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【完結】さよならの代わりに、この一皿を〜私が好きになったのはこの世にいない料理人でした〜  作者: 葉南子@アンソロ発売中!
第三章 今を生きて、あなたに触れたい

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第38話 幽霊とさよならする日


 ぎゅっと目を閉じて、私は龍之介さんの体に腕をまわした。

 彼もきつく抱きしめ返してくれたのに、胸のざわめきは収まってはくれない。


 ──気のせい……気のせい。


 何度も心の中で呟きながら、私は彼の胸に顔をうずめる。


 ──違う、そんなはずない……。

 

 ちゃんと、あたたかいはずなのに。

 空気を抱きしめているような感触が強くなっていく。

 触れているはずなのに、彼の存在が指先をすり抜けていく蜃気楼みたいに思えてしまって。

 私は必死に振り払おうと腕の力をさらに込めた。

 

「……陽奈」


 耳元で囁かれる声は、やっぱりやさしい。

 ううん──やさしすぎた。


「どうしたんですか、龍之介さん。なんか……今日変ですよ」


 無理やり笑顔を作って冗談めかして言った。

 本当は心臓がぎゅうっと締め付けられている。


 ──お願い、否定して……。

 

 いつもみたいに「何言ってるんだ」とか「気のせいだろ」とか。

 そんなふうに笑い飛ばしてほしい。


 だけど龍之介さんは──いつものみたいに軽く流すことも、冗談を返すこともなかった。


「ありがとう」


 その言葉がやけにゆっくりと落ちてきた。

 あたたかさと、切なさと、儚さと、これまで一緒に過ごしてきた時間、その全部が詰まっているような響き。


 ──どうして、そんな言いかたするの……。


「龍之介さん……その言葉は、まだ早くないですか」


 私は笑った。

 たぶんすごく(いびつ)な笑顔をしていると思う。

 それに声も少しだけ震えていた。

 

「私だって……龍之介さんにお礼したいこと、たくさんあるんです。……今じゃなくて、またにしませんか?」


 なんて支離滅裂なことを言うくらい、私はもう平常心じゃいられなかった。

 わけもわからず目頭が熱くなっていく。


 ──ねえ、お願い……。

 

 このままでいい、ずっとこのままでいいから。

 それ以上は言わないでほしかった。


「陽奈」


 龍之介さんが私の名前を呼ぶ。


「全部、思い出したんだ」


 彼の穏やかな言葉と表情は、すべてを終わらせるための一言みたいに重く私の胸に落ちてきた。


「秀明さんに助けられて、この店で働き始めて数ヶ月経ったころだった。ある日突然、『腕試しのつもりで、自信のある一品を作ってみてくれないか』って言われたんだ。それで、ビーフシチューを選んだ」


 厨房の空気が一瞬静かになる。

 彼が語るそのときの記憶は昨日のことのように鮮明で、目の前に映し出されているかのようだった。

 龍之介さんは「まあ、ちょうど秋だったしな」と軽く笑って付け加えた。


「そして、そこにいたのが……陽奈、お前だった」


 ──私……?


 その言葉に息を呑む。

 すごい偶然だと思う反面、なぜか納得してしまう自分がいた。

 

 四年前の秋、初めて食べたビーフシチューと、一緒に完成させたビーフシチュー。

 一年前、叔父が言った「俺じゃ作れない」の一言。

 ふわふわと浮いていた記憶の破片が今、一枚の絵になるように全部つながっていく。


「このあと姪が食べに来るから、結果は姪の食べた反応で決めるって秀明さんが言ったんだ。そのとき、初めてお前に会った」


 語られる声を聞きながら、龍之介さんの輪郭がぼんやりと霞んでいくのがわかった。

 涙でにじんで見えているせいかと思ったけれど、そうじゃない。

 確実に──彼の存在が薄らいでいきている。


「腕試し……というか、試験みたいなものだな。そんな意味のある料理だと知ったらお前が忖度するだろうと、秀明さんが作った試作品ってことにして陽奈に出したんだ」


 龍之介さんは変わらず穏やかに続けた。


 ──ああ、やっぱりそうだったんだ。


 あの日、あのとき食べたビーフシチューは彼が作ったものだった。

 それがはっきりとわかった瞬間、胸の中からあふれた熱が全身を駆け巡った。

 私の「料理のはじまり」は全部、龍之介さんだったんだ。


 嬉しくてたまらなかった。

 笑顔で抱きついて、「好き」とか「ありがとう」とか、素直に言いたかった。

 この気持ちのまま、私からキスをしてしまえたら──どんなによかっただろう。

 でも、できなかった。

 

 ──だって……。

 

 きっとその先に待っている言葉は、私が本当に欲しいものじゃない。

 だからもう、それ以上は聞きたくなかった。

 

