偶然の出会い
22.偶然の出会い
浅井瑞穂の周辺捜査が始まった。殺人の動機や被害者との関係につながるもの、証人、物証など何でも証拠となるものを見つけるためだ。両刑事は張り込み捜査をすることにした。瑞穂は、自宅近くで部屋を借りてピアノ教室を開いていた。教室はほぼ毎日あり、幼稚園児から小中学生まで30名余りの生徒がいた。ただ、最近のコロナ禍では平常のように大人数での教室は開けず、ほとんど個人レッスンにして何とかやり続けていた。生活には少し困窮しているようであった。織田が嘆いて斎藤に言った。「ピアノ教室と今川ではつながらないね。」「そうね。他に何かしていないのかしら。何かあるはず、それを突き止める必要がある。もう少し頑張って見張ってきましょう。」
こうして、毎日夕刻、ピアノ教室が終わる時間から両刑事による浅井瑞穂の行動監視がなされた。瑞穂の日課は、日中はピアノ教室、夜間は自宅マンションで過ごすという日が続いた。張り込みには丁度都合よく、瑞穂の自宅マンションの隣が高台になっており空き地になっていた。ここからマンションのエントランスを見下ろすことができたので、捜査車両を配置して中から監視を続けた。しかし、しばらくの間、張り込みを続けるものの成果なく、「右近さん、この夏は愛知県も感染者多く、緊急事態宣言が出されたまま。東京、大阪では医療逼迫で入院できず自宅待機中に急変して亡くなる人まででてしまっている状況だわ。彼女、夜はどこへも出かけないわ。じっと自宅に閉じこもっている。このままコロナが収束しないとどこへも出かけないわ。」と車の中で、いつもの斎藤らしくない弱気な発言をしていた。
張り込みが始まって3週間が過ぎた。もうそろそろ秋風が吹き始る頃、愛知県内のコロナ感染者も全国と同様、急に落ち着き始め、各地で緊急事態宣言が全面解除された。名古屋市内では夜間のお酒類提供が緩和されたある夜、瑞穂が動き始めたのだ。彼女はピアノ教室を終えて、一旦自宅に戻ると着飾ってエントランスから出てきた。いつも見慣れた地味なピアノの先生の姿から、ピンクのワンピースに身を包み、夜の蝶に変身していた。表の通りでタクシーを拾ったので二人は車で後をつけた。「蝶々さん、やっと、動いたよ。見失わないようにしっかり後をつけよう。」と織田が車を発車させる。「いつもと随分雰囲気が違う。右近さん、間違いなく今から夜の出勤よ。」と助手席の斎藤が答える。「どこに行くのだろう。」と言いながら後をつける。タクシーはしばらく北上し、名古屋の歓楽街、錦三丁目の街角を中に入って行った。ある筋でタクシーが停まり、瑞穂がそこにあるビルに入って行った。両刑事も車を停めて、瑞穂が入って行ったお店を確認した。二人が驚いたことにそこは、名古屋財界で有名なあのシクラメンであった。斎藤たちも以前に事情を聞きに来たことがあるお店だ。その時は今川氏が持っていたこのお店のホステスの名刺を見て訪れたのだ。聞き込みで足利製作所の関係者、今川はもとより、畠山社長もよく使っているお店であることは調査済だ。
「これでつながった。」と二人は喜んだ。「この店は、今川氏が来ているということで何度も聞き込みに来たわ。こんな身近なところが、二人が知り合った場所だとは気付かなかった。」と斎藤が悔しがる。「灯台下暗しだね。こんな近くに接点があったとは。」と織田がうなずく。「今川専務が持っていた名刺をもとにこの店の北条雅子ママと確か、諏訪ひろみさんに話をうかがったわ。その時は浅井瑞穂については何の話題にも上がらなかった。お店では被害者と浅井瑞穂は客とホステスの関係でしょうか?」「確認しよう。間違いないなと思うよ。二人はここで知り合ったんだ。」
