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逃げた女 

3.逃げた女

二人が戻ってくると、捜査員全員が集まって3回目の捜査会議が行われた。

冒頭、柴田警部補より、死因と凶器について説明があった。「被害者はホテルに到着してすぐ部屋でビールを飲んだのだろう。鑑識の鑑定結果から、コップの中に睡眠薬が混入されたビールが少し残っていた。睡眠薬は即効性で強力なものだが、市販のものなのでこれから犯人を特定することは不可能だと思われる。現場状況から凶器は被害者自身のネクタイで絞殺だ。眠らされた後、たいした抵抗もないまま殺されたのだ。女性でも可能だ。犯人は逃走した連れの女性に違いない。」

続いて、織田刑事が次のような説明をした。「現場のムーンライトは主要国道である名四国道沿いにあり、周辺は非常に交通量の多い場所です。被害者と犯人の男女2人は3月10日夜20:30頃チェックインしたことが分かっています。このホテルにはマイカーでやって来る客が多いようですが車が残っていないのでタクシーか何かで近くまで来て来訪したのではないかと推測されます。その後の調査で、被害者自身の車は勤務先である足利製作所の役員駐車場に当日の午後から停めてあったことが分かりました。」

被害者の車が分かったことから捜査に進展があった。被害者今川は過去にも時々ムーンライトを使っていたことが分かった。今回が初めてではなかったのだ。時には白昼堂々と自分の車に女性を乗せて訪れることもあった。ホテルの地下駐車場の防犯カメラの過去の映像で確認されたのだ。また今川の車からのいくつか今川以外の指紋が出てきた。この中に犯人の指紋はないか?過去に彼の車に乗ってムーンライトに来ていた女と犯人の女は同一人物かどうか。真っ先に確認の必要があった。捜査本部は、防犯カメラに写っていた女の特定作業に取り掛かった。

今川と一緒にホテルに来ていた女の特定と同時に、「逃げた女を探せ。」これが捜査の命題だ。そのうえで、更には地道に今川周辺の女性を調査することも必要だ。との捜査方針が確認された。 


捜査本部に有力な情報がもたらされた。

事件から3日後、3月10日の夜、二人を乗せたのではないかというタクシー運転手からの申し出があった。ひばりタクシーの本多清勝ほんだ・きよかつだ。テレビの報道を見ていて、もしや自分が乗せた二人ではないかと思って県警に申し出たのだ。柴田勝警部補が事情を聞いた。本多運転手の証言はこうだ。「同夜、夜8時頃、名古屋の歓楽街、栄で2人を乗せました。タクシーを流していると前方で男が手をあげたのでそこに停車しました。男性が先に乗り、続いて女性が乗ってきました。男性が『緑区の桶狭間に行ってくれ。』と言うので『高速を使いますか?』と尋ねたところ『そうだな。』と言われました。名古屋高速を通って、大高インターで降りました。そのまま、一般道を少し走ると『そこを左に曲がったところで降ろしてくれ。』と言われ、ホテル街の手前で二人を降ろしました。この先にラブホテルがたくさんあるので、二人がこれから行くことは直ぐわかりました。女が先に降りて、料金は男性が払い、その後、車を発車させました。」と証言した。「車の中では女の方は何か話していませんでしたか?」と柴田が尋ねると「ほとんど話していません。男の方は『何か、・・・が美味しかった。』とか女に話しかけていました。女の声は小さくほとんど聞こえませんでした。」本多運転手が答えた。すると、本多は思い出したように言った。「ただ、女の胸に何か白く光る物ものが見えました。」更に続けた。「降ろした場所がホテル街の端っこであるため、不倫のカップルか、水商売の女性と客の中年男性のように見えました。」最後に柴田が「タクシーにはドライブレコーダーが付いていると思いますが、映像を提出してください。また、車両も調べさせてください。」と依頼した。「分かりました。車は会社の配車センターにそのまま停めてありますがどうしますか。」と本多が聞き返す。「直ぐに、鑑識の者を向かわせます。」と柴田が言った。