「結果は……陽奈が感じてくれた通りだ。腕を認めてくれたのか、それから秀明さんは俺に店を任せてくれた」


 龍之介さんは約束された未来へ向かうみたいに言葉を紡ぎ続けた。

 その口調は決して暗いものじゃなくて。

 閉ざされていた未来の扉を、彼自身の手で開こうとしているのが伝わってくる。

 

「そう……だったんですね」


 口から出た声は思ったよりも震えていた。

 泣きたくない。

 泣いてしまったら、涙と一緒に彼の姿まで手からこぼれてしまいそうだったから。

 

「やっぱり……龍之介さんってすごいですね! だってほら、一人の女の子の気持ちを動かす料理を作ったんですもん! うん! ほんと、すごい!」


 笑おうとした分だけ声が歪んだ。

 それでも必死に言葉をつなぐ。


「だから、もう……。じゅうぶん嬉しいです。これ以上は、聞かなくても……」


 彼が記憶を語るごとに、少しずつぬくもりが薄れていく。

 想いと一緒に、自分自身を昇華しているみたいに思えてしまう。

 

 このまま聴き続けていたらどうなってしまうのかなんて──考えたくもない。

 うつむいた私の頬に、龍之介さんの手がそっと触れた。


「たぶんこれが最後だから、聞いてほしい」


 そんなふうに言われて、嫌なんて言えるはずない。

 私はただ黙って頷くしかなかった。

 もう止められないんだって、そんなの認めなくなかったけれど。

 心の片隅では、「聞かなきゃいけない」「受け止めなきゃいけない」ってわかっていたのかもしれない。

 

「俺はずっと、あのときの笑顔に会いたかったんだ。それだけを願っていたから……死後、ここに留まったんだろう」


 龍之介さんは静かに言葉を重ねる。

 やさしくて懐かしむような声色は、もう遠くに行きかけている気がした。


「可笑しいよな。お前と再会したときには、その理由だけ……すっかり忘れてたんだ」


 龍之介さんは呆れたように笑った。

 私もつられるように笑おうとしたけれど、うまく笑えてなかったと思う。

 いま私はどんな顔でこの話を聞いているのか、それは自分でもわからなかった。


「あの日、人生で初めて人に心から『美味しい』って言われたんだ。なあ陽奈、お前が笑って言ってくれたあの『美味しい』で、俺は……生きてる意味を見つけたんだよ」


 ──生きてる意味。

 

 その言葉が胸の奥底にまで響いた。

 絶望していた彼の人生が大きく動き出した瞬間。

 それが、あのとき食べたビーフシチューだったんだ。


「死んだ人間に、生きる意味なんていらないもんな。だから、その記憶だけ抜け落ちてたのかもしれない」


 龍之介さんがこの店に残り続けた理由。

 怨念でも執念でもなくて──ただひとつ、笑顔に会いたいという未練だった。

 

「お前の笑顔が好きだ。素直なところも、泣き虫なところも、料理にひたむきなところも、全部」


 そして少しだけ間を置いて、彼は最後にこう言った。


「ずっと、好きだったよ」


 聞きたかった言葉。

「いつか」とはぐらかされた彼の気持ちが、やっと言葉で届いた。


「それ……いま、言いますか」

「他にいつ言う?」

「……ほんと、ずるい人ですね」

「だろ」


 いつもみたいに軽く笑い合う。

 でも、もう──この「いつも」は二度とこない。

 涙をこらえるのも、もう限界だった。


 ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。

 何度も瞬きしても、止まりそうにない。


 龍之介さんがそっと手を伸ばして私の涙をぬぐってくれた。

 そのぬくもりすら、少しずつ薄れていく。

 

「ひとつだけ……わがまま言ってもいいか?」

「……はい。龍之介さんのわがままなら、なんでも」


 震える声で、それでもなんとか気丈に振る舞った。


「陽奈には、笑っていてほしいんだ」


 そう言った彼の姿は、幻みたいにぼやけていた。

 

「行かないで」

「待って」

「もう少しだけ」

 

 そんな言葉はもう意味がないし、届かない。

 

 私にできるのは──たったひとつ。

 

 彼の未練を、ちゃんと終わらせてあげることだけだった。


「大好きです。ずっと」


 涙は止まらなかったけれど、ちゃんと、心から笑って言えた気がした。

 龍之介さんは微笑んで、やさしいキスをしてくれた。

 ぬくもりも、あたたかさも、柔らかさも、確かに全部あったのに。


 キスの余韻だけを残して──彼の姿は消えた。

 

 それは、長い夢が終わったみたいに。

 ひとつの物語が閉じられたみたいに。

 私の腕の中には、もう何もない。

 

「陽奈、ありがとう」


 ただ耳の奥にだけ、彼の最後の声が残っていた。

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