モラハラ王子が無能だったので玉座を奪うことにしました
「お前は本当に、何もできないのだな」
婚約十年目、3650回を優に超える溜息を吐いたケヴィンに、リーゼロッテはそっとフォークを置いた。
「……はい。大変お恥ずかしい限りでございます」
「まったく、そこでろくに反論できないところがお前の駄目なところだ。何かひとつでも秀でるところがあればよかったものを」
公爵家でぬくぬく育てられた挙句、幼い頃から王子と婚約して左団扇、将来を憂うこともなくただ漫然と未来の王子妃の座に安住し、荒波に揉まれたことがないせいでろくに世間を知らない。
くどくどと、まるで八つ当たりのように垂れ流され始めた不満に、リーゼロッテは途中から耳を傾けるのをやめ、ただ微笑んでおいた。
「……お前は本当に静かに微笑む以外何もできないのだな」
そう呆れた言葉をかけられたが、やはり微笑むだけにしておいた。
そんな空気の悪い昼食後「あら、リーゼロッテ様ではございませんこと?」と明るく、しかし鼻にかかった声に呼び止められる。振り向いたところにいたのは、淡いピンク色の髪と目をしたニーナ・ドライ・ヘルシェリンだった。
「ごきげんよう、ニーナ様」
「ご丁寧に、リーゼロッテ様。聞きまして? 最近、カッツェ地方から賊が攻め入ったとのお話……怖いですわよねえ、なんたって我が国とフェーニクス帝国の境ですもの」
「……そういえば、そんなお話がありましたね」
知識をひけらかすようなニーナの話は、しかし少々おかしかった。カッツェ地方はフェーニクス帝国の辺境伯によって治められている地だが、その辺境伯は大層人格者で、賊とあらばどちらの国の利益かなど考えずに討伐してくれる。現に、最近カッツェ地方で問題になった賊はその辺境伯によって討伐済み……帝国との境でよかったと言ってもいい話だ。
しかし、それを指摘してもプライドの高いニーナは苛立つだけだ。黙って聞き流せば「そんなお話、ですって?」とニーナは眦を吊り上げる。
「将来の王妃ともあろうお方が、帝国と接する辺境での事件を“そんなお話”呼ばわりだなんて! 信じられませんわ……将来のケヴィン殿下をお支えになる身として、もう少し国政に興味を持たれてはいかがでしょう?」
「……ニーナ様はさすがですね。ヘルシェリン侯も鼻が高いのでしょう、よくニーナ様の自慢話をお聞きします」
「いやですわ、リーゼロッテ様ったら」
満更でもなさそうに頬を染めながら、ニーナは洋扇を開いて口元を隠す。
「お父様は、娘の私が言うのもおかしいですが、少々親ばかなのです。……あ、ごめんなさいリーゼロッテ様、ご両親の亡くなったリーゼロッテ様の前でお父様のお話を」
非常にわざとらしい謝罪だったが、リーゼロッテは「構いませんよ」と微笑んで流す。
「ヘルシェリン侯はニーナ様が大好きなのでしょう。そうしてニーナ様がお話していると知ればお喜びになるでしょうし」
「そう言っていただけると嬉しいですわ。でもお父様のお話が当てにならないのは本当なのです、実際の私は男性からは敬遠されがちですから。その点、リーゼロッテ様は――」
ちらとその視線が部屋の扉に向けられる。リーゼロッテとケヴィンが昼食を摂っていたときの会話を聞いていたかのように。
「いつも静かに殿下のお話を聞いて、良妻の鑑ですわね。私のような女はうるさいと言われてしまうのです。恥ずかしながら私、政治にも経済にも興味が湧いてしまい、ついつい考えたことを口に出してしまいますので」
いや、これは盗み聞きしていたな……。そう分かりながらも、リーゼロッテはニコニコと微笑みながら「そうなのですね。では私はこれで」と擦れ違う。ニーナが勝ち誇った目を向けてくることにも、気が付かないふりをした。
公爵令嬢リーゼロッテ・ノイン・エレミートが第一王子ケヴィン・ファンフ・ヒエロファントと婚約して、はや十二年。そのうち実に十年近く、リーゼロッテはケヴィンに罵倒されて生きてきた。
