第13話 八月二十四日
八月二十四日。
今日も燦々とした朝日が降り注いでいる。
まだまだ夏は終わりそうにないけれど、足取りはいつもより軽かった。
二十歳の誕生日。
特別な一日が始まったからだ。
定時に店へ向かい、私は扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
龍之介さんは厨房で仕込みの準備をしていた。
いつもと変わらない声と表情、そして仕草。
顔を上げて挨拶をした龍之介さんは、またすぐに視線を手元へと戻した。
──あ、『おめでとう』って言われなかった……。
どこかで龍之介さんが祝ってくれると期待していた自分がいて、胸がきゅうっと締め付けられる。
──でも、そうだよね。
私はすぐに思い直した。
だって、それが龍之介さんらしいと思ったから。
特別なことは言わない。
それでも彼は隣にいてくれる。
同じ時間を一緒に過ごせる。
──それだけで、じゅうぶんだよ。
ぴしっとサロンを巻いて、気合いを入れ直す。
「龍之介さん! 今日も頑張りますからね!」
私はいつもより明るい声で言った。
⁂
ランチ営業を終え、静かになった店内。
カウンターでひと息つきながら、私はちらりと時計を見る。
──もうすぐ来るころかな。
十七時過ぎ。
あと二十分もしないうちに、楓花と昴が誕生日会のために店に来てくれる。
嬉しさと期待が入り混じって、心がそわそわし出す。
龍之介さんはというと、厨房で料理を作ってくれていた。
誕生日会に添えるためのちょっとした一品らしい。
まさか用意してくれるなんて思わなかったから、最初は遠慮してしまった。
だけど「せっかくの誕生日なんだ」と軽く言ってくれ、そのまま龍之介さんは火に向かった。
その横顔はとても真剣で。
黙々と、けれど丁寧に仕上げていく姿に私は見惚れるしかなかった。
──私のために作ってくれてるんだ。
賄いとは違う、特別な日の料理。
出来上がりを待っている私は、クリスマスの朝を迎えた子どもみたいに落ち着きがなかったかもしれない。
「できたぞ」
龍之介さんが目の前にお皿を置いた。
立ちのぼる湯気と、鼻と食欲をくすぐるご馳走の香りがふわりと広がる。
置かれたのは熱々のラザニアと、小ぶりなハンバーグが三つ。
ラザニアはこんがりと焼き色のついたチーズがとろりととろけている。
ミートソースのほろ甘な香りと重なるように漂う、香ばしいチーズの匂い。
思わず喉をごくりと鳴ならした。
ハンバーグも、店で出しているランチメニューのものより少しだけ丸くて可愛らしい。
その横には、艶やかな人参のグラッセと鮮やかなブロッコリーが料理雑誌の表紙のように綺麗に盛り付けられていた。
ぱつんと膨らんでいるハンバーグの中には滴る肉汁が閉じ込められているに違いない。
「わあ、すごい! 美味しそう!」
見事なまでの彩りと香りを前にして、私は無意識のうちに小さく拍手していた。
感動と嬉しさが抑えきれなかった。
「……これ、ほんとに私のために?」
わかっていても口に出してしまう。
それくらい胸がいっぱいだったのだ。
「他に誰がいるんだ」
あっさりと返されて、ふわっと顔が熱くなる。
深い意味なんてないのかもしれない。
それでも、彼の何気ないひと言はいつだって私の心を大きく揺らす。
「でも、友達の分まで作ってくれて、ほんとにありがとうございます」
「一人分作るのも三人分作るのも、そう変わらない」
龍之介さんからしたら本当に変わらないんだろうけれど、彼なりの思いやりが伝わってくる。
「どうせ、向こうも何かしら買ってくるんだろう。だから量は少なめにしておいた」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
気がつけば私は何度も「ありがとうございます」を繰り返し言っていた。
それでもまだ言い足りないような気がする。
──だって、嬉しいんだもん。
顔面いっぱいにニヤけているのが自分でもわかった。
「楽しめよ」
龍之介さんはさらりと言って髪をほどいた。
仕事を終えたあとの、いつもの仕草。
厨房にはもう洗い物ひとつ残っていない。
その手際のよさに、私はまた感動してしまった。
「龍之介さん、誕生日会中もここにいますか?」
気になって聞いてみる。
「いや、俺がいたらお前の気が散るだろう。バックヤードにいる」
彼はわずかに肩をすくめて、すぐにそう返してきた。
──そっか。
ちょっとだけ残念だなと思ってしまった。
雰囲気だけでも一緒に楽しめたらいいな、なんて期待していたから。
でも、確かに龍之介さんの言う通りなのかもしれない。
誰もいない空間に視線を配っている私を、楓花と昴は不審に思うだろう。
龍之介さんだって、赤の他人とのやり取りをずっと見ているだけなんて退屈だ。
──うん、そうだよね。
誕生日なんて無関心だと思っていた龍之介さんが、ご馳走を用意してくれた。
楓花と昴だって、せっかくの夏休みの合間にわざわざ来てくれる。
──ちゃんと楽しまきゃ。
「ありがとうございます。楽しみます!」
ぺこりと頭を下げ龍之介さんと顔を見合わせる。
やさしく口角をあげて微笑んでいてくれた。
そのとき、店の扉が開く。
賑やかな足音とともに、笑い声と元気な声が響いた。
「お疲れー! それと、お誕生日おめでとう!」
先に声を上げたのは楓花だった。
右手には可愛らしい紙袋を下げていて、見るからにプレゼントらしい雰囲気をかもし出している。
その後ろから昴の弾んだ声が続く。
「おめでとう! 楽しもうぜ、今日の主役!」
彼の手にはパンパンに詰まったビニール袋と、近所にあるピザ屋の袋。
たぶんビニール袋のほうには、お酒が入っているんだろう。
「二人とも、来てくれてありがとう!」
私は笑顔で迎え、空いている席を指差した。
「荷物は適当にカウンターとか使って。テーブルは、ここでいいかな?」
二人は頷きながら荷物を置き始める。
「へえー、思ったより小ぢんまりしてるんだな。いいじゃん」
「清潔感あるしね。地元民に愛されてるお店って感じ」
二人はきょろきょろと店内を見回しながら、それぞれの第一印象を口にした。
おおむね、私の第一印象と変わりない。
それが少し可笑しくて、誇らしかった。
「でしょ。めっちゃ混むってほどでもないし、常連さんばっかりだし、けっこう働きやすいんだよね」
そんなふうにおしゃべりをしながら、私もグラスや皿をテーブルに並べていった。
ふと何気なく厨房に目をやる。
──あれ……。
さっきまでそこにいたはずの龍之介さんの姿が、もうどこにもなかった。
気配も音も、すっかり消えている。
私たちが楽しむ時間が来て、そっと身を引いたのだろう。
──やっぱり優しいな。
そんなふうに思いながら、私は龍之介さんが作ってくれた料理を見つめる。
あたたかな香りが今もそこに残っていた。




