第六話『金曜日、夜。僕は人間をやめに行く』
スマホの通知音が鳴ったのは、真夜中を少し過ぎた頃だった。
僕は反射的に画面を確認する。差出人は「非通知番号」。内容は、あまりに簡潔で、そしてあまりに重かった。
――黒沢の自宅住所。
文字列を何度も見返した。間違いない。そこには都内でも名だたる、テレビや雑誌で何度も取り上げられるような高級住宅地の名前が記されていた。僕なんかが一歩足を踏み入れるだけで通報されそうな、そんな場所だ。
あの黒沢が、あんなところに住んでいる……。
なんとなく、クリニックの内装や受付の対応、黒沢の服装や言葉遣いから、金持ちだというのは感じていた。けど、それでも“あのレベル”とは思わなかった。
スマホの画面をスワイプすると、次の文章が現れた。
『君の求めている手術には、術後の経過も含めて最低二週間は必要だ』
『本当に望むなら、覚悟を決めて来なさい』
『この件については誰にも話してはならない』
『自宅に来てよいのは金曜日の夜、19時以降』
無駄がなく、淡々としていて、まるで診察記録のようだった。だが、だからこそ逆に、恐怖が背中にじんわりと這い上がってくる。これは冗談でも戯れでもない。黒沢は本気だ。そして、僕が引き返せなくなることも、最初から計算に入っている。
金曜の夜、19時――きっと黒沢の仕事が終わる時間帯なのだろう。
僕はスマホを持ったまま、しばらく目を閉じた。胸の奥がじわりと熱くなる。これは高ぶりでも期待でもない。ただの緊張と恐怖だ。だけど、もう決めている。
僕は行く。人間をやめる覚悟を持って。
■
金曜日の夜、空は曇っていた。
雨は降っていないけれど、どこかぬるく湿った風が、僕のシャツをゆっくりとなでていった。梅雨でもないのに、まるで空気が呼吸を止めているみたいだった。
午後七時ちょうど。僕は、自室のドアをそっと開けて、廊下に足を出した。母さんは台所でテレビを見ながら、誰かと電話でパートの愚痴をこぼしていた。父親の姿はもちろんない。姉さん――真由美は、今は大学の近くで一人暮らしをしているから、家にはいない。
誰にも気づかれずに出ていくのは、きっと今夜が最後になる。
靴を履きながら、僕は心の中でつぶやいた。
――ごめんね。
何に対しての謝罪なのかは、自分でもよくわからなかった。
でも、少なくとも、今日までの僕はここで終わる。
「いってきます」
誰にも聞こえないくらいの声で言って、玄関のドアを閉めた。
駅までの道は、不思議と静かだった。自転車のベルも、子どもの声も聞こえない。アスファルトを踏む僕の靴音だけが、世界に残された唯一の音みたいだった。
電車に乗って、揺られて、乗り換えて……目的の駅に着いたとき、あたりはすっかり夜だった。
改札を出ると、目の前に広がるのは別世界だった。
煌びやかでもなく、けばけばしくもないのに、すべてが整いすぎていて怖かった。並んだ植木、無駄のない建物、照明の配置、空気の匂いまでが「ここは違う」と言っていた。
黒沢の家は、駅から徒歩十数分の場所にあった。
高い塀に囲まれた洋館のような邸宅。門の前に立つと、自分の存在が場違いで仕方なかった。インターホンを押す手が震えた。
それでも、僕は押した。
数秒の沈黙のあと、電子音が鳴って、門が自動で開いた。
僕はゆっくりと、その闇の中に足を踏み入れた。
心臓の鼓動が少しずつ速くなる。
――もう戻れない。
そう思った時、不思議と怖さは消えていた。
あるのは、ただ一つの覚悟だけだった。
黒沢の家に足を踏み入れた瞬間、異次元に迷い込んだような感覚に包まれた。門をくぐり、庭のアプローチを歩くたびに、重さと冷たさが僕を圧倒する。どうしてこんな場所に来てしまったのか、後悔が薄れることはなかった。
高級住宅街の中でも、ひときわ異彩を放つこの館。白い壁に黒い窓枠、直線的なデザインが無機的で、何かが無理矢理“ここに収められた”という印象を受ける。周囲の街並みがどこか温かみを感じる中、この館だけは一線を画していた。
