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而鉄篇  作者: 伊平 爐中火
第2章(前編)荒天
81/139

―アルミア領、森の中、セッテン―

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厚く雲はかかっているが雨は無い。山中に懸かる靄は雲の名残か、それとも気化した先日の雨か。いずれにせよ。あまり見通しが良い様ではない。鬱蒼とした常緑の木々、今年芽吹いた下生えの若草は僅かに濡れている。南方の高い斜面はてらてらとして、見るからに滑りやすそうだ。遠くで、獣の鳴き声が聞こえる。鳥の声はあまり聞こえない。

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(緩い)

 土が緩い。

 雨が降り続いたせいか。

 老猟師、ここでの俺の師であるアゴオ師の元、森を巡る。まあ、師というのも俺が思っているだけだが。寡黙だが、聞けば答えてくれる。猟のことは許より。山の渡り方も。

 俺のいた土地のことを思い出し、それと比べて、土が緩いと思った。ここに来て一年にならないが、それまで見たここの森の土、それに比べても緩い。それを伝えたら、是の旨を伝えてくれた。

基本的に師と俺のやり取りはその程度。

 そもそも、森で時折会う以外は顔を合わせることもない。そんな仲である。今日も偶々会うことが出来た。そんなもんだ。だから、土のことも聞けた。僥倖だったかもしれない。

ふと、妙に土の臭いの強さを感じ、アゴオ師の言っていたことを思い出す。

 もしかしたら。そんな思いで山を駆ける。いや、駆けるは些か誇張。歩幅は小さく。浮石を踏まぬように。ただでさえ緩い斜面だ。足場には気を遣わねば。それは、地元と変わらないが。山歩き自体は変わらないが。射角の度合いも異なる。公都周りにはこうもきつい斜面は無い。一歩一歩確かめながら歩いていく。

 急いてはいるが、急いても仕方がない。緩々。ともすれば、そうも見えかねない歩みで、順に尾根を辿る、巻く。急くと谷に降り勝ちだがそれは良くない。水の穿ったは斜面は鋭く、歩むには適さない。逆に水に摩された尾根線は鈍い。

 極力踏み固められた獣道を行く。足元を隠す下草は無いに越したことはない。獣の近く通った跡。普段であれば望むそれを出来たら見かけぬことを願いつつ。

未だ慣れない山渡り。それを継ぎ継ぎ、一つ、抉れた沢に至る。振り落ちる滝は、地を穿って池を作る。獣道を辿って着いたのだ。おそらくは、普段獣の水飲み場もしくは漁りの場にでもなっていたろう。

 濁った水に手を入れる。

(草があるな)

 肱まで入れても猶草の感触。

(明らかに水位が上がっている、しかし…)

 しかし、既に雨も上がって二晩。草が生えていたところまで、水が上がっている。それの意味するところ。

 水から腕を抜き見上げる。

 幾本かの涸沢が見える。成程。いや涸沢であったもの、が見えるとも言える。苔生し方から察することが出来る。下流を、本来水の行く道先を、見やれば、大きな岩が落ちていた。自然の堤。雨で増えた水量をあの大きな岩を起点とした土砂が堰き止めているのだ。

感に入る…も、気付く。

 くっと立ち上がり、また山を渡る。

(麓まで一番近いのは…)

 今度は下り。下るは上りより技の道。今度こそ急く気を抑える要がある。急ぐとも谷に入るは禁。そう心に留める。麓に焦って降りようとする者が沢に嵌るは良くあることであるらしい。兎に角早く降りようということにのみ心囚われるとそうなる。水に削られた沢沿いの傾斜はきつい。滑れば真っ逆さま。そうでなくとも、突如として降りようもない滝に阻まれたりする。

 滝の周辺の様子を思い出す。

 師より聞きし、あれは水吹き出でるの形。長雨の後、土砂が崩れ川の流れを妨げることがあるらしい。普段より多い川の水を抑えるのであれば、良いことであるのだと思った。だが、そうではないらしい。結局のところ、その場しのぎ。いずれ、決壊する。

 そう、決壊する。

 そうなれば、どうなるか。大概に溜めた、溜めに溜めた水が一気に流れる。すると、どうなるか。まさに、比喩ではなく、堰を切ったようになるわけだ。急激に増えた水は開放され、川に流れ込む。それが一気に川を下る。途中に似たような堰があれば、勢い付いた水がそれをも破り、さらに水は増す。悪循環。そういうことが起きる。そう聞いた。

 土石を伴ったその怒涛はやがて人の里へと下り、人の造った堤をも破る。川辺の家や水車を掠し、田畑を侵し、人をも飲み込む。

 責めて川から離れるように伝えられれば…。何かしら対策を行うことが出来れば…。

沢の至る先を巡らせる。

 あの天然の堰が破れれば、まずはマーガ村、次にマヌ村、そしてアルムに至る。そのはず。

(…!)

 ぬると泥のぬめる。その感触。慌てて何かを掴もうとするも小枝。掴むも簡単に撓む。手を着くも土に滑る。身体は支えを失い、強かに尻を打つ。骨までは行っていないだろうが、立つにしばらく掛かる。脚を伸ばせば、疼痛の尻から大腿に走る。

「くっ…」

が、ここで蹲っている場合ではない。弓の折れているのに気付くが、それも構ってはいられない。ぐっと力を入れて立ち上がる。

 その瞬間。

 どうっ、という音。

(間に合わなかったか…!)

