Girls under pressure
品川駅の改札口の前。
朝の品川駅は驚くほど混んでいて、この狭い東京にどうしてこんなに人がいるんだろうといつも不思議になる。
東側に行く人の流れと西側に行く人の流れが、仕切りがあるわけでもないのに通路の左右に分かれて自然と出来上がっている。
この流れに入ったり、抜け出したり、反対側に行くために突っ切ったりするのはとても難しいだろう。
あまりにも人が多いので、改札に向かう途中でミネとはぐれてしまった。
あの、すいません、という頼りなげな男の声が背後からした。
振り返ると地味な灰色のポロシャツを着て、黒縁のメガネをかけた小太りで短髪の男が、怯えたような目をして立っていた。
すいません、アスカ、さんですよね。僕、ファンなんです。アスカさんの、その、ヴィジュアル、とか、歌声、とか考え方とか、何から何まで、狂っちゃうほど、好きなんです。なんで、その、あの、握手し、てもらっても、いいですか?
ぼくはすぐに、いいよ、と言ってその男の手を握った。
声をかけようかどうか相当迷ったのだろう。
男の手は手汗でべっとりとしていた。
よく見ると、手首に包帯を巻いている。
その男はありがとうございます、と言って目を閉じたり開いたりしている。
男は、まるで弾丸が胸にあたって死にかけている兵士のように、途切れ途切れに振り絞るようにして声を出す。
僕、自分なんか、消えてしまえば、いいとずっと、思ってた、んです。なんで、この世に産まれ、たんだろうとか、誰の役にも、立ってない、のに、生きてる意味、あるのかな、とかずっと、考えてたんですけど、昨日もリストカットして、ビビって全然深く、切れないから、また自分が、嫌いになっちゃって、お母さんに、申し訳なくて、でも、今日、アスカさんに会えて、握手、してもらって、生きてて、よかったと思いました。アスカさんは、僕の希望なんです。これからも、頑張ってください。
男は、ぼくの目を一度も見ようとしなかった。
ぼくは、その男の手をさらにぎゅっと力強く握り、男の目を覗き込んだ。
男は、すぐに目を逸らした。
ビー玉のような目をしていた。
「ぼくも、頑張る。ぼくは君みたいな人を勇気付けるために歌手をやってる。ぼくも頑張るから、君も頑張ってね。辛いことばっかりで、いいことも、もしかしたらないかもしれないけど、生き続けてね。ぼくも頑張って、ずっと生きてるから、君も頑張って、一緒に生きようね。」
ぼくが一言発するたびに男はその言葉を抱きしめるように大きく頷いた。
ぼくが言葉を発するのをやめても、目を瞑ったまま首を大きく振っていた。
しばらくして、男は目を開き、ありがとうございます、と言って手を離した。
ビー玉のような目が充血していくのを見て、ぼくは少し安心した。
じゃあ、これで失礼します。
本当に、ありがとう、ございました、と言って、その男は何回もぼくに頭を下げ、振り返って西側に行く人の流れに向かって歩いていった。
人の流れに入る時に、男はピシッとしたスーツを着たOL風の女にぶつかり頭を下げた。
そのまま男を目で追っていると、人の流れの中にミネの姿を発見した。
ミネはうまいこと人とぶつからないように波をくぐり抜けてぼくの方にやってきた。
ミネは、今日は撮影だから動きやすい格好をしている。けど、どこか品があって綺麗だ。
「遠くから見てたんだけど、さっきの人、誰?なんか泣いてなかった?」
「ファンの人、握手したら嬉しくて泣いちゃったみたい。」
「アスカちゃんのファンは熱狂的だからなあ。」
ミネは振り返って行き交う人々を眺めた。
大量の人間の話し声、足音、布が擦れる音、咳払いが混じり合い、天井や壁に反射してさらに増幅され、巨大で無秩序な音の霧となってぼく達を包み込んでいる。
毎朝こんな音に包まれている人間は、頭がおかしくなるのではないかと思った。
「見よ、人がゴミのようだ!ってやつだね。それにしても、すごい人ね、みんなどこに行ってんだろう。」
「ぼく、人多いの苦手。」
