第七話『はじまりの切開音』
※ご注意※
ここから先の物語には、主人公の身体的変化やホラー的描写を含む場面がございます。
内容はR15未満を想定して配慮しておりますが、グロテスクな表現や不快に感じる可能性のある描写が含まれています。
苦手な方や不安を感じる方は、どうか無理をなさらず、ここでページを閉じていただくようお願い申し上げます。
「靴を脱いで。私の指示にだけ従えばいい。」
僕は頷き、足元のスニーカーを脱いだ。床は大理石のように冷たく、足裏がじんとしびれる。何かの儀式のようだった。
手術台に横たわると、すぐに両手首と足首に冷たいベルトが巻かれた。
「拘束? ……必要なんですか」
「無意識下で暴れられると困るからね。これは保険だよ」
淡々とした声に、僕は反論しなかった。
金属の器具がぶつかり合う、甲高い音が遠くで響く。医療器具の準備が着々と進んでいた。
「まず、麻酔を打つよ。少しずつ意識が落ちていくけど、安心していい。」
針が皮膚を刺す瞬間、わずかな痛みが走る。が、それもすぐに引いていった。
視界が滲み、天井のライトがぼやけていく。
「一度始めたら、もう戻れないよ。覚悟は、できてるね?」
黒沢の声が、遠くで鳴っているようだった。
僕は、かすかに首を動かしてうなずいた。
「君が望んだことだ。さあ、始めよう」
そのとき、耳元で微かに切開音がした――
最初に感じたのは、切り裂かれる“音”だった。
皮膚が裂けるときの、乾いたのに濡れているような、肉を引き裂く生々しい音。その音が自分の身体から発されているとは、すぐには信じられなかった。麻酔はかかっているはずだった。それでも、神経の奥底が熱く軋むのがわかった。
喉の奥から、嗚咽とも悲鳴ともつかない声が漏れた。
「……っぐ、ぁ……っ」
「大丈夫。声帯は無事だよ。感覚が残ってるのは、ねえ……君の“覚悟”が足りなかったのかな?」
黒沢の声が、笑っていた。手術用ゴーグル越しの瞳は、まるで玩具を分解する子供のように輝いていた。
顔面が割れる。
頬骨に沿ってメスが滑り、口角から耳の付け根に向かって切開が走る。口の端が裂け、顎の関節が外され、口腔の内部が露わになる。
「はい、ここを開口して……うん、美しい裂け方だ。口元は縦長に縫い直して、広角を固定する。笑ってるように見える“哀れな獣”って最高だと思わない?」
金属のフックが皮膚を持ち上げ、僕の口は裂けたまま、真横に引き伸ばされた。
切開音、吸引音、熱された金属器具の焦げる臭い。目の奥が焼けつくように痛んだ。次に始まったのは、眼球上部の成形。
「目は吊り上げ。瞼の膜も削る。眼球が剥き出しに近い方が“らしい”からね」
まぶたを反転させられ、結膜にメスが差し込まれる。切り取られた膜の薄片が、血に濡れてピンセットで摘まみ上げられる。
見えているのに、どうしようもできない。
体は動かない。声は出ない。喉の奥を誰かの手が這っているような錯覚。
鼻腔に金属棒が差し込まれ、左右の穴が裂けるように拡張される。
「人工軟骨、注入。これで呼吸音が変わる。獣っぽくなるよ。わくわくするでしょ?」
僕は、もう笑うこともできなかった。涙だけが、頬の裂け目を伝って落ちていった。
手のひらが持ち上げられ、指の間に冷たい刃が入っていく。指と指の間を縫い付けるように、透明な膜が差し込まれる。
「水かき完了。腱を一部切ってるから、元の器用さはもうないよ」
背中に、カチリという音が響いた。
「甲羅、接合。
人工骨を背骨にネジ留め。神経、避けてるけど、多少の麻痺は出るかもね」
骨に金属が打ち込まれる音が、鼓膜の内側で反響する。全身が軋んでいた。自分が“変えられていく”感覚が、痛みよりも先に、誇り高い恐怖として膿のように沸き上がった。
「さて。クライマックスだ。君の“皿”をつけるよ」
黒沢が、ずしりと重そうな銀の円盤を持ち上げた。
