―アルム、領館、タッソ・ファラン―
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領館の部屋は採光のためほぼすべて南向きにある。領主執務室と同じく2階にある家臣執務室の一つで、タッソ・ファランは算盤をはじきながら、紙に数字を書き込んでいく。横では、彼の家の譜代の陪臣、ゼンゴが書類の順を整え、タッソに渡す。そして手を休めフと息を吐く。ゼンゴはそちらに一瞬目をやるが、元の整理の作業に戻る。
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現当主のセベル様が来てから、領内の事情も大分良くなった。何せ、結局父が指定したという上限三十人、ほぼめいいっぱい若者を連れてきてくれた。家令である私の仕事も大分軽減されるだろう。
弱小子爵である、うちはそもそも労働人口が少ないことが問題になったりする。どうしても、ある程度の都会に出稼ぎに出てしまう若者が多い。そういう若者からの税収は期待できないし、今のように盗賊が出たりすると、兵を募ることも出来ない。
それに加えて、最近、うちは嫡子を戦で失った。もちろん、嫡子であったカイベル様お一人だけでなく、同時に多くの若い兵も失ってしまった。貧乏子爵領のうちから出た兵は大貴族家から出た兵の数に比べれば微々たるものだったかもしれないが、それでもかなり絞り出してやっとこ間に合った兵たちだ。ただでさえ、少ない労働人口が大幅に減ってしまった。
具体的に言うと、200人送り出して帰ってきたのは89人だ。それに士官の多くは、アルミア領で役人も務める人達でもあった。そんな人たちのうち、約半分が亡くなってしまった。これはかなり手痛い。
それを埋めるように、セベル様の連れてきた方たちが、現在盗賊討伐に当たってくれている。絞り出した兵たちは今は休憩を与えてやらなければならない。公都組の面々十一名に加え、出征に参加しなかった兵が合力して何とか二十人規模の討伐隊を繰り出せた。当主であるセベル様も行ってしまったのは誤算であったが。うちにいる盗賊なんて大体は食い詰め農民のなれの果てだから人数さえ揃えば大丈夫だろう。
兵卒だけではなく、内務も捗っている。なんだかんだで、都会では最下層民より少し上程度の彼らでも、農民出の人たちよりも圧倒的に識字率は高いし、結構事務仕事なんかも助かっている。文官の立ち位置の人と、武官の立ち位置の人で上手くすみ分けて今年の徴税はなかなか円滑にいった。
今、私の執務室で手伝ってくれているのは、イマさんとアイシャさん。あとは私の事実上の秘書格である、ゼンゴ。ゼンゴは譜代のアルミア子爵家臣であり、私の家とも祖父の代からの付き合いだ。
イマさんは何と公都アキルネで司書をやられていたらしい。長屋生まれで司書なんての出藍と言えるだろう(父に聞いた話で私は都会のことはほとんど知らないのだが)。皇都から来た難解な儀礼文なんかもテキパキと処理してくれる。代替わりしたばかりで、しかも、その仕方が少々特殊だった、うちにはこの手の儀礼文が多く変則的な形で来る。これを読み解いて、適切な返答文を綺麗な文字で仕上げてくれる。アルミア子爵領始まって以来の才女ではないだろうか。
アイシャさんもすごい人だ。元々娼婦なんてやってたのに、事務仕事も難なくこなす。流石に、あまり文字ばかりの仕事は苦手、というか嫌いみたいだが、関係各所回って足でこなす仕事はどんどんやってくれる。人付き合いのいい肝っ玉女将さんのような人だから、うちの田舎村長さんたちに取り入るのも上手くて、私や父が直接交渉に行くのより余程早く話をまとめてくれる。
さらに、一番すごいと思ったのは、公都から来た人たちを上手い具合に仕事割り当てしてくれたことだ。セベル様は大雑把に武官文官だけ分けてくれた。けど、その中の文官分を私から割り当てしろと言われて困っていたところバシッバシッと決めてくれた。一番配置に困った旦那さんのレンゾさんと親友のミネさんだけは、セベル様が助言してくれたらしい。大丈夫だよ、アイシャさん。レンゾさんがどんなにロクデナシでもアイシャさんの稼ぎだけで食っていけるようになるから、なんて私は思っていた。
