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第八話『皿が濡れる夜』

ここから先の話には、河童という“異形”として生きる少年の描写が含まれています。グロテスクな表現や心理的に圧迫感のある描写を含むため、苦手な方はご注意ください。R15相当の配慮はしておりますが、物語の性質上、不快に感じられる可能性もあります。どうか無理をなさらず、読み進めるかの判断をお願いいたします。

 水の音がするたび、僕の身体の奥がじわりと疼いた。


 静寂に包まれた夜だった。風は止み、虫の声すら聞こえない。裏山の貯水池は、まるで世界から切り離されたかのように、ひっそりと沈黙していた。


 月が黒い水面に輪郭を落とし、波紋ひとつない鏡のような湖面が、どこか不気味なほど穏やかだった。


 その水面を、僕はそっと割った。


 足先が水に触れた瞬間、冷たい膜が皮膚を這うように絡みついてくる。指の間に生えた水かきが、じわりと水圧を感じて広がった。


 ぬるりとした水の感触。

 それはもう、“気持ち悪い”という感覚ではなかった。

 むしろ、帰ってきたような……そんな奇妙な安心感があった。


「……よる。ぬれて……いい……」


 口から漏れた声は、どこかおかしく、ぎこちない。

 発音が不完全で、舌が回らない。言葉の形が、頭の中と口の動きでズレていた。


 脳の奥に、重く鈍い違和感がある。あの“皿”を頭に縫いつけられてから、僕の言葉は少しずつ壊れ始めていた。


 だけど、水に浸かっているときだけは、その違和感が和らぐ。


 皿が濡れると、頭の奥のざわめきがしずかに静まっていく。乾いていたときに感じた、あの吐き気のような感覚が、少しずつ消えていくのがわかった。


 胸元まで水に浸かると、身体がすうっと軽くなる。

 甲羅の重さも、肩を押し潰す感覚も、今は不思議と気にならなかった。


 両手を水中にゆっくりと広げると、指の間の膜が柔らかく揺れ、まるで自分が魚にでもなったかのように、水に馴染んでいくのがわかった。


 深く、息を吸った。

 冷たい空気が肺に満ちる。

 皿に水が満たされる。

 それだけで、生きている気がした。


「……にんげん、じゃ……ない」


 誰に聞かせるでもなく、ただ自分に言い聞かせるように呟いた。


 昔の僕なら、夜にこんな場所にいることなんて、絶対にありえなかった。

 あの頃は、家の中で息を殺しながら過ごしていた。声を出せば怒られる。部屋を出れば邪魔者扱い。学校に行っても、教室には地獄が待っていた。


 でも、もう違う。

 僕は人間じゃない。

 だからこそ、この夜がやさしい。


 池の水が、僕の皿に新しい水を満たしてくれた。


 皿が重くなる。

 それが、僕の“命”だと、今ならわかる。


 遠くでカエルが鳴いた。

 その声が、なぜだかとても懐かしく感じられた。


「よる……いい。ここ……いる」


 水面がわずかに揺れ、月の光が皿に反射して滲んだ。


 水の中にいるときだけ、僕はちゃんと息をしていると思えた。


 今夜、僕はこの池の“影”になった。


 夜が来るたび、僕は水に還った。


 貯水池の端に、誰にも見つからないような浅瀬があった。岸から少し離れたその場所は、葦が茂っていて、地面は泥で柔らかく、体を沈めて横になるにはちょうどよかった。


 僕はそこを、自分の“寝床”に決めた。


 昼間はずっと池の底で眠っていた。水が濁っている場所に身を沈めて、皿が乾かないように頭だけわずかに水面近くに浮かせる。甲羅が底の泥に埋もれていくと、まるで植物にでもなったような気分になった。


