第10話 彼女もまた、魅せられた人
八月中旬。
朝から容赦のない日差しが照りつけて、セミの鳴き声があちこちから響いている。
「おはようございます」
店に入った私は、いつものように私は龍之介さんに挨拶をした。
「わあ……! 涼しーっ!」
店内に一歩入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
今日も龍之介さんが冷房を入れてくれていたのだろう。
「おはよう」
「今日もよろしくお願いします!」
自然と笑みがこぼれて、私たちは明るく言葉を交わした。
なんてことのない、ありふれたやりとり。
でもちょっとだけ前とは違う雰囲気がある。
あのクレーマーの一件があってから、少しだけ距離が縮まった気がしていた。
仕事仲間という認識からもう一歩踏み込んだ感じ。
ひとりの人としてちゃんと向き合えているような、そんな感覚がする。
そう思っているのは、きっと私だけかもしれないけれど。
「今日、今年いちばんの暑さらしいですよ。電車のモニターに書いてありました」
「たしかに、外は暑そうだもんな」
「こんに暑いと、お客さんもお店に来る気力ないですよね」
私は「あはは」と軽く笑ってみせる。
以前よりも自然に、龍之介さんと雑談を交わせるようになった。
少しずつ、だけど確かに私はこの空気に馴染んできている。
店に立つのは今日で十回目。
最初は何もかもが手探りで、頭も心もいっぱいいっぱいだった。
だけど今では、龍之介さんと並んで厨房に立つことにも慣れてきた。
危なっかしそうに見つめていた彼の視線も、どこか安心したように微笑む瞬間が増えてきた気がする。
「じゃあ、オープンします!」
午前十一時。
時間ちょうどに今日も店を開けた。
⁂
猛暑のせいか、龍之介さんと話していた通り客足は少なかった。
ラストオーダーの時間が近づいた店内はもう誰もおらず、ゆったりとした空気が流れている。
「今日はこのまま閉店だな」
「ですね」
龍之介さんと顔を見合わせて、小さく息を吐く。
ピークらしいピークを迎えることもなかった今日は、これまででいちばん穏やかな日だった。
そろそろ入り口を閉めようかと、扉に向かおうとしたとき。
「すみません、まだ大丈夫ですか?」
張りがあり、よく通る声とともに扉が開く。
入ってきたのは一人の女性だった。
ショートカットに大ぶりのピアス、黒のノースリーブに細身のデニム。
肩にかけたトートバッグからは、ノートや雑誌らしきものがのぞいている。
二十代後半くらいだろうか。
背が高く、その立ち姿からは洗練された雰囲気を感じた。
「あ、はい、まだ大丈夫です! こちらへどうぞ」
私は慌てて言いながらテーブル席へと案内する。
「ありがとう」
カツ、カツ、とヒールの音を響かせながら、彼女は迷いなく席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
そう言って水の入ったグラスをテーブルに置いた、すぐ。
「じゃあ、ナポリタンのランチセットをお願いするわ」
迷いのない声が返ってきた。
店に入る前からあらかじめ決めていたような、そんな速さだった。
「かしこまりました」
少し驚きながらも私は笑顔で承った。
フライパンを火にかけながら、ちらりと客席に目をやる。
女性はトートバッグからノートとペンを取り出して、何かの作業を始めた。
時折、厨房のほうを見回していたが、その視線は私を見るというよりも、どこかに想いを馳せているような眼差しだった。
──常連だった人なのかな?
そう思いながら調理を進める。
後ろでは、龍之介さんがいつもと変わらない様子で私を見守ってくれていた。
ナポリタンを丁寧に仕上げて、テーブルへと運ぶ。
「お待たせいたしました、ナポリタンです」
「ありがとう」
女性はノートを閉じながらテーブルの上の資料をさりげなくまとめはじめた。
ちらりと目に入ったページには、料理の写真や簡単なメモがびっしり書き込まれていた。
数分後。
「ごちそうさまでした」
テーブルから声がかかる。
この女性のハキハキとした口調にはどこか芯があった。
歩く姿や、ノートをまとめた仕草にも無駄がない。
──我が強い、って言ったら失礼かもしれないけど。
でも、自分をきちんと律している人なんだろう。
そんなふうに思った。
「ありがとうございます。先にお済みのお皿、下げちゃいますね」
私が皿に手を伸ばすと、女性がふと顔を上げた。
「ねえ、今はあなたがこのお店を仕切ってるの?」
「あ、はい。期間限定ですけど、今は私が」
「そう」
女性は微笑んで、懐かしむように目を細めた。
「私ね、グルメライターっていうのかな。飲食店を取材をする記者なんだけど、三年くらい前にこの店にアポイントを取ったことがあるんだ」
「そうなんですか!?」
思わず声が大きくなる。
叔父にそんな過去があったなんて初耳だ。
──叔父さんも、隅に置けないなあ。
取材の話が来ていたなんて、やっぱりこの店の味は本物なんだと嬉しくなる。
ちょっとだけ自分のことのように誇らく思った。
「ええ。最初は、たまたま通りがかってふらっと入っただけだった。だけどすごく美味しくて、『ぜひ取材させてほしい』ってお願いしたの。でも、断られちゃった」
「……断ったんですか?」
意外だった。
やさしい叔父なら、そういう申し出も喜んで引き受けると思っていたのに。
「うん。『取材も掲載も興味ない』って、きっぱり言われたわ。ほんと、清々しいくらいきっぱり。でも、その姿勢に私は惹かれたの。職人ってこういう人なんだな、って」
その人は微笑みながら、過去の記憶を辿るように言葉を紡ぐ。
「私と歳が変わらないくらいなのに、すごいプロ意識と料理の腕だなって感心しちゃって」
わずかに首を傾げた彼女の大ぶりピアスが、しゃらんと揺れた。
──え……。
その言葉に小さな違和感が浮かぶ。
──歳が、変わらないくらい……?
叔父と同じ歳くらい、なはずがない。
どう見ても二十代後半くらいで、叔父とはひとまわり以上離れている。
ならいったい、誰のことを言っているのか。
胸の奥で、ざわっと何かがかすめていく。
「取材関係なしに通っちゃった。私、彼の作る料理に惚れちゃってさ」
少しずつ、確実に、胸のざわめきが大きくなる。
そして、決定的な言葉が続いた。
「まあ、惚れたのは龍之介さんが作る料理だけじゃなかったんだけどね」
その名前を聞いた瞬間、胸のざわめきは形を持って心の中を大きく揺らした。
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