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第九話『夜の水面に映る影』

 夜の空に、警告灯のような赤い光がゆらめいていた。

 水面にそれが映ると、まるで血のような色になる。風はなく、貯水池は静かだった。水の表面に一筋の光が差し込むたび、僕の皿はほんの少しだけ冷たくなった。


 僕は、水の中にいた。

 水底にうずくまり、葦の根に絡まりながら、音を聞いていた。パシャ……パシャ……と、遠くで人の足音。水面の揺れ。微かな話し声。犬の鳴き声。


 静かに、だが確実に、何かが近づいていた。


 何日目だろう。いや、何夜目だろう。僕がこの池で暮らすようになってから、もう時間の感覚はとうに失われていた。けれど、今夜は違った。


 空がざわついていた。いや、正確には、上の世界の空気がざわついていた。


 ぴかぴかと回る青と赤の光。水面に映るそれを見て、僕は初めて「これは警察の光だ」と気づいた。あの夜、黒沢の家の玄関で一度だけ見た光景。それが、池にまで届いていた。


 水中で呼吸する。

 僕の肺はもう水に慣れていて、深く、長く吸っても苦しくはなかった。皮膚も柔らかく、滑らかに変わり、目は暗闇でも水の濁りを読み取ることができる。


 人間ではない。

 僕は、もう人ではない。


 それでも、「上の世界」で起きていることに耳をすませるのをやめられなかった。

 水の中から、そっと顔だけを出した。


 光がきらきらと僕の皿に反射した。誰にも見られないように、植物の陰に身を隠しながら、水面に浮かぶ景色を見つめた。


 遠く、岸辺に人がいた。

 懐中電灯を持ち、なにかを探しているようだった。


 僕は、ただじっと見ていた。

 水中の影として、気配を消し、息を殺しながら。


 皿が水を吸って、また冷たくなる。

 その冷たさが、僕の中のなにかを静かに呼び覚ました。


 今夜、なにかが始まる――そんな予感がしていた。


 その声は、水を伝って染み込んできた。

 「カッパ、なんだってさ。テレビで言ってた」

 男の声。しわがれた中年のもの。冗談まじりの、しかしどこか気味悪さを含んだ響きだった。


 「やだわぁ、ほんとだったら怖いじゃない」

 女の声。神経質そうなトーン。足音と一緒に、二人の影が池の近くを歩いていた。


 散歩だろう。犬の首輪がチャリチャリと鳴る音も、僕にははっきりと聞こえていた。


 「整形外科医がバラバラにされてたってよ。しかも、噛みちぎられたあとがあったって……」

 「やめてよ、変なこと言わないで」


 それは、僕が“あの日”にやったこと。

 思い出そうとすると、頭がぬるっとする。皿の内側で、脳が重く粘るように疼く。


 “河童の犯行”――そう言われていた。


 僕は水底から顔を出した。水面から耳だけ出して、言葉を拾う。

 足音が池の縁をなぞるたび、皿がざわめいた。


 「ここ、この池も怪しいんだって。目撃情報があったって、ワイドショーで言ってた」


 くすっ、と女の笑い声。

 「やだ、うちの近くじゃん。カッパに食べられたくないよ、私」


 笑いながら通り過ぎていく二人の影。懐中電灯の光が一瞬、僕の皿をかすめた。


 けれど、彼らは僕に気づかない。

 誰も、本当に“見る”ことができない。


 心がひりついた。

 名前を呼ばれる、ということ。

 カッパ――僕の、今の“かたち”の名前。

 それは、世界が僕を認識し始めた証だ。


 気配が遠ざかっていく。

 けれど、水面に残った波紋のように、あの言葉だけが、僕の皿に残っていた。


 ――カッパ。


 僕は、自分がもう「涼介」ではないことを、はっきりと悟った。


 夜の貯水池は静まり返っていた。

 だがその静けさは、どこか不穏で、息をひそめるような緊張感を孕んでいた。


 風が少しだけ出てきた。水面に細かなさざ波が立ち、ぬめりのある僕の肌を優しく撫でていく。

 水底に身を潜めながら、僕は水越しに岸を見上げていた。


 ──あの夫婦が、まだいた。


 街灯の届かない暗がりで、懐中電灯の光がゆらゆらと揺れている。

 彼らの飼い犬は落ち着きなくあたりを嗅ぎ回っていたが、次の瞬間、ぴたりと足を止めた。


「ワンッ!」


 鋭く、空気を裂くような吠え声が池に反響した。

 僕は反射的に、首を引っ込める。


(見られたか?)