いつからか、ケヴィンは口を開けば「お前は随分いいご身分で何よりだ」と口にするようになった。王子として政務に携われば「お前は嫁げば安泰のお気楽な人生だ」、外交に出向けば「お前は表に立たないでいいから楽なものだ」、戦から帰れば「お前には剣の重さも分かるまい」、魔法を扱えば「お前は回復魔法しか使えず前線の恐怖も知らない」などなど。
素直なリーゼロッテは「そうか、私は何もできないし何も分かっていないのか……」とその罵倒に謙虚に頷いてばかりであった。
しかし、素直過ぎたリーゼロッテは「じゃあ政治を学ぼう!」「本だけじゃ足りないから実際に隣国と取引しよう!」「剣も持とう!」「実戦経験のために前線にも出よう!」――と、こっそりと家庭教師に学び、本を読み漁り、他国で商取引をし、剣を学び、あろうことかお忍びで従軍までするなど、まるで男のように研鑽を積んだ。
そうして自らの知見に自信をつけたリーゼロッテは、度々ケヴィンの発言の誤りに気が付いた。しかしそれを指摘すると、ケヴィンは余計に苛立ち憤慨し「お前は何も分かっていない」を繰り返してしまう。
(挙句の果てに、最近はニーナ様にご執心だし……)
脳裏には、さきほどリーゼロッテに喧嘩を売ったニーナが、ケヴィンと腕を組んで話していた光景が浮かぶ。
大人の事情で勝手に婚約させられた身で「好きになってほしいです」とは言わないし、現に自分もケヴィンに恋情はないのだが、そうだとしても脇目を振らないくらいの責任感はある。それなのに、ケヴィンが他の侯爵令嬢とこれ見よがしに仲良くするとはいかがなものか。
なんてことを指摘すれば、またお決まりの「何も分かってない」を口にするだけなのだろうけれど。リーゼロッテは、ケヴィンほどとは言わずとももう何度目か分からない溜息を吐いた。
そんな日々の中で、リーゼロッテは遂にケヴィンに見切りをつけた。
その日のケヴィンは、魔獣討伐を終えて十数日ぶりに王都に帰還し、当然のことながら十数日ぶりにリーゼロッテと食事を摂った。そのときも、ケヴィンの話は軍務の愚痴から始まった。大変ですね、と相槌を打っていたリーゼロッテだったが。
「今回従軍していた中隊長、あれは駄目だな。アイツが私の命令に従わず前軍を見捨てなかったから敗走せざるを得なくなった」
無能な部下を持つと苦労すると言わんばかりの口振りに、さすがに相槌を打てなかった。
何を隠そう、リーゼロッテもその軍務に従軍していたから、そしてその中隊長の判断は何も間違っていなかったからだ。
ケヴィンは前軍を見捨てるように指示を出したが、ただでさえ戦力を削られていたあの局面で味方を見捨てては、その前軍すべてを殺すようなもの。中隊長がケヴィンの命令を無視して犠牲となった味方は確かにいる、しかしケヴィンの命令に従っていればその犠牲は倍に膨れ上がっていただろう。中隊長が前進を指示したお陰で、前軍の一部を吸収しつつ逃げることができたのだ。
……つまり、こういうことか。リーゼロッテはつい、ケヴィンに冷ややかな目を向けた。
コイツは、自らの無能っぷりに気付かずそのプライドを守るためだけに全く見当違いの罵倒を繰り返す能無しだ。
「おい、聞いているのか、リーゼロッテ」
「……ええ、聞いております」
「まったく、お前は俺と話すときでさえぼーっとしているのだな。ろくに他国との会談にも出ないから集中力が養われないのだ」
ケヴィンは王の器ではない。いつもどおり始まった罵倒はいつもどおり聞き流しつつ、リーゼロッテはそんなことを冷静に考えた。
王座は世襲制。ケヴィンには弟が2人いるし、幸いにもそのうち1人は王となるのに申し分のない器の持ち主だ。しかし、ケヴィンがいる限り彼が玉座に就くことはない。なんとも都合の悪いことに、ケヴィンは体も丈夫である。
いっそのことケヴィンを害してしまえばいいのではとも思えるが、さすがに本気でそんなことを考えるほどリーゼロッテは悪逆非道でも合理主義でも過激思想でもなかった。むしろ十二年間婚約してきた情さえあった。その扱いがいかなるものだとしても。
そうして悩んだ末、リーゼロッテはある賭けに出ることにした。
