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トゥアール王国

婚約破棄を叫ぶ男に金的蹴りしたお嬢様

作者: 月森香苗

※「バレシアナ家の娘は婚約の破棄を告げられる」の孫の話。

前作をお読みいただいた方が分かりやすいと思います。

「マーサ、あのね、わざとでは無かったのよ。ねえ、聞いてくれる?」

「ええ、ええ。聞いておりますとも、お嬢様。お嬢様は大切なご友人を守る為にされたと、マーサは知っておりますとも。ですが、それはそれでございます」

「はい……ごめんなさい……」


 乳母のマーサからこんこんと諭されているのは、彼女のお嬢様ことアンジェリカ・バレシアナ。バレシアナ侯爵家の娘で、つい先日までは地味で大人しく、『均衡と調整のバレシアナ』と言われる中ではまったく目立たないご令嬢であった。

 しかし今の彼女は男に恐れられ、一定数の女性からは英雄のごとく崇拝されている。


 ことの始まりはとある夜会にて、アンジェリカの長年の友人――否、親友が浮気相手を引っ付けた婚約者に婚約の破棄を大声で宣言された事だろう。

 政略によって決められた婚約は親友の方が親の爵位的にも財産的にも上だったのだが、男は浅はかにも親友を貶めて自分に非が無いと周りに思わせる為に大声を出したのだ。


『私は真実の愛を知った!そして今彼女のお腹には二人の愛の証がいる!』


 結婚前からの浮気に加えて、肉体関係を持った上に避妊もせずに妊娠させるという碌でも無さを、真実の愛とかいう意味の分からない言葉で装飾した男。

 勢いが良すぎて周りが思わず祝福しかけ、親友が悔し涙を浮かべたのを見て、アンジェリカは生まれて初めて腹の奥底からの怒りというものを知った。

 アンジェリカにとっての幸運で男にとっての不運は、今のドレスの流行が前はすとんと下に落ち、後ろに膨らみを持たせるデザインだったことか。

 それともアンジェリカが兄に付き合って女だてらに剣や乗馬を嗜んでいた事か。

 ドレスのスカートを摘んだアンジェリカは男の前に立つとにっこり笑い、そして勢いよく片足を後ろに振り上げ、そのまま前に向かって振り下ろし、勢いのついた足先が届いたのは男の股間部分だった。

 淑女たるもの、美しいカーテシーをする為には体幹の良さが必須で、アンジェリカはぶれることなく見事に金的蹴りをキメた。

 声無き悲鳴を上げて悶絶している男を、アンジェリカは普段の大人しさをかなぐり捨て、汚物を見るように見下ろした。


「下劣な。厳格たる契約に基づいた婚約を蔑ろにした挙句、己の情欲を抑えられずに行動するなど、獣にも劣る愚物。子を孕み産ませる事を安易に考えているのも気に食わない。この国で年にどれだけの妊婦が産後に亡くなっているのか分かっているのか」


 アンジェリカの従姉は血が流れすぎてしまって子を産んだ後に亡くなった。優しくて笑顔の素敵な従姉の葬儀には多くの彼女の友人が来ていた。従姉の夫は泣きながらも生まれた赤子を抱いて必ず守ると誓っていた。

 幼かったアンジェリカはその別れの悲しさと共に、子供が産まれることは奇跡なのだと強く心に焼き付けた。


「浮気相手の貴方は分かってるの?そこの男はマリアーネの家に婿入りする予定で、貴方を選んだら貴族ではなくなるのよ。その男を手に入れる為に体を使ったのかもしれないけれど、出産は命懸けなのよ?貴方、死ぬかもしれないのよ?」


 男に向けていた冷徹な目とは一転、浮気相手にはやや同情を見せていた。妊娠が嘘ならいいのだけれど、浮気相手の女は思ってもいなかったことを言われたという愕然とした表情で腹に手を当てていた。悲しい事に妊娠は真実だったようだ。


