第11話 やさしいあなたのことが
──龍之介さん……。
彼女の言葉がゆっくりと意味を帯びていく。
懐かしむような瞳、誰かを想う口調。
ぜんぶ、叔父のことじゃなかった。
彼女が好きになったのは、この店で今も私の隣に立っている──幽霊になってしまった龍之介さん。
自分の手がわずかに震えた。
生前の龍之介さんは、彼女とどんな時間を過ごしていたのだろう。
どんな話をして、どんな顔で、どんなふうに彼女のことを見ていたのだろう。
そして彼女とは、どんな関係だったんだろう──。
言葉にならない感情が、じわじわと広がっていく。
熱とも痛みとも違う、うまく言えない何か。
「あなた、龍之介さんの妹さん?」
ふいの問いかけられ、ハッと意識が目の前の女性に戻る。
「あ、いえ、違います」
私は大きく手を横に振った。
「そう。でも……手順っていうのかな。動き方が、なんか龍之介さんっぽいなって、思った」
女性はそう言って、にこりと笑う。
──龍之介さんっぽい……。
モヤモヤしていた気持ちの中から、嬉しさが顔を覗かせた。
彼と一緒に厨房に立って、彼の動きを真似して、何度も失敗して、それでも少しずつ覚えてきたこと。
それが今、誰かの目に「龍之介さんっぽい」と映った。
すごく嬉しかった。
まだちゃんと彼がいるんだって、そう思えたんだ。
彼女はグラスの水をひと口飲んで、言葉を続ける。
「私ね、一年くらい前に九州に転勤になったの。そのすぐあとだった。……彼が亡くなったって、連絡を受けたのは」
少しだけ女性の顔が陰った。
──好きな人の……死。
この女性はどんな思いでその知らせを聞いたのだろうか。
嬉しさから一転して、私はどう言葉を返せばいいのかわからなかった。
「今日はたまたま本社に用事があったから、その合間で来てみたんだけど。来て正解だったみたい」
そう言ってテーブルの上に視線を落とした。
「……ナポリタン、美味しかった。一瞬だけ、龍之介さんに……また会えたような気がしたわ」
眉をさげて微笑んだ女性の顔を見て、胸がぎゅっとなる。
やっぱり私はうまく返事ができそうにない。
それでも、なんとか言葉をしぼり出す。
「ありがとう、ございます」
ありきたりな言葉しか出てこなかった。
だけどそこには、たしかな気持ちがこもっていた。
「ごちそうさま」
女性は席を立ち、トートバッグを肩にかける。
背筋の伸びた立ち姿は、やっぱり仕事人っぽいなと思った。
レジにお代を置いて扉の前で一度足を止めると、くるりとこちらに振り返った。
「若いのに、大変だと思う。でも……」
彼女の視線が一瞬、私の後ろを見たような気がした。
「あなたなら、ちゃんとこの味を守っていける気がする。だから、頑張ってね。……龍之介さんも、きっと喜んでると思うから」
あたたかな声。
自分を認めてくれたようなやさしい声色が、心にじんわりと染み込んでいく。
「ありがとうございます。頑張ります」
私は扉の前で深く頭を下げて女性を見送った。
扉の閉まる音が誰もいない空間に落ちる。
閉店した店内は、いつも以上に静かに感じた。
「……龍之介さん。私、『龍之介さんっぽい』って言われましたよ」
思わず笑みがこぼれてしまった。
嬉しくて、誇らしい。
そんな気持ちが胸を駆け巡る。
「そうみたいだな」
隣にいる龍之介さんがふっと笑った。
その声は穏やかで、肯定してくれるような響きがした。
否定じゃない。
龍之介さんも、私のことを少しは認めてくれたのかもしれない。
そう思うだけで心があたたかくなる。
「龍之介さんは……たしかに、ここにいるんです」
私は手元を見下ろしながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「料理が繋いでくれてるっていうか……うまく言えないんですけど。とにかく、龍之介さんは、いるんです。ここに、ちゃんと」
言葉に熱がこもっていくのが自分でもわかった。
気づけば目頭もじんと熱くなっている。
「……なぜ泣く?」
龍之介さんはちょっと困ったような顔をしていた。
先日あれだけ泣いたばかりだし、また泣くなんて迷惑だよな、と頭の片隅で思ったけれど。
あのときの涙とは全然違った。
「嬉しくて……です」
涙の指先で拭きながら、私は小さく笑った。
「褒められたこととか、あの人が龍之介さんのこと、ちゃんと覚えててくれたこととか……そういうのが、ぜんぶ混ざったんです」
