ネックレス
21.ネックレス
愛知県警大高署生活安全課の調べによると浅井の家の近所住人から浅井の娘は瑞穂といい、名古屋でピアノの先生をしているのではないかとの情報があった。この住民によると娘の瑞穂は名古屋の有名音楽大を卒業し、しばらくは自宅でピアノを教えていた。住民はこの頃、自分の子供も彼女にピアノを教えてもらっていたというのだ。その後、親の住む家を出て、名古屋市瑞穂区でピアノ講師をしていることがわかった。こうして、警察から娘浅井瑞穂に父、長治氏の死亡が報告され、確認のため彼女が大高署へ向かっていたのだ。
この日、斎藤蝶々刑事は2日前に2回目のワクチン接種を受け、直後から発熱の副反応が出てしまい自宅で静養していた。この時期、警察官は、医療従事者に続いて、介護士、保育士、鉄道員、消防士、自衛官などと並んで、社会を支えるエッセンシャル・ワーカーとしてワクチンの優先接種が可能となっていた。東京ではオリンピック、パラリンピックを控え、警備のため全国から派遣された警察官、特に機動隊員で多数の感染事例があったため、警察官に対して既に優先接種が行われていた。少し遅れて愛知県でも県営名古屋空港や、ナゴヤ・ドーム内に大規模接種会場が設けられ、重症化しやすいリスクの高い高齢者に並んで、治安や安全、社会インフラを支える、なくてはならない職業人にワクチン接種を加速していた。
さて、斎藤刑事の場合、ナゴヤ・ドーム会場でモデルナ製ワクチンを打った。1回目はモデルナ・アームというモデルナ特有の副反応が出てしまった。発熱はなかった。接種した左手の上腕部が赤く染まり、少し腫れてかゆみが5日間も続いた。2回目も不幸にもまた38度の発熱という副反応が出てしまった。しかし、当日、浅井瑞穂が大高署にやってくることを聞いていた斎藤は、無理をおして大高署に向かった。事件捜査で出てきた別の失踪事件の関係者であるが、何となく行かねばならないと思えたのだ。虫の知らせか。桶狭間の事件が重要情報もないまま進展しない。世間では変なデマまで広がっている。結果的には発熱をおして隣の大高署へ顔を出したことが捜査を進展させることになる。斎藤刑事の熱意と根性が事件解決の第一歩につながった。
瑞穂が到着した。大高署生活安全課の課員が「お忙しい中、お越しいただき有難うございます。お父様のことお悔み申し上げます。早速確認してほしいのですが。」と瑞穂に言うと、「お世話をかけます。」と彼女は答えた。その後、「ご遺骨と所持品は山梨県警で保管してあります。後日お受け取りください。」とのやりとりがあった。
同席していた斎藤刑事は、まだ、全身に熱さと気だるさを感じながらも、今、初めて会う浅井瑞穂の胸に白く輝く真珠のネックレスを見たのだ。『あーこれだ。この人だ。まちがいない。』と思わず声を出すところ息を飲み込んだ。やっと探していた女性が見つかった。森の中から1本の木を見つけた思いだった。
そして大高署員とのやり取りが終了したのを見て、大魚を目の前に、斎藤は落ち着いて瑞穂に声を掛けた。「素敵なネックレスですね?」「ありがとうございます。これは父からのプレゼントなんです。大学卒業の記念に買ってくれました。」と瑞穂は何も悟られないようにごく自然に答えた。「いいお父様の思い出ですね。いつも身に着けていらっしゃるの?」と斎藤が続ける。「いつもというわけではないのですが。今日の様に父を思い出したい日には着けます。」とネックレスに触れながら答えた。「大変お父さん思いなんですね。そんなお父様が亡くなられて改めてご愁傷様でした。ところでお父様が失踪されていたのはご存知でしたか?」と聞く。「知りませんでした。連絡をとっていなかったので。」と瑞穂はとっさに嘘をついた。失踪を知りながら届出すらしていないことを怪しまれないようにと思った。「父も私も富士山が大好きでした。家族でよく行きました。父は実際の富士山も、北斎の富嶽百景の絵も大好きでした。でも樹海の中では富士山の姿が見えず可哀そうです。見つけていただいてよかったと思います。富士山が見える丘にでも父の墓を建てようと思います。」とあれこれ父のことを思い出すふりをしてかえって流暢に話を続けた。「最後に会ったのはいつですか?」と斎藤が聞く。「もう何年も会っていません。私が亡くなった母と折り合いが悪く、家を出てしまったので。」とはにかみながら答えた。
