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而鉄篇  作者: 伊平 爐中火
第2章(後編)飢饉の冬越し
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―公都アキルネ、アルミア家別邸、シーシャ―

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冬空は青く晴れて雲一つ無い。遠近で喧噪渦巻く公都とて、静寂(しじま)を感じられるところが無いわけではない。ここは貴族街のその外れ。そういう静寂の漂う一帯である。その中でも何を取り立てて言うでもない、二階建ての、申し訳程度の前庭の付いた邸宅が、アルミア家の公都における別邸である。

煙突からは仄かに煙が流れている。縦長の木窓は開け放されているが、風も弱ければ採光による暖の方が勝るだろう。邸内の一階の一室。門からは程よく離れ、通りからは簡単には覗けないだろう辺り。南向きの窓から屋内に差す日は深く扉の足元まで照らす。

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「今日も冷えるねぇ。」

 何やら書き物をしながらアイシャが独り言のように言う。

 アイシャが、娘が一人帰って来て、しかも身籠っていて、びっくりしたね。あたしは。いや、それ以上にね。筋向いのレン坊と一緒になって、そんでセブ坊を頭にして、何やらの貴族領に行くって言ってね。まさか一人で帰って来るだなんてね。ほんにね。

 まぁね。レン坊も子供ん頃から知っているからね。そんなことも無いと思っていたけどね。まさか…あん人が…ってぇこともあるからね。そういうことは大体、みぃんな、そう言うかんね。わかんないねって。ほんにね。良かったぁよぉ。ほんにね。そういうんじゃぁなくてね。

「でもね、お母っさん。アルムはこんなもんじゃぁ無かったよぉ。何せね。火を焚いとかないとね。部屋の甕の水まで氷っちまうのさ。ねぇ。コシャ、デーコ。」

「えぇ…、はい。そうですね。確かに…公都はアルムと比べれば暖かいですね。」

 そう答えるのは確かアイシャの乳母なんぞに就いたという…確かコシャさんって言ったかね。そして、それに、うんうんと首肯する娘さんは侍女だって言うじゃないの。そん人らに女主人然として声を掛けるアイシャ。

 …。

 何ともね。

 ほんに、そう。

 別に、寒いを自慢にしても仕方無かろうにさ。貧乏自慢じゃあるまいしね。

 それにね。そう偉くならなくなって良いのにさ。

 そんなことよりさ。出来たらねぇ。もぉーちっと楽なところにね。いて欲しかったもんさぁね。親としてはね。そしたら、こうやって嫁いだ先からわざわざ帰って来ることも無かったろうしね。幾ら、警護の兵連れてさ。供回りの者共連れてってだってさ。身重の身でさぁね。えぇ?帰って来るにしたってね。大事を取ったってのもあっても、八日もかかってさあ。

 本当に、態々そんに遠くに行かなくても良かったのにねぇ。

 そう思っていたことが、ついと口を出てしまう。

「そんに寒いじゃぁ、仕方無かろうに。別に、わざわざ、そんに…。酷いところにねぇ。遠くに行くことは無かろうによ。レン坊は親方さんの覚えも悪くはぁ無かったろうによ。まぁ…アキルネの工房継ぐかはさておきね。ソアキぐらいの暖簾分けを任せられるぐらいにはなったんじゃぁないだろうかい?」

 まぁ、ソアキとまではいかなくてもね。もちっと近いところでぇね。そこらの名も無い村でもね。食うには困らないだろうにね。そこを、変に栄達求めてね。親としちゃぁねぇ。もう少し近くにね。いて欲しいもんだがねぇ。

 アイシャは少し顔を背ける。窓の外を見やったようにも見えるし、只顔を背けただけにも見える。

「そんでも、お母っさん、仕方なかったんだよ。ねぇ…。だってさ。」

「そうは言うけどね。あんた。」

 あたしは、どうしても、ついつい遮るように言ってしまう。

 あぁ、あぁ、ね。どうにも。こうなっちまうね。いつまでも子供じゃないだろうに、つい叱言が出てしまう。

 嫌だね。歳ってぇヤツかね。

 変な空気が流れる。

 悪いね。お付きのうちの幼い方なんか、随分とキョロキョロとしちまっているよ。本当に悪いことをしちまったね。

 これは…、そうだね。この険悪さ。もしかしたら、これが肉親の特権ってのかもしれないからね。どうせ、切れない縁だからと、どこまでも不機嫌を呈することが出来る。

 別に快かないけどもさ。

 あたしが、アイシャとレキシャとを連れて村に一度帰った時を思い出すよ。おっ母さんと変に言い合いになっちまってね。

 おっ母さんとは、それっきりになっちまたがね…。

「…あぁ、そう言えばね。あたし、今日は…、ちょっとね。そうだったよ。ちっと、夕の務めの前にね。少し寄るとこがあるんだったよ。」

 かと言って、無駄に言い合いしたいわけじゃないのさ。

 婆ぁは早々と去ることに決めたよ。

 …孫の顔ぐらいは穏やかに見たいもんだがねぇ…。


 楼と言うには背の低い、ちょっと儲けた程度の商家とそう変わらない、でも貴族家の別邸というのには少々みすぼらしい、それでもあたしらみたいなモンが済むには大仰な、それ以上に庭木に細々手入れの行き届いた、路も掃き清められた、少なくとも此処を営む人らの意気込みぐらいは感じさせる、そんな邸を辞す。