「マリアーネ、ごめんなさい。彼女は貴方の婚約者の浮気相手だけど、妊婦をこのままにしておけないわ」

「ええ、大丈夫よ……複雑だけど、お腹の子の為にも冷やしてはいけないわ」


 ホールを歩く使用人に目を向け手を上げればすっと音もなく近寄って来る。外側から様子を確認していたのか、手にはストールらしきものを持っていた。

 それを受け取ったアンジェリカは浮気相手の肩にストールを掛ける。涙を目に浮かべた浮気相手の子はよく見ればまだ幼さが見える。彼女がどこの誰かは分からないけれど、既に子は腹にいるのだ。


「申し訳ないけれど、彼女をソファに。お腹は冷やさないようにして上げてくださいな」

「かしこまりました」


 従姉の事が少しばかり心の傷になっているアンジェリカはどうしても妊婦に甘くなってしまう。

 だが、男に対してその優しさは向けられない。

 痛みからか恐怖からか、座り込み震えている男に再び冷えきった視線を向けたアンジェリカは、扇を取り出し口を隠すようにする。


「お前は貴族としての矜持も常識も無いのね。マリアーネは尊き公爵令嬢であり、次期公爵。それに対してお前は伯爵家の子として望外の幸運を得たというのに。お前に責があるにも関わらずよくも破棄などと言えたわね」


 目だけでわかる、明らさまな蔑み。ここにいる多くの人はここまで苛烈な女を見た記憶が無かった。否、記憶に残っていなかった。

 当然だろう、アンジェリカはわざと地味に目立たないように生きてきた。

 彼女はバレシアナの娘だからだ。


 先代王妃で現王太后コーリンはアンジェリカの祖母の妹である。歴代王妃の中でも歴史に名を残すであろう才覚で国を豊かにしながら国王を支えていた。バレシアナの悪魔と言われたコーリンは、今は離宮で静かに暮らしている。

 そしてアンジェリカの祖母は、本来はコーリンではなく彼女が王家に嫁ぐはずだったが、婚約の破棄を言い渡されて、結局解消の後に侯爵家当主となった。現在はアンジェリカの父に当主を譲った後に祖父と定期的に旅をしている。今もどこかの国へ行っているはずだ。

 祖母の兄、本来であれば当主になるはずだったガレウスは隣国の、臣籍降下して公爵になった元王女に請われて婿に行った。

 バレシアナは王族との絶妙で均衡の取れた関係を維持し続けなければならない為、極力目立たないようにアンジェリカは生きていた。


 しかし、親友が傷付いたのを放置など出来ない。それ以上に『均衡と調整のバレシアナ』ならば、明らかにマリアーネを放置してはならない。彼女の名誉が貶められれば公爵家の格が下がる。そうなると貴族間の均衡が崩れる。

 祖母、大伯父、大叔母の時に酷かった王家の状態を整えたばかりなのに、孫の自分の世代で崩す訳にはいかなかった。


「この一件、バレシアナ家が娘アンジェリカが証人となり、婚約の継続は困難であると両家に通達致します。家で震えて待っていなさい」


 未婚の令嬢らしく、下ろされた髪の毛は艶やかで真っ直ぐな黒。祖父の色合いを持つアンジェリカは最後の最後までマリアーネの婚約者の男に優しさの欠けらも与えなかった。



 まあ、そんな事をすればすぐさま話は広まるもので、祖母が元気だと言うことはその世代もまだまだ現役が多い。

 祖母は手こそ出さなかったが言葉ではもちろん、やられたら同等の量でやり返していたそうだ。

 バレシアナは貴族の力関係が崩れる前に調整する事が最重要の役目としている。バレシアナに賄賂も脅迫も意味を為さない。全てが公平になるように整える。

 勘違いしてはならないのが、あくまでも貴族間、並びに王家と貴族の間の関係性の均衡を整えるのであって、どこぞの家が不正している、とか金稼ぎしすぎ、とかそんなのには関わらない。その結果が均衡を崩すのであれば干渉するが、やり過ぎるのは役目違いだ。

 今回においてはマリアーネのカサドラ公爵家の立場を守る必要があった。父からは「よくやった」と褒められたものの「男にとって、あれは恐ろしい行為だから、二度としてはいけないよ」と真顔で告げられたし、兄には「頼むから俺にはやらないでくれ」と距離を取られた上で言われた。