うまく言葉にできた気はしないけれど、龍之介さんにならきっと伝わっているはずだ。
顔を上げて、私は店内を見渡した。
誰もいないホールは、オープンしたら一気に賑やかになる。
厨房には火がかかって、包丁の音や水の流れる音が絶え間なく響く。
そしてその隣には、いつも龍之介さんがいてくれる。
いつの間にか、それが私の日常を色付けていた。
「……料理って、すごいですね。叔父さんや龍之介さんのレシピが、ちゃんと誰かの心に残ってて……」
しみじみと心から思った言葉。
常連さんもこの味を求めて通ってくれる。
「美味しい」という記憶は、味だけじゃなくて心にも残っていく。
それは作る側も食べた側も同じだと思った。
すると、隣からすぐに声が返ってくる。
「作ったのは、お前だ」
その一言に、私はハッと龍之介さんのほうへ顔を向けた。
彼はとても優しく笑っていた。
「レシピだけじゃ、料理にはならない。お前が手を動かして、心を込めたから、あの味ができたんだ」
──どうしてだろう。
どうしてこの人は、いつも私が欲しかった以上の言葉を返してくれるんだろう。
無愛想なのに、ふいに見せる笑顔はすごく優しくて。
不器用そうなのに、ひとつひとつの言葉は誠実で。
嘘がなくて、適当にあしらうでもなくて、そして──。
──ずるいくらいに、あたたかい。
無意識のうちに、また涙が頬を伝っていた。
「お前はよく泣くな」
呆れたような口調だったけれど、やっぱり私を気遣ってくれている温もりがある。
「私も、自分がこんなに涙もろいなんて思いませんでした」
もともと喜怒哀楽ははっきりしているほうだとは思う。
でも、こんなふうに感情があふれてどうしようもなくなるのは、きっとはじめてだった。
あはっと笑ってごまかした、そのとき。
ふわりと大きな手が私の頭にのった。
──あ……。
鼓動がどくん、と体の奥で鳴った。
彼が、私に触れてくれる。
たしかに、今、ここにいてくれる。
「それでいいんじゃないか」
目を細めて笑う龍之介さんの姿がにじんでいく。
料理だけじゃない。
私の全部をまるごと肯定してくれるような響きで、また涙がこぼれそうになった。
「……賄い、食べるだろ」
いつも通りの何気ない一言が、また私の胸をあたたかくする。
「はいっ……!」
こぼれそうになった涙を拭って、私は笑顔で返事をした。
⁂
「ごちそうさまでした」
賄いを食べ終えて、私はコトンとグラスを置いた。
一息つくと、嬉しさで忘れていた胸のざわめきが少しずつよみがえってきた。
──あの人とは、どんな関係だったんだろう……。
一度浮かんだ疑問は、気づけば感情ごとふくらんでいく。
落ち着かせようとしても、どうしても胸の奥がざわついて仕方なかった。
迷った末に、私は小さく息を吸って口を開く。
「あの、さっきの女性って……龍之介さんと、どういう関係だったんですか?」
思い切って聞いたけれど、内心はすごくドキドキしていた。
でも聞かずにはいられなかった。
「気になるのか?」
龍之介さんがこちらを見てくる。
図星をつかれてしまい、私は思わず目を伏せた。
「気になる……っていうか。綺麗な人だったし、かっこよかったし。龍之介さんも、そう思ってたんじゃないかなって……」
そこまで言って口をすぼめる。
──それに龍之介さんのこと、すごい想ってたみたいだし……。
その言葉だけは、喉につっかえて言えなかった。
龍之介さんほどの人なら、きっと他にも想いを寄せていた人がいるはず。
なんて考えると、どうしてか胸がきゅっと痛くなる。
だけど。
「言っていた通り、ただの常連だ。ビジネス的な関係もない。取材も断ったしな」
あっさりといつもの低い声でそう言って、龍之介さんは髪をほどく。
口元をゆるめて私を見つめるその視線に、嘘なんて一つもないように見えた。
──よかった……。
恋人じゃなかったんだ。
そう思ったら、自分でも驚くほど心が軽くなった。
──どうして『よかった』んだろう。
ただの同僚で、幽霊で。
それなのに私は、どうしてこんなに安心しているのだろう。
ちらりと目線を上げると龍之介さんと目が合った。
微笑んで、わずかに顔を傾げた彼の髪がさらりと揺れる。
髪をほどいた龍之介さんの姿を、きっとあの人は知らない。
私だけが知っている、仕事終わりの姿。
その『特別感』みたいなものが、じわじわと込み上げてくる。
──ああ……。なんか、わかったかも。
私は、この人に惹かれているんだ。
たぶん、どうしようもないほどに。