県警は本多が運転していたタクシーのドライブレコーダーの映像の全てを押収した。カメラは、タクシーの進行方向と後方の映像に加えて、車内の映像もあった。3か所からの映像だ。車内のものは、客席方向に設置されタクシー強盗にあったときなどの対策のためだ。お客のいる後部座席はしっかりと映っている。最近では、強盗まではいかない、カスタマーハラスメント、通称カスハラが多い。タクシー運転手がお客から迷惑行為を受けるケースが増えているのだ。暴言を浴びせられる、何度も同じようなクレームを言われる、説教される、拘束されるなどだ。こうしたカスハラからドライバーを守るため、タクシー業界全体で対応策として客席方向にもカメラを備え付けた車両の普及に努めているのだ。

押収した3つの角度の映像を確認すると、名古屋の繁華街、錦3丁目のコンビニの前で男性が手をあげ、タクシーを止め、先に男性が乗車、つづいて女が乗車した。運転手の証言どおりだ。女はつばの広い帽子を深くかぶり、マスクをしておまけにサングラス姿、そのため年齢、人相ともよくわからない。日常なら、こんな姿の女を見れば誰でも不審に思うだろうが、コロナ禍の現在では決して誰も変だとは思わない。この時期、タクシーに乗車するのにマスクを着けるのは、エチケットとして常識であり、むしろタクシー乗車にはマスク着用が求められていた。

カメラに映った女の服装は、上は薄いベージュ色のコートを着て、下は黒のスラックスのようであった。男性は、被害者で間違いなく、マスクをしてビジネススーツ姿であった。車内に遺留指紋が残っていないかと期待されたが無理であった。ドライバーが毎晩、業務終了後に配車センター戻ったところで、業務マニュアルどおり念入りに客席をアルコール消毒していた。コロナのご時勢では仕方がない。座席、ドアーのぶ、ひじ掛けに至るまで隅々までしっかりとふき取っていた。最後に乗車したと思われる客の指紋がかすかに採取されただけだ。10日の晩のものは全く残っていない。その間に何回も念入りなアルコール消毒がされていた。


織田右近刑事と斎藤蝶々刑事のコンビが鑑識課で映像を見ていた。ドライバーの証言どおり、確かに女の胸に何か白く光る物ものが映っていた。「右近さん、女性の方はコートを着ていて上着は見えない。下は、コートの裾から黒っぽいスラックスが見えるわ。確かに胸に白く光るものがある。多分、真珠のネックレスかなあ。でもマスクとサングラスにつば広の帽子までかぶっていて顔の表情は見えない。誰だか全く判別はできないわ。年すら全くわからない。」と斎藤があきらめの声で言った。確かに捜査に貴重な情報である犯人と思われる女性の映像が入手できたのだが、鼻から下の口元はマスクで見えないし、さらに帽子とサングラスでヘアースタイルも目元もわからない。コロナが犯罪捜査を妨害しているのだ。「これでは、似顔絵も書けないわ。」と似顔絵上手な斎藤が嘆いた。

