ヘルプライン
16.ヘルプライン
アシカガ・ファイナンスには、足利製作所から出向した若手社員、細川孝がいた。正義感の強い男だ。細川は2019年度運用成績をまとめる作業中、大変なことになっていることに気付き、浅井社長に報告していた。しかしその後も一向に社長からの指示がない。そこで細川がもう我慢の限界で、「社長、大変なことになっています。決算期も、もう間近に迫っています。どうされますか?」と浅井に詰めよった。「今川専務に報告したのだが、ただ怒鳴られるだけで、最後には隠せと言われてしまった。」と今川とのやりとりを伝えた。「隠すことはできないからどうすることもできずに迷っているのだ。どうしらたいいのだろう。」と困った様子で今川とのやり取りを話した。
細川は何もできない上司の浅井の様子を見て、また今川専務からの隠蔽の指示を聞いて、このままでは足利製作所に多大な損失が発生し大変なことになると更に危惧した。浅井社長にまかせたままでは何も解決しないと思い、思い切って足利製作所の常勤監査役である池田将成へ相談に行った。決死の思いでの内部通報である。
足利製作所は法令順守とコンプライアンスのため、社員からの相談窓口を設置していた。元々は経団連から会員企業への設置要請から始まった。当時も企業の不祥事が続き、総本山の経団連から企業行動憲章の策定と相談窓口の設置を傘下の会員企業に求めたのだ。足利もこれに対応して、内部の相談窓口と外部法律事務所への相談窓口の2つを設置し合わせて「ヘルプライン」と呼んで社員に周知していた。
また、これとは別に元々、会社法上、取締役の業務執行の適法性を監視するために株式会社には監査役・監査役会が置かれている。細川が池田監査役に相談することは全く真っ当な行動だった。
細川が決意の上、予めアポイントを取って、足利本社の池田監査役の部屋を訪ねた。「どうぞ、そこにお座りください。細川君、いったい何があったんだね。」昔から池田は細川を良く知っていた。「池田監査役、アシカガ・ファイナンスが大変なことになっています。浅井社長が今川専務に報告されたのですが全く動こうとされません。そこで池田監査役に早く相談したほうがいいと言ったのですが、それでもそうされないものですから、私が直接相談にまいりました。」こうして細川から一通り詳細の話を聞いた池田は「それは困ったことになった。すぐにどうしたらよいかは妙案がないが。多分、浅井君も今川専務も同じだ。少し時間をくれないか。」と言ってその場はそれで済ませた。池田は細川を帰らせたあとも考えていたがよい考えが浮かばず、しばらくして、今川に電話をかけた。すると今川は「池田さん、どこからそんな話を聞いたんですか?誰が話したのか、けしからん。こんな大事な会社の秘密をべらべらしゃべるとは。」と電話の向こうで大声を張り上げた。それ以上の会話にはならなかったのだ。池田の行為も問題だ。直接、問題の当事者に話をしてしまうという大失態をしてしまったのだ。コンプライアンスのプロである監査役としては絶対にやるべきではない、不注意極まりない行動だ。いわば、泥棒に泥棒したのかと尋ねるようなもので、相談者の細川孝の名を出さなかったのが唯一の救いだ。重大なコンプラアンス違反をおかした実行者に対し、周りを固めないまま、直接、話してしまう軽率さ。こうした池田の行為は、株主が業務執行者の行動に目を光らせることを期待して選任したプロの監査役として適切な行動と言えるだろうか?
池田は今川より2才年上。足利製作所では常務にまでなった人物で、経理畑でかつてCFOを務めた。足利の過去の役員の経歴を見ると、人事・労務畑と経理畑が圧倒的に多く、経理部長、人事部長になると役員候補と言われた。こんな中、池田はCFOを退いたあとも常勤監査役となって残っていた。実態は名ばかりの「監査役」で、取締役の職務遂行が適正かどうかを果たして判断できるか、はなはだ疑問な人物だ。今川から一喝され、池田はただうろたえるばかりで何もしない。本来ならば監査役として調査に動き、自分だけで心配ならば直ぐに監査役会を招集して報告し、社外を含めた他の監査役に知らせて監査役会としてのあるべき対応をとるべきであった。なお、足利製作所の監査役会は池田の他に、T自動車出身の社外監査役、加藤正清とメインバンク出身の丹羽茂がいた。キーマンの常勤監査役池田がこうであるから、足利の監査役会は機能不全に陥っていた。
一方、アシカガ・ファイナンス社員、細川孝は必死の思いで池田監査役にも相談したが何も解決しないと悟り、今度は匿名で相談することが可能なコンプライアンス相談窓口である「ヘルプライン」に相談を変えた。細川は浅井も池田も動かないので心配で心配で仕方なく、ヘルプラインという社員からの相談窓口があることに気付き、自らの判断で匿名の相談を行ったのだ。
ヘルプラインの事務局は法務部の明智光市課長だ。ヘルプラインには電子メールでも電話でも書面でも相談できる。細川は一番容易な電子メールで相談を開始した。会社のパソコンのアドレスから相談すると誰からの相談か分かってしまうので、”hosokawa”の入らない、自宅パソコンからメールした。内容はこうだ。「アシカガ・ファイナンスで大変なことが起こっています。損失が発生しているのに公表せず、隠そうとしています。調べてください。お願いします。匿名のAより。」という第一報は簡単なものだった。明智はこの匿名のメールを受け取り、これに返事した。「大変なこと。損失を公表しない。というだけでは実態がよくわかりません。もう少し詳しく教えてください。匿名の相談と言うことですが、可能なら会ってお話を聞くことはできませんか?」と。細川はヘルプラインも会って話を聞いてもらわないとまたもや動いてくれないのではないかと思った。しかし会って自分の正体を明かせば、どんなしっぺ返しがあるのか怖かった。細川もごく普通のサラリーマンだ。家族のためにも平穏に会社生活を続けたい。将来の昇進に不都合があってはならない。ましてや会社に居られなくなるようなことにならないか。それならいっそのこと、このまま相談せずにほっておこうかとも考えた。事務局からの返信を受けて、数日が経った。細川は決心し「誰からの相談か、匿名を守ってくれるなら、お会いしてお話します。どこで会いましょうか?」と簡単な返信メールを送った。こうして次の日曜日、細川はスーパーのフードコートで明智に会うことになっていた。
そうこうするうち、足利製作所の会計監査人である、ちくま監査法人による期末決算監査が始まり、子会社アシカガ・ファイナンスで巨額の損失が発生していることが発覚した。