「私も苦手。じゃあ、もう行こうか。」
ぼくたちは改札を通り抜けて、ホームへ続く階段に向かって歩いていった。
京王線のホームには人がそれほどいなかった。
ぼくたちはなるべく人が並んでいない乗り場まで歩いていった。
「京王線は人が少なくて良かった。」
「だね。ねえ、山手線のところ見てよ。」
ミネの言う通りに、山手線のホームに目を向ける。
ちょうど電車が到着したところらしく、沢山の人が電車にぎゅうぎゅうに押し詰められている。
押し詰められている人も、電車内にいる人も、顔色一つ変えずに、ただ受け入れているように見える。
ミネが左のほうの車両を指差した。
「うわ、あのおじさんめちゃくちゃ押してるじゃん、もはやあれ相撲よ。」
グレーのスーツを着た太った中年の男がどうにか電車の中に入ろうと、両腕を交差させて前の学生の背中を強く押している。
その様子を見た駅員が男を制し、次の電車まで待つよう説得し始めた。
ポーンと音がした後、女性の声のアナウンスが流れる。
間も無く、一番線に堀ノ内行きの電車がまいります。危ないですので、黄色い線の内側にお下がりください。
プシューという音を立てて、山手線の電車の扉が閉まった。
そのままノロノロと加速し始めたかと思うと、あっという間にホームから姿を消した。
入れ替わるように、遠くに京王線の電車がこちらに向かってくるのが見える。
「ねえ、さっきの男の人と、どんな話してたの?」
「なんだか、昨日自殺しようとしてたみたい。だけど、今日ぼくに会えて」
救われたんだって、と言おうとしたその時、斜め前にいた紺色のブレザーの制服を着た女子高生が走り出した。
女子高生は、黄色い点字ブロックを越え、ホームの端に辿り着いたかと思うと、階段を踏み外した時のように体全体がガクンと前に倒れ、そのままホームから猛スピードでホームに滑り込んできた巨大な鉄の塊に吹き飛ばされた。
映画なんかでは人が死ぬ瞬間は大体スローモーションになるから、きっとぼくの目にもそう映るんだろうなと思ってたけど、全然そんなことなかった。
意思を持たない鉄の塊は、一瞬にして、呆気なく、女子高生の体を引き裂いた。
けど、女子高生が電車に跳ね飛ばされる瞬間の画像だけははっきりと瞼の裏にこびりついた。ぼくの前にいるおばさんは目を両手で覆い、隣のおじさんは衝撃音がした瞬間にスマホに落としていた目を上にあげた。
ミネはどんな顔をしているのだろうと思い横を見て、ぼくは息を呑んだ。
ミネは、どこに焦点を合わせているのかわからないような虚ろな目で、ただ前をずっと見つめていた。
急ブレーキをかけた電車から、金属が擦れる甲高い音が聞こえてきた。
その奥から駅のホーム内に木霊する悲鳴がじんわりと滲んでくる。
女子高生の肉体は電車の車輪に敷かれてぐちゃぐちゃになっているだろう。
跳ね飛ばされた方向を見ようとすると、駅員や野次馬がこちらに走ってきているのが見えた。
ぼくはその場にいるのが怖くなってきた。
「ミネ、逃げようよ。」
ミネはピクリとも首を動かさず、ただじっと減速する電車を見つめている。
ぼくの声が小さかったのだろうか。
ぼくは一刻も早くここから逃げ出したかった。
不快な金属音と悲鳴、早く開けろという風にドアを蹴っている男、スマホを持って集まってくる野次馬、全てから排他的な圧力を感じた。
その圧力から、逃げ出したかった。
全身に鳥肌が立ち、手が震え始め、呼吸がうまく出来ない。
脳が熱く、まるで夢の中にいるように視界がぼやけて、周りの正確な情報を得ることができない。
ぼくは今出せる最大の声で叫んだ。
「はやく!逃げようよ!」
ミネは、ようやく顔をこちらに向けた。
口が動いているが、周りの騒音のせいでなのか、自分の耳がおかしくなったのか、ミネの声が聞き取れない。
ぼくは、耐えられなくなって、ミネを置いて野次馬が来ている方向とは別の方向へ全速力で走った。
早くここから逃げないと、頭がおかしくなってしまうような気がした。




