―公都アキルネ、公爵城、アイシャ―(1)
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白い天井。そこから続く壁には見事な刺繍編まれた綴織。勇壮なる叙事詩紡ぐものあれば、情愛奏でる抒情詩紡ぐもの在り。神代称えるもの在れば、己が妻賛美するものも在る也。その金糸、銀糸、真の紅にて彩られしは、只々壮観。人を威圧するはそれだけに非ず。白に青の彩る陶磁、金縁映える黒檀、精緻極める翡翠細工、紅玉青玉携える天使像、幾何数列模様に刻む金剛石。それらは、だだっ広い一間の壁際に飾られている。中央にはちょこんと向い合せの長椅子。これも柔らかい羽綿入った絹織布団の据え付けられた。北面した下座に座る女と、そこに控える幾らかの侍従。対する相手もおらず、寂しげにそこにおるのみ。
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少しゃあ動いた方が良いだろうってんで、今日は散歩ってなもんで、こうやって出張って来たってね。いや、散歩ってのはちぃと変な言い方かね。でもね、散歩ってな、そのくらいの気負い方が丁度良いのかもね。
辺りを見回す。どうにも、こうにも、あたしにゃ場違いじゃないかってぇぐらいの豪奢な所。あこの黒檀の棚、こんな人のいない客間に置いて何を入れるのか知らない、そんなアレなんざ幾らするんだろうねぇ。縁取りのあれは、真鍮じゃぁなくて、金。燻んだ様なんて、見せやしない。もしかしたら、よぅく磨かれているだけなのかもしれないけどね。それでも、それなら、それで、それはそれは手間が掛かっているってもんさねぇ。それだけの手間を掛けられるってのは、つまり、そんだけの余裕があるってこと。
こちとら、幾千の飢える民を抱えていて、銭も足らんでひぃひぃ言っているってのにね。本当。銭ってのは、あるとこにゃあるもんだね。
そうさ、何せ、ここは公爵様の居城、そのもの。本当の、本当さ、ねぇ。確かに、贅を凝らすにゃ一等適した場所さ。しかし、あたしゃ、こんなトコに来ることがあるなんてぇ、本当思ってもみもしなかったさね。えぇ?
本当、身重の身に無理させんじゃぁないよ、ってぇね。えぇ?こんなとこに態々呼び出してねぇ。
まあでも仕方無いさね。文だの何だの送っていたのはこっちだ。呼び出されたら答えないわけには行かないさね。そんなんしたら無礼ってなもんさ。
そうさ、あたしを呼び出した相手は…、公爵様の御姫君。
いや、その言い方は悪いね…、と言うか、そんじゃ何か当たらないね、少々語弊ってもんのねぇ…。なんせ奴さん、しっかとした女男爵まで叙爵された女傑。大河アキアを使い、そこからケルノ山地を越えてアルミア領に物を運ぶための肝要の地、そんな公爵領の北側にある其処を治める領主様、その御大将。御姫ぃ様ってぇのは、ちぃと可愛らし過ぎるってもんさね。
あたしゃ、それこそ、そのラシャ・オリア・アキルナ様は…、ガキん頃、何ぞの祭りで、確か…王国相手の戦勝記念だったか…、そんなお祭りで遠目にちぃと見た限りだったかね。多分、あたしより十近く幼かった…、そんな可愛らしかったお嬢ちゃんが今や女男爵さ。
ま、下町大将の兄ぃが子爵様に成ったんだ。生まれて此の方、高貴崇高におる御方の多少位階の昇るは驚くに値しないってもんかね。
しかしねぇ。女男爵様はおろか、執事連中すら姿を現さない。いるのは、給仕の侍女一人きり。こん人も茶を持って来て、通り一遍の挨拶した後、目を伏せ黙まり。
案内された一間は改めて見渡すまでもなく広大。
そんな一間でそんな中待つことどんだけ経ったか。
あたしらの訪い知らせるは十日は前。鐘の音、四つと先触れの伝えたはず…。その定刻は随分と前に鳴った。窓から伸びる影見るに五つの鐘まで、もう四半てとこ。偉い人ってのはそうだけどさ。こっちだって暇じゃないんだけどね。
ここにいるのは五人。内四人はアルミア領の連中さ。残り一人は直立不動の侍女一人。こん姉さんが黙んまり決め込んでるだけに、何か話をするだとかはやり辛い。そうやって、かれこれ一刻近くも、ここにいるわけさ。
