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第19話 誕生日の夜に


「それよりお前、酔ってるだろ?」


 頬杖をついた龍之介さんが苦笑混じりに言った。


「そんなことっ! ……あるような」


 声がしぼんでいく。

 実際、自覚はあった。

 だって、いくら私でも勢いに任せてラジオを買ったりなんてしない。

 買うならもっと慎重に、あれこれ吟味してから買う。

 龍之介さんに送るものなら尚更だ。

 それに、さっきから気持ちも声もやけに昂ぶっていた。


 ──これが『酔う』っていう感覚かあ。


 楽しくて、心地よくて、何もかもがきらきらしたフィルターを通したように見えて。

 昴のふにゃふにゃとした言動に「子どもっぽい」なんて思ったけれど、なんとなくそうなる理由がわかった。


「今が一番楽しいときだろうな。それ以上飲んだら、しんどくなる」


 経験者の余裕を感じさせる口調。

 

「そう、なんですか」


 ぼんやりと返事をしながらグラスに目を落とすと、注がれていたレモンサワーはすでに飲み干されていた。

 カシオレの半分くらいの量しか飲んでいないはずなのに、火照りも、ふわふわとした感覚も、全然それ以上だった。


 ──アルコールのせいだけじゃない。

 

 彼と過ごす時間に、一番酔いしれているのかもしれない。

 なんて、自分で言っててちょっと恥ずかしくなるようなことを考えていた。

 

 龍之介さんに酔っていると見抜かれて、体から力が抜け切ったとき。

 

「ふぁぁ……」


 意図せず、勝手にあくびが出た。

 パッと急いで両手で口を隠す。

 

「眠いか?」

「眠いはずは、ないんですけど……」


 龍之介さんと一緒にいるのにそんなことありえない。

 そう思うのに、まぶたはじんわり重たい。


「朝から働いて、腹いっぱい食べて、そこに初めての酒が入ったら……まあ、眠くなるのは当然だな」

 

 笑いながら優しく言われてしまったら、もう言い訳もできなくなる。

 

「少し寝ていけ。起こしてやるから」

「……でも」


 寝たくない。

 龍之介さんとまだ話していたい。

 名残惜しさと、遠慮と、ほんの少しの甘えたい気持ちが交差する。

 

「そんな状態で一人で帰るほうが危ないし、心配するだろ」


 当たり前のように続けられた言葉。

 強引、なだけじゃなくて。


 ──ずるいなあ……。

 

 本当にもうなにも返せなくなってしまう。


「終電まで、あと三十分くらいか。バックヤードを使っていけ」


 立ち上がった龍之介さんがそばに来て、すっと右手を差し伸べてくれた。

 大きくて、頼りがいがあって、やさしい手。


「……はい」


 その手のぬくもりを私はもう知っている。

 だから──断れるはずなんて、なかった。

 

 龍之介さんに手を引かれて、店の奥にあるバックヤードへ向かう。

 心臓がバクバクしていて、触れている指先から鼓動が伝わるんじゃないかと心配になるくらいだ。

 

「ほら、ここに座れ」


 バックヤードの奥、壁際には一畳ほどのスペースに細長いレザーソファがちょこんと置かれている。

 叔父と生前の龍之介さんがアイドルタイム中に休憩するための、ちょっとした仮眠スペースだと聞いた。


「ありがとうございます」


 ふらつく足取りのまま、私はソファに腰を下ろした。

 使いこまれたレザーソファに体が沈んでいく。

 そのまま夢の中まで落ちてしまいそうだった。


「改めて聞くが、気持ち悪くはないんだよな?」

「ぜんぜんです。なんか、ふわふわ〜ってしてます」


 自分でも間抜けな返事だと思ったけれど、龍之介さんは「そうか」と安心したように頷いた。


「ちゃんと起こすからな。あとで水も持ってくる。とりあえず、横になっとけ」


 そう言って、龍之介さんは静かにドアを閉めていった。

 ちょっとだけ寂しさを感じながらソファのほうへと体を傾ける。

 重力に引っ張られるみたいに、すとんと横になった。

 

 ──さっきまで龍之介さんがいた場所……。


 誕生日会の間、彼はここで本を読んでいたのだろうか。

 それか、ただ寝転んでいただけだったのかもしれない。

 でも、そんなことは別になんでもよくて。


 同じ場所にいる。

 それだけのことが、宙に舞い上がってしまいそうなほど嬉しかった。


 ──ああ……眠い、かも……。


 幸福感に包まれたまま、私はゆっくりと目を閉じた──。



 朝の眩しい光が差し込む店内。

 見慣れた厨房に、彼がいた。


「龍之介さん」


 声をかけると振り返ってくれた。

 朝なのに珍しく髪を結んでいない。

 肩にかかっている黒髪が光を受けてやわらかく揺れている。


「どうした、変な顔して」

「変な顔……してます?」

「してる」


 くすりと笑う龍之介さん。

 気恥ずかしくなって「ほんとですか?」と頬を両手で押さえると。

 

