第38話 幽霊とさよならする日
ぎゅっと目を閉じて、私は龍之介さんの体に腕をまわした。
彼もきつく抱きしめ返してくれたのに、胸のざわめきは収まってはくれない。
──気のせい……気のせい。
何度も心の中で呟きながら、私は彼の胸に顔をうずめる。
──違う、そんなはずない……。
ちゃんと、あたたかいはずなのに。
空気を抱きしめているような感触が強くなっていく。
触れているはずなのに、彼の存在が指先をすり抜けていく蜃気楼みたいに思えてしまって。
私は必死に振り払おうと腕の力をさらに込めた。
「……陽奈」
耳元で囁かれる声は、やっぱりやさしい。
ううん──やさしすぎた。
「どうしたんですか、龍之介さん。なんか……今日変ですよ」
無理やり笑顔を作って冗談めかして言った。
本当は心臓がぎゅうっと締め付けられている。
──お願い、否定して……。
いつもみたいに「何言ってるんだ」とか「気のせいだろ」とか。
そんなふうに笑い飛ばしてほしい。
だけど龍之介さんは──いつものみたいに軽く流すことも、冗談を返すこともなかった。
「ありがとう」
その言葉がやけにゆっくりと落ちてきた。
あたたかさと、切なさと、儚さと、これまで一緒に過ごしてきた時間、その全部が詰まっているような響き。
──どうして、そんな言いかたするの……。
「龍之介さん……その言葉は、まだ早くないですか」
私は笑った。
たぶんすごく歪な笑顔をしていると思う。
それに声も少しだけ震えていた。
「私だって……龍之介さんにお礼したいこと、たくさんあるんです。……今じゃなくて、またにしませんか?」
なんて支離滅裂なことを言うくらい、私はもう平常心じゃいられなかった。
わけもわからず目頭が熱くなっていく。
──ねえ、お願い……。
このままでいい、ずっとこのままでいいから。
それ以上は言わないでほしかった。
「陽奈」
龍之介さんが私の名前を呼ぶ。
「全部、思い出したんだ」
彼の穏やかな言葉と表情は、すべてを終わらせるための一言みたいに重く私の胸に落ちてきた。
「秀明さんに助けられて、この店で働き始めて数ヶ月経ったころだった。ある日突然、『腕試しのつもりで、自信のある一品を作ってみてくれないか』って言われたんだ。それで、ビーフシチューを選んだ」
厨房の空気が一瞬静かになる。
彼が語るそのときの記憶は昨日のことのように鮮明で、目の前に映し出されているかのようだった。
龍之介さんは「まあ、ちょうど秋だったしな」と軽く笑って付け加えた。
「そして、そこにいたのが……陽奈、お前だった」
──私……?
その言葉に息を呑む。
すごい偶然だと思う反面、なぜか納得してしまう自分がいた。
四年前の秋、初めて食べたビーフシチューと、一緒に完成させたビーフシチュー。
一年前、叔父が言った「俺じゃ作れない」の一言。
ふわふわと浮いていた記憶の破片が今、一枚の絵になるように全部つながっていく。
「このあと姪が食べに来るから、結果は姪の食べた反応で決めるって秀明さんが言ったんだ。そのとき、初めてお前に会った」
語られる声を聞きながら、龍之介さんの輪郭がぼんやりと霞んでいくのがわかった。
涙でにじんで見えているせいかと思ったけれど、そうじゃない。
確実に──彼の存在が薄らいでいきている。
「腕試し……というか、試験みたいなものだな。そんな意味のある料理だと知ったらお前が忖度するだろうと、秀明さんが作った試作品ってことにして陽奈に出したんだ」
龍之介さんは変わらず穏やかに続けた。
──ああ、やっぱりそうだったんだ。
あの日、あのとき食べたビーフシチューは彼が作ったものだった。
それがはっきりとわかった瞬間、胸の中からあふれた熱が全身を駆け巡った。
私の「料理のはじまり」は全部、龍之介さんだったんだ。
嬉しくてたまらなかった。
笑顔で抱きついて、「好き」とか「ありがとう」とか、素直に言いたかった。
この気持ちのまま、私からキスをしてしまえたら──どんなによかっただろう。
でも、できなかった。
──だって……。
きっとその先に待っている言葉は、私が本当に欲しいものじゃない。
だからもう、それ以上は聞きたくなかった。
「結果は……陽奈が感じてくれた通りだ。腕を認めてくれたのか、それから秀明さんは俺に店を任せてくれた」