もちろん未だ始めて数か月だから、私が指示したり、指導したりすることも多いけど、子爵領で人員調達するよりも、遥かに楽が出来たと思う。貴族家にはよくあることだが、当主の代替わりに応じて、譜代の家臣団も代替わりしてしまった。仲には嫡子が未だ幼くてって言う理由で残っている人たちもいるけど、大体は20代か10代だ。
公都の人たちは他にも、今はここにはいないが、教会で働いていたヤメルさん、羊皮紙職人だったトトンさん、組合で事務をされていたクリンさんとソーカさんの御夫婦、服屋だったカーレさん、機織りだったタヌさん、元小売り商で働いていたメッケさん、なんかがこの領主館で働いてくれている。カーレさんは女中見習いをしているみたいだから、事務官というよりは子爵家内部の仕事って感じだけども。本来、私の継いだ家令というものも、少なくともうちでは、そういうのが専門だったはずなんだが、如何せん人不足でアルミア子爵領では内政全般も家令の仕事だ。
さて、私が悠々と家令の仕事を過ごしていると、問題児二人が飛び込んできた。
「タムゾ!金だ!金をくれ!」
「タッソさ~ん。お金下さい。お金です。」
一人はアイシャさんの旦那さんのレンゾさん。赤毛の偉丈夫である彼はどうにも威圧感が強い。
しかし、この人はここに来てから一か月ぐらい特に何もしてなかった。最近は野精錬の手伝いをしてくれているはずだ。野精錬は農閑期の小遣い稼ぎで税収にはならないけど、農民の生活が多少でも楽になるのであれば歓迎だ。ついでに私の名前を間違えている。
もう一人はミネさん。小柄で可愛らしい人であるが、髪は耳下ぐらいで切っているようだ。尼さんでもないのに。
アイシャさんの親友の一人らしい。そして、公都では薬師をやっていたとのこと。こっちに来ても薬師をしてくれるのはありがたい。子爵領にはちゃんとした薬師は今までいなかった。うちで取れる薬草なんかも色々試しているみたいだ。特産になるようなものもあるかもしれないと。
どちらも割とアイシャさんと仲がいい。アイシャさんの欠点は問題児を惹きつけることかな。私がアイシャさんの方に目を向けようとすると、既にレンゾさんの頭に蹴りを食らわせていた。そう言えば、踊り子もやっていたって言ってたね。実に流麗だ。
はてさて話を聞いてみると、
「おい!タルゾ!金だ!金をくれ!」
「タッソさ~ん。お金下さい。お金です。」
だそうだ。さっきと一言一句変わっていない。私の名前の間違え方以外は。何故、どのくらい必要なのか全くわからない。
「えーと、つまり何でお金が、どのくらい必要なんでしょうか。」
私は冷静に聞き直す。
「馬鹿か、お前は。つまり新型の炉にするための木炭と人と、後槌が、鍛造用の炉も足りん!」
「オツム湧いてるんですか。タッソさん。薬草を煎じるには硝子の瓶と火力調整出来る焜炉と、あとここにある薬草だけじゃなくて…」
何で二人同時に喋ろうとするかな。全く聞き取れない。アイシャさんに助けを求めようとするが、頭を抱えていた。
そこでイマ嬢がぽつりと言う。
「二人…とも…うるさい…」
この人たちは意外と上下関係がはっきりしている。正直両側から二人にがなりたてられていた私には辛うじて聞き取れるような言葉だったが、二人は黙って姿勢を正した。
「奥の…二人に聞く…」
イマさんはそう言うと自分の仕事に戻った。
目立つお二人に目を取られて気付かなかったが、よく見るとそれぞれの副官格のササンさんとセッテンさんが立っていた。くせ毛のササンさんは露骨に厳しい顔をしているが、セッテンさんは落ち着いている。まあ、元々セッテンさんに関してはまだ短い付き合いとは言え表情が動いたところは見たことないが。
まず、険しい表情のササンさんから話を聞いてみよう。
「ササンさん、そちらの要求と、出来れば最近の報告も兼ねてお願いします。」
そもそも、私はこの人たちが何をしているのかあまり知らなかった。セベル様が盗賊討伐出発前にある程度のお金を渡したことぐらいで、後はアイシャさんから聞いた雑談程度だ。この一月ちょっと何をしていたのだろう。
「まず、この一月何も報告していなかったことをお詫びします。」
「いえ、何もこちらから尋ねなかったのも悪かったです。」
セベル様のいない今私が少しでも状況を把握しておくべきだったと反省する。