 「蝶々さん、女性の目で見て、帽子とサングラスについては、何か思いつかないか?特徴とかブランドとか、或いは一般的でごく普通のものなのか?もし、ブランド品ならそこから犯人に辿り着けないか?」と織田が尋ねた。「そうね。私はサングラスしないのでサングラスのことはよくわからない。色は黒で大き目サイズね。レイバンの高級品だと辿り着けるかもしれないが。帽子の方は私もいっぱい持っているわ。でも近頃はアマゾンのネット販売でも安くて良いものをいろいろな種類から選べるから、帽子から人物の特定は難しいと思う。これは見る限り、色は紺色。防寒用で耳まですっぽりと入っていて、小顔に見えるアウトドアーの人気のタイプ。だから大量に出回っていると思う。1,500円から2,000円で買えます。サイズは大きそうだが、ポリエステルやコットンで折りたたみも簡単で、帰りはポケットやカバンの中に簡単にしまえるわ。」と斎藤が詳しく説明するのを聞いて、残念そうに織田が言った。「それじゃあ、マスクはどうだ?」と。「マスクなんて、さらに汎用品よ。最近は可愛い柄が入ったり、文字などを入れている人もいますが、これを見るとごく普通の白のマスク。とても無理だわ。」「帽子もマスクも無理か。それでは他に、髪型や背格好はどうだろう?何か特徴はないか?」「髪は帽子で見えない。長いのか、短いのかもわからない。帽子の端から少し見えているだけ。色は黒っぽいから染めてはいないと思う。背丈は被害者と比べて、若干低いように見えるわ。」とタクシーに乗るときに被害者と並んで立っている二人の映像を見て言った。織田が女の足元を指さし、「靴はどうだ?」と言った。「ブラウン色のショートブーツに見えるわ。素材は普通、革かスエード製ね。両方とも一般によくあるものと思う。右近さん、確かホテルの部屋や廊下からは足跡は特別、出ていなかったですね。」「そうだね、ホテル内はどこも、じゅうたんやカーペットタイルが貼ってあるので足跡も出ていない。足跡や靴からの犯人特定も無理だね。」と残念がる。

結局、二人は長時間、真剣に3方向からの映像を見つめて議論し合ったのだが、映像から犯人につながる情報がほとんどないと理解した。「せっかく、犯人が映っているのに、何も分からない。引き続きこの映像をもとに、鑑識にネックレス、帽子、サングラス、マスクを含めて何かわからないか、調べてもらおう。」ということで意見が一致した。


初動捜査の結果、捜査本部は事件をこう見ていた。今川らカップルは、名古屋の繁華街で会食し、タクシーに乗車して桶狭間へ向かい、ムーンライト近くで下車した。ただ会食場所は不明。会食後、今川にとって何度も行ったことがある慣れたムーンライトに女性を誘った。ムーンライトを選んだのは被害者自身だ。しかし、二人はもともと知り合いであったのか?この点は、たびたび、今川の車でムーンライトに来ていた女と同じなのかを含め、今後の捜査でしっかり調べないといけない。それとも、たまたまその日、歓楽街で会った玄人女性である可能性はないか?町で拾った女と食事をしてここまで来たが、金銭でもめて殺害されるに至った可能性は?それでは睡眠薬を予め用意していたのはなぜか。昏睡強盗しようとして眠らせて金品を盗もうとして準備していたということか。しかし金品を取られたか分からないし、とるだけではなく、殺人にまで至ったのは何故か?もともと殺人目的だったのか?現時点では、玄人女性か、知り合いの女性かという点はどちらも決め手がなかった。今川がテレワークなのに急に出かけたという妻、佳子の証言からは、誰かに誘われて外出したのは確実だ。玄人の線はないと思われた。

当日、今川は午後、急に自宅を出て会社に車をおいて、しかも会社には立ち寄らず、目立たないように誰にも会わないように電車で名古屋に向かったようだ。これは人目をはばかっての行動と推察される。織田から彼の推理が披露された。「男の感覚では、誰かと密会を予定していて、いそいそと家を出た。奥様には会社に行くとみせかけて車ででて、会社に駐車し、お忍びで待ち合わせ場所に向かったのではないか。待ち合わせ場所は、直接食事をしたお店ではないか。現地集合し食事を楽しみ、その後ラブホへ移動した。奥さんに食事はいらないと言って家を出ているから、ことが済んだらホテルに泊まらず、その日のうちに帰るつもりだったかもしれないと想像される。それとも、そうでなければ、最初は食事だけでラブホまでは予定していなかったが、食事の間に交渉が成立して行くことになったのかもしれない。」

この他さまざまな可能性が捜査員の間で出された。概ね、織田刑事の意見に皆、賛同していた。いずれにしろ、女を見つけ出せば事件解決は早いと皆が思っていた。女は犯行後、どのルートで逃走したかについても、ドライブレコーダーに残っていた女の姿を参考にして同一人物が映っていないか、ホテル街周辺の防犯カメラをしらみつぶしに確認することになった。防犯カメラは桶狭間周辺の道路沿いのコンビニや駅などに多数設置されており、一つ一つ鑑識が確認していった。結果がでた。犯行時間の後、多数のカメラが多くの女性を捉えていた。駅にもコンビニにもマスクをした女は大勢写っていた。しかし帽子、サングラス姿の者はいなかった。同時にベージュのコートを着た女性についても注意して確認していったが、残念なことに写っていなかった。