龍之介さんは約束された未来へ向かうみたいに言葉を紡ぎ続けた。
その口調は決して暗いものじゃなくて。
閉ざされていた未来の扉を、彼自身の手で開こうとしているのが伝わってくる。
「そう……だったんですね」
口から出た声は思ったよりも震えていた。
泣きたくない。
泣いてしまったら、涙と一緒に彼の姿まで手からこぼれてしまいそうだったから。
「やっぱり……龍之介さんってすごいですね! だってほら、一人の女の子の気持ちを動かす料理を作ったんですもん! うん! ほんと、すごい!」
笑おうとした分だけ声が歪んだ。
それでも必死に言葉をつなぐ。
「だから、もう……。じゅうぶん嬉しいです。これ以上は、聞かなくても……」
彼が記憶を語るごとに、少しずつぬくもりが薄れていく。
想いと一緒に、自分自身を昇華しているみたいに思えてしまう。
このまま聴き続けていたらどうなってしまうのかなんて──考えたくもない。
うつむいた私の頬に、龍之介さんの手がそっと触れた。
「たぶんこれが最後だから、聞いてほしい」
そんなふうに言われて、嫌なんて言えるはずない。
私はただ黙って頷くしかなかった。
もう止められないんだって、そんなの認めなくなかったけれど。
心の片隅では、「聞かなきゃいけない」「受け止めなきゃいけない」ってわかっていたのかもしれない。
「俺はずっと、あのときの笑顔に会いたかったんだ。それだけを願っていたから……死後、ここに留まったんだろう」
龍之介さんは静かに言葉を重ねる。
やさしくて懐かしむような声色は、もう遠くに行きかけている気がした。
「可笑しいよな。お前と再会したときには、その理由だけ……すっかり忘れてたんだ」
龍之介さんは呆れたように笑った。
私もつられるように笑おうとしたけれど、うまく笑えてなかったと思う。
いま私はどんな顔でこの話を聞いているのか、それは自分でもわからなかった。
「あの日、人生で初めて人に心から『美味しい』って言われたんだ。なあ陽奈、お前が笑って言ってくれたあの『美味しい』で、俺は……生きてる意味を見つけたんだよ」
──生きてる意味。
その言葉が胸の奥底にまで響いた。
絶望していた彼の人生が大きく動き出した瞬間。
それが、あのとき食べたビーフシチューだったんだ。
「死んだ人間に、生きる意味なんていらないもんな。だから、その記憶だけ抜け落ちてたのかもしれない」
龍之介さんがこの店に残り続けた理由。
怨念でも執念でもなくて──ただひとつ、笑顔に会いたいという未練だった。
「お前の笑顔が好きだ。素直なところも、泣き虫なところも、料理にひたむきなところも、全部」
そして少しだけ間を置いて、彼は最後にこう言った。
「ずっと、好きだったよ」
聞きたかった言葉。
「いつか」とはぐらかされた彼の気持ちが、やっと言葉で届いた。
「それ……いま、言いますか」
「他にいつ言う?」
「……ほんと、ずるい人ですね」
「だろ」
いつもみたいに軽く笑い合う。
でも、もう──この「いつも」は二度とこない。
涙をこらえるのも、もう限界だった。
ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。
何度も瞬きしても、止まりそうにない。
龍之介さんがそっと手を伸ばして私の涙をぬぐってくれた。
そのぬくもりすら、少しずつ薄れていく。
「ひとつだけ……わがまま言ってもいいか?」
「……はい。龍之介さんのわがままなら、なんでも」
震える声で、それでもなんとか気丈に振る舞った。
「陽奈には、笑っていてほしいんだ」
そう言った彼の姿は、幻みたいにぼやけていた。
「行かないで」
「待って」
「もう少しだけ」
そんな言葉はもう意味がないし、届かない。
私にできるのは──たったひとつ。
彼の未練を、ちゃんと終わらせてあげることだけだった。
「大好きです。ずっと」
涙は止まらなかったけれど、ちゃんと、心から笑って言えた気がした。
龍之介さんは微笑んで、やさしいキスをしてくれた。
ぬくもりも、あたたかさも、柔らかさも、確かに全部あったのに。
キスの余韻だけを残して──彼の姿は消えた。
それは、長い夢が終わったみたいに。
ひとつの物語が閉じられたみたいに。
私の腕の中には、もう何もない。
「陽奈、ありがとう」
ただ耳の奥にだけ、彼の最後の声が残っていた。