厳しい顔をした侍女さんさえいなければ少しゃ談笑でも、駄弁ることでも出来ただろうにね。
それも無理ってもんでさぁ、ね。
共連れ連中にちらと目を向ける。
あたしの共連れは、侍女のアーシャ、公都別邸その仕切りウルメン、そして護衛の二人、ロウフとゾーオ。こういうのが仕事のウルメンや、ウルメンら公都別邸に雇われて長いロウフのおっさんなんかは慣れっこだろうが…、田舎育ちのアーシャやゾーオは長い緊張感に耐えかねているみたいだね。
「いや、悪い。待たせたね。」
気の紛らわせのために、茶でも啜ろうかと姿勢を傾けた、その瞬間。ばんっと扉を開け、颯爽と入って来た女美丈夫、そう言うのがぴったりの嬢ちゃんが入って来た。男同然に短く切り揃えられた髪に、かっちりとした男装。
成程、これが礼の女男爵様だね。
礼儀作法に則り、立って御辞儀をする。
「いえ、待ったなどと言うほどでは御座いませぬ。こちらから訪い伺った次第に御座いますれば…。」
酒場での仕事仲間で…、没落貴族のマメーから辛うじて教えてもらった、あたしにゃ縁の無いだろうと思っていた、貴族式の礼儀。アイカの婆さんに教えてもらった貴族式はちょいと艶の入ったモンだろうからね。一応、それに対して没落したと言え、マメーはきっちとそういうことを学んでいたはずだよ。
ま、結局礼儀見習いに終わっちまったマメーの礼儀がどこまで正しいか、適っているかなど知りようもないんだけどね。
こっちが頭を下げているうちに、ラシャ様は流麗にさっと向かいの椅子に座り続ける。
「ふふ、成程、私も立場故に公都界隈の付き合いと言うのは大体把握しているが…、アルミア家に、貴方のような麗し御婦人がいるとは…。ははは。知らなかったよ。」
しっ、と鋭い眼光を向けるお嬢ちゃん。成程、こう見てみると、あの可愛らしかった御姫様の面影があるね。そう考えると…、こう鯱張って、いるのも稚気溢れるって言うか、一方で何か寂しさ覚えるて言うか…ねぇ。
しかし…、あたしの、何か成り行きでなった、妙な立場…。それを責められても、本当、あたしゃ知らないよ、って投げ出したい気分ってもんさね。だが、相手が相手。それが近所の賢しら盛りの、クソ小娘小坊主だったならさておきさ。相対するは、手前の素っ首握らん御人さね。
だから、ここで変に開き直っても良いことなんざぁ無いってのは百も二百も承知ってもんさ。
だから、こう答えるしかない。用意しておいた通りにね。
「…訳有って…、市井に身を窶しておりました故に…。御挨拶遅れましたことは、平に御容赦を…。」
そう言って深々と頭を下げ、詫びを告げる。
嬢ちゃんの御指摘も御尤も。あまり繋がりや恩恵ってなもんを感じることは少ないらしいが、皇国開闢爾来アルミア家は公家の寄子。良く言って土豪、悪く言えば…、いやタゼイの爺さん曰く当に…野盗の親分だったアルミア始祖を招安して皇国に加えたのは、初代アキルナ公、ってな話。
ってなりゃ、仁義通すにゃ、一番に慮らにゃならん相手の公爵様。相対するは、その娘御って訳さ。
「ははは、確かに大叔父上は何かと奔放なお人柄だったという話だったというのは聞いている。」
しかし…大叔父上…ねぇ。
これではどう見ても赤字。勿論、行商としてやるのであれば、アルミア領で麦を売ってその儲けを、となりますが。ただし、ここまで計算は基本的に一人当たりが運べる麦の量を基準にしているので、ある意味で運用が完璧である前提であることも考えると、かなり厳しい。
じゃあ、これをどうするべきかと言うと、馬やロバと言った駄獣を使うわけですね。特に愚鈍の代名詞ともされるロバは100 kg程度を運べます。片道4日の糧食を自分で運んだところで、80 kg程度は運べます。そして驚くべきは賃金の面。確かに維持コストはかかりますが、意外と購入費用は安く精々庶民の年収の1/4程度。限界の価値観に直せば50~80万円ほど。安めの中古軽自動車を買う程度でしょうか。養うコストも考えれば、安い買い物では無い上に、馬丁の給金も必要になりますが、重量当たりの賃金は人間の4倍程度にもなりましょう。