その間また別に、鑑識による今川の携帯電話の解析が行われ、結果が出た。当日のお昼に公衆電話からの着信があった。公衆電話なので相手は不明だ。多分、これで呼び出されたのだろう。公衆電話からの着信後、奥様に「夕食はいらない。」と言って車で家を出て、会社に車を駐車して、電車で名古屋の繁華街に出かけたのだろう。まだ特定されていない待ち合わせ場所の食事のお店で食事を楽しみ、食後、桶狭間へタクシーで向かったというのが捜査本部の見解だ。今川の携帯電話の解析ではこの通話以外、怪しい通話は見つからなかった。他はすべて会社関係者との通話だ。特に女性からの通話記録も念入りにすべて調べたが、奥様との通話か会社の女性社員との通話だと確認された。これで行きずりの女による犯行を排除してよい。事前に被害者を呼び出していることから、顔見知りの犯行と捜査本部は判断した。

 村井貞二捜査1課長より、二人が食事をした場所を見つけ出せとの指示が出された。司法解剖結果から、胃の内容物が特定されたのだ。牛肉とチーズ、赤ワインの成分があり、食べたのはフランス料理ではないかと確認された。二人がタクシーに乗った場所近くのフランス料理店を1軒ずつ当たっていけば特定されるのは時間の問題だと思われた。

 

県警はマスコミに第2報を公表した。犯人が女性であり、逃走中。報道によって、この女性についての有力な目撃情報がもたらされるのを期待しての狙いがあった。これを受けてのマスコミ報道は概ねこうだ。「3月10日の晩、名古屋市緑区桶狭間のホテル・ムーンライトで、男性客が首を絞められ殺害された。被害者は会社役員の今川殿和さん、65才。犯人は同伴の女性と思われ、姿を消している。2人でタクシーに乗ってきてチェックイン。翌朝、チェックアウトの時間になっても応答がないので、係員が客室を訪れ、倒れている男性を発見した。同伴女性は既に逃走後であった。警察は逃げた女性を探している。」と。

 警察発表を受けて、地元のテレビ局のお昼のワイドショーやいわゆる三流の週刊誌は連日、独自の調査結果を流したり、専門家と称する人の推理を入れたりして何度も何度もニュースや記事を流し続けた。特に被害者が大手自動車部品メーカーの役員であり、かつ場所が場所だけに、いろいろな憶測で報道がされた。こんな内容だ。「なぜ、大企業の役員がラブホテルに行ったのか?相手の女性は誰だ。どうやって知り合ったのか?売春か。不倫か。なぜ、殺されたのか。お金でもめたのではないか。女の正体は?逃走経路は?」といった具合だ。週刊セブンなどは、元警視庁の刑事や犯罪学心理学の専門家などのコメントを入れた推理記事で一般大衆の興味をそそるように中味をおもしろおかしく連載で書き立て、中部地区での売上数を大きく伸ばした。

しかし、書かれた被害者の家族や勤務先にとってはたまったものでない。遺体発見後、すぐに身元がわかり、県警本部から報道機関に発表があったことから、地元ではこのように大変な騒ぎとなった。被害者が足利製作所の役員。同社は東京証券取引所1部上場企業であり、地元でも有名な大企業。その専務がラブホで殺害された。伝統の足利製作所にとっては創業以来のスキャンダルとなってしまった。会社の足利製作所まで連日、押しかけて、取材を求めるマスコミやメディアもあった。こうした要求に対して、足利製作所、広報部は「当社の専務が殺害されたのは大変遺憾である。警察の捜査が進展中なので取材には応じられない。捜査には積極的に協力し、早く、犯人が捕まることを願っています。」とコメントを出すのが精一杯であった。


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