―アルム、領館、タッソ―
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領館の部屋には涼やかな風がさわさわと流れ込む。外は晴れ渡り、空は青い。瑞々しい緑が風にゆらゆらと揺れる。実に爽やかな光景である。避暑に来た有閑身分の者がいれば、その光景を称揚しただろうとも。
部屋の中は対照的に暗い。幾人かの役人が帳面を見ながら算盤を弾き、表面を滑らかにした木の板に炭で以て何かしらを書き付けている。
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「計上終わったぞ。」
ゼンゴが木札を渡して来る。
木札には墨で年毎の、春から夏にかけての雨の日数が書いてある。アルムだけでなく、各村のもの含めてだ。
やはり…雨が多いな。
特に暦の上で初夏に入ってからだ。各年の天気を付けた木札を順に見ていく。ここにあるのは五年分の記録の合計だ。もちろん、記録した人間が、どの程度から雨の日としたかというのは人によって異なる。しかし、少なくとも、ここ五年で近隣の村々での村長の交代は無い。それにアルミア領の天文方は代々エシ家の者が担っており、そこの基準はしっかりと継承されているはずだ。
当代の天文方、エーゼイは少し浮世離れした人間であるが、こと天候のことに限れば精密な人間だ。派閥としては、ニカラスク家ではあるが…。ここで足を引っ張る意味はない。それに、エーゼイもまた根っからの職人気質の人間だ。こういうことで余計なことをする人間ではない。
さて…。平年であれば雨の日は、春の雪解けから100日間で大体10日程度かそこら。だが、今年はその倍はあるだろうか。特に、春麦の種蒔きの頃に雨が多かった。断続的に10日以上雨の日が続いた。これが実に痛い。根付く前に大雨が降ると蒔いた種が流されてしまう。一部の村は種蒔きが早かったため、実際にいくつかの春麦の畑が駄目になってしまったらしい。雨後に、種を蒔いたが大分種籾を消費してしまった。予定の半分も蒔けていないらしい。
足りなくなった種籾を買い付けようにも、アルミア領に至る幹線道路とも言うべき道が崩落してしまった。兵をやって、何とか土を除けて道を平らかにしたが…。未だ、十分に道が開けているわけではない。人の行き来をする程度なら出来るが、荷車を通すには未だ辛い。
種蒔きを控えていた村々も結果として大分種蒔きが遅れてしまった。長雨で控えていただけでなく、種籾をある程度銭で購って済ます村も多いのだ。今は既に芽吹いているが、植えるのが遅くなってしまったため、収穫が雪までに間に合うかどうか…かなり瀬戸際だと言う。
加えて、マーガ村とクーベ村では鉄砲水があり堤防が破れた。破れた堤防から溢れた水は収穫前の麦を流し去ってしまった。それだけで二村の収穫量の五分の一程度が減っているはずだ。人の損失も出ているから、復旧作業も進んでいない。
鉄砲水によって村の中核部が流された、というほどでもなくても長雨は細々と我々を削って来ている。小さく堤が切れ畑の一部が流された、斜面にある畑が崩れた、排水の悪い畑で根腐れが起こった。そんなことが重なって、これだけで見込める冬麦の収穫量は既に最高でも例年の半分程度になっている。
それに…問題はこれだけではない。
集計する前の帳面も捲ってみる。
雨の日が多いだけではなく、少し見ただけで曇りの日も多いことが見てとれる。これは春からずっとだ。気温も上がらなかった。私も随分と春遅くまで毛皮を着ていた。
晴れの日も少なく、かつ気温も上がらない。それのせいか、そもそも雪越しの麦の肥立ちも悪いと言う。本来なら、そろそろ冬麦の収穫もほとんど終わっている頃だと言うのに…。タヌとフスクらで見て来てもらったが、未だ半分も終わっていない村々が大半だと言う。収穫するほどに麦が育っていないのだ。
窓から外を望む。
実際に麦穂は青いものが多く、穂先は未だぴんと立っている。確かに、もう盛夏を迎えようという頃には黄金色の穂先は柔らかに頭を擡げていたはずだ。
ただでさえ、蒔くのが遅れた春麦に至っては未だ芽の状態と言われても気付かないかもしれない。
…総合して考えてみると…最悪、収穫量は四分の一程度だろうか。いや、それを割るかもしれない。
間違いなく…飢饉が来る。本来ならもっと早く気付くべきだった。だが…こういうのは元々ニカラスク家の仕事だろうに。彼は一体何をしていたのか…。私の失点としたいのか。どう考えても彼らの失点だろうに。
…いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「ゼンゴ…、セベル様のところに行きます。先触れをしておいて下さい。」
「ああ、わかった。」
ゼンゴは部屋を出ていく。
飢饉の準備をしなければならない。
私に…私達に使えるものはなんだ?
