―幕間―
レンゾ・テニニを描く上で欠かせない存在であるのが、彼の妻であるとされる、
アイシャ・アルミア
である。彼女もまた公都アキルネから、セベル・アルミアに従い、アルミア領に向かった一人であると言われる。
アイシャ・アルミアは、その姓にある通り、アルミア家に名を連ねてた人物である。セベル・アルミアの実の妹であったとも言われているが、彼女がアルミア領拡大に際して旧アルミア子爵領の、その代官就任において養女として迎えられたという言が有力である。どのみち、セベル・アルミアとは公都以来の仲である。
しかし、彼女の来歴、業績と言ったものを考えるのは中々難しい問題であると言わざるを得ないだろう。後世の史家にとって、悩ましい人物である。つまり、現在まで残っている記述が少ないのである。
まず、当時を描く史書として最も有名な二書を次に挙げる。
セルシア皇史
ダイア公家先代史
この二つは言ってみれば公的な記録である。
「セルシア皇史」は言うまでもなく、セルシア朝の正式な記録である。セルシア家の成り立ちからセルシア朝成立までのおよそ400年、セルシア朝成立から滅亡までのおよそ400年からなる。当代から残る資料としては有名であるだけに多くの偽本があり、真偽の見極めは困難である。特に、セルシア皇家を継いだアルサーンス皇家によって、都合良く、それだけならまだしも、あまりに杜撰に記述の変わっただろうと考えられる箇所も多く、必ずしも信用出来る部分ばかりとは限らない。
ただ、セルシア皇家末期に皇帝に強諫し誅されたタカン・アルミアの属し、その代で絶えたアルミア大公家に関しては、アルサーンス朝時代における改変に際しても比較的同情的な部分も多いとされる。むしろ、亡きセルシア皇家を貶めるため、過剰な礼賛を含む部分は否めない。その草創期たるセベル・アルミアに纏わる列伝に関しても同様である。
次に「ダイア公家先代史」である。これは、アルサーンス朝の時代に編まれたもので、アルサーンス朝成立以前のダイア大公家の来歴を記したものである。もちろん、その始祖であり、アルミア家家臣であったナナイ・ダイアに関してはそれなりの紙幅を割いている。結果、彼女に関わった人間に関しても記述が多い。先に述べたかもしれないが、ナナイ・ダイアは<彼方翼>として、アルミア大公家八傑に列する人物であった。またセベル・アルミアに公都アキルネから従った人物の一人である。彼女は主として諜報任務に就き、名をなした人物である。諜報を主とした故にアルミア公爵家の虚実にも明るく、結果として重用されたとされている。
アルミア大公家の家臣として始まったダイア公家が、その先代史においてアルミア大公家を貶めるはずもない。アルサーンス朝時代において、アルミア家の名が忌まわしい前王朝のものとされていたならまだしも、むしろ最後の良心として民衆の人気を博していたのだから尚更だろう。ダイア大公家初代たるナナイ・ダイアの関わった人物たちとして、公都アキルネ出身のレンゾはじめとする、歴史の表舞台に立ちづらい人間たちの描写も比較的多い。
さて、話戻ってアイシャ・アルミアについてである。この2史書における彼女に関する記述はどうなっているだろうか。
ただ、史書を辿る上でややこしいのは、アイシャという名は当時かなり典型的な女性の名であったことだ。アイシャという名前はセルシア朝初代皇帝であるゼン・セルシアの皇妃であるアイシャにあやかったのものであり、時代の下った当時では庶民にも多い名前であったらしい。初代皇帝ゼンの妃であったアイシャは当時でも庶民人気が高く、女児につける名前として広く使われたのだ。
これを考慮して、今着目する人物周りだけ眺めてみると以下である。
まず、「セルシア皇史」に関しては、アイシャに関する記述はたったの3か所のみとなる。