 鼓動が速くなる。だが、遅かったかもしれない。

 夫婦の動きが止まり、耳を澄ますように水辺を見つめていた。


「なぁ……今、水の中、動いたか?」


「やだ……マジでいるんじゃないの、カッパ……テレビでやってたじゃん、ここ……」


 女の声はひそめられていたが、明らかに震えていた。

 男は懐中電灯を握り直し、光を水面に向けた。

 その光が、まっすぐ僕の方に射してくる。


(来るな……来るな……)


 僕は水草の陰に身を沈めた。

 水面越しに見える光の粒が、わずかに皿の表面で弾けた。

 息を止め、まばたきすら忘れた。


「な、なんか……光、反射したよな?」

「皿? いや、違……ねえ、早く帰ろうよ、怖いって……」


 懐中電灯の光は泳ぐように揺れ、岸辺の影を長く引いた。

 女が男の腕を掴む気配がした。

 犬が再び低く唸り、じっとこちらを睨んでいた。


「……なあ、帰ろう。通報とか、後にしよう」

「うん……もう、帰ろ。犬も怖がってる」


 その声に、犬がくん、と鼻を鳴らした。


 僕は、その光景を水の奥から見つめていた。

 あの懐中電灯の光が、皿に反射したこと。

 それに気づいた彼らの目が、一瞬だけ怯えに染まったこと。


(もう……僕は、人間には見えない)


 皿の上をなぞるように、指を滑らせた。

 ひんやりとした感触が、頭の奥にまで響いてくる。


 彼らは去っていった。

 岸辺の足音が遠ざかり、犬の足音も消えていく。


 静けさが戻った。

 夜の水面が、僕を抱くように広がっていた。


(人間は……噂話で怪物を作る)

(でも、本当の怪物は……声に耳を傾けない)


 僕は、水底へとゆっくり沈んでいった。

 光が消えても、皿の冷たさだけが、僕の存在を確かめるように残っていた。


 昼間の貯水池は、夜とはまるで違う顔をしている。

 水面は陽の光を反射してまぶしく、銀色の波がきらきらと踊るように揺れていた。風は涼しく、草むらからは蝉の声が鳴き、夏の匂いが立ち込める。


 けれど、その明るさの裏に潜む空気は、どこか異質だった。


 人の気配が――異常に多い。


 岸辺には見慣れない人影がちらほら。カジュアルな服を着た若者がスマートフォンを掲げて池を撮影している。サングラスをかけた男たちが、何かの機材を担いで歩いている。子どもたちが指をさして騒ぎ、噂話を交わす主婦たちが日傘の下で囁き合う。


「ねぇ、あれ見て。あの辺から出たんだって」

「ウソでしょ、でも先生殺されたって……ニュースでやってたじゃない」

「美容整形の先生よ。なんか、顔ぐちゃぐちゃだったって」


 僕は、水底の茂みに身を隠しながら、じっとその声を聞いていた。


 声が水面を通じて、ぐにゃりと歪んで耳に届く。その濁った響きは、まるで遠い夢の中で囁かれる言葉のようだった。


(……また、あれ……俺の、こと……?)


 思考がまとまらない。

 言葉のつながりが、時折、ちぎれてしまう。

 脳の中に浮かぶ言葉は、ひどく断片的で、まるで幼児の落書きのようだった。


「……カッパって……皿ついてるんでしょ?」

「SNSで見た! ほら、あれ……あの池の写真、写ってたんだって!」

「マジで!? 怖っ……」


 少年たちの騒ぐ声に、皿の奥で波紋が走った。

 水を湛えた僕の頭頂部に、ひとしずく冷たい感覚が広がっていく。


 皿が熱を帯びていた。

 いや、それは皿じゃない。

 僕の中に残った、かつて“人間だった”部分が、うずいているのだ。


「……先生」


 誰かがそう呟いた。


 その瞬間、僕の中で何かが確かに“起きた”。

 記憶の暗闇に沈んでいた“あの夜”が、赤い光とともに蘇った。

 皮膚を裂かれ、骨を削られ、神経を引きずり出されたあの時――

 黒沢の目が、僕を見下ろしていた光景が、目の裏に焼きつく。


 僕は水中で息を止めた。

 口から漏れた泡が、ぽつりと浮かぶ。


(……ひと、ばなし。やかましい……)


 ゆらゆらと揺れる水面の上で、人々の声が交差する。

 笑い声、恐怖のささやき、噂の連鎖。

 そのひとつひとつが、僕の存在に、重みと現実を与えていく。


 ――噂は、生き物だ。


 名前が口にされるたびに、その輪郭ははっきりしていく。


 それを、僕は知っていた。

 もうすっかり、知ってしまっていた。


 ゆっくりと、僕は目を閉じた。

 貯水池の底で、冷たい水に包まれながら――ただ、静かに、次の“音”を待っていた。


 夕暮れ時、空が茜色から群青へと染まっていく。

 その空の色が水面にゆらゆらと映り込み、まるで池が空を飲み込もうとしているようだった。


 草むらの影に身を潜めて、僕はじっとその水面を見つめていた。風もなく、虫の声すら遠い。静寂が、不気味な膜のように池の周囲を覆っていた。


「ねえ……見た? あそこ……」

「うん。さっきも、何か動いてた気がする……」


 女の人たちの声が聞こえてきた。

 犬の散歩をしていたらしい中年の夫婦が、水辺に目を向けながら立ち止まっている。

 女の人が夫の腕を掴むようにして、指差した先が、僕の隠れている茂みのすぐそばだった。


「また“カッパの池”とか噂になるんじゃない?」

「ニュースでやってたな。整形外科医の事件……犯人が“カッパだった”って……」


 その言葉に、僕の心臓が一瞬だけ跳ねた。


(しって……る……あの、こ……)