庭には手入れが行き届いているが、そこに植えられた植物はどこか不気味で、風に揺れてもまるで生きている感じがしなかった。月明かりを浴びた木々が、薄い影を落とし、僕の足元をわずかに照らすだけだった。
玄関に近づくと、重厚な玄関ドアが、ゆっくりと内側から開く。
「いらっしゃ~い♪」
最初に声をかけてきたのは、制服を着た女子高生だった。けれど、普通の女子高生とは違う。アイシャドウが濃く、唇はグロスでぎらぎらしていて、眉毛は細く整えられていた。耳にはキラキラ光る大きなピアス。香水が甘ったるく鼻を突く。
「え、マジでこの子が河童になりたいってヤツ?」
背後から、もう一人の女性が顔を覗かせてきた。姉と同じくらいの年齢だろう。彼女もまたギャル風で、胸元の空いたカットソーから派手なネイルが覗いている。
「ちょっと見てよ、ほんとに似てない? この目とか、口元とか……うけるーっ」
制服の子がけらけらと笑い、僕をまじまじと見つめた。
「ってか、あんたほんとに自分から“河童になりたい”って来たの? やっば〜。メンタル強すぎでしょ」
彼女たちは面白がっているようだった。その笑い声が、広い玄関の吹き抜けに反響し、妙に耳に残る。
僕は黙って彼女たちを見返した。怒りも、恥も、不安も――すべてを飲み込んで、ただ、進むしかないと自分に言い聞かせた。
「……黒沢先生は?」
できるだけ冷静に、低い声で訊いた。
「ご主人様なら、リビングでお待ちですよぉ?」
今度は別の女の子が、少しだけ舌足らずな声で言った。髪はピンクに近い茶髪で、腰まで届くほど長い。彼女がくいっと顎をしゃくると、他の二人もひらひらと歩き出す。
「じゃ、案内するわ~。ついてきな」
僕は黙ってうなずき、彼女たちのあとを歩いた。大理石の床は冷たく、照明はまるでホテルのように間接的で、影ばかりが目に入った。まるで現実味がない夢の中を歩いているようだった。
「ねぇねぇ、手術ってどこをどうするの? うちらも興味ある~」
「河童ってさ、水かきつけるの? 甲羅も?」
「てかさ、絶対TikTokでバズるって! “整形で河童なってみた”って!」
ぺちゃくちゃと騒がしく話しながら、彼女たちは軽い足取りでリビングの前まで進んだ。
その扉の前で、最初に僕を出迎えた制服の子が振り向いた。
「ご主人様、待ってるよ」
笑ってはいるが、その目はどこか冷めていた。
僕は、静かにうなずいた。
リビングの扉が音もなく開き、その先には黒いスーツを着た男――黒沢が、背筋を伸ばして一人座っていた。
リビングの扉を開けると、黒沢が静かに座っていた。室内は薄暗く、シャンデリアの灯りが淡く部屋を照らしている。黒沢先生はその光を背にして、まるでその場所に溶け込んでいるかのように、何も言わずに僕を迎え入れる。
その姿を見て、僕は心の中で再び自分に問いかけた。この人物のもとで、本当に自分を変えることができるのか。河童になれば、姉のためにできることが増えるのか。だが、その答えが見つかる前に、僕は足を一歩踏み出した。
「お出迎え……さぞかし驚かしただろうな。あの子達は捨て子猫みたいな存在でね。家庭に問題や恋人と色々あるから街で見つけて私が保護してるのだよ。勿論、不自由はさせてないよ。まぁ、君には関係無いことだろうけど……さぁ、どうぞ座ってください。」
恐らく、あの少女達は黒沢の玩具のような物だと黒沢の口ぶりからそう僕は感じた。
金の力でなんでも揉み消せると考えてるのが目の前にいる黒沢の裏の顔なんだと思えた。
敢えて、珍しがって僕を見つめてくる彼女達の事はそれ以上触れなかった。
黒沢の声は冷静でありながら、どこか響きがあった。僕は無言でソファに腰を掛け、そのまま黒沢先生を見つめた。黒沢先生は僕の顔をじっくり観察した後、静かな微笑みを浮かべた。
