一章 第三話
「キリク」
竿を握り、川面に浮かぶ浮きを一心に眺めていたイセリが、唐突に話しかける。川面で浮きが揺れるのは、風のせいか。
「はい」
イセリの横に座り、次の餌の準備をしながら返事をする。おそらく針にはもう餌のミミズはついていない。
「シリウスおじさまとしゃべる時、必要以上に畏まってる様に見えるんだけど、なぜ?」
小さく「おっ!?」と言いながら竿をあげるが、当然なにもついていない。
キリクは今年で十五歳になり、シリウスは三十五歳。イセリには歳相応の親子関係には見えなかった。
「別にたいした意味はないのですが、公の場で序列を無視した態度は、あまり良くない混乱が生まれるのを見たことがあります。それに父も望んではいませんから……」
イセリの竿先についている針をたぐり寄せ、ミミズをつけて川面に戻す。
「ふ〜ん……」
竿を前方に振りだし、穏やかな川面に投げ込まれた浮きが波紋を広げるのを眺める。
(プライベートで普通の親子のような会話をしている二人が想像できない……)と、イセリは思ったものの、浮きの動きに集中することにする。
「……キリク……釣れない……」
イセリ達が竿を出してから1時間ほどは経っただろうか。
「もう少ししたらお昼にでもして、その後場所を変えてみましょう」
餌がとられているのだから、いない訳ではない。だが、イセリの反応が遅いのか、竿を上げたときには魚どころか餌もついていない。
キリクはイセリがうなだれて座っている簡易椅子の後ろに敷物を広げ、四隅に小石を乗せると、小さいクッションを置き、鞄の中からパンとジャム、それと厨房で渡されたサラダを取り出して並べる。そしてまた小石を集め、小さな固形燃料を中央に置き火をつけ、水筒から水を入れたポットを置きお湯を沸かす。
紅茶の準備が出来ると、イセリに声をかけた。
「イセリ様、まだ時間もありますし、一息入れましょう」
竿を上げて餌のとられた針を引き上げ、椅子の横に置いて敷物の上のクッションに座る。
まだ浮かない顔をしている。
カップに入った紅茶にレモンと蜂蜜を少し入れ、イセリの前に置く。
紅茶を一口飲む。
「……餌が盗られているという事は、魚はいると思うの。でも、このままだと晩ご飯が寂しいことになるわ……」
イセリの脳