 この一件でアンジェリカは必要とあらば男性の急所を容赦なく攻撃すると認識されるようになってしまった。アンジェリカは確かに剣を振るえるし乗馬も出来る。しかし、決して乱暴な性格ではないのだ。

 親友を傷付け、公爵家の名を貶め、更に少しばかり浮かれた上昇志向のある令嬢に真実を語らず、無責任にも孕ませた事が許せなかった。

 だから『バレシアナ』らしく、釣り合いが取れる罰として金的蹴りを与えたのだ。それでもまだそちらの方が軽いだろうに。時間が過ぎれば痛みが無くなるのに対し、マリアーネは新たな婚約者を探し、家は婿候補に仕事を教えなければならず、浮気相手の令嬢は宿した命を命懸けで産み落とし育てなければならないのだ。終わりなどない。


 男からは恐れられたアンジェリカだが、意外にも一定数の女性からは拍手喝采で受け入れられていた。

 この国ではまだまだ女性の地位は低い。女性が当主になれるけれど、大抵は嫁いでも発言権は殆ど無いし、婚前の浮気は許されなくても結婚後であれば愛人を持つのは男の間では慣習として存在している。

 後継者は正妻の子供が優先されるのだから我慢しろ、と当たり前のように言う男に苦しめられてきた女性は多い。

 アンジェリカはそんな男達に見せつけるように一撃で一人の男を悶絶させ、多くの男を震え上がらせた。その場にいた多くの女性にはその痛みが分からない。なので心からすっきりとしていた。

 横柄な態度をする夫や婚約者が股間に手を添えて震えている姿がみっともなくて、長年の不満が少しだけ軽くなったそうだ。



 まあ、そんな事はアンジェリカの乳母であるマーサには関係の無い事である。

 ただでさえバレシアナの娘は嫁ぎ先の選定に苦労するのに、この一件で釣書が一枚も来なくなったのだ。

 マーサにとってのアンジェリカはいくつになっても可愛らしいお嬢様である。マーサの娘はアンジェリカの侍女として常に傍に控えている。母娘揃ってアンジェリカを宝物のように守り慈しみ育ててきた。

 バレシアナとして、周りの関係性を常に注視し気を配り、決して目立たぬ令嬢であることは本来のあるべき姿なのだ。

 バレシアナが表に出る時はそれだけ世が乱れている証。数十年前の、祖母とコーリンの一つ前の代の国王が貴族間派閥の兼ね合いを理解せずに我欲を通した結果、名を抹消された王妃を選んで不穏の種を撒いた時のように。

 それ以外でのバレシアナ家の人間は静かに控えていたからこそ特殊な在り方を許されていた。

 マーサとてバレシアナ一族の一人である。本家ではなく遠い分家の女でバレシアナの重要性はわかっている。今回とてアンジェリカが動く必要があった事は賛同しているが、やった事が問題だ。

 幸せな結婚をして欲しいのに、その相手が見つからない状況は如何なものか。

 この件に関してはアンジェリカの母でありバレシアナ侯爵夫人からきちんと分からせるように、と命じられている。

 ままならないわ、とため息を禁じ得ないアンジェリカはマーサのお説教を一応は聞きながら、貴族って大変だわ……と現実から思考を遠くに飛ばしていた。



 そんなアンジェリカを求めて釣書が来るようになったのは二週間ほどしての事で、数人ではあるが大層ご立派な肩書きの方ばかりである。


 一人目は騎士団に所属し、第二騎士団副団長のトルステン・バンダー、25歳。現在18歳のアンジェリカの7歳年上で、家は伯爵家。派閥としてはマリアーネのカサドラ公爵家に属している。

 結婚した場合は騎士の妻となる。

 淡い金色の髪の毛に水色の目をした、背が高く体格も良く、ご令嬢人気はかなりある。

 三年前まで婚約者がいたものの、その婚約者が病に倒れたので解消……と言うのは表向きの事で、どこぞの誰かとの間に子が出来た為に相手側の責で表向きは解消だが、相当の慰謝料を受け取ったらしい。