1つは、セベル・アルミアの公都アキルネ出立の項である。ここには、付き従った人物の名前が列記されているのみである。その中にアイシャという名前がある。セベル・アルミアに従った人物の多くは志半ばで倒れている。そのことを考えると、別に、ここの、アイシャ、と言う名の連ねる彼女が、後のアイシャ・アルミアであるという証拠は無い。が、多くの史家はここに記されるアイシャこそ、少なくとも、例えそれが別人であろうとなかろうと、アルミア旧領の代官アイシャ・アルミアもしくは、レンゾ・テニニの妻。アイシャであるだろうと言う。
次は、列伝の中、セベル・アルミアの項である。これは、セベル・アルミア伯爵への陞爵の際に、元のアルミア子爵領の代官として、セベル・アルミアの娘、アイシャ・アルミアが赴任した、とある箇所である。これは通説が正しければ、セベル・アルミアがアルミア家を継いで六年目のことである。セベル・アルミアが公都出立の時点で子がいれば、実子という可能性も否めない。しかし、当時家柄が低い者を重職に任ずる際に当主や有力家臣の養子とすることは一般にあったようだ。
最後は、セベル・アルミアの家臣に関する、騎士列伝である。ちなみに騎士はセルシア朝では一代貴族を指す。しかし、騎士列伝時代は必ずしも騎士に叙爵された者のみを記述したわけではない。永代貴族連は譜代の家臣や類稀なる業歴をなした家臣に騎士爵を贈ったことから、騎士列伝は概ね各貴族における家臣団の中の英才、英傑を記したものとなった。その中にレンゾ・テニニも含まれ、その妻としてアイシャの名が記されている。が、それだけに過ぎない。
「ダイア公家先代史」を見てみよう。
「ダイア公家先代史」における「アイシャ」という人物の名は、合計十数か所あるが、年代を考えると、今着目するアイシャ・アルミアもしくはアイシャ・テニニに相当するだろう箇所は4つである。残りのほとんどはナナイ・ダイア死後のことである。
まず、重要であるのが、ナナイ・ダイア本人がアイシャの手紙を受け、アルミア子爵領に向かったという箇所である。ナナイ・ダイアは当初からセベル・アルミアに従ったわけでは無かった。実は、これはセルシア皇史も認めるところである。先に述べた、公都から当初セベル・アルミアに従った若者の名にナナイという名はない。
次に、ナナイ・ダイアとアイシャなる人物との諍いがあったという箇所である。これは、ナナイ・ダイアが諜報・調略畑に本格的に踏み出す契機になったとあるが、その内容に関しては伝わっていない。
また、ナナイ・ダイア晩年において、彼女の邸の給仕としてアイシャという名の者がいたとある。セベル・アルミア訪問の際、これに気付いた彼がアイシャという人物を懐かしんだという項である。これはアイシャという人物が彼らにとって重要であったということを指し示すことにはなるだろうが、来歴について何も触れられていない。
最後に、ここからの話の展開に重要な部分である。セベル・アルミア着任の二年目、アルミア子爵領は不作の年であったらしい。こういう時、当時は口減らしのために農民らは都市に押し寄せた。特に、一地方のみの不作であれば、流通の滞りにくい都市へ行くのが一番だからである。また、冬季は元々出稼ぎに出ている人間も多かったので伝手のある者もいたことは想像に難くない。公都を出てさほど時間も経っていない、セベル・アルミア一行こそ、この伝手にも事欠かなかっただろう。
この時、農民らの公都行の指揮をとったのはナナイ・ダイアであった。その中に、アイシャの名があり、彼女はその時身籠っていたらしい。自然、楽な道のりではなかっただろう。しかし、飢饉の辺境よりも、諸々整った都市で過ごす方が良い、という判断だったのだろう。国土全体で衛生環境も整い、食に飽きた現代の我が国では想像もつかないことである。
さて、そのようなことのあった一年、どのようなものであったか見てみたい。