(ここは悪いとこじゃあ、無いんだけどね)

 若い頃はそんなことには気にも留めなかったけどね。やっぱり、こういうとこきちんとしている家は繁盛するってぇね。もしかしたら、こういうことに目を向ける余裕が無くなった時点で零落し掛けているって話かもしれないけどさ。

 貴族街の小道をぼつぼつと歩いていると、若い男が慌ただしく走って来た。そのまま、こちらに浅く会釈して邸に入っていった。恰好からすると、ここで雇われた下男か何かだろう。

 あんなに急いで何かあったのか知らん。

 あたしが気にしても仕方無いしね。

 しかしね。飢饉だってね。アイシャと連れ立って来たのとは別に大分北の民が流れ込んで来ているってね。そうすると、またぞろ問題も起ころうもんて。

 大勢流れ込んで来て…。こういう時、余所者が沢山来た時は、色々問題が起こる。

 育ちの違う者が沢山いるんだ。あっちやこっちやで、喧嘩も起こる。てめぇの育ったとこが違うんだもの。話す言葉も異なれば、考え方だって千差万別。一つ何か物をこっちからあっちへ運ぶのだって大騒ぎさ。人が向こうから其方へ行くんだって、てんやわんやさ。

 それだけじゃないね。

 もう噂にも上っているからね。南門の方は酷い有様だってさ。宿も碌に決めてない、決められてない連中があぶれてさ。天幕すら張らずに、身を寄せ合って暮らしているってさ。

 そんなことになれば、どうなるかってさ。

 わかっていたってもんさね。あたしが公都に来て、幾年かした頃あった南方の不作の時なんざも酷かったものねぇ。

 本当に酷い様だってね。あたしは怖くて見にも行っていないけどさ。行って変な病いでも貰って来ても嫌だしさ。身内に身重の人間もいるんだ。余り危ない橋を渡りたくないんでね。

 でもやっぱ聞いた話だけじゃさ。そこらに糞尿は垂れ流しだし、誰のものかもわからない仏様もゴロゴロしているってさ。腐臭が立ち込めて、とても人の過ごせる場所じゃないってぇ有様。そんでも奴さんら行くアテも無いってんで、そこに屯っててさ。大公様の兵まで出張って整理しているけども、人数が人数ってもんでって話でね。じわじわと十四番街の方まで、人が滲み出てね。あたしの住む八番街まで来るには未だ間があるだろうけど…。

 アイシャの言うことにゃ、アルミア子爵領ってのから来た連中ってぇのは統制が取れているから、そういうとこには群れていないってぇ話だけどね。

 いつ何時、縁者の類が駆け込んで来るかも分からんさね。

 さっきの…、走って来た下男も…。何を、どんな話を持って来たやら…。

 別にあたしも、奴さんらが為す術もなく、おっ()んでしまえば良いだなんて思ってはいないけどさ。こっちとしてはさぁ…。

 本当、言いたか無いけど、こっちの平穏に手を出すのだけは…止めておくれ、って…、そう思うのさ。

 では、運べる量と、ここまでで考えた人の食べる麦の量と比較して輸送コストを考えてみましょう。

 人が一年で消費する麦の量が220 kg程度。つまり、365日働くとしたら一日当たりこの程度の給金がないと流石におかしいわけです。養う家族がいるなら、さらに高くなる。また、運搬の仕事が終わって直ぐに次の仕事に就ける保障がないことも考えるとさらにコストは高くなる。さらに言えば、そもそも運ぶ人間も日々食べますから、これの消費も考えなければならない。極端な話10 kgしか運べないなら行程が往復17日に及んだら、運んでいるものを食べつくしてしまうわけです。

 設定上麦の一大生産地であるソアキからアルミア領は片道4日、往復8日の行程、大体東京から静岡程度の距離。人間も馬も休息が必要なことを考えると往復すると10日程度は必要だったでしょう。とすれば、人が運んだ分の20-30 kgのうち6 kg分程度20-30%程度は道中の糧食として消えたことになります。最低ラインの10 kgともなれば半分以上も輸送コストとして潰えるわけです。

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