「君の決意は、なかなかのものだ。こうして直接会うのは、二回目だが、君には特別なものを感じる。」
僕はその言葉に反応せず、ただ黒沢を見つめるだけだった。
黒沢は僕の無言の態度に気づくと、少し肩をすくめてから話を続けた。
「私が君に提案した手術は、ただの整形ではない。君が言った通り、人間をやめるための手術だ。君の身体に、まるで異物を埋め込むようなものだろう。でも、それが君にとっての『償い』だと言うなら、私はそれに応じる。」
僕はその言葉を黙って聞いていた。心の中で、これから起こることに対する恐怖と期待が交錯している。
黒沢が僕に近づき、そのまま手元の資料をテーブルに広げた。
「これが君の手術に関する詳細な計画だ。水かき、甲羅、目の形、すべてをカスタマイズしていく。君の希望通り、河童に近づけるように調整するが、その後どうなるかは君自身の覚悟次第だ。」
僕はそれを見て、しばらく無言で資料に目を通した。何度も、何度も読んだ。手術がどれほど過酷で、身体を変えた後に何が待ち受けているのか。けれど、最後にはその資料を静かに閉じて、黒沢先生を見つめた。
「やる。」
「私も色々と狂っているが、君はそれ以上に稀有な存在だね」
黒沢はなんとも呆れたような表情で呟いていた。
「本当に?」
もう一度僕は「やる。」冷徹に言った。その一言に、黒沢は少しだけ驚いたような表情を見せるが、すぐにその表情を消し、再び微笑んだ。
「君の覚悟を受け入れた。後戻りはできないが、それでいいのか? だが、やるとなったら私は完璧主義者なんでね。芸術作品にしてあげるよ」
黒沢の言葉が重く響いた。後戻りできない。それは、単なる言葉ではなく、僕の身体そのものを変えてしまうという事実を意味していた。
もし、この決断が間違っていたとしても、僕はもう戻れない。手術を受けた瞬間から、僕は全てを失うことになる。それでも、今さら恐れるものはない。
「後戻りなんてしない。」
僕は一度も目をそらさずに答えた。冷静に、自分に言い聞かせるように。その時、黒沢先生はゆっくりと立ち上がり、僕の前に立った。
「それなら、手術を始める準備をしよう。」
黒沢が言い終わると、僕は立ち上がり、何も言わずに彼についていく。
部屋の空気が変わったのは、黒沢先生が白衣に着替え、無言で僕の肩を押してきたときだった。
広い通路のような突き当り。
奥の壁に隠されたエレベーター。その扉が、スッと音もなく開いた。
「地下だ。足元に気をつけて。」
黒沢の声は落ち着いていて、どこか儀式を執り行う神官のような響きを帯びていた。
エレベーターの中は狭く、内壁は鏡張りで、自分の顔が四方八方に映っていた。僕は目をそらした。
数秒の沈黙ののち、カツン、と小さく音がして扉が開いた。
広がっていたのは、まるで病院の手術室そのものだった。白く無機質な壁、天井から吊られた無影灯、中央には銀色の手術台。そして、所狭しと並ぶ金属製の器具。
地下室の中央に設置された大きな手術台を見て、僕の胸の中で何かがざわついた。しかし、それを感じる暇もなく、僕はその台に腰を下ろし、黒沢先生の指示を待った。
黒沢先生は僕を見つめ、その目に満足げな表情を浮かべながら、手術の準備を進めるための道具を取り出した。
「今から君は、まったく新しい世界に足を踏み入れる。覚えておくべきことはひとつ。手術が終わった後、君がどんな姿になるとしても、それを受け入れる覚悟があるかだ。」
その言葉は僕の中で響いた。覚悟を問われているのだ。どんな姿に変わっても、それを受け入れる覚悟があるのかと。
僕は何も答えなかった。ただ、その目に映る黒沢の冷徹な笑みと、目の前の手術台をじっと見つめるだけだった。今や、すべてが決まった。何もかもを捨て去り、前に進むしかない。
静寂の中、僕は心の中で最後の決意を固め、手術の始まりを待つのだった。