「ところでケヴィン殿下、最近ヘルシェリン侯爵令嬢のニーナ様と大層仲睦まじくされているようですね」
ぴくりとケヴィンが一方の眉を吊り上げる。
「……確かにニーナ嬢と話す機会はあるが、仲睦まじいとはどういうことか?」
国王・王妃の美貌の血をしっかり受け継いだその顔は、惚けた表情すら美しかった。しかし、その美貌に磨きがかかるのを十二年間横で眺めていたリーゼロッテにとっては大したことではなかった。
「そのままの意味です。一月前の社交界でも手を取って踊っていらっしゃいましたし、本日は茶会も開いていらっしゃいましたね。そうそう、ニーナ様のために特別に東洋から仕入れた髪飾りも届いたようですが――」
「リーゼロッテ、お前は本当にものを知らないヤツだな」
ケヴィンは声を荒げて遮り、さらには深い溜息までを吐く。
「大方嫉妬でもしているのだろう? しかし見当違いだ、ニーナ嬢が誰なのか、お前も先程口にしたとおり――ヘルシェリン宰相の長女だ。ヘルシェリン侯は宰相として陛下にも私にも仕えており、その功績には目を瞠るものがある。その娘に礼を尽くすことは当然ではないか?」
「いえ全く当然とは思えません」
突然の否定に、ケヴィンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。リーゼロッテは大体微笑んで「そうですね」というものだとばかり思っていたからだ。
しかしコイツは無能だと気付いたリーゼロッテは捲し立てる。
「ヘルシェリン侯は確かに陛下にも殿下にもお仕えしていますが、それは宰相の義務です。そしてその対価としてヘルシェリン侯には多大な権利が与えられております。殿下がそれに上乗せして、しかもヘルシェリン侯自身ではなくその令嬢を特別に扱い、人目を憚るように二人で会い、贈り物をすることに合理性はございません」
反論完封通り越してぐうの音も出ないとしか言いようがなく、さすがのケヴィンも一瞬言葉が出てこなかった。リーゼロッテは冷ややかな目のまま続ける。
「殿下、殿下は第一王子、ゆくゆくはこのグライフ王国を背負うお方です。殿下の些細な言動が権力バランスを傾けかねないことを努々お忘れないよう、特定の貴族を不用意に寵愛することをはじめとした軽率な行動はお控えください」
それはまったくもって正しい意見だったのだが、例によってケヴィンにそれを受け容れる度量はなかった。
「……お前がこんな見苦しい嫉妬をするとは思わなかった」
「反論はないのですか?」
「反論も何も、お前の言っていることは見当違いも甚だしい。まったく、言葉を並べ立てさえすればよいと思っているのだろう。これだから学のない女は困る」
セリフのとおり不愉快そうに唇を歪め、ケヴィンはフォークとナイフを置いた。
「気分が悪い。久方ぶりの晩餐だというのに、お前がいては食欲も削がれるというものだ」
そのまま席を立ち、リーゼロッテを残して部屋を出て行く。リーゼロッテは、じっと座ったままでいた。
もし、ケヴィンが言い訳をするならもう少し見守るつもりだった。言い訳は後ろめたさ、罪悪感の裏返し、リーゼロッテに対して申し訳ないという気持ちを残していることを意味するからだ。
しかし、結果は逆上。溜息と共に、リーゼロッテはオレンジジュースを飲み干す。
そのとき、リーゼロッテはケヴィンとの婚約破棄を決意した。
とはいえ、リーゼロッテ側から婚約破棄することはできないため、ケヴィンをその気にさせる必要がある。そこでリーゼロッテは、ケヴィンとニーナの密会を今まで以上に見て見ぬふりをし、なんならあえて二人が会うことのできる隙を作り、婚約破棄へとケヴィンを焚きつけるべくせっせと暗躍した。
「君との婚約を破棄する」
そうして遂に王の間において、ケヴィンは、ニーナの肩を抱きながら高らかに宣言した。
「はい、ではこちらにご署名をお願いいたします」
「ん?」
はいはい待ってました。リーゼロッテはずいっと羊皮紙を差し出した。