「これは君の“印”だ。河童の証。脳を保護する“皮膚”を剥いで、頭蓋を露出させて埋め込む。人間に戻れないって、やっぱり最高だよね」
頭皮が一気に切開された。ゴリ、ゴリ……と鈍くいやな音が響く。頭蓋がむき出しにされ、そこへ円盤状の特殊素材が、真上から埋め込まれる。
ミシッという音とともに、僕の“皿”が固定された。
冷たい金属が、脳に触れるかのような感覚を残していた。
「おめでとう。君はもう、人間じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、僕の視界が揺れ、暗転した。
意識の底で、僕は泣いていた。
痛くて、怖くて、もう誰にも戻れないのだと知って。
でもその奥で、別の“僕”が静かに笑っていた。
――これで、ようやく復讐できる。
■
「……起きてる? 聞こえる?」
ぼんやりとした意識の中、ギャル風の女の子の声が耳に届いた。
「手、やばい。見て、水かきできてるし」
「マジ? え、なにこれ本物? 膜……うわ、グロッ……てかすげぇ」
女の子たちの笑い声が交錯する。くすくす、きゃっきゃという音が、今の僕には遠く感じられた。
重たいまぶたを無理やり開けると、天井のライトが目に刺さった。まぶしい。
「起きた……? 起きてるじゃん」
顔を覗き込んでくるのは、ピンク色の髪をした彼女だった。目の周囲にラメ、指には派手なネイル。
「なんか、目の形も変わってない? 縦……っていうか、爬虫類っぽい?」
「コンタクトじゃないよね、これ」
ざわつく声に囲まれながら、僕はゆっくりと身体を起こした。関節がぎしぎしと軋む。筋肉の下に、別の何かが入り込んだような異物感。
そこへ、黒沢が現れた。手には小さな鏡。
「君に見せたいものがある。自分の“今”を、しっかり確認しておくといい。」
僕は、その鏡を受け取った。
そして、見た。
そこに映っていたのは、人間のふりをした“何か”だった。緑がかった湿った肌。釣り上がった目。動かない鼻孔。膜に覆われたまぶた。
そして、ちりじりになった髪の毛の頭頂部についている金属。
皿だった。
僕は――微かに、笑った。
「これでいい。……やっと、始められる」
■
視界が揺れていた。天井のシャンデリアがにじみ、二重にも三重にも歪んで見える。右目と左目で焦点が合わず、像がずれたまま世界を切り取っている。呼吸をすれば、鼻ではなく喉奥から濁った音が漏れた。
喉が、ごろごろ鳴る。まるで水中で息を吐くような音。
僕の身体は、確かに“変わって”いた。
肩のあたりにずしりと重い甲羅がのしかかり、背筋を動かすたびに金属の留め具が骨に当たって軋んだ。指の間に縫い付けられた膜は、汗と血でぬめり、わずかにぴくぴくと痙攣している。
「……んぐ……ぁ……」
口から言葉を出そうとしたが、うまく発音できない。舌の位置が合わない。脳のどこかがおかしい。
けれど、僕にはわかっていた。僕はもう、人間じゃない。
僕は――河童。
そして、あいつが、いる。
リビングの向こう。ガラスのスライド扉越しに、黒沢がいた。
白衣は脱ぎ捨てられ、Yシャツの袖をまくってソファにふんぞり返り、タバコをくわえながらスマホを弄っている。
「……動画、保存っと。ふふっ、バズるかな、これ」
その声が、遠くから響いてくる。
僕の中で、何かが壊れた。
――ころす。
喉の奥から、低い唸りが漏れる。理性ではなかった。考える前に、僕の脚が動いていた。膜の張った足音が、ぬるりぬるりと大理石の床ににじむ。
黒沢は気づかなかった。まさか、麻酔が残る体で立ち上がってくるとは思っていない。
僕の影が扉に映った瞬間、ようやく顔を上げた。
「……ん? おい、何してんだ。まだ麻酔が……」
次の言葉は、出てこなかった。
僕の右手が、彼の喉元を貫いたからだ。
ざくっ。
僕の指は、手術で補強された爪が刃のように尖っていた。その先端が、黒沢の喉を斬り裂き、声帯を断ち切った。
「がっ……あっ……!?」