 言葉にならない焦りが、脳内で泡のように弾けた。あの日、見逃したあの少女。僕を見た目撃者。


 僕の顔――いや、“河童の顔”を、きっと彼女ははっきり覚えている。


「ほんとだったらヤバいよね。でも、この近くで整形医が殺されるとか、何考えてんだか……でも、その医師ってのもヤバいらしいよね。なんか、目撃した少女とか保護とか言って自宅で……地下室で生後間もない赤ちゃんとか……何してたのだろうね……」

「やめてよ、怖いから。もう帰ろう?」


 彼らの会話が遠ざかっていく。

 草むらのざわめきが、少しだけ風に揺れた。


 僕は、そっと水面に目を落とした。

 緑がかった皮膚、つぶれたような鼻、ぬるりとした額の皿に揺れる水。

 人間だった頃の“僕”の顔は、もうどこにもない。


(ばけもの……ぼくは……ばけもの)


 でも、後悔はなかった。

 あれは、復讐だった。償いだった。姉の名誉のために選んだ道だった。


 その夜、空には血のように赤い月が浮かんでいた。

 その月が、水面に溶けていく。


 誰にも気づかれないよう、僕はそっと水の中に身を沈めた。

 水は、まだ僕を拒んでいない。

 でも――


 人間の世界は、もうすぐ僕の居場所を見つけるかもしれない。


 皿に溜まった水が、ぬるく、重たく揺れていた。

 それが怒りなのか、恐れなのか、もう僕には判断できなかった。



 貯水池の水面は、夜風に揺れていた。

 月は雲に隠れ、あたりは闇に溶けるような静けさだ。だがその水底に、一つの異形が身を伏せていた。僕だ。


 人間だった頃は、夕食の時間には母が嫌々ながらも食事を出してくれた。冷めた味噌汁と、冷凍のコロッケ。それでも腹は満たされた。


 けれど今は違う。僕の胃袋は、小魚だけでは満足できない。


 ぬるりとした鱗を噛み砕くたびに、胃の奥がきしむような感覚を訴える。満たされない。舌が、もっと濃い味を欲している。肉の温度を、血のにおいを求めている。


 水面に波紋が走る。


 視線を上げた先、池の縁に一羽のカルガモが降り立った。警戒心が薄いのか、それとも暗さに紛れて僕の気配に気づかないのか、羽をふるわせ、水際を歩いていた。


「……あれ、食う……か」


 僕は自分でも知らない声で呟いた。言葉の構造が壊れていく。思考の滑らかさが失われているのを感じた。それでも、“欲”だけは残っている。


 ぬめった手が、水中をゆっくりと滑る。目の前の水鳥に向かって、徐々に距離を詰めていく。


 カルガモの小さな瞳が、わずかに僕の気配を捉えた瞬間。


 ――どちゃっ。


 水を蹴って跳ねた。

 自分の身体が動くより先に、本能が獲物へ向かって突き進む。


「クッ、クエッ……!」


 カルガモの羽音が闇を裂いた。


 しかし、間に合った。

 僕の指が、嘴を握りつぶした。羽ばたきが止まり、悲鳴の代わりに水飛沫があがった。


 カルガモの首筋に歯を立てる。


 ――あたたかい。


 皮膚を貫いた瞬間に滲む血液のぬめりが、舌の上に甘く広がった。肉の繊維、羽の間の脂肪、骨の軋み。それらがひとつひとつ、僕の“喉”を通っていく。


「うま……い」


 舌が勝手に動いていた。味わうことに没頭し、止められない。


 ――こんなに、美味かったっけ。


 僕は、息を止めた。

 何かが確実に壊れていくのを感じた。

 これはもう、人間の食事ではない。


 でも、もう戻れない。

 僕の胃袋は、これを求めていた。


 皿に溜まった水が、微かに振動していた。

 それが悦びなのか、哀しみなのか、自分でもわからなかった。


 あの夜以来、僕は明確に変わった。腹を満たしたという意味ではなく、もっと深く、骨の髄にまで染み込むような変化だった。


 貯水池の底に体を沈めながら、僕は瞼を閉じる。けれど、暗闇の中でも不思議な“視界”が開かれているのを感じる。夜の中に潜む動きが、くっきりと浮かんでいた。


 蛙が跳ねる。アメンボが滑る。遠くで水鳥が羽を震わせながら眠っている。それぞれの呼吸音、微かな心拍の波動が、水を通じて僕の中に染み込んでくるようだった。


「……これ、目、じゃない……な」


 自分の声が水に溶けていく。

 人間の言葉だったはずが、どこかねばついた濁音に変質していた。


 それでも、不安はない。いや、恐れるという感情そのものが、どこか遠くへ流れ去った気がしていた。


 皮膚はもう皮膚じゃない。薄くぬめる膜が体中を包み、貯水池の冷たい水と僕自身の体温が混ざり合っている。鼻孔が、耳が、水と一体化していく感覚。


(……僕はもう、水の中の生き物だ)


 浮上した。水面からそっと顔を出し、音を立てないように辺りを見渡す。


 


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