「こちらです。この右下に殿下のご署名をお願いいたします、二枚とも忘れずに。続いて私が署名させていただきますので」
「あ、ああ……そうだな……?」
そうして「婚約無効の宣誓書」を作成し、それが受け取られた後、リーゼロッテは思わず勝利のガッツポーズを掲げた。
「殿下! 私と殿下との婚約はこれにて無効となり、当初より婚約していなかったものとなりました! 私の部屋は既にすべての私物を処分し清掃を済ませておりますのでご自由にお使いください! では!」
王子のケヴィンと見える最後の機会に、リーゼロッテはドレスを摘まんで最上級の礼を取る。ふわりと、その氷のように透き通る薄青の美髪が扇状に広がった。
「ニーナ様と末永くお幸せにお過ごしくださいませ!」
その言葉を最後に、リーゼロッテはグライフ王国を出た。
以後、リーゼロッテの消息を知る者は誰もいない。
それから数年後。ケヴィンは国王として即位し、王妃としてニーナを迎えていた。
「ケヴィン陛下! ご報告申し上げます!」
「うるさいぞ! 報告くらい静かに入れないのか!」
王の間に飛び込むや否や怒鳴られた衛兵は一瞬口を閉じるが、しかし怯んでいる場合ではないと「しかし、緊急事態でございます!」勢いを取り戻す。
「フェーニクス帝国の進軍速度が予想以上に早く、既に王都に攻め入る勢いです! 早急に手を打たねばこの城も帝国騎士の手に渡ります!」
グライフ王国はフェーニクス帝国にその領土を攻められていた。
大陸随一の力を誇るフェーニクス帝国騎士団、それに名を連ねるのは大陸指折りの魔術血統を持つ騎士ばかり。剣ひとつ振るうだけでも魔力の差が物を言うこの世界で、優秀な魔術血統を持つ者が帝国に集中していることは、この大陸における帝国の地位を盤石なものとしていた。
それにも関わらず、グライフ王国はフェーニクス帝国侵略を試みた。その結果は火を見るよりも明らかで、グライフ王国の領土は、帝国騎士団を前に次々と陥落するしかなかった。じわじわと、それは潮が満ちるように無情に着実に、しかし潮と違って一歩も引かず、帝国は王国を占領していた。
「そう焦るな、我が国には天然の要塞がある。進軍がそう上手くいくわけがない」
しかしケヴィンは、玉座から腰も上げず苛立たし気に返事をするだけだった。
ああ、やっぱりこの王は駄目だ――。そんなケヴィンの態度に、衛兵は愕然とする気力さえなかった。
ケヴィン・フィンフ・ヒエロファント王は、王子のときから密かに暗愚と嗤われていた。かつてケヴィンにリーゼロッテが宛がわれたのは、そんなケヴィンをエレミート公爵令嬢ならば正しく導いてくれると期待されたからだ。
しかし、エレミート公爵が逝去し、ヘルシェリン侯爵が宰相に就いてから、その期待は日に日に小さくなっていった。ケヴィンによればリーゼロッテは微笑んでばかりで役に立たないし、一方で新たな宰相として頭角を現したヘルシェリン侯爵には妙齢で利発な娘がいた。ヘルシェリン侯に国王から信頼が寄せられ始めていたこともあり、今は亡きエレミート公爵令嬢と婚姻しても旨味はないし、ここはリーゼロッテとの婚約はなかったこととし、ヘルシェリン侯爵令嬢を娶るほうが良いのではなかろうか、そう口にしたものは多かった。リーゼロッテはお飾り花のようなものだし、溌剌としたニーナのほうが彼をよく導いてくれるだろう、とも。
そうしてケヴィンとリーゼロッテの婚約は無効となった。人々はリーゼロッテを、親を亡くし婚約も破棄されたとは可哀想に、もうこの国にはいられまいと笑い、リーゼロッテが行方知れずとなったのは入水自殺でもしたからだろうと言われていた。実際、ケヴィンとニーナが婚約しても取り立てて問題は起きなかったし、リーゼロッテよりもよっぽど仲が良くて微笑ましいとさえ言われていた。
しかし、ケヴィンの即位後、その綻びは現れた。