 この情報はマーサの娘でアンジェリカの侍女のナタリーが仕入れて来た。


 二人目は宰相であるロワラーナ公爵の次男マクレガンで、結婚した場合は家が所有する伯爵位を受けて独立する事になる。

 深みのあるオリーブグリーンの髪の毛に濃い緑の目。眼鏡をかけていて頭脳派。

 穏やかな性格の為、宰相補佐には向いていないと領地経営の方を学んで来た22歳。

 確実に伯爵になるのが決まっているので狙っていた令嬢とその家は多いとの事。

 王家派の派閥の長がロワラーナ公爵家な事は言うまでもない。


 三人目はハベスティア子爵家当主カイル、26歳。21歳の時に前当主が亡くなり急遽跡を継ぐ事になった方で、商会を有していた為、そちらの仕事も合わさり多忙の日々を過ごし、結婚相手を見つける所ではなかった。

 国内でも有数の大商会の商会長としてのお名前が有名。他国に赴く事もあり、妻には彼の代わりに領地経営の補佐をする能力を求めている。

 日に焼けた肌、赤茶の髪の毛に榛色の目をした、ナタリーが聞いた噂によるとシャツを腕まくりして見える腕が逞しくてセクシーとのこと。

 一応の派閥は中立派で、商人としての付き合いを大事にしている。


 何れの方も立派で、母は名だたる人物の名に若干興奮しているものの、同席していた父と兄は微妙な表情をしていた。


「お父様、お兄様。紳士クラブでの彼等の噂は?」

「う、うむ……ダレス、頼む」

「父上逃げないで下さい。アンジェリカ……そのだな……あくまでも噂だ。噂だから真実かは分からないと思ってくれ」

「今の時点で嫌な予感がしますわ」

「ああ。そのだな……トルステン殿とマクレガン殿は、女性に、可愛がられたいらしい」

「……精神的と肉体的がございますよね?」

「噂だ。あくまでも噂だが、トルステン殿は肉体的に、マクレガン殿は精神的に……」

「何故です!? 私にはそんな趣味はありませんが?」


 母は言葉を失って兄のダレスを見ている。父は窓の外へと視線を向けて現実逃避。兄は言葉を選んでいるが、どうにも出来なかったのだろう。

 苦しそうな顔でアンジェリカを真っ直ぐに見る。


「お前の名が一気に知られるようになったあの夜会でだな……それまで印象にも残らなかったアンジェリカの虫を見るかの如く蔑みを込めた目が、そう言った性質を持つ方の琴線に触れたらしい」

「なんてこと……」

「そして、そう言った性質の方は意外にいる。カイル殿はその噂を聞いた事がないから違うと思うが、他のお二方は勝ち抜いた上で釣書を送ってきたらしい」

「どういう意味ですか?」

「言葉通りだ。同じ性質の方の集まりの中でお前に求婚する順番を決めたらしい。誰が最初に送るかを決めるのに時間が掛かったらしい」


 アンジェリカは理解するという行為そのものを止めていた。訳がわからなすぎて思考が停止している。


 間違いなくトルステンもマクレガンも彼らと結婚したい令嬢は多いだろう。そんな二人からの縁談申し込みの理由が、あの日の金的蹴りと汚物に向ける視線だと言うのならば。


「無理です。私には彼らを満足させられる気がしません」


 釣書をそっとテーブルの上に戻した母。二枚の釣書を視界に入れてアンジェリカは嫌悪感増し増しで見ていたら、ダレスから「その表情だよ」と言われてしまう。


「お前はそもそも顔がいい。夜会で気配を消す為に地味を装っていたけれど、本来のお前を全面に出せば、差が大きすぎてより際立つんだ」

「そうですか」

「俺の友人……ああ、彼らのような性質を持っていない普通の奴だが、そいつが言うには、あの時のお前は凄みのある美人だと思われたそうだ」

「そうですか。次の夜会では更に地味にしなければ」

「手遅れじゃないか?」

「分からないでは無いですか。今まで隠せていたのですから」


 父母を置き去りに兄と会話をしていたアンジェリカは、釣書に視線を向ける。二人はこの時点でお断り対象だが、もう一人は会ってみてもいいかもしれない。


「お父様、ハベスティア子爵様ならお見合いをいたします。少し気になる事が」

「そ、そうか。何が気になる?」

「彼の商会は大規模で、国内のみならず国外にも広がっていますよね。その広い網は我がバレシアナ家にとって見過ごす事は出来ません」


 バレシアナ家はどちらかと言えば高位貴族には強いが、下位貴族や平民までは網羅出来ていない。ハベスティア家はその不足している点を補える。


「お祖母様と大叔母様が以前仰っていたのですが、貴族社会はまだ潰えることはないけれど、力ある下位貴族や平民は間違いなく台頭してきて、国は何れ混迷を極めるだろう、と」


