―アルミア子爵領、アルム、ファラン邸、アイシャ―
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日は徐々に傾きつつあるが、未だ赤いというほどではない。南に開けた窓からは日の光。そして、さらさらと風が吹き込んで来る。日の明るさに陰りはないが、どこかしらから遠雷。部屋には大きく字の書かれた木版がいくつか掛かっている。卓上には四つの粘土板がおかれ、そこには妙な崩れ方をした文字が幾つか描かれている。
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すったもんだの後、短い時間だったが手習いを務めた。そんで、それも終わって、そろそろ帰ろうとした時。タッソから声を掛けられたってわけさね。
「やあ、アイシャ。お疲れ様です。」
随分と、にこやかな声で話しかけてきたね、この男。さっきは、如何にも顰め面しい顔でタヌを威圧していたのにさ。あんたね。本当にね。
それにしてもね。
「あんた、いいのかい?あんたは今日はここにいないはずだろう?」
あの妙に暗い部屋での一幕。わざわざ、家人にあたしを呼びにやらせて、自分は一切部屋から出なかった。座っていたのも、窓の外からは見えない位置…。つまりは、そういうことさね。
「いえいえ。今日はちょっと領内を見回りしていましたが、先ほど、戻りましてね。折角だから、わざわざ手習いの師をしてくれているアイシャを労おうと、こうして少し早めに帰ってきただけですよ。」
わざとらしさを感じさせず、さも当然かのように言いやがるね。
「ああ、そうかい。それはわざわざすまないね。」
しかし、本当に食えない男だね。まあ、仕事を考えると、そういうのが本性なのかもしれないけどね。
立ち話をしているあたしたちを見つけると、挨拶をして帰っていく手習いに来た子女たち。思えば、この手習いが領館ではなく、ここで行われているのも、つまりはそういうことだろう。
あたしだけじゃなくて、タッソの奴にも挨拶をしていく。つまりは、そういうことだ。
この子女たちはファラン家の与力の候補ってわけさね。本人らがどう思っているかは、わからないけどさ。周りがどう見るかって話もあるさね。
「本当に。アイシャは計算高くて助かりますよ。」
あたしがそんなことを思っているのも気付いているだろう。
「それは、誉め言葉になっちゃあいないね。」
全くね。
「それに、あんたには言われたくないよぉ。ねぇ?」
私はタッソを睨めつける。あたしの可愛い妹分に手ぇ出そうだなんてね。太ぇ野郎だよ。あん娘はね。あたしがね。用意したんだよ。わざわざね。こんなこともあろうかとね。
なんてぇね。てめぇの換えにさ。用意したってさ。つまりさ。てめぇの浅ましさに苛まれるってぇもんさね。この野郎。えぇ?だから、あたしもタッソのこたぁ、責めらんないってわけさね。
そんな思いも込めて、あたしはタッソを睨めつける。つまりは…八つ当たりだね。本当に情けない話だね。
「別に、私も…。こういうことは、やりたくはないんですけどね…。」
ふぅん。
…色々あるんだね。
だからってさ。どうして、あたしがタッソに遠慮をする必要があるんだい?