ケヴィンとニーナはなんとも気の合うことに頭の程度が同じで、二人で誤った方向へと意気投合し、とんでもない施策を次々と進めることを許すことになった。また、ニーナは王妃の責務などと称し、まるで自らが王となったかのように政治に口を出し、しかも感情論を振り回した。ヘルシェリン侯爵はケヴィンに代わって実権を握り、恣に政敵を次々放逐し、ヘルシェリン家かその息のかかった者を重役につけた。ケヴィンの弟・第二王子は公爵として辺境に送られ、第一王女は他国へ嫁ぎ、第三王子は不慮の事故で頓死した。
その結果、いつの間にかグライフ王国はヘルシェリン侯爵に支配されてしまった。
そうして人々は気が付いた、すべての歯車はエレミート公爵が亡くなってから狂ってしまったのだと。リーゼロッテは微笑んでばかりのお飾りだと思っていたが、リーゼロッテが黙って微笑んでその罵倒を聞き流すことでケヴィンの暴走は最低限に留められ、またリーゼロッテが婚約者の地位を握っていたことは他の貴族への牽制の役目を果たしていたのだと。
思い返せば、婚約破棄の場面は妙ではあったのだ。リーゼロッテは周到に婚約無効の誓約書などというものを準備していたうえ、妙に意気揚々と王城を出て行った。実はリーゼロッテがケヴィン王子を見捨てたのではないか、と人々の間にはまことしやかな噂が流れた。ここ数年間、戦の敗けが嵩み、魔獣の侵攻を食い止められなくなったのはリーゼロッテの呪いだと言う者さえいた。
結果を見れば誰だってなんとでも言える。それはそうなのだが、リーゼロッテが王妃となっていれば、せめてニーナ王妃殿下と宰相ヘルシェリン侯爵の暴挙だけは止められたのに……国民はそう嘆かずにはいられなかった。
――ケヴィンのもとへ報告を持ってきた衛兵も、そう嘆いていた国民の一人だった。そしていま、王国が危機に瀕しているというのに現実に目を向けず臣下に耳を貸さず、ただ怒鳴るしか能のないケヴィン王を見て確信した。やはり、リーゼロッテとの婚約を破棄したのがすべての間違いだったのだと。
「クリストハルトに伝えろ、帝国軍を迎え撃つ算段を整えておけと」
「……おそれながら、クリストハルト公爵には連絡がつかず……」
「は? 何をしているのだ、あの阿呆は」
無能な弟め――とぼやくケヴィンを前に、衛兵はたらりと冷や汗が背筋を流れ落ちるのを感じる。衛兵の様子に気付いたケヴィンは眉を吊り上げた。
「なんだ?」
「……いえ……」
だからこうして、帝国騎士の侵攻を許すことになったのだ――。意を決したように眉間にしわを寄せて強く目を瞑り、彼は膝をついた。
その後ろに、コツリ、と静かな足音が響く。次の報告か、とケヴィンは回廊へと視線を向け――現れた騎士に我が目を疑った。
胸に金の飾緒、不死鳥の紋章をかたどった金銀二色のバッジに、真鍮製のボタン……その騎士団服を見る限り帝国騎士に間違いなかったが、その団服の色は黒ではなく深紅だった。
しかし、ケヴィンを驚かせたのは、帝国騎士が王城に入っていたからでも、その騎士が黒でなく深紅の騎士団服をまとっていたからでもない。
氷原のように美しい薄い青の髪と、夜明けの空の瞳。その特徴を持つ女性を、ケヴィンは一人しか知らなかった。
「リーゼロッテ……!」
「ケヴィン殿下――いえ陛下、大変ご無沙汰しております」
鮮やかに微笑んだ顔も、まさしくケヴィンが知るリーゼロッテ・ノイン・エレミートであった。愕然としたケヴィンは思わず腰を上げてしまう。
「お前……まさか本物か? だとして一体、どの面を下げてこんなところに……!」
「本当にそのとおりでございます。ここから帝国騎士人生の第一歩が始まったと思うと感慨深く、とても平常時の顔ではいられません」
かつてケヴィン王子に婚約破棄させたこの場所に、今度は敵としてケヴィン王のもとへ戻ってくることになるとは。王よりも堂々と王の間に立ち、リーゼロッテは「うふふ」と呑気に微笑んだ。
「……死んだものとばかり思っていたが、本当にリーゼロッテなのだな。そういえば、天下の帝国騎士が女を表に立たせているとは聞いていたが……」
その微笑みに、ケヴィンは気を取り直す。