 変わらないものは無い。変化に応じて対応するのがバレシアナ家であり、その教えを受けて育ってきたアンジェリカは先程までの理解不能な混乱から抜け出して冷静になる。

 母はこうなると口を出さない。母はバレシアナ家に関わりのない、しかしバレシアナの在り方を理解している家から嫁いできた。

 他家には無い独自の教育を施されるバレシアナのやり方に触れ、祖母から直接学んできたので弁えている。


「お兄様を支えるには丁度良いと思います」

「分かった。あちらもそれを承知の上だろう。バレシアナに関わるつもりならば、覚悟を決めて貰わなければな」


 ピリ、とした緊張感が部屋の中に漂う。普段はやや巫山戯気味のダレスも真面目な顔をしている。

 先祖代々受け継いできている『均衡と調整』と言う二つ名は決して軽くは無い。常に己を律し、国の安寧の為に何が最善かを考えなければならない。例え家を出て嫁ぐ事になっても変わらない。



***


 見合いの日は晴天だった。

 多忙なハベスティア子爵のカイルだが、彼が望んだからこそのこの場である。バレシアナ家のタウンハウスにやってきたカイルは商人らしく、こちらの在り方を踏まえて華美な装いを控えていた。とは言えども生地は最高級品を使っているのだろう、光沢が違う。


「この度はお会い出来る機会を頂き感謝申し上げます」


 外に出る事が多いからこそ日に焼けているカイルは近くで見ると男振りが良い。話し方は耳にスルスルと入ってくる早くもなければ遅くもないテンポで、言葉選びも機転が利いている。

 カイル自身が爵位を持つ当主の為、共に連れて来ていたのは彼の従兄で仕事においての補佐をしている、伯爵家のトマスという男性であった。カイルの母親が伯爵家出身で、突然の家督を引き継いだ彼の後見をトマスの家がしているとのこと。


「ボッセオ伯爵家は堅実な領地経営をしているから、安心して教えを受けられたのだろうね」


 父の頭の中には伯爵家以上の家門に関しての情報が入っている。コーリン程ではないが、父も天才に足を踏み入れていた。悪魔ほどではないので人格破綻はしていない。

 サラリと告げられたトマスは「我が家をご存知で?」と驚いていたようだけれど、バレシアナ家とはこういうものだ。


「アンジェリカ。ハベスティア卿に庭を案内してあげなさい」

「はい、お父様」


 この場にいるのは父とアンジェリカ、カイルとトマスの四人。母と兄はこの段階では顔を見せないのが通例である。

 にこやかな笑みを浮かべて手を差し出すカイルにアンジェリカもにっこりと笑って手を乗せる。

 これらは全て様式美。残された二人が詳細を詰める為に追い出されたのだ。まあ、カイルは後で彼らに混じって更に条件を詰めるのだろうけれど。


「見事な庭園ですね。調和が取れていて無駄がない」

「華やかさがないでしょう?」

「バレシアナ家を表していて好ましく思います」


 二人が歩く道の両脇に植えられているのは花の無い低木。遥か遠く、東方の地からやって来た庭師によって作られた庭園は建国時代あたりから変わっていない。

 池があり、大きな石があり、他の屋敷では見られない独特な庭園を地味だという者は多い。しかし、無駄を徹底して省き、自然の姿を見せるここをアンジェリカは好んでいた。


「こちらのガゼボで休憩をしましょう」


 屋敷から離れて庭を見渡せるガゼボは池の縁にあり、一部は水の上にせり出している。親友のマリアーネは初めてここに来た時は驚いていたし怖がっていたが、慣れたら気にならなくなったと言っていた。