「私達は、現在野精錬で採れる鉄の改善を目指しています。」
「採れる鉄の量が増えるってことですか?」
「どちらかと言うと鉄の質ですね。」
鉄に質とかあるのか。鉄は鉄じゃないのか。
「そもそも、一部でもてはやされている何とか鋼といったものもすべて鉄であるというのが、私達の、というかレンゾ…さんの見解です。」
「見解というのは?つまり確実ではないということですか?」
「どうやら、それに相当する鉱山というものが無いそうです。流通量から考えるとまず鉄ではないかと。その他にも色々ありますが、詳細は知りたければ、後でレンゾ…さんに聞いてください。」
後で、の部分だけ大分強調されたな。確かに、ここでレンゾさんに話させたらまたわやくちゃになるだろうからな。あと、矢鱈レンゾ…さんて貯めるなあ。仲悪いのかな。奥さんのアイシャさんとは仲良しだったと記憶しているだけど。
ササンさんは続ける。
「さておき、それで最初の話に戻るわけです。」
「あー、つまり製法を変えるだけで、うちの領でもグレイオ鋼を造れるかもしれないと。」
「流石にグレイオ鋼を始めとした何とか鋼って呼ばれる程度の質となると、鉱石から選定しないといけないかもしれませんが、少なくとも現在扱っているような鍋釜ぐらいにしか使えないものよりは良いものになるかと。末端価格では10倍から30倍にはなるでしょう。」
「そんなにですか?」
かなりいいものが出来るのではと期待してしまう。
「あくまで末端価格です。いい素材ほどいい職人の手に渡りがちなので、手間賃はその分かかります。あと、元々が安すぎるためです。情報が無い状態での基準ですが、公都で大衆向け金物屋をやっていたテガがあまり見たことない粗悪品と言われるぐらいのものから、何だかんだで公都で一、二を争う規模のレンゾ…さんの働いていた鍛冶屋で見習いに衛兵用の数打ちを作らせるのに回すぐらいの品位です。」
そうかあ、公都の大衆向けがどのくらいかわからないけど、多分安いんだろう。あと公都の衛兵ともなれば、そこそこいいモノ使っていそうだけど、これもわからない。
「なるほど。それで、どこにお金が必要なんですか。」
「私的見解で優先度順に話します。簡単なもので良いので鍛冶場を用意していただけると助かります。出来たものを鍛えて製品を作ってみた方が結果がわかりやすいので。」
レンゾさんの眉がぴくと動く。
「ただ、これはそれなりの予算を要するので、優先度は高いですが、あれば最良ということで。冬が来てしまうと調達が相当難しくなる、という意味も含めての優先度です。どこから調達するか、という問題もありますが。」
レンゾさんが少し項を垂れる。わかりやすいな。
「次に木炭の購入です。精錬には木炭が必要となりますが、やや心許ない状況です。今は節約しつつやっていますが、冬場に本格的生産しようとすると足りません。これは単純にレンゾ…さんの計算違いです。申し訳ありません。」
レンゾさんが、てへへ、みたいな顔している。可愛くはない。それをササンさんが今にも殺しにかかりそうな目で見ている。アイシャさんは呆れ顔と諦め顔と、一摘みの理解と愛情を感じる顔だ。めちゃくちゃ器用な表情するなあ。やっぱ都会の人は違う。ただ、それ見てササンさんがの圧が増す。レンゾさんは気が付かないが。
しかし、有能なササンさんは何とか続ける。若干怒りで手は震えているけども。
「後は、人手ですね。今はの人数ではどうやっても一日二、三回の精錬が限界です。こういうのは試す回数を増やした方が時間に対する効率は良いので。人数はいるだけいた方が良いです。後は人員補充していただければ、先に言った木炭も何とかなるかもしれません。これを一番最後にした理由は冬が来ても何とか調達できそうだからです。後で予算を付けてもらえるならいつでも大歓迎です。」
レンゾさんは鼻高々といった感じで構えている。ササンさんはアイシャさんに宥められている。
さて、状況はわかったので、もう一方の言い分を聞いてみよう。
「大体状況はわかりました。細かいことは後で報告書にでも挙げてもらうとして、次はセッテンさんお願いします。」
何だか出来る官僚みたいだな、私。
「ミネの要求は、端的に言えばレンゾと同じだな。研究設備の拡充だ。」