「おはよう、陽奈」


 やさしく名前を呼ばれた。

 いつもは「お前」なのに、ちゃんと「陽奈」って呼んでくれた。


 ──はあ……うれしいなあ。


 なにもかもが特別に思える朝。

 目に映る景色はぜんぶ、宝石を散りばめたようにキラキラ輝いている。

 だから魔法にかかったみたいに自然と声がこぼれた。


「……龍之介さん、好きです」


 言った瞬間、我に返った。

 

 ──あ、言っちゃった……!


 体が急激に熱くなる。

 龍之介さんの反応が怖くて、顔が見れない。


「陽奈」


 また名前を呼ばれて、恐る恐るちらりと視線を向ける。

 なんて返されるのだろうとドキドキしていた、けれど。

 違和感があった。

 

「      」


 口は動いているのに、何を言っているのかがわからない。

 すべての音が届いてこない。

 キラキラしていた景色は、炭酸が弾けるみたいに粒子となって消えていく。

 

『……起きろ』


 誰かの声が、遠くから響いた。


『陽奈、起きろ』


 それは龍之介さんの声だった。

 でも、目の前の彼じゃない。

 もっと現実的で、はっきりしている声。


『陽奈』


 繰り返される名前に、意識が少しずつ引きつけられて──。


 

「……ぅ、ん」


 まぶたがゆっくりと持ち上がる。

 ぼやけた視界の先にあったのは、さっき龍之介さんに連れてきてもらったバックヤード。


「よく寝てたな。そろそろ終電の時間だぞ」


 声のするほうへと顔を向けると、しゃがんだ姿勢の龍之介さんがいた。

 手には水の入ったグラスを持っている。


「……あ、起こしてくれて、ありがとうございます」


 むくりとソファから上半身を起こした。


「ほら、水」

「すみません、いただきます」


 グラスを受け取って一口含む。

 冷たい水が喉をすべり落ちて、渇いた体を巡るように全身へ染み込んでいく。

 あっという間に飲み干したころには、目も覚めて頭も冴えていた。


 ──夢を見ていた気がする……。


 胸に残っているのは、あたたかな余韻。

 それと──何かとても大切なことを口にしたような、そわそわする感覚。

 でも、どんな夢だったかは思い出せなかった。


「大丈夫そうか?」

「はい。ちょっとだけスッキリしたような気がします」


 ひと息ついて、私は気になっていることを口にする。


「あの……。私、何か言ってませんでした?」


 顔を上げて訊ねると、龍之介さんはぴたりと動きを止めた。

 一拍の間、ほんのわずかに目を伏せる。


「……いや、とくには」


 落ち着いた声でいつも通りに答えてくれた。

 だけどその一言には、なにかを言いかけてやめたような、そんな間があった。


 ──あれ、なんか変なこと言ってたのかな……。


 頭の片隅で疑問が引っかかりながらも、龍之介さんの声が現実へと引き戻してくれる。


「ほら、間に合わなくなるぞ」

「わ、そうでした!」

 

 慌てて立ち上がって、バックヤードを出た。

 帰り際、使っていたテーブルに目をやるとすっかり片付いていた。


「すみません。片付けまでさせちゃって」

「気にするな、缶とグラスだけだ」

「ありがとうございます」


 会話の合間に、あの夢の断片がふわっと浮かびそうになる。

 けれど帰りの時間が迫っていて、それはすぐに溶けていった。


「龍之介さん、今日はほんとうにありがとうございました。最高の誕生日になりました」

「ならよかった。ゆっくり休めよ」

「はい」


 言葉にできたのは、そのひと言だけ。

 本当はもっと言いたいことがたくさんある。

 

 帰りたくない。

 もっと一緒にいたい。

 終わってほしくない。

 

 でもそれは、わがまますぎるし、彼を困らせるだけ。

 だから、もうそれ以上は何も言えそうになかった。


「おやすみなさい」


 そう告げて、帰ろうと扉に手をかけたとき。

 背中越しに小さな声が追いかけてきた。


「ラジオ……ありがとう」


 私は顔を上げて、勢いよく振り返る。

 

「……はいっ!」


 声が少し上ずった。

 嬉しくて、照れくさくて、胸がいっぱいで。


 照れて笑う龍之介さんの顔──、一生忘れないと思った。

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