 土の臭いが不意に強くなる。明らかに水の馳せる音。

 村々の中央を走る川の、その周りが思い浮かぶ。

 未だ、未だ。水より速く走れば…。

 どうどうと音がして、そして…それも聞こえ辛くなる。遠くなる。

 何故、もっと早く気付かなかったのか。後悔の念のみ浮かぶ。助けられたかもしれない。助けられなかった。何か、俺のここに来た意味があれば。そう思った。結局俺は前の冬、自分の糧すら得られなかった。狩人とは…。俺のいる意味とは…。そんなことも思った。責めてもの山の見張り、そんなものすら為せはしない。

 なればどうして、俺はここに来たのか。

 どうして、俺はここにいるのか。

 尻の痛むに耐えながら、ほうほうの体、といった有様で、山をようやっと下っていく。

 これでは到底、水に追いつくなど叶うまい。

(それでも…)

 と思い、責めてをも、と思い、己の身体を叱咤し、ぐずりぐずりと森を行く。

(間に合わなかった…ろうな…)

 山から続く尾根線沿い。その先の村の全貌を望める崎。ふと、木々の切れる箇所。眺望良く、ふいに一つ向こうのマヌ村の片鱗を見せるほど。いや、それ越えて領都アルムにある領館の尖塔をも望めるかもしれぬ。靄かかる曇り空すら無ければ。そこから、ちらりと見えた村は水に浸かっているように見えた。


 慙愧の念絶えず、マーガ村に至る。今更、ここで何をすると言うのか。水が何を攫ったのか。そんなものを見てどうするのか。

 水車は毀たれたか。石造りの頑丈な小屋のその壁のみ濁流に叩かれている。うっうっと水のいなされ右行く左行く。右は本流。左は今出来た支流。その支流の先には見慣れぬ池。ごうとでも、がっとでも、音を立てただろう。ここからでは音までは聞こえないが。今一つの家屋が倒れた。流れた。

 折角、植えた穀物、野菜の芽。そんな柔らかなものはこの暴威の前にはなすべくもない。

茫然、自失。そんな状態と言っても良いかもしれない。かつてあった物どもが水に浸され。村の北側だけであるが…。それは浚っていった。己が増上慢。それを思い知らされているような。そんな心持。

幸い川の南側には被害は少ない。そこを歩いていく。右の左を見ながら。好奇心から激流に手を翳さんとする幼子。それを留める母親。南側の淵には幾人の人々が立ち並ぶ。悔恨に満ちた表情もあれば、茫然とするもの、転じて彼岸の火事の如く眺める者。

 どうどうと流れる水の、それの及ばぬ小高い丘の崖の上。際を川に抉られた。

「ん、あぁ…お館様の…。」

「あぁ…」

 見知った顔。ガヨン老。ここの顔役の一人。深い皺の刻まれた浅黒い肌、それに似合わぬきちんと揃えられた髪。髭の手入れも行き届いており、この状況だに産毛も見せぬ。彼は小村の知識人。かつて、流れで居着いた皇都出の博士に学んだらしい。今でも田舎の小村に似つかぬ重たい史書を幾つも持っている。

「すみませんでした。上の堰の切れんばかりを見たのですが…。間に合わず…。」

老は厚い眉の下から、のっそりとこちらを覗き上げる。そして、そのまま怒涛に眼を向き直す。

「いえ、解っておりましたとも。随分と振ったわりに水嵩の増え方が少のうございましたからな。」

 土色の流れはどうどうと流れる。堤の切れた先に注がれる。元、川で無かった範囲では流れが遅くなるのがわかる。つまり、逆に言えば、どの程度の面積が水に洗われてしまったのがありありとわかる。

老の言葉は随分と齢下の俺にも礼を欠かさぬ敬い言葉。領主、セブ、セベル、領主の客人…客人となれば無碍には扱うまいか。その尊崇と窮屈さ。飽くまで、こちらへの一種の敬いの念こそ保つが…。どこか、地元の古い大人たちを思い出す。

「解っていたのであれば…。堤を補強するなど…。」

「…。あそこは、そのための土地でございます。いえ、そもそも、この村の成り立ちこそが、そのためのもの。川の氾濫のあった時、ここらで流れをどうにかしなければ、領府に流れ込みますからな。」

 老はまた水に眼を向ける。

「…。」

 何か言おうとして黙ってしまう。

 村がどのような構成になっていたのかを思い出す。今、水に浸かっている辺りは、外の小作人たちの家と畑があった場所。確かに川の流れを思い出してみれば、まず堤が切れるのはあこだったろう。

「5,6年に一度はあそこの堤は切れます。代わりに滋味豊かでしてな。耕さずにいるのは如何にも勿体ない。」

 聞かずとも答える老。

「そうですか…。ならば…仕方ありませんね…。」

 どこか、ぐっと疲れが出た。そんな思い。

 俺が走ろうと走るまいと…。いや、今はあまり考えたくもない。

 山に…戻るか。

 猟にこそ出たが、未だ何も得られていない。

「では…、俺はこれで…。」

 目礼する老に、目礼で返し、来た道を戻っていった。

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