 カイルもこのような形式は初めてなのだろう、落下防止の柵の近くに寄って興味深そうにしていた。


「幼い頃、暑くなるとお兄様が池に飛び込んで。庭師は止めたのですが、子供には無意味ですよね。お父さまが怒るのかと思いきや、お父様も同じようにして、お祖母様に呆れられたそうです。お祖母様のお兄様もしていたのできっとバレシアナの男性は抗えないのでしょう」


 定期的に水を入れ替えているので飲みさえしなければ、泳ぐ程度なら問題ないそうで。


「はしたない事ですが、私も足を浸けましたの」


 今も真夏の暑い日にはこっそりと靴を脱いで足先を下ろす。その為の座る場所がこのガゼボにはあるのだ。


「この庭園は独特ですから庭師は世襲で?」

「ええ。一族でずっと仕えてくれています。初代国王が建国の折、東方からやって来た庭師を友の一人とし、バレシアナ家の初代当主が庭師の造る庭園に興味を抱き我が家に来てもらったのです」


 東方とは何もかもが異なる為、試行錯誤を繰り返しながら作り上げた庭園は、少しずつ変化しながらも基本は変わっていないと言う。

 華やかさを苦手としていた初代当主が領地の庭園も東方風にしているが、あちらの方が更に特殊だ。


「東方の技術は面白いのです。小さな小さな石を撒き、特殊な道具を使って波線を描くのです。まるでそれは川の流れのようで。その場所は歩けません。離れたところから見るのですが、植えた木や苔などが調和して一枚の絵のようなんですよ」

「それは興味深いですね。水が無いのに川を思わせるとは、東方も面白い事をするのですね」

「ええ……ハベスティア子爵様。何故私を?こう言ってはなんですが、私の夜会での振る舞いは多くの男性から淑女らしからぬと言われています」


 池に向けていた視線をカイルに向けると、カイルはその口に笑みを乗せてアンジェリカを見ていた。

 赤茶の髪の毛、榛色の目、日に焼けた肌、騎士ほどとは言わないけれど体格は良く、彼ほどの人であればアンジェリカでなくても多くの令嬢が望むだろうに。


「幾つか理由はあります。まず、貴方がバレシアナ家だからですね」

「ええ。ああ、そうでした。どうぞ、普段通りの口調で。お父様の前でならいざ知らず、私は無爵の身。貴方の方が上ですから」

「そうですか?では、遠慮なく。バレシアナ侯爵家は常に公平を重んじ、必要がなければ争う事を好まず、高位貴族の間で敵を作ることは無い。バレシアナ家はこの国にとって必要不可欠の家だからな。そのバレシアナ家から嫁を貰うのはその家が決して国に害がないと言う強い証明となる」

「そうですね。ありがたいことに、そのように思われています」


 国を乱す存在をバレシアナ家は許さない。バレシアナの娘が嫁ぐ先はそれだけに注視される。今回の夜会の件より前にはバレシアナの娘と言うだけでそれなりの釣書が積まれていて、それぞれの家の調査をしていた。

 大半は後暗いところがあり断っていたが、夜会の一件であちらから無かった事に、とされたのはバレシアナの信用よりも恐ろしかったのだろう。金的蹴りはそれだけの威力があったらしい。


「うちは子爵家だから高位貴族と縁を結ぶのは難しい。国中に商会の手を広げたけれど、下位や平民が相手だ。一段階上を望むならバレシアナ家の名は喉から手が出る程に魅力的だ」