確かにリーゼロッテの魔術血統は大陸屈指のものだろうが、もとは公爵家の令嬢として温室で育てられ、王子の婚約者として十余年を過ごしたろくに世間を知らぬお嬢様、剣を扱えるはずがない。帝国騎士の恰好をしているが、他の騎士と異なる深紅の団服であること然り、女を担ぎ上げたい帝国にいいように利用されているだけだろう。リーゼロッテは身を寄せる先が必要で、帝国は女騎士が欲しかった、ただそれだけの利害関係に違いない。
自分の婚約者だったときと変わらない、どこへ行っても“お飾り”の女だ。
ふん、とケヴィンは打って変わって不敵な笑みを浮かべながら剣を抜き、その切っ先を向けた。
「ここまで来たことは褒めてやろう」
「いえ、陛下に褒めていただくためではないので結構です」
「婚約破棄されたときはさぞ悔しかったのだろうな」
「いえ、無事に婚約破棄させたので大変嬉しかったです」
「愛する男に殺される気分はどうだ?」
「いえ、私は陛下を愛したことはございませんのでお気遣いは不要ですよ」
「話を聞けリーゼロッテ!」
「聞いているから返事をするんじゃありませんか」
きょとんと首を傾げられ、ケヴィンは舌打ちで返事をした。やはり変わらない、リーゼロッテはいつだって話が通じなかったのだ。
「……まあいい、余は愛がなかったとはいえ元婚約者を殺すほど冷たい男ではない。ここで降伏すれば――」
「陛下、相変わらずご自身の立場をお分かりにならないのですね。変わったのは一人称くらいでしょうか」
リーゼロッテは眉尻を下げた。相変わらず世界の中心が自分の仕方のない男だ、王子だったときからなにも進歩していない。
「すべて私のセリフです、ケヴィン陛下。私は陛下を愛したことはございませんが、元婚約者を一思いに討つほど冷酷無慈悲ではございません。降伏すれば命は見逃しましょう、帝国と話はつけておりますから」
「お前が俺に慈悲をかけ、帝国と話をつけているだと?」
なんて馬鹿馬鹿しい、でたらめにしても酷過ぎる口上だ。ケヴィンは大きく口を開けて笑い飛ばしてしまった。
「お前は本当に、自分の立場というものをとんと理解しないのだな! そこまで言うのであれば、いいだろう、余が自ら平伏させてやる」
ケヴィンがその剣を振り上げてリーゼロッテとの間合いを詰める。
その動きがのろすぎて、リーゼロッテは呆れ通り越して哀れみの目を向けてしまった。ケヴィンの剣の腕は、自分が出て行ってから衰えることはあっても向上することはなかったのだと。
「ゥぐッ!」
そしてそのケヴィンは四方から押さえつけられ、突如としてリーゼロッテの前に平伏した。ドタンッと間抜けな音と共に地べたに高い鼻をぶつけたケヴィンは、何が起こっているのか分からなかった。
「リーゼちゃーん、こんなのが王様とかホントー?」
その騎士は、倒れたケヴィンの背中に腰かけ、長槍の先を足首に押し当てていた。彼は湖のように美しく長いグリーンの髪をうなじの横でひとつに結い、同じ色の目に呆れた色を浮かべている。
「おとぎ話の王様そっくりじゃねーか。偉そうに裸で歩いて指差して笑われんだろ」
その騎士は、ケヴィンのもう一方の足首に剣を押し当てていた。彼は炎のような紅蓮の髪を後頭部でピンと結び、どこか女性らしさのある涼やかな目でケヴィンを睨んでいる。
「でも噂のとおり、顔立ちは綺麗だよね。帝国騎士にいたら俺達と並んで誉めそやされてそう」
その騎士は、ケヴィンの首に切っ先を当てて手首に刃を押し当て、しかも屈んで顔を覗き込んでいた。月のように輝く金の前髪の裏で、夏の夜空の色の目がからかうように笑っている。
「帝国にいなくてよかったな。血筋だけが取り柄の愚王と並べられるなど冗談じゃない」
その騎士は、ケヴィンの手の指の隙間に剣を差し、足で手首を踏みつけていた。白刃のように煌めく銀髪と同じく、夕陽色の双眸が冷ややかにケヴィンを見下ろしている。
つまりケヴィンは、リーゼロッテに斬りかかろうとして瞬く間に四人に取り押さえられ、命を握られてしまったのだ。目を白黒させていたケヴィンはようやくそのことに気がついたが、幸いにも今まで命の危機に瀕したことはなく、首だけでリーゼロッテを見上げるくらいの余裕があった。