「……ぬるい……けど……きもち、いい……」


 言葉はもう、うまく口から出てこない。脳が勝手に噛んでしまう。けれど、それが今の僕にとっては“普通”だった。


 指の間に水かきがあることも、背中に甲羅があることも、皮膚の色が青黒く変わってきたことも、もう驚かなかった。


 むしろ、その変化を歓迎している自分がいた。


 人間でいた頃は、鏡を見るのが怖かった。

 でも、今は水面に映る“自分”をじっと見つめられる。


 丸くて平たい顔。鼻は低くなり、口は横に広がっている。目の位置が少しずれて、まぶたの動きが妙に鈍い。だけど――


「これが、ぼく……」


 そう呟いたとき、不思議と胸の奥が静かだった。

 受け入れていた。変わってしまったこの姿を。

 僕の外見はもう、人間じゃない。でも、この身体は僕の意志で手に入れた“形”だった。


 耳をすませば、池の中の小さな音が聞こえてくる。


 小魚が跳ねる音。

 水草が揺れる音。

 遠くで鳥が羽ばたいた音。

 そして、ときおり――何かが、こちらを見ているような音。


 それが何かはわからない。

 けれど、僕にはもう、人間の言葉よりも、そうした“気配”のほうがよく伝わった。


 夜の貯水池には、確かに何かがいる。

 それは、僕のような存在かもしれないし、もっと古く、もっと深いものかもしれない。


 けれど、不思議と怖くなかった。


 水にいれば、皿が濡れていれば、僕は大丈夫だった。


 夜の風が、そっと水面をなでた。


 皿の中の水が、ほんの少しだけ揺れた。


 それが、僕にとっての“まどろみ”の合図だった。


 夜が更けると、腹が鳴った。


 貯水池の水面は月の光を受けて微かに光り、風がそっと水面を撫でるたびに、小さな波が草むらを揺らした。


 僕は水の中でじっと座っていた。胸まで沈んだ冷たい水が、甲羅の裏にまで染み渡っている。皿に溜めた水がぬるりと額を流れ、首筋を伝った。


 でも、それでは足りなかった。


 腹の底がじわじわと疼いていた。

 何かが、足りない。

 空腹ではない。人間だったころのような、胃の収縮や唾液の渇きではなかった。


 それはもっと奥にある――生き物としての、命の熱源を求める感覚だった。


 昨日、池の端に流れてきた菓子パンを試しに食べてみた。

 袋は濡れていたが中身は無事だった。


 だが、口に入れた瞬間に吐いた。


 甘ったるい匂いが、鼻腔の奥をえぐった。

 喉が焼けるように痛んだ。

 胃が悲鳴を上げ、喉の奥から嘔吐が突き上げた。


「……これ、ちがう。たべれ、ない……」


 うずくまって、吐き戻しながら呟いた。

 地面に落ちた菓子パンは、もう毒そのものだった。


 代わりに、何か別の匂いが僕を呼んでいた。


 水面の近く、小魚が数匹、群れをなして泳いでいる。

 その身体が光を反射して、ちらちらと揺れていた。


 匂いがした。

 生臭さと、血の気配。

 それが、僕の奥底に火を灯した。


 気づけば、身体が勝手に動いていた。

 水かきを広げ、泥の底を這うように音もなく進む。


 目の焦点が合う。

 光を捉え、動きに集中する。


 ――がぶり。


 鋭く伸びた歯が、小魚の柔らかな胴体を貫いた。

 口の中で鱗がざらつき、骨が歯の間で砕ける。

 舌に鉄の味が広がる。血と泥と生温い肉が、喉を通って落ちていった。


 喰った。


 その瞬間、腹の奥がじんわりと熱くなった。

 血管が膨らみ、鼓動が全身に響いた。

 皮膚の裏で、何かが変わった気がした。


 骨がずれるような、奇妙な感覚が走った。

 でも、痛みはない。

 変化が、進んでいるだけ。


「……これ、たべもの。ぼくの……」


 呟きながら、もう一匹喰らった。

 動きが早くなる。喉が慣れていく。

 背筋を伝って何かが這うような、ぞくぞくする感覚。


 河童としての“本能”が、今まさに目を覚ましている。


 夜の水が、身体の奥まで沁み込んでいく。

 皿が、満たされていく。

 甲羅が、音を立てて鳴った。


 静かな水辺に、喰らう音だけが響いた。


 ――もっと、喰え。


 腹の底の声が、そう囁いていた。


 僕は、また水の中へ沈んでいった。


 その日は、昼だった。


 雲ひとつない青空が、真上から無遠慮に照りつけていた。まるで空そのものが巨大な火球に変わったように、貯水池の水面はぎらぎらと光を乱反射させ、目を焼くほど眩しかった。


 僕は、池の縁にうずくまっていた。コンクリートの地面が熱く、じりじりと甲羅を炙ってくる。背中の皮膚が焼け、皿が……皿が、乾いていく。


「……あつい、の……いや……」


 舌がもつれ、声がうまく出ない。脳の中の回路が焦げついたように、言葉が上手く繋がらなかった。頭の上では、皿の中心が白く乾き、ひび割れ始めていた。表皮がぱりぱりと音を立て、そこからじわじわと痛みが広がっていく。


