの術の提供は喜んでお受けしますが、拠点はシュヴァルツヴァルトに置かせていただきたいと。……ユリウス様には、何もお返しする言葉はありません」


「……いいのか」


「はい。ここが、私の居場所ですから」


 クラウスは何も言わなかった。

 ただ——不器用に、本当に不器用に、エリーゼの頭に手を置いた。


 骨ばった、大きな手。三年間の不眠で荒れた指先。

 けれど触れ方は、信じられないほど優しかった。


「——よかった」


 たった四文字。

 けれどその声が掠れていることに、エリーゼは気づいた。


「クラウス様」


「……なんだ」


「今夜、お渡ししたいものがあります」


 エリーゼは、小さな瓶を取り出した。

 淡い紫色の液体が入っている。月光に透かすと、微かに光る。


「これは——夢守りの香水です。私の術を、香りに封じ込めました。これを枕元に置けば、私がいない夜でも安らかに眠れます」


 クラウスは瓶を受け取り、じっと見つめた。


「……つまり、これがあれば俺はお前なしでも眠れるのか」


「はい」


「なら——要らない」


 エリーゼは目を瞬かせた。


「え?」


「お前がいない夜に眠りたいんじゃない。お前がいる夜に眠りたいんだ」


 クラウスは瓶をエリーゼの手に戻した。

 そしてその手を——包み込んだ。


 骨ばった指が、エリーゼの細い指ごと瓶を握っている。


「俺の夜を——一生、守ってくれ」


 不器用で、短い言葉。

 けれどエリーゼには、六年間で一度も貰えなかった言葉よりも、ずっと重く響いた。


「……っ、はい」


 涙が落ちた。瓶を握る手の甲に。


「はい——一生、お傍にいます」


 クラウスの目が、微かに潤んでいた。

 この三年間、誰にも見せなかった感情が、静かに溢れていた。


            ◇


 冬の初め。


 シュヴァルツヴァルトの古い礼拝堂で、ささやかな婚礼が執り行われた。


 花嫁の白いドレスには、夢守りの紋様が淡い紫の糸で縫い込まれていた。

 ——あなたの夜を、永遠に守る。そんな祈りを込めて。


 花婿は、久しぶりに穏やかな顔をしていた。

 目の下の隈は消え、頬に血色が戻り、かつての精悍さを取り戻している。


 誓いの言葉の代わりに、花婿は花嫁の手を取って言った。


「——もう二度と、眠れない夜は来ない」


 花嫁は泣きながら笑った。


「ええ。——私がいますから」


 窓の外では、北の山脈から澄んだ風が吹いていた。

 子守唄など聞き飽きたと言われた声が、たった一人の夜を守り、たった一人の心を目覚めさせた。


「エリーゼ」


「はい」


「今夜も——傍にいてくれ」


「はい。明日の夜も。その次の夜も。——ずっと」


 夜の帳が、二人を優しく包んでいた。



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ユリウスのその後は不眠症かな。
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