「リーゼロッテ……貴様……」
「さて陛下、陛下御自身が平伏なさったところで、もう一度冷静にお話をしましょう」
が、ズン、と眼前に刃を突きたてられ、その余裕は消える。それどころか、鼻先を掠めそうな距離で落ちてきた刃に、顔から血の気が引いた。
「きさっ…」
「謹んで申し上げますので、どうぞよくお聞きくださいね」
まるで自身が王であるかのように、リーゼロッテはケヴィンを見下ろし穏やかに、しかし芯のある強い声で命じる。
「王都は、既に我々フェーニクス帝国騎士が制圧いたしました。陛下に残された選択肢はふたつ、この場で自害するか、玉座を公爵のクリストハルト様に明け渡すかです。命あっての物種ですし、私は後者をおすすめいたします」
「な――なにを言う! いきなりやってきて譲位をしろだと!? そんな話が――」
「クリストハルト様は陛下よりよっぽど王に向いておりますし、きっとこの国をよく導いてくださるでしょう。少々決断力に欠ける面はございますが、きっと新たに宰相となる方が良き助言者となってくださるはずです」
既にヘルシェリン侯爵は帝国騎士の手中に落ちた、そう言外に伝えられている――と、愚かなケヴィンは理解しなかった。
「貴様……リーゼロッテ、許さんぞ! 王たる余になんたる狼藉、婚約破棄に留め追放せずにいた恩を仇で返そうとは!」
「追放……? 陛下、それは誠でございますか……?」
寝耳に水といわんばかりに、リーゼロッテは目を丸くする。調子に乗ったケヴィンは「そうだとも!」と勢いづいた。地べたに這いずったまま。
「お前は本来あの場で追放されるはずであったのだ、婚約破棄なのだからな! 余がとりなしたお陰で悠々自適に王国を出ることができたのだぞ!」
「なんという……陛下は……」
そのままリーゼロッテは愕然として口を手で覆った。
「陛下は、既に錯乱なさっているのですね……!」
「……何?」
「婚約破棄と追放はまったく別物、破棄の理由に死罪相当の行為があれば話は別ですが、婚約を破棄したからといって相手を追放することは必ずしもイコールではございません。それを国王たる陛下がご存じないはずはありませんから……陛下は法典を思い出せないほど精神的に錯乱なさっているのでしょうか? それともさきほど倒れたショックで記憶の混濁が……?」
あわあわと狼狽しながら、リーゼロッテはケヴィンの前に屈みこみ、優しくその手を包み込んだ。なお刃はしっかり避けた。
「陛下、ご安心ください。皇帝には私から進言しましょう、陛下は速やかに譲位を決意なさったと。王都の喧噪から離れ、どうぞ田舎でゆっくりと心身をお休めください。ニーナ様もご一緒です、涙を流しながら田舎での生活など耐えられないと仰っていましたが、最愛の陛下と一緒であればどんな苦難も乗り越えられる、どころか一層夫婦の絆が深まるでしょう。ご夫婦水入らずの生活のために使用人はおりませんが、牛と畑はご用意させていただきますね」
玉座を奪われ田舎に追いやられるらしい、以上のことは何を言われているか分からなかった。しいてもうひとつケヴィンが分かっていたことは、頭上で見目麗しい騎士達の笑い声が響いていたことくらいだった。
そうして呆然としているうちに他の帝国騎士がやってきて、ケヴィンは連れて行かれてしまった。なお後日、そんなケヴィンが「田舎ではなくて秘境ではないか!」と山奥の掘立小屋で叫んだのは余談である。
かくしてグライフ王国は帝国に占領された。ケヴィン王は帝国侵略の責任を取って譲位し、元第二王子のクリストハルトが新たに王国の統治を任されることとなった。そして、帝国騎士第十三隊は、リゼ・ノエレをはじめとして帝国勝利に最も大きく貢献したこと――特に最後は無血開城を果たしたことを理由に特別にその功績を称えられた。
帝国騎士の問題児ばかり集められたお荷物第十三部隊は、かつて“他隊の足を引っ張り隊”などと呼ばれていたが、もう誰もそう呼ばないだろう。
「勝利の凱旋後は酒が美味いなぁオイ!」
