第二話『似ているという呪い』
玄関のドアを開けた瞬間、リビングの奥から怒鳴り声が聞こえた。
「借金してまで整形って、あんた……!」
母さんの声だった。
僕は慌てて靴を脱ぎ、息を潜めて廊下を歩く。こんな空気の時、うっかりリビングに顔を出すと面倒なことになるって、何となくわかってる。
廊下の途中、開け放たれたリビングの隙間から、見覚えのある後ろ姿が見えた。
姉さんだった。大学に入ってからは、都内のワンルームで一人暮らしをしてる。会うのは数ヶ月ぶりだった。
久々の帰省なのに、なんでこんな険悪な空気になってるんだろう。リビングの隅、壁にもたれて座り込んだ僕は、知らないふりをしながら耳をそばだてた。
「ねえ、何でそこまでして顔を変えたのよ!? 私たちに相談もせずに……!」
母さんの声は苛立ちで震えていた。
「相談なんかしたら、止められるに決まってるでしょ!」
「それに……もう限界だったの……!」
姉さんの声は、鋭く乾いていた。
「……限界って、何がよ?」
しばらくの沈黙のあと、姉さんの声がぽつりと落ちてきた。
「……自分の顔が、死ぬほど嫌だったの」
僕は反射的に息を止めた。
「中学の頃からずっと言われてた。弟にそっくりだねって。瓜二つだねって。あの子にそっくりな女の子って。もう、それが本当に、本当にイヤだったの……!」
まるで凍った水を喉に流し込まれたみたいだった。
でも──
確かに、変わっていた。会った瞬間、思ったんだ。姉さん、きれいになったな、って。目元の印象も、輪郭も、以前とはまるで違っていた。記憶の中の“僕に似た顔”は、もうどこにもなかった。
整形ってすごいんだなって……本当に、別人みたいだった。
それが、悔しいと思うより先に、納得してしまった自分がいた。
ああ、姉さんは、僕と似ている顔を消し去ることに成功したんだ──って。
「涼介に似てるって言われるのが、もう耐えられなかったのよ……。あの子の顔が私に貼りついてるみたいで、自分が自分じゃないみたいで……」
そこまで聞いて、僕はゆっくりと立ち上がった。
姉さんのその言葉が、何よりも鋭く、重く、痛かった。
ただのいじめじゃない。誰にも見せない僕の芯にまで、深く突き刺さる。
自分の顔を、姉は“恥”だと思っていた。
僕の顔が、彼女にとっては「消したい過去」だった。
リビングに背を向け、僕は足音を立てないように階段を上がった。
部屋に入って扉を閉めると、静かな水の中に沈んだみたいに音が消えた。
姉さんの言葉が、耳の奥にこびりついて、剥がれない。
僕の顔は、誰かの人生を壊す顔だったんだ。
笑われるだけじゃない。
嫌われるだけでもない。
僕という存在そのものが、誰かの人生の傷になっていた。
そして、そのことが、いちばん僕を傷つけた。
■
夜の部屋は、静かだった。外から聞こえるのは、アパートの隣室で流れる薄っぺらなテレビの音と、どこか遠くで吠える犬の声だけ。天井のシミを見上げながら、僕は右手の指を、わずかに折り曲げたり伸ばしたりしていた。
この頃、無意識にやってしまう。右手が、ピクリ、ピクリと小刻みに痙攣する。意識して止めようとすればするほど、まるで誰かに握られているような感覚になって、それが逆に心の奥をゾワリと撫でてくる。
僕の中で、「そこ」だけが浮かんで見える夜がある。
今日もそうだった。
何かに溺れるように、スマホの画面をスクロールしていた。湿った手のひらで、画面をなぞる音がやけに大きく感じた。視線を落としながら、頭の奥が遠くで「やめろ」と言っていた。でも、僕の指は言うことをきかない。右手の薬指が、勝手に震える。関節が硬直するたびに、身体が反応して、熱が腰の奥でじわりと渦を巻いた。
“処理”のためじゃない。そう言い聞かせていた。これはただの、習慣だ。手癖だ。逃げ場のない水槽の中で、僕が呼吸を保つために編み出した儀式だ。
でも──その時、画面に出てきたのは、あれだった。
ぼやけた映像。揺れるシーツ。医療用の白いベッド。ベッドの上、眠っている誰かの輪郭。顔は、はっきり映っていない。でも、わかった。絶対に、わかってしまった。
姉さん、だった。
寝かされたまま、何かをされている。白衣の男がその身体を覆っている。無抵抗で、静かすぎて、まるで死体のような姉の姿。笑っていた頃の姉が、どこにもいなかった。