 培ってきた時間と信頼。『均衡と調整』を疎かにしない生き方は難しい。しかし、歴代のバレシアナの人間がそれを果たして来たからこそ、途絶える事なく家が続いて来た。


「まあこれは家門のあり方についてだ」

「それ以外にありますか?」

「俺はあの日、商談の関係であの夜会にいた。そこで君の揺るぎない信念を感じた。大切な友人を守りながら、同時に国を、家を守ろうとする君の背中が美しく感じたんだ」

「……あの、ハベスティア子爵様も、その、虐げられる事を好まれる方ですか?」

「は?何て?」

「貴方様の他にも見合いの申し出をしてくださった方がいるのですが、その……」

「いやいや、俺にそんな趣味はないから」


 真面目な話をしていた筈なのに、アンジェリカは確認せずには居られなかった。あの日の行動で望まれたのであれば、被虐趣味の可能性は捨てきれない。

 問われたカイルは勢い良く否定した。

 その全力の否定にアンジェリカは胸を撫で下ろした。

 カイルはバレシアナをある程度理解した上で、アンジェリカに好意を抱いてくれたらしい。普段の彼の口調は砕けていても乱暴に感じないのは、体に染み付いたのであろう程よいテンポの語りだからか。


「あのさ、見合いしてるのって、俺だけ?」

「はい」

「正直、断られると思ってたんだよ。だって俺は所詮子爵家だろ?侯爵家のお嬢様を嫁がせるには身分的に低いし」

「ハベスティア子爵様が正直に答えて下さったので私もお話しますね。ハベスティア子爵家は国中に商会があり、下位貴族や力のある平民と繋がっていますよね。バレシアナ家は仰る通り、高位貴族の繋がりはありますが、下はありません 」

「こちらがそうであるように、バレシアナ家としても、うちの伝手は利用価値が高い、と」

「はい。それに、他国との繋がりもありますよね」


 この国にはバレシアナ家のように国を平穏に保つ役割を持つ家門がある。

 『法の番人のナリシュ家』、『国外折衝のマグダレナ家』など。しかしいずれもどうしたって高位貴族が主となる。

 国民の大半は平民であり、下位貴族である。他国とて変わらない。情勢の変化は下の方が早く情報を得られる。特に、他国に関しては高位貴族ほど動きにくい。


「どうぞ、カイルと呼んでくれないか」

「私のことはアンジェリカとお呼び下さい」


 ここまでの間は互いに探りあっていた。出しても良い情報は惜しみなく出す事で安心と信頼を得られる。

 カイルが示した信頼に、アンジェリカは釣り合うように返した。


「カイル様。私は嫁いでもバレシアナであることに変わりありません」

「そうだろうな。バレシアナとはそう言う一族だ」

「そして、釣り合いを大事にします。貴方が私を信頼してくれるのであれば、私は必ずやそれに見合う結果をお渡しします」

「恐ろしいな。だが、だからこそ全てを差し出してでもバレシアナの娘を求めるのだろうな。今痛感した」

「貴方はこれから、社交界で存在感が増します。バレシアナ家が認めた男性として。そして、私と言う女を制御出来る家族以外の唯一の男性として。貴方の価値を上げましょう。貴方がこれからより商会を大きくする為に。そして領地は私が守りましょう」


 風が吹く。

 池の周りに植えられた木々が擦れ合い音を奏でる。

 薄暗い夕暮れの中で聞くと恐ろしい音も、明るい今の時間なら心地良さとなる。


「俺は貴族だが、それよりも商人の気質の方が大きい。勘を何よりも大事にして生きてきた。これは売れる、と勘が働いた時は間違いない。そして今、俺は必ず君を手に入れろと訴えられている」

「ふふ。どうぞ宜しくお願いしますね、カイル様」

「こちらこそ、アンジェリカ嬢。さて、そろそろ戻るか」

「ええ、そうしましょう」



 バレシアナ侯爵家のアンジェリカとハベスティア子爵家当主カイルとの婚約は程なくして公表された。

 一時は男性を震え上がらせたアンジェリカだったが、カイルの隣でバレシアナの娘らしく控えめに、しかし公平に人とやり取りをする姿に次第と話は落ち着いて来た。

 バレシアナ家が認めたカイルはアンジェリカの親友であるマリアーネの公爵家を取っ掛りに高位貴族の間でも知られるようになり、使われるようになった。

 バレシアナ家の名前が信頼となり、家門の格が上がった。そんなハベスティア子爵家をアンジェリカはきちんと利用した。



 二人の婚約当初は政略らしく互いを信頼していたものの甘さはなかった。しかし、カイルは元々アンジェリカの在り方を好ましく思っていたのもあり、彼からの力を入れたアプローチにアンジェリカは直ぐに陥落した。