帝都に戻った後、同部隊を率いるヴォルフガング・ツヴェルフ・ゲヘンクテは、顔のわりに悪い口で、しかし嬉しそうに勝利の美酒を掲げた。雄叫びを上げながら酒杯を掲げる隊員たちの中で、リーゼロッテはお上品に腕を上げる。
「本当に、ヴォルフガング隊長の言うとおりです。無事にグライフ王国を、しかも最小限の犠牲で落とすことができて、私も快然たる限りです」
「一時はどうなることかと思ったけどね。でも本当に、無策で帝国侵略を目論んだんだもんな。あのケヴィン王は酷いもんだよ、巻き込まれた民が可哀想で仕方がない」
その隣で、アインホルン王国王子シュトルツ・アハ・モントもお上品さの拭えない手つきで酒杯をあおる。
「大抵の連中がすぐに白旗を揚げたのは幸いだったな。人望のなさもあそこまで振り切れば、迷惑の程度も低いというものだ」
もう一方の隣では、帝国皇子ギルベルト・アハト・クラフトが頷いたところだった。その手の酒杯は既に空だ。
「ていうかケヴィン王の口上には笑っちゃったよね、昔の女がいつまでも自分を好きでいてくれると思ってる男っているけど、あ、そういうこと素で言っちゃう?って」
「そうだとして、錯乱しているだの記憶が混濁しているだの、相変わらずふざけた物言いだったな。あれはさすがに意図的に煽ったのか?」
「さすがになんて心外です! 私は他人様を煽るようなことは致しませんよ!」
本気で言っているのか冗談で言っているのか分からず、シュトルツもギルベルトも黙って酒を注いだ。随分前の話にはなるが、リーゼロッテが帝国騎士になった直後、シュトルツらと仲良くしているのを嫉妬した女騎士から「アンタにはこれがお似合いよ!」と薄汚い団服を投げつけられたとき、「私、皆さんとお揃いの服に憧れがあったのです!」と目を輝かせた挙句「そこの一際背の高い金髪の方、ありがとうございます!」と叫んで恥をかかせたことを忘れた者はいないだろう。
そうして黙り込んだ二人を「な、なんですか!」とリーゼロッテが交互に見る、その間に「リーゼちゃーん、つーかれちゃった」と無遠慮にエメラルドグリーンの頭が割り込んだ。ギルベルトが顔を引きつらせるのにも構わず「飲んでる? この葡萄酒美味いよ」と酒瓶を揺らす。
「ありがとうございます。迎撃数部隊一はオスカー先輩でしたね、さすがです」
「長槍は横からぶん殴れば4、5人ついてくるからね。というわけで迎撃数ナンバーワンの男と結婚するのはど――」
オスカー・ツェーン・ラートデスレーベンスが軽口を叩き終える前に、その額には飛んできた酒杯が炸裂した。オスカーがリーゼロッテを口説くたびにヴォルフガングから手酷く諫められるのはいつものことで、リーゼロッテ達は何事もなかったかのように食事と酒を口に運んだ。
「ンでもリゼちゃん、今回のグライフ王国撃退で人気は鰻登りだよ。悪い虫がつく前に婿決めちゃったほうがいいんじゃないかな、俺とかに!」
「オスカー先輩が悪い虫そのものですよ」
「はァーいそこのギル皇子、先輩の悪口を言わなーい」
帝国皇子を相手にしているとは思えない口上で、しかもその銀の頭を手で押しのけ、オスカーはしっかりリーゼロッテの隣に収まった。そのままリーゼロッテと肩を組み「ところでさ」と声を潜める。
「結局リゼちゃんってどっちとデキてんの? シュト王子? それともギル皇子?」
「あ、いえあの、先輩、そういったお話はおやめいただいて……」
「俺はギル皇子のほうがいいと思うよ。ギル皇子は口悪いけどイイヤツで、シュト王子は優しいのは口だけ、ああ見えて結構腹黒だからさ。もちろん一番のおすすめは俺だけどね」
「いい加減にしろオスカー! 他人の色恋に首は突っ込んでも口は出すな!」
「首も突っ込まないでください!」
深紅の騎士団服をまとい、戦女神として名を馳せるリゼ・ノエレ、本名をリーゼロッテ・ノイン・エレミート。アインホルン王国シュトルツ王子、帝国ギルベルト皇子、そして問題児だらけの帝国騎士第十三部隊を率い、グライフ王国を占領した殊勲者。これから大陸に数々の伝説を残していく女騎士の名である。