 僕は水へと手を伸ばした。

 けれど、そこへ――声が届いた。


「おーい! ここ釣れんのかなー?」


「でもヤベーよ、なんかココ、変な噂あるし……」


「河童とか? ばーか、あれ昭和の怪談だろ?」


 遠くから、小学生たちの笑い声が聞こえてくる。無邪気な足音、自転車のブレーキ、石を投げる音。日常の音。僕にとっては、毒だった。


 僕は咄嗟に身をかがめ、草陰へと潜り込んだ。息を止め、存在を消すように身を固める。皿の乾きはもう限界だった。頭蓋の奥で痛みが爆発し、目の裏が閃光のようにちかちかと点滅する。


「……しずかに、して……うるさい、よ……」


 脳が警鐘を鳴らしていた。言葉が壊れ、思考が溶け、僕の中の“何か”が崩れていく。


 それでも、動けなかった。出れば、彼らに見られる。僕の姿を。

 河童の姿を。


 甲羅、皿、指の膜、緑がかった肌。

 それが、今の“僕”だった。


 皿に、水を。

 僕は草陰のまま、震える手で水を掬い、頭の上へ。


 ――ひた。


 その瞬間、乾いた皿に水が触れ、ひとしずくが割れた皮膚の隙間を染み込んでいった。

 頭の奥で、何かが潤む音がした。痛みが、ほんの少しだけ遠のいた。


 息ができた。

 それだけで、涙が出そうになった。


「……ありがと、みず……」


 けれど、池の反対側ではまだ笑い声が響いていた。僕は、それを無視した。耐えた。

 皿を守る。それが僕の命だった。


 夕方になってようやく、子どもたちは帰っていった。


 僕は全身を水に沈め、何度も何度も、頭を潜らせた。

 水を、皿に。

 皿を、命に。


 日差しが消えた夜は、まるで優しい布団のようだった。

 僕は水の中で、ゆっくりと目を閉じた。


「……ひと、こわい……ひ、は、きけん……」


 皿が、静かに水をたたえていた。


 深夜、風が止んだ。

 貯水池はすべての音を飲み込んだかのように、ひたすら静まり返っていた。

 月明かりが水面にぼんやりと反射し、その光も風もない夜気の中で、わずかに揺れていた。


 僕は、水の底にいた。

 重く冷たい水圧が全身を包み込み、ぬるりとした泥が指先から肘へと絡みついてくる。

 水中で目を開けても、何も見えなかった。

 闇の中に浮かぶ自分の体の輪郭すら、わからなかった。


 ただ、聞こえていた。

 どくん、どくん、と、耳の奥で鳴る心臓の音。

 それがまるで、地上の鼓動とは別のリズムで打っているように思えた。

 人間としての時間ではない。

 水の底で流れる、河童としての、別の時間。


 僕は、ゆっくりと手を伸ばし、水底の泥に指を沈めた。

 ざらりとした感触と、絡みつく水草の感触。

 水棲の生き物のように、手の膜が自然と広がる。


 ここが“僕の居場所”なのだと、ようやく実感が湧いてきた。

 生温い泥の中に沈むことでしか感じられない安堵が、僕の胸を満たしていた。


 そのとき――

 ぽちゃん。

 水面を叩く音。

 その瞬間、僕の身体は自然と反応した。

 ゆっくりと、首を持ち上げ、水面を見上げる。


 そこに、何かがいた。

 水面にぼんやりと映る、ひとつの影。


 人間の顔。

 薄暗い夜に照らされ、歪んで映るその顔は、どこかで見たような――いや。

 それは、僕自身だった。

 “昔の僕”。

 人間だった頃の僕が、水面越しにこちらを見下ろしていた。


 目が合った。

 確かに、見つめ合った。


 ……けれど、その瞳の奥には、怯えも迷いもなかった。

 ただ、虚無と、怒りと、冷たい執念のような何かだけが漂っていた。


 ――お前は、誰だ。


 心の中で、そう問いかけた。

 けれど、その問いが自分自身に向けられていることに、僕はすぐに気づく。


 風が、ふいに吹いた。

 水面が揺れ、影は崩れた。

 人間の顔も、昔の僕も、何もかもが波に溶けて消えていった。


 僕は、再び水底へと身を沈める。

 もはや疑問すら持たなかった。

 “戻る場所”が、もうどこにも存在しないと、知っていたから。


 泥が皿にまとわりつき、冷たい水が脳天を満たしていく。