「本当は、タヌが私のところに嫁入りする、という案もあったんですよ。」
タッソが素っ頓狂なことを言う。
それは、それでのっぴきならないんだけどね。あん子の気持ちなんざも考えてもね。まあ、そこに関しちゃ、あたしがどうこう言うの野暮ってぇか、不躾ってぇもんなんだけどねぇ。
「それは…まあ、良かったよ。そうならなくてね。」
「元々、その案に関しては…ほとんど可能性は無かったですけどね。私には許嫁が居ますから…。そう自由な身分でもないものでね。」
そんなことを言いながら、ふぅと息を吐く。
「ふん。あんたはあんたで大変だねぇ。」
「その辺に関しては、子供の頃から決まっていたので、腹は決まっていましたよ。」
成程ね。こいつはガキの頃から跡取りになることは決まっていたんだろうね。あたしらとは違うってわけさね…。
いや、別に大した違いじゃあ、無いんだろうけどね。それでも、それは大きい違いさね。
「それは、いいんですよ。未々、問題は有りますしね。いや、別に今回の件は解決に向けた一つの策がなったというだけで、何かの問題が解決したわけではないですからね。」
「そらそうだねぇ。」
「タヌはどこまでやれると思いますか?」
「あん娘はやる時はやる子だよ。あたしは大丈夫だと思うね。」
「…それは頼もしい限りですね。」
信用していない…てぇよりかは、懸念することが多いってことかね。そう思いたいところだね…。
「ケヘレのこともあります。」
確かにそれも一つの懸念点かもしれない。
あたしらの関係のことに関しても、ある程度は調べているってことだね。奴さんの懸念点。タヌの実の兄。あん男のことだね。悪い奴じゃあないんだけどね。肝心のところで踏ん張りが足りない。そんな奴さ。
だがねぇ…。
「奴さん、自分の妹のために生きているところがあるからね。タヌがファラン家の養女になるってぇたら、黙ってはいないだろうね。普段は情けない男なんだけどね。まあ、ちったぁ、なんざうじうじ言ってくるかもね。」
害は無いかもしれないが…。面倒なことになる可能性はあるかもしれないね。進んでいることがコトだしね。付け入る隙は減らしておきたいところさねぇ。
「言って聞かせることが出来る人は?」
「セベル様にお頼みよ。」
今考えられる案で一番直截なのが、それさね。
「セベル…様か。」
「そうだよ。セブ兄ぃだよ。」
「そうですね…セベル様に頼みしょうか。私としては、あまり頼りたくはなかったのですがね。」
確かに…色々考えるとあまり良い案ではないかもしれないかもしれないがね。変に権威が付くってのも考えモノってぇもんだね。セベル様が出るってぇこと、それなりのことになっちまう。
「ふん。奴さんは気の良い男さ。頼めば、乗ってくれるさね。そうじゃなきゃ、あたしらも、こうしてこんな田舎にわざわざ着いては来ないさね。」
だが、セブ兄ぃなら何とかしてくれるってぇ、あたしはそう信じているよ。
「ははは、確かにそうですね。」
「ほんじゃまあ、そろそろお暇するよ。何しろ、身重の身でね。家まで歩くにもね。時間が掛かるもんでね。」
「確かに、そうですね。気遣いが足りませんでした。輿でも出しましょうか?」
「あたしはそんな身分じゃあないよ。それに、少しは歩いた方が良いって言われているしね。」
「そうですか…。それでは、せめて見送りだけでも。」
「まあ…そんくらいなら受けようかね。じゃ、アーシャ。待たせたね。帰りの支度でもしようかい。」
帰りの支度をして…、まあ、大した物は持って来てはいないし、ほとんどアーシャがやってくれたんだけどね。全く、あたしも偉くなったもんさね。
門扉に立つとタッソが声を掛けてきた。
「あと乳母ですが、コシャで良いですかね。」
コシャってぇと、領館住み込みの奥さんだね。確かに、この前二人目が出来たって言ってたね。
…乳母なんてぇもんを貰うような身分じゃあないと思っていたんだがね。
だけど…こうキナ臭い状況だしね。あちら、こちらからそう言う話を持ち掛けられることも何回かあった。あたしは、そう大層なモンじゃあないと断ってきたけども。
…そう断り続けるのことも出来ないってことかい。
難儀だねぇ。
「あいよ。そうだね。気立てのよい姐さんだしね。あたしにはもったいないぐらいだよ。」
それに…まあ、タッソの奴が選んだんなら、未だマシってぇことだろうよ。あまり、タッソの奴が進めるようにばっかして、取り込まれ過ぎるのも良くないだろうけどね。今は自分でどうこう出来るもんでもないからね。
「では、こちらから伝えておきましょう。アイシャが出ると何かと角が立つ場合もあるので、私が決めたということにしておきましょう。」
「まあ、角が立つだなんだがあるなら、そうしてもらおうかねぇ。」
本当に面倒臭いねぇ。
「立派なご世継ぎをお願いいたしますよ。」
アーシャが門扉を開けて、あたしが出ようとすると、タッソがそんなことを言ってきた。
「あいあい、ありがとね。」
それに対して適当に答えて、あたしはファラン邸を去った。
世継ぎねぇ…。
あたしもらも…大した身分になったもんだよ。
見上げれば青い山。緩やかに飛ぶ鳥。
その鳥が公都で見たやつ同じ種類かはあたしにはわからない。