セッテンさんはササンさんとは違って端的に自分たちの要求から話して来る。ササンさんは公的機関で働いてきたみたいだし、自分の要求を通すため、利点から伝えてきた。一方で、セッテンさんは元は孤独な時間の多い狩人だ。交渉の仕方も違ってくる。多分に本人たちの性格の違いや、代理で説明する相手との関係性なんかも要因だろうが。
「現今我々が借り受けているのは、先々代当主殿の代にいた薬師殿の設備だ。確かに使えるものもあるが、流石に劣化もあるし、時代遅れの感も否めない。刷新を要求する次第である。具体的には先ほどミネの言った通り、硝子の用具と焜炉が急務であるな。ミネが言ったのは硝子の瓶のみだが、厳密には硝子で出来た匙といった用具全般だな。やはり、純度の高い薬品の精製には硝子の用具が適しているとのことだ。」
ところで、私の知る猟師はこんな堅い言葉遣いをしない。やはり、都会の方ではこっちの田舎とは違うんだろうか。私の知る猟師の方はどちらかと言うと、もう少し朴訥と喋る。でも、公都っ子丸出しの早口でまくし立てるアイシャさんやレンゾさんと比べれば、その辺は少しセッテンさんの話し方は地元の猟師にも近いかもしれない。
「それらは何で必要なんですか。」
「新薬と、…多分助かる人が増える…。」
助かる人が増えるのは非常にありがたい。アルミア子爵領はとにかく人不足だ。
「薬草採取は可能な限り俺が務めているが、流石に雪に埋もれては儘ならない。冬が来る前に可能か限り摘んでおきたいところだ。こちらと公都では植生も違う故、試してみなければならんことも多い。加えて、外から求めねばならんものこそ、雪が来ては手に入らん。それらも早急に手配願いたい。」
本当に自分の要求しか伝えて来ない。でも、大体状況はわかった。
しかし、困ったことだ。アルミア子爵領は貧しい。いつ金に代わるかもわからないところに資を回すほど豊かではない。どちらの要求もわかるんだが、うちに余裕はない。父が隠居を決めて、主君のセベル様の帰還がしばらく見込めない以上、私がある程度差配しなければならないのだろう…。
頭の痛い問題だ。
大雑把に必要なものはわかったから、具体的にどのくらいの金額が必要なのかは、後で試算書を出してもらおう。セブル様がミネさん、レンゾさんの両方にまずそれなりに予算を割いてしまったので、余裕はそこまでないと思う。そもそも、うちは今まで、「例年通りで、」で大体何とかなってきた。そんな領だから、具体的にどのくらい余裕があるかに関してはきちんと計算しなおしてみないとわからない部分が多い。皇都で学んだ会計学に照らし合わせたら、無茶苦茶もいいところだが、これが現実と受け入れるしかないしなあ。
うちが、もし、もっと発展することが出来るなら、お二人の案に懸かっている可能性はある。安定とともにある停滞に縛られた父の代に比べて、もしかしたらやりがいがあるのかもしれない。そんなことに幸福を感じられたら、いいな、と思う。
ついでにわかったことがある。この人達に渉外の類を任せられない。イマさんは愛想は無いし、気遣うとかできなさそうなことはわかっていた。アイシャさんはもしかしたらと思っていたが、想像以上に矢鱈表情に出る。ササンさんも嫌なことは露骨に表情に出す。セッテンさんはもちろん交渉力は無いし。味方に対してだったら有能な人達かもしれないが、敵かもしれない人間と交渉させるには、態度が露骨過ぎる。余程、うちの領の村長連中の方が考えを読み取らせない。
レンゾさんとミネさん?あれらは論外ですよ。敵対宣言になら、使えるかもしれないけど。
これは良くご存じの方も多いと思いますが鉄に炭素を添加したものが鋼です。
炭素を入れた量が少ないと軟らかく粘く、多いと硬く脆くなります。
焼き入れ条件でも出来るものが違うのも良く知られていることかと思います。
出来るもので基本となるのはフェライト、オーステナイト、マルテンサイト、セメンタイトと呼ばれるもので、これらはそれで一つの物質と言えます。
また、それらの組み合わせがどんな形で入っているかでパーライト、ベイナイト、レーデブライトなどの名前の付いたものが出来上がります。これらは混合物です。
有名なダマスカス鋼は後者でフェライトとセメンタイトが木目様に入り組んだ混合物になります。