心臓が一気に跳ね上がった。喉が乾いて、呼吸がうまくできなくなった。でも、指は……指だけは、止まらなかった。
右手が勝手に動いた。まるで水の中にいるように、ゆるく、くぐもった動きで。スクロール、停止、再生、巻き戻し。痙攣する関節が、画面の縁をなぞるたび、僕の身体の奥に熱が滞留していった。
嫌だ、嫌だ、と思った。
でも、もっと奥で、「見たい」と思ってしまった。
その“葛藤”が、僕を濡らした。
吐きそうなほどの罪悪感と、底なしの自己嫌悪。目の奥が焼けるように熱く、呼吸が荒くなっていく中、僕はただ、右手の動きを止められずにいた。
気づけば、果てていた。
下着が濡れていた。右手がじっとりと汗ばみ、手首から肘にかけて、小さく痙攣していた。
その震えはまるで、“終わったこと”をなぞるようだった。まるで、僕の中の何かが「これでいいんだよ」と言っているみたいに。否、そうじゃない。そんなわけない。けれど、右手は……うっすらと悦びを、知ってしまった顔をしていた。
スマホを放り投げて、僕は仰向けになった。天井が揺れて見えた。頭の奥で、カツン……と、音がした。何かが割れたのだと思った。
姉さんは、美しくなっていた。
会ったとき、僕は思った。整形ってすごい。顔も骨も、まるで別人のようだった。僕に似ていた“あの顔”は、完璧に消えていた。
姉さんは、僕を捨てたのだ。
その証拠が、あの画面の中に刻まれていた。
そして僕は、そんな姉の顔に、身体が反応してしまった。
僕は、もう人間じゃない。
水槽の底で、泥をすすって生きるだけの、醜い生き物なんだ。
■
朝、昇降口に入った瞬間、じめっとした匂いが鼻についた。昨夜の雨で濡れた校庭の土が、靴裏から湿気を引きずるみたいに重たくまとわりついてくる。僕は無言で靴を履き替え、傘を畳んで階段を上がった。
二階の廊下を歩くと、教室のほうから小さな笑い声が漏れてくる。
なんとなく嫌な予感がした。心臓が、ほんの少しだけ速くなる。足取りが自然とゆっくりになった。
教室の扉を開けた瞬間──
「……あ、来た……!」
「タイミング最高じゃね?」
「っはははははっ!!」
笑いが、爆発した。
みんながこっちを見て笑ってる。机を叩いて、涙を拭きながら、背中を丸めて笑ってる。
僕は何も言えずに、ゆっくりと前を向いた。
黒板に、描かれていた。
チョークで大きく描かれた、僕の顔。いや、“僕の顔に似たもの”。
頭は不自然に大きく、目は点、鼻は潰れ、口は裂けてよだれを垂らしている。しかも、その下には「カッパ涼介参上!」の文字。そして、女子のスカートをめくっているポーズまで添えてあった。
「お〜い、カッパくん! 今朝もご登場ありがとうございます〜!」
柿崎俊の声だった。教卓の前で、両手を広げて演説ごっこをしている。
「マジで似てるよな、これ!」
「文化祭のポスターにすれば?」
みんなが好き勝手に言ってる。笑いが、僕の周りをぐるぐると渦巻いて、逃げ場を奪う。
僕は……何も言えなかった。
ただ、黒板を見ていた。
そして、思ってしまった。
……似てる。
それが、一番悔しかった。
あいつらは、僕をよく見ている。特徴を正確に捉えてる。見たくもない自分の顔を、あんなふうにデフォルメして、でもちゃんと「僕」だと分かるように仕上げてくる。
僕はゆっくりと黒板消しを手に取った。
けど、その背中にまた声が飛ぶ。
「怒んないの? カッパくんって、感情死んでんの?」
「いや、カッパだから水かぶらないと暴れないんだよ」
クスクスという笑い。スマホのカメラのシャッター音。誰かが動画を撮ってる。
僕は、黒板を無言で消した。チョークの粉が舞って、胸の奥が痒くなる。でも何も言わなかった。
腹の底では、怒りが渦を巻いていた。
でもそれよりも強かったのは、悔しさだった。こんなに笑われて、何も言えない自分。何もできない自分。
でも、わかってる。
誰が笑ってたか。誰が一番大きな声でふざけてたか。誰がスマホを構えてたか。誰が目を逸らしてたか。
全部、ちゃんと覚えてる。
柿崎俊。三輪瑛士。渡瀬駿介。木原未来。長谷川琴音。
黒板が綺麗に消えたとき、僕はゆっくりと心の中で名前を反芻した。
──いつか全部、返してやる。
魚のままじゃ終わらない。
次にこの教室に戻ってくるとき、僕はもう“僕”じゃない。
怪物として、この水槽を引っ掻き回してやるんだ。