翌日、両刑事はシクラメンのオーナーであり、ママでもある北条雅子の自宅マンションを訪問し、事情を聴くことにした。実はこの雅子ママは先日80才で亡くなった大物男優の伊達政人と男女の関係で週刊誌を騒がせている本人だ。週刊誌によると伊達政人が死去する前日に北条雅子と入籍したというのだ。伊達の体調が悪化する半年程前から、雅子ママが献身的に支えたこともあり、彼女に遺産を残すつもりで死の直前に伊達から彼女に結婚を申し込んだのだ。遺産は30億とも40億とも言われている。伊達の妻はすでに昔病死しており、ひとり息子がいる。今は、この息子と雅子との間で伊達の遺産相続について争っていると各週刊誌の紙面を賑わしている。
織田が早速、北条雅子に尋ねた。「シクラメンに勤めている浅井瑞穂さんについてお聞かせいただきたいのですが。」「浅井瑞穂さんというのは、ルミちゃんのことですか?お店では日野ルミと呼んでいます。私が彼女がお店に来た時、名前をつけました。」と雅子ママが聞き返した。斎藤が瑞穂の写真を見せると雅子ママはそれを見て、「確かにルミちゃんです。彼女が何かしたのですか?」とまたもや聞き返す。「お店に入ったいきさつと、亡くなった足利製作所の今川専務さんとの関係をお聞きしたいのです。」と斎藤が急に殺人事件のことに触れたので、雅子ママは少し驚き警戒した表情になった。「ルミちゃんがシクラメンに来たのは、亡くなった私の主人の伊達政人のファンクラブに彼女が入会していた関係です。いつだったか。伊達がまだ元気にしていたころ、伊達から紹介されたのです。」と雅子は続けた。「彼から『私のファンがいる。名古屋在住の女性だ。僕と彼女のお父さんの雰囲気が似ているようで、ずっと昔から僕のファンクラブに入ってもらっているようだ。ピアノが上手というのでシクラメンで使ってやってくれないか。』と言われ、彼女に店まで来てもらいました。お店でピアノを弾いてもらいましたところ、大変お上手ですぐに来てもらうことにしました。丁度その頃、前のピアノの弾き手がお店を辞めて空いていたこともあったので。そうですね週に2回程ピアノ演奏に来てもらっていました。一昨年の秋くらいからです。しかし、その後は年があけると日本全国コロナ、コロナでしょう。感染が拡大して、都知事が3密とか言い出して。3密でソーシャルディスタンスなんか全くとれないこの業界には逆風でした。それで、お店は自粛要請やら緊急事態宣言やらで、休業になってしまい、ルミちゃんには来てもらうことができなくなってしまい可哀そうだったわ。最近やっとコロナが落ち着き自粛もなくなり、お店を再開したので前の様に演奏に来てもらうことにしたところです。昨日は私から電話して、久しぶりに来てもらいました。」と雅子ママは瑞穂を雇ったいきさつから最近の状況までを細かく説明した。斎藤から「お店での様子を聞かせてほしいのですが、彼女はお客様である足利製作所の今川専務、あるいは畠山社長との接点はあったのでしょうか?顔見知りだったのでしょうか?」と聞かれ、雅子ママは少し考えながら、「どうでしょうか?彼女がお店でピアノを弾いていた期間は短かったし、でもピアノ演奏の合間に接客も手伝ってくれていたので面識はあると思います。今川さんや畠山さんのお席についたかどうかは、私もはっきりした記憶がないので今晩にでも、お店の者に聞いてみます。」と答える。斎藤がお店で瑞穂と出くわすとまずいと思って尋ねた。「今晩、ルミさんはお店に来ますか?」と。雅子ママが手帳で確かめながら「今日は来ることにはなっていません。」と言うと、斎藤が安心して「それでは私たちがお店の始まる前の時間にお店に行って直接皆さんにお話を伺わせていただきます。」と頼んだ。
約束どおり、両刑事が夕刻、シクラメンへ行く。途中、周りの界隈でも、いよいよコロナ前の世界に戻るのかと人出は少し増しているように見えた。羽振りのよい客と妖艶に着飾った女性キャストの世界が再びやってくることを期待して、アフターコロナに向けて夜の街が準備を始めていた。