 結婚式は落ち着いたものだったが、王家や公爵家からも参加者が来る事になり、度胸のあるカイルでも落ち着かなかったらしい。

 特に、祖母のユリアナと大叔母のコーリンに挨拶をした時のカイルは緊張のあまり倒れそうだった。

 アンジェリカが存在を認識されるようになった夜会がきっかけで婚約の解消となったマリアーネは新たに縁があり、アンジェリカ達の結婚式の半年後に式を挙げる。

 お相手はカイルの補佐をしていたトマスで、アンジェリカがカイルを紹介する際にトマスが控えていたのだが、見事な補佐能力に公爵家の跡取りであるマリアーネが目を付けたのだ。

 有能な従兄であり補佐をしてくれていたトマスを取られたカイルは悔しそうだったが、トマスの方は満更でもなかったらしい。

 マリアーネの元婚約者は放逐された。公爵令嬢を貶めた彼を家も社交界も許さなかった。かと言ってあの時の浮気相手と結婚した訳では無い。

 お腹に子を宿した彼女――マリベルは、彼が公爵にいずれなるのだと聞かされていた。きちんと調べれば分かったことでも下位貴族の令嬢に出来る事は少ない。

 未婚で妊娠したマリベルは元婚約者の男が避妊という気遣いもせず、出産の際の死亡率も考えなかった事でこれ以上関わりたくないといった。

 当然彼女に良い縁談が来るわけが無いので、その彼女をアンジェリカが拾い上げた。

 マリアーネは思う所もあるけれど、騙されたようなものだし、碌でもない男と縁が切れたからと浮気相手を使用人として保護しても良いと言ったが、元婚約者がどう出てくるか分からなかったので、国の至る所に拠点が点在するハベスティア家で雇う事にした。

 勿論、子供が無事に生まれるように手厚くサポートをして。そしてマリベルは無事に女の子を産んだ。今はアンジェリカの乳母であるマーサから子育てを、専属侍女のナタリーからは侍女の仕事についてを無理の無い範囲で学んでいる。


 アンジェリカのお腹には子供がいる。

 出産は恐ろしいと思っていた。しかしマリベルのお腹が大きくなるにつれて母親としての顔を見せるようになり、産後は赤子を抱いて幸せそうにしているのを見て少しだけ勇気が出た。

 事情を聞いていたカイルからは焦らなくていいと言われたけれど、アンジェリカが望んだ。好きな人との子供が欲しいと。


 産まれてくる子が男であれ、女であれ、アンジェリカは大切に育てる。己が親にそうやって育てられたように。

 カイルが少し膨らみ始めたお腹を恐る恐る触るのを微笑みながら見つめる。

 成人していたとは言え、早くに家族を失ったカイルには兄弟もいなかったので一人になった。そんな彼に家族を増やしてあげよう。


 その願いが叶ったのか、アンジェリカは五人の子供を無事に産んだ。

 その内、最後に産まれた娘にアンジェリカは語って聞かせた。


「大切なものを守る為には時に行動に移す必要があるの。でも、女の子は力が弱いでしょう?だからね、脚の間を蹴るのよ?躊躇ってはだめだからね?」


 母娘二人の会話を聞いていたマリベルは止めなかった。マリベルが若い頃にそれで間接的に救われたので。


 そしてこの教えが後にハベスティア家の娘に代々伝わる事になるとはアンジェリカに予想出来るはずもなかった。

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― 新着の感想 ―
お話の中の何処にも書かれていない筈の「コキン♪」という文字を空目しました。 …と、言いますか、頭の中に響きました。 「そして勢いよく片足を後ろに振り上げ、そのまま前に向かって振り下ろし、勢いのついた足…
ぐらんぶるのシャルピー衝撃試験の話を思い出した… 何それ? と思うなら調べてみましょう。ただし呼吸困難に注意を。
>>そして勢いよく片足を後ろに振り上げ、そのまま前に向かって振り下ろし、勢いのついた足先が届いたのは男の股間部分だった。 いやまあ多分勢いのまま蹴り上げたんだろうなあというのは推測はできますが、蹴り…
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