私というもの
眠れずに書いただけの無意味な文章。
私という人間はつくづく物書きに向いていないのだと思う。別に客観的視点をもって言っているのではなく、そもそもの想像力が欠落している。
過去の私は病んでいた。病んでいたからこそ救いを求めた。人の温もりを求め、人との繋がりを求めた。求めた結果に物書きという事象があり、物書きとしての私が生まれた。
しかし、今となってはその物書きとしての私自身を私自身が認められていない。私自身を私が否定して、私自身を切望している。過去の栄光なのかどうかもわからない駄文も書けない自分を羨ましいと思う自分もいる。そんな自分を馬鹿らしいと思う自分もいる。聖魔光闇という名前をいつ捨ててやろうかと何度も葛藤した。何度も葛藤して未だに捨てる事が出来ていない。
この名前に。このペンネームに意味はある。聖魔光闇、一つ一つの文字に人があり、全てで人である。しかし、私は聖魔光闇でありながら聖魔光闇ではない。今の私が一体何なのかを自分自身でもわかっていない。
こんな私にも数少ないファンはいる。いや、過去にいただけなのかもしれない。今ではどうなのかはわからない。それがどうという事はないのだけれど。
最近また死にたい人である。生きている自分を肯定しているにもかかわらず、死にたい自分を肯定もしている。未来の光があるのだろう。特に子供たちには光り輝く未来なのだろう。しかし本当に未来は輝いているのだろうか。ただ闇雲に進み続けても、暗雲は晴れず、いつまでも暗闇の中を彷徨い続けるだけなのではないのかと思ってしまう。
ここ十年程、うつという病に心を侵され闇の中を彷徨ってきた。まだ光は見えない。見えたと思った光は光ではなく幻影へと変わる。何を信じて何を目指して歩めばいいのかもわからない。駄文を書くことにすら嫌気がさして、執筆という行為をやめ、駄文を書かなくなっても執筆をしたいという意欲は消えなかった。ただ書けない。何を書けばいいのかわからない。意味もなく何かを書いても、そこに価値を見出せない私がいて、そんな私が書くという行為を躊躇させる。
仕事で文章を書く度に思う。物書きをしていた時の法則を。文章の法則を。何が正しくて、何が間違いなのかわからないけど、その時正しいと信じていた文法を。
こんな私はやはり物書きには向いていないのだと思う。こんな意味もない、訳の分からない駄文をただ書き殴るだけしか出来ない私しかもういないのだから。
いつかまた書ける日がきたら。そう思いながらここまできた。けれどももう書ける日が来なくてもいいような気もする。こんな私に何が書けるかなんてたかが知れてるのだろうし。
物語も書いてみたい。でもプロットが面倒臭い。プロット無しで書き進めると、自分のボキャブラリーの無さが落とし穴になる。そんなこんなでもう何年なのかもわからないくらい物書きをやっていない。
私はきっと聖魔光闇を辞めないといけないのだろう。今ではないいつの日か。その時私は何になるのだろう。聖魔光闇を捨てて、聖魔光闇ではなくなった時、私は一体何になっているのだろう。そんなことを考えながら、この意味もない駄文を終わらせようと思う。
まだ今日も闇は晴れず、暖かな陽射しは見えないけれど。
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