 それは快感だった。

 まるで、脳の中心まで冷やされていくような、静かな陶酔。


 そのときだった。

 耳の奥で、声がした。


「……おぼえてる、か……」


 誰かが、水底で語りかけている。

 その声は、掠れて低く、でも確かに僕の耳に届いていた。

 懐かしさすら感じるその声は、たぶん、僕自身のものだった。


 いや、もしかすると――

 人間だった頃の、僕の心の残響かもしれない。


 僕は、静かに目を閉じた。

 何も考えず、何も感じず、ただ、泥の中に身を任せる。


 水底に棲む何者かとして。

 人間でもなく、怪物でもなく、ただ、そこに“いる”だけの存在として。


 誰にも見つからず、誰にも気づかれず。

 夜の深淵に溶けるようにして、僕は確かに生きていた。


 夜の帳が、静かに貯水池を包んでいた。

 風ひとつない。虫の羽音さえ、水面では掠れるように響いていた。


 僕は、池の底にいた。

 泥に沈んだ岩の間で、じっと身を潜めていた。


 水は冷たいのに、心地よかった。

 まるで、母親の胎内のようだった――そんなものを僕は知らないけれど、きっとそうだと思った。


 指の間の水かきが、水の抵抗を受け止める。膜はさらに分厚く、ぬるりと伸びていた。

 掌の色は緑に近く、光に透かせば、薄い血管がまるで地図のように浮かび上がっていた。


 身体が、変わっていく。

 それは、恐怖じゃなかった。

 安堵に近いものだった。


 “人間でなくなれること”が、こんなにも楽だなんて、思わなかった。


 皿に水が張っていた。

 ごくり、と音がしそうなほど静かに、水を受け止めていた。

 その皿に意識が宿り、思考が宿り、僕という存在をこの世界につなぎとめていた。


 月が、のぼった。

 けれど、それはおかしな色をしていた。

 赤かった。まるで血のように滲み、輪郭が揺れていた。


 水面に映った赤い満月が、僕を見下ろしている。

 いや――“もう一人の僕”が、月の中から、見下ろしているようだった。


「……ぬめり……あたま……いたい……」


 呟いた言葉は、水の中で泡となって溶けた。

 脳に違和感がある。ずっとだ。

 言葉が、ぐにゃりと歪んでいく。語尾が掠れ、母音が濁る。

 人間の構造ではないのだ。僕の口腔も舌も、すでに獣のそれになりかけていた。


 でも、いい。


 誰にも言葉は届かなくていい。

 僕は、これから、“する”だけだから。


 黒沢を殺した感触が、まだ手に残っていた。

 ぬるりとした肉の柔らかさと、血の熱。

 彼の最後の表情が、焼き付いている。恐怖ではなかった。後悔でもなかった。

 あれは――ただの驚きだった。


 僕の皿から水がこぼれないよう、そっと首を傾けながら水面を見つめる。

 ふと、風が吹いた。水面が揺れた。


 その揺れに、映った月が崩れた。


 そして、そこに――影がひとつ、よぎった。

 犬だった。近くの民家で飼われている柴犬だろう。

 池のほとりまで来て、僕に気づいたのか、じっと立ち尽くしていた。


 吠えるかと思った。でも、しなかった。


 その代わりに、首を傾げた。まるで、なにかを悟ったかのように。

 やがて犬は、何も言わず、背を向けて去っていった。


 人間なら、きっと悲鳴を上げて逃げただろう。

 動物のほうが、よほど賢いのかもしれない。


 僕は池に沈みなおす。

 赤い月が見えなくなる深さまで。

 泥の冷たさが、皮膚を締めつける。


「つぎ……つぎ……つぎは……あいつら……」


 水泡が漏れた。


 柿崎。

 三輪。

 渡瀬。

 長谷川。


 忘れてない。絶対に。


 あの教室の匂いも、笑い声も、靴がない朝の絶望も。

 机に彫られた文字も、便所に押し込まれた日も。


 ――全部、僕のなかで腐らずに残っている。


 赤い月が空にのぼりきった。


 僕はその光に、ゆっくりと手を伸ばした。

 ぬめる指先が、静かに水面を割った。


 夜が、始まる。





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