斎藤は瑞穂と会話をしながら、目の前にいる女性と頭に焼き付けているタクシーのドライブレコーダーに残った映像の女性とを頭の先から足の先まで比較していた。今日の瑞穂の服装は、白のVネックブラウスにチェックのジャンバースカート、靴は黒のファッションスニーカーというもので映像にある冬服の姿とはまるで違う夏服だ。比較は難しい。それでは化粧はどうか?今日は薄化粧だ。映像の方は化粧までわからなかった。今日の瑞穂はマスクをしているものの帽子、サングラスはしていない。映像の人物から帽子とサングラスをとるとこんな顔になるのかなあと想像した。唯一共通なものは胸に白く輝くネックレス。形も色もよく似ている。体格、背格好も映像の女性と似ているように思われる。やはりこの人に間違いないと確信した。
斎藤は桶狭間署に戻り、胸が躍る思いで、先ほどの大高署での出来事を織田に報告した。ずーっと熱のせいで頭が重かったのだが、この時は大収穫を得て、熱も下がっていた。
「先ほど、アシカガ・ファイナンス浅井社長の娘の浅井瑞穂さんに会ってきました。彼女は白い真珠のネックレスを着けていました。お父さんの形見だと言っています。私はこれを見てピーンときました。タクシードライバーが見た逃走女性の胸に白く光る物に間違いないと。」それを聞いて織田も喜んだ。「蝶々さん、大変なお手柄だね。たまたま、大高署へいって行方不明者の家族に会ったことからわかったのだから。それならもう一度、間違いないかドライブレコーダーの映像を見て確認しよう。」と斎藤の職務熱心さをねぎらった。「そうね、右近さん。間違いないと思うけれど。もう一度確認しましょう。」早速、保管されていた映像を二人で再度見始めた。映像はやや不鮮明であるものの、確かに女の胸のあたりに白いく光るものがありネックレスではないかと思われた。女の顔の印象は、何度見てもマスクにサングラスおまけに帽子を深くかぶっているので、先ほど見たばかりの浅井瑞穂かどうかはっきり断定できなかった。だた、斎藤は先ほど見たネックレスと色も形状も同じように見えると改めて思った。
斎藤が自信を持って言った。「人相は映像では断定できないが、心情的にはずばり彼女だと思います。」「そうだね。蝶々さんの直感は過去の事件でも実証済みだ。浅井の娘が犯人だとすると動機は何だ。死んだ父親の復讐か?会社の損失の責任を負わされて父が亡くなり、今度は責任を負わせた今川を殺害したのだろうか?」「しかし、どうしてそんな情報を彼女が知ったのかよくわからないわ。」「父親が娘に話していたのかもしれないな。仲の良い父親と娘ならありうることだ。ところで、蝶々さん、被害者と浅井の娘との直接の接点はあるのか?顔見知りだったのだろうか?」と織田が疑問を投げた。「そこはこれからでしょう。右近さん、これから二人の接点を必ず見つけましょう。」「しかし浅井瑞穂が今川を殺害したという証拠はない。現段階では、犯人がしていた白のネックレスとよく似たネックレスを持っているというだけだね。」「彼女を中心に捜査のやり直しね。これまで何人も会社関係の女性を調べてきたが殺意まで持つ女性には行きつかなかったわ。皆、今川にセクハラされた被害者か、オフィスラブを楽しんでいる女性だけ。動機としては弱い人ばかり。」「今回は重要人物の発見だ。初めて動機のありそうな女性だ。蝶々さんお手柄ですね。」とまたも織田が褒める。「私は、浅井親子は仲良しで日頃からいろいろな事を話していた。一緒に暮らしていなくても連絡はとっていたと思うの。今日は父親が失踪したことを知らなかったと言っていましたが電話やメール、ラインなどを使えばコミュニケーションをとるのは簡単。なにより今日も白いネックレスをしてくるくらいだから彼女にとっては忘れられない大好きな父親だと思う。」