シクラメンでは、あらかじめ雅子ママから話がしてあったようで、諏訪ひろみと旭日美帆がいつもより少し早く出勤して待っていた。客がまだいない店の一番奥の席に皆で座り、織田が口火を切った。「本日はお店の始まる時間の前にもかかわらず、ありがとうございます。さて日野ルミさんのことです。本名は浅井瑞穂さんといいますが彼女のことでお聞きしたいのです。」織田の横に座っていた斎藤が続いた。斎藤が「ひろみさんと美帆さんはルミさんとは仲がよかったのですか?」と聞くと、美帆が久しぶりの営業開始というので張り切った口調で答えた。「大の仲良しというわけではないですが普通に話をしていました。彼女自身のことも、お客様のことも普通に。他のホステスと同じですよ。ねえ、ひろみちゃん。」振られたひろみも相槌を打って話し始めた。「ルミちゃんがお店に初めてきたときは、伊達政人のファンで伊達さんに紹介してもらって来たと言っていました。」雅子ママの方を見て続けて言った。「ママには悪いのですが、何でそんなお年寄りが好きなのと聞いたら、ルミちゃんは、彼女のパパが伊達さんによく似ているからと言っていました。私はそれを聞いて、彼女はファザー・コンプレックスだと思いました。でも女の子にはよくあることだと思います。私もパパが大好きですし。ママは嫌いですけど。父親と娘はよく気が合うと思います。」これを聞いていた美帆が「私もルミちゃんからパパのことを聞きました。でもあるとき、行方不明になっていて音信不通でがっかりしているようなことを言っていました。」と父親の行方不明のことを語った。雅子ママも続けて言った。「私も伊達から聞いたことがあります。なんでもルミちゃんのパパがいなくなって彼女が落ち込んでいるから次に会っときは慰めてほしいと言っていました。その後もお店はほとんど休業でルミちゃんに会う機会がなかったので忘れていたわ。」3人からの話を聞いて、織田と斎藤はやはり浅井瑞穂は父の失踪を知っていたと理解した。
斎藤が話題を変えて聞いた。「ルミさんはネックレスをよく着けていましたか?白い真珠のネックレスです。」今度は、雅子ママが答えた。「時々していたと思います。何でもパパからプレゼントされたとか言っていました。」斎藤が続けた。「彼女の男性関係はどうでしたか?付き合っている男性がいるとか。」美帆が答える。「私はそんな話は聞いたことありません。パパ以外の男性には興味ないのでは?伊達さんのようにパパに似た若い男性が現れたら別かもしれませんが。」ひろみも同意して言った。「私はよくわかりません。特定の男性の話は聞いたことありません。」
今度は織田が核心について尋ねる。「それではお客さんである足利製作所の今川専務や、畠山社長との関係はどうでしたか?実はルミさんのお父さんは今川さんや畠山さんと同じ会社の足利製作所に勤務していたのですが?」それに対しては美帆が答えた。「それは知りませんでした。今初めて聞きました。ルミちゃんがお店に来るのは毎日ではないのですが、彼女がピアノ弾いていた日にも畠山さんも今川さんも来ていたので顔見知りだったと思います。」そこへ、ひろみが「確か、緊急事態宣言が出る直前の頃、畠山さんと今川さんが急に来店し私がお相手していたことがあったわ。その日、たまたまルミちゃんが来ていたので同じテーブルにきて、今川さんのお相手をしていました。私は畠山さんの方を。」と言い、続けて、ひろみが「ルミちゃんは今川さんの好みのタイプと思います。細身でスラリとしていて容姿端麗ですから。きっと今川さんに誘われたのではないかしら。」と彼女なりの女の観察眼を語った。