瞑目して考える。
民を飢えさせぬために糧を他領から購う必要がある。
金は十分か?折角作った鉄や、それで作った道具の出荷も遅れている。これをどうにかして早々に売ることは出来ないか?出来るだけ足元を見られずに…。商人などは耳が早い。既に知られているか?いや、そもそも道が崩れて、人の出入りがかなり減っている。未だ行けるか?
去年、色々売り払って出来た金は未だある程度残っているが、それ十分足りるかと言うとわからない。もちろん、すべて使い切ってしまえば、どうにかなるかもしれないが、来年にも備える必要がある。来年また凶作となるかもしれないのだ。むしろ、大体の場合は凶作というのは続くものだ。そのために備えておく必要がある。それに、今年は種籾をほとんど残すことが出来ないだろう。来年、それらを買うためにも絶対に金が必要だ。それらも勘案して使える銭の勘定が必要だ。
どこかから、金を借りる余地はあるか?そもそも金を貸すほどの余裕のある大商人など、ここには来ない。皇都の別邸であれば、幾らか伝手はあるが、時間が足りるか?どのみち早馬は走らせておいた方がよいだろう。少しは打てる策が増えるはずだ。
タルネン男爵領の家宰であるムルテ家とは私は婚約を結んでいる仲だ。頼めば幾らか出してもらえるだろうか。金でも食糧でも良い。だが、隣領となれば向こうも食糧難になっている可能性は高い。だが、冬季は完全に雪に閉ざされるうちよりも幾分状況は良いはずだ。なんとか、ならないだろうか?
そもそも道の復旧が終わらないことには、まともに食糧を運び込むことも儘ならないだろう。そうすると、崩れた道の復興はいつまでに終わる?いつになったら荷車を通すことが出来る?兵たちが頑張ってくれてはいるが…。何とかして人員を増やせないか?
いや、大体運ぶための労役すら準備出来ないかもしれないのだ。人員を増やそうにも限界がある。急に大勢の人間を雇うと言っても、直ぐに準備出来るものではない。農閑期の臨時雇いではないのだ。この季節では、どこの余剰人員も仕事を見つけているだろう。畑が崩れた分などで小作が浮いているか?これは誰かやって調べさせる必要があるな。
行きに何かを運んでもらえば、うちの領から労役を出すにしても効率が良いか?空荷で荷車を走らすことこそ無駄はない。そして、今アルミア領はほんの少しでも無駄をつくるわけにはいかない。出荷出来ていない鉄を運ぶか?だが、食糧の調達先はスルキア領になるだろう。道が復旧したところで、荷車をまともに通せるのはスルキア領かタルネン領ぐらいなのだから。だが、スルキア領は皇国の鉄の一大生産地だ。その与力でもあるタルネン男爵領もほとんど状況は変わらない。したがって、鉄に良い値が付くと思えない。それに、我々が入る余地が市場にあるのか?だが、我々の領でまともに売れるものと言ったら、その程度だ。多少の羊毛などもあるかもしれないが量はない。他に何か売れるものは無いか?
冬場は出来るだけ出稼ぎに行ってもらうしかない。それの受け入れ先は?村ごとに伝手はあるだろうが、それだけで捌ききれるか?おそらく、今年は普段は村に残るような女子供も出来るだけ働きに出させた方が良い。それだけ、食糧が足りないのだ。それに出稼ぎに行っても、きちんと帰って来てもらわなければ困る。これ以上、領の人の数が減るのは困る。だから、ただ出せばよいというものではない。向こうで飢えることなどのないよう、何かしらの手配は必要だ。いや、もしかしたら、村々で動いている者もいるかもしれない。これも誰かに調べさせなければ…。
旅程の支援も必要だろう。支援をすれば、出ていく人数も多くなるだろうし、途中で行き倒れる人間も減るはずだ。それに、帰りの旅費は必ず出さねばなるまい。そうでなければ、出て行ったままの人間が増えてしまう。それでは、領に残って飢え死にするのと同じだ。
それらを手配するための人員としては誰が良い?
あちこちに思考を走らせながら、先ほどの木札の裏に鉄筆で文字を書き付けていく。
無事、次の領主が決まったと思ったら…次々と問題が現れてくる。政争に飢饉…。次は戦争でも来るか…?それは勘弁してもらいたいな…。