第9話 その先の感情へ
ランチ営業が終わりに近づき、店内も静けさを取り戻してきた。
残っているお客さんはカウンターの向こう、テーブル席に座っている五十代くらいの一人の女性。
とっくに食事を終えているのに、彼女はずっと本を読んでいて席を立とうとしない。
私は洗い場から壁にかかった時計を見上げた。
──あと十分で閉店かあ……。
そろそろ声をかける時間かもしれない。
手を拭いて、女性のいる席に近寄った。
「お客様、すみません……。もうすぐ閉店のお時間でして、お会計のご準備を……」
わずかに眉を下げて、声のトーンを柔らかくする。
そして軽く腰を折り曲げた。
似たような接客は以前のバイトで何度も経験してきた。
嫌な顔をされても、言うべきことは言わなきゃいけない。
だからこそ角が立たないように細心の注意を払う。
自分で言うのもなんだが、こういう接客にもそれなりに慣れているつもりだった。
「やっと来た」
本から目を上げた女性が意味ありげに笑った。
「……えと? なにか?」
予想外の反応に私は思わずきょとんとしてしまう。
あまり経験したことのないパターンで、少し素が出てしまっていた。
女性は笑みを浮かべたまま、本をパタンと閉じる。
「ずっと待ってたの。あなた一人で忙しそうだったじゃない? だから閉店時間になるまで、気を遣ってあげたのよ」
ふふんと鼻で笑う声が聞こえてきそうなくらい高圧的な物言い。
私はすぐに察した。
──あ、これは……。クレームを言うために、わざと残ってたんだ。
「……なにか、不備がありましたでしょうか?」
すっと接客モードに切り替えて、先ほどよりも申し訳なさそうに顔を歪ませてみせる。
「不備っていうか。あなた、私に何を出したか覚えてる?」
「えっと、ハンバーグのランチセットを……」
「そう、そのハンバーグ。全然美味しくなかったわ」
笑いながら言っているが、口調には一切の遠慮がない。
「頑張ってるのはわかるのよ? でもソースの味が濃すぎて、喉が焼けそうだったわ。残すのはもったいないから食べたけど、見直したほうがいいと思う」
「……お言葉ですが。この味は叔父が昔から守ってきた味で……」
カッとなる気持ちを押し殺して、私はできる限り丁寧に述べた。
心臓がキリキリと捻れるような感覚。
この味には叔父の想いが詰まっているのに。
それを簡単に否定された気がして、目頭がじわりと熱くなる。
だけど、私が反論したことが気に食わなかったのだろうか。
目の前の女性はため息を吐くように嘲笑した。
「じゃあ、あなたの腕が悪いのかも」
吐き捨てられたような言葉が、どんな鋭利な刃物よりも鋭く心臓に突き刺さった。
「……お口に合わなかったのなら、申し訳ありません」
苦しいながらも、なんとか言葉を返す。
本当は思いっきり言い返したい。
悔しくてたまらない。
だけど私は店員で、この店を守っていく義務がある。
だから、今はただ頭を下げるしかなかった。
「まあ、若いのに頑張ってるとは思うわ。でも、若いから許されてるってこともあるの。これからは、せいぜい精進してちょうだいね」
「……はい。ご意見ありがとうございます」
深々と頭を下げると女性は満足げにカバンを肩にかけ、ようやく席を立った。
そして「お代、置いていくわね」と言って、憎たらしいくらいに颯爽と出口へと向かう。
パタン、と扉が閉まる音が店内に虚しく響いた。
「……なんなの、さっきの客!」
見送ってから数秒後、私はすべての感情を爆発させるように叫んだ。
「絵に描いたようなクレーマーだったな」
いつの間にか隣に来ていた龍之介さんが、呆れたように小さくため息をついた。
口調は淡々としていたけれど、その声色には慰めと同意が混ざっていて私の味方をしてくれている感じがする。
「ほんとですよ! 人が丹精込めて作った料理をなんだと……!」
怒りを込めて言い放ったものの、声の震えは怒りからくるものではなかった。
胸の奥ではまだキリキリと痛みが続いている。
喉には嫌な感情がべったりと張り付いたような異物感があった。
「ああいう客は一定数いる。誰かを下に見ていないと自分を保てない人間なんだろう。気にしなくていい」
落ち着いた声がぽつりと降りてきた。
慰めの言葉は現実的だけど、彼らしい、さりげない慰め。
「それよりも……よく泣かなかったな」
龍之介さんは一拍だけ置いてから、わずかに眉を下げた。
「泣いたらもっと責めてきますから。ああいうタイプの客は……」
本当はずっとこらえていた。
目頭は痛いほど熱くて、あの場で泣いてしまいたい気持ちをなんとか押しとどめていた。
泣かなかったのは意地と、ちょっとの反抗のようなもの。
──だけど……。
私はぎゅっと強く拳を握った。
「ほんとは……悔しい」
口に出した言葉には自分でも驚くほど感情が乗っていた。
「叔父さんの味が貶されたことも……。だけど、『腕が悪い』なんて……」
そこまで言ったところで喉が詰まった。
呼吸が浅くなって、視界はじわりとにじんでいく。
龍之介さんの前で泣いたら迷惑をかけてしまうだけなのに。
どうしても、その先を止められなかった。
「そんなの……私が一番、わかってるよ……」
最後の一言を絞り出した瞬間、ずっとこらえていた涙が頬を伝った。
「泣きやめ」と思っても、一度流れてしまった涙は全然止まらない。
止まれって思えば思うほど、とめどなくあふれてくる。
「……ごめんなさい。みっともないですよね……」
言葉を探すように、私はやっとの思いで口にした。
だけど、その言葉の返事はなくて。
──ごめんなさい……。
心の中でもう一度呟いたとき、彼の片腕が私の肩を引き寄せた。
胸元に顔が押しつけられて一瞬息が止まる。
驚いて顔を上げようとすると、その腕にほんの少しだけ力がこもった。
「……あっ、あの……!?」
そして戸惑い混じりに言いかけた私の耳元に、囁くような声が落ちた。
「気が済むまで、泣けばいい」
彼の一言が、私の中で張りつめていた何かをぷつんと切った。
頑張らなきゃ、気丈に振る舞わなきゃ、ちゃんとしなきゃ。
そんなふうに自分に言い聞かせて、無意識のうちに押し込めていた感情が一気にあふれ出してくる。
もう抑えられなかった。
「……っ、うぅ……」
嗚咽がもれたと同時に、こわばっていた体から力が抜けた。
そのまま彼の胸元にしがみつくように寄りかかる。
どうしようもないほど悔しくて、悲しくて、苦しくて。
気づいたら、私は大きな声をあげて泣いていた。
⁂
「……すみません、泣きすぎました」
たくさん泣いて、気持ちが少し落ち着いてきたころ。
私はようやく彼の胸元からそっと体を離した。
「……あ、ごめんなさい、服まで汚しちゃって……」
涙を拭いながら見下ろすと、龍之介さんのコックコートには涙の跡が残っていた。
恥ずかしさと申し訳なさでうつむいた私に、彼は小さく首を振る。
「気にするな。どうせ幽霊だ」
冗談めかして言って、ふっと微笑んだ。
──こんなに優しい人、初めてかも。
無愛想で、ちょっと冷たいように見えるのに。
大事なところでは、ちゃんと寄り添ってくれる。
静かに抱きとめてくれる。
──幽霊だって、わかってるのに……。
彼を思うと胸があたたかくなる。
どうしてこんなふうに、ときめいてしまうんだろう。
龍之介さんの存在が、今までとは違う意味で大きくなった気がした。