黒沢は信じられないという目で僕を見て、喉から泡混じりの血を吹いた。
「キミは……わか……わかって……」
僕は首を傾けた。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからない顔で、ゆっくりと彼に近づいた。
「……か、ら……ず……ま、ゆ、み……」
その名を口にしたとたん、僕の腕が勝手に動いた。
左の爪が頬を裂く。右手が額を掴み、顔面を床に叩きつける。ぐしゃ、ぐしゃ、べき、ぼたぼたと音がして、床が赤黒く染まっていく。
「が、あ、ああああ……っ」
それでも黒沢は動こうとした。僕は彼の腕を踏み、肘をへし折り、足の骨を砕いた。もう声は出ていなかった。ただ、潰れた目が、恐怖だけを訴えていた。
「オマエ、……クズ。にんげん、にんげん、じゃ、ない」
僕の言葉は壊れていた。でも、それで十分だった。
最後に、僕は彼の頭蓋を自分の手で押さえ込み、何度も何度も床に叩きつけた。脳漿が飛び散り、骨の破片が足元に転がる。
黒沢明彦は、もう“存在しなかった”。
――終わった。
「や……やだっ、やだやだやだぁあっ!!」
振り向けば、リビングの壁際に、制服姿の少女が一人。膝を抱えて震え、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。
僕は、見た。
けれど、何も言わなかった。
関係ない。彼女は、“標的”ではない。
無視して、踵を返す。
僕の指から血がぽたぽたと落ちる。手術室へと戻る廊下には、赤黒い足跡が連なっていた。
甲羅が軋むたび、背骨に冷たい痛みが走った。
皿が、天井の灯りを反射して冷たく光った。
そして、僕は、静かに呟いた。
「……つぎ、……つぎ、は……おまえ、ら、だ」
高級住宅地の裏通りに、ぺた、ぺたと僕の濡れた足音が響いていた。夜風は冷たく、甲羅の裏からぞわりとした感触が這い上がってくる。裸足の足裏がアスファルトのざらつきに擦れ、ひび割れた指の間を風が吹き抜けた。
街灯がぽつぽつと続く細道を、僕はゆっくりと歩いていく。背中の甲羅が軋み、指の間の膜が風に揺れた。皿に残った雨水がひとしずく、頬を伝って落ちる。
「ひと、いない……よかった……」
声は喉の奥で濁っていた。言葉は思うように出てこない。脳に刺さるような鈍い痛みが、一言話すたびにじんと広がった。
けれど、僕には行く場所があった。
僕は、あの家を出た。
崩れた肉の山、血の飛沫が乾ききらない白い床。
あれは人間の世界の出来事。
僕は、もう違う。
住宅街を抜け、人気のない獣道を進む。
葉の音がさわさわと鳴る。草が僕の膝に触れ、膜が擦れる感触が気持ち悪いほどに“気持ちいい”。
裏山のふもと、フェンスに囲まれた場所。
そこには静かな水辺――古びた貯水池があった。
フェンスをよじ登る。爪が鉄を引っかき、キィと音を立てる。
着地した瞬間、ぬかるんだ土の匂いが鼻に広がった。
月が水面に浮かんでいる。
風が止まり、すべてが静かになった。
「ここ……いい……」
僕は、足を踏み入れた。
指の膜が水を感じる。ぬるい、優しい水だ。
「ただいま、みたい……へんな、きもち……」
ひとりで笑った。口が裂けるほどに笑った。
水の中へ、ゆっくりと身を沈めていく。足首、ふくらはぎ、太もも、腰、胸。
最後に、皿が水に浸かると、体中からふっと力が抜けた。
「かわかない……うれしい……」
甲羅がじわじわと水を吸い、皿が水を蓄え、背骨がぴくりと痙攣するように伸びた。
草の向こうで、猫が鳴いた。
「だいじょうぶ……こわく、ない。にんげんじゃ、ないから」
独り言は、夜の水面に吸い込まれていく。
冷たい水の底に、僕の心は静かに沈んだ。
ここで生きる。ここで、待つ。
皿を乾かさないように。
怒りを忘れないように。
月が沈むまで、僕は水の中でじっと目を閉じていた。
次に目を開けるとき。
次に皿が震えるとき。
その時はきっと――“あいつら”を、許さない。