男女の関係へと話題が移り、織田が聞いた。「ところでお二人は今川さんから誘われたことはありますか?」ひろみが答えた。「よくゴルフしないかとか、するなら連れて行ってやると誘われました。私はゴルフできないので断っていましたが。」今度は美帆が話す。「私はご飯を外で食べてその後、お店に来るという、同伴を時々してもらいました。畠山さんの方はそんなことはしなかったですが。」織田が同伴での食事と聞いて思い出したように美帆に尋ねる。「それでは、今川さんと同伴で行った食事でフランス料理はありますか?」「あります。この近くの『エトワールドパリ』というお店です。そこで食事をしてシクラメンに来たことがあります。同伴が多いとママからボーナスをもらえて。」と美帆は雅子ママの方を見ながら言った。
今度は斎藤がずばり、正面から攻める。「それではお二人とも今川専務にホテルに誘われたことはありますか?」二人は恥ずかしそうに、「ありますが、私はうまく断っていました。」「私も同じです。」と言う。更に斎藤が尋ねた。「今川さんはルミさんを誘っていましたか?」これに、ひろみが「ピアノがうまいし、どこで習ったかと聞いていましたよ。ホテルに誘ったかどうかははっきりわかりません。」と言う。美帆が「でも私たちを誘うくらいだから、ルミちゃんは今川さんのタイプだからきっと誘われていると思います。」と自信ありげに話した。
織田がまた話題を変えて聞いた。「ところでルミさんは今川さんが足利製作所の専務であることを知っていたのでしょうか?先ほど言ったように彼女の大好きなパパも足利製作所に勤務しているのです。ルミさんは、今川さんが自分のパパと同じ会社の人であることは知っていたのでしょうか?」今度は雅子ママが「それはよくわかりません。私も今日、初めて聞いたので。でも今川さんのことを私たちは時々、専務と呼んでいたので、どこかの会社の専務さんであることは知っていたと思います。」と言う。続けて雅子ママが死んだ伊達のことを思い浮べ、「私、ルミちゃんのパパに会ってみたいわ。そんなに伊達と似ているなら。」と言った。これを聞いて斎藤が神妙な顔で真実を伝えた。「残念ですがそれはできません。ルミちゃんのお父さんも亡くなっています。」と。「そうなんですか。可哀そう。それも伊達と同じね。」と雅子ママがつぶやいた。そうすると美帆が重大な発言をした。「ルミちゃんから、今川専務はどこの会社の人かと聞かれたことがあります。私その時、足利製作所の専務さんだとしゃべってしまいました。でもルミちゃんのパパも足利製作所の社員だなんて知らなかった。彼女もそんなこと言わなかったから。」両刑事はしめたと思った。瑞穂が今川は自分の父と同じ会社の専務だとやはり知っていたのだ。
最後に織田が瑞穂のアリバイを確認するために聞いた。「今川専務が殺害された今年の3月10日水曜日ですが、ルミさんはシクラメンに来ていましたか?」雅子ママがまた手帳を見て、「その晩は来ていません。その日、シクラメンは休業でした。だからルミちゃんも今川さんもここには来ていません。」と言った。アリバイは確認されなかったのだ。
両刑事はお礼を述べてシクラメンを出た。織田と斎藤は大大収穫を得て、感想を述べあった。「右近さん、大きな収穫ね。日野ルミこと浅井瑞穂と被害者、今川殿和の二人はシクラメンを通じて知り合いであった。しかも彼女は今川がお父さんと同じ会社の専務であることも知っていた。今川はひろみさんや美帆さんもホテルに誘っているから、間違いなくルミさんも誘われていると思う。」「蝶々さん、今川の方はルミちゃんが浅井の娘とは、気付いていなかったのだろう。気付かないまま誘っていたのだ。」「そうね。知らずにとんでもない因縁のある女性をいつものように気軽にホテルに誘っていたということね。さっそく明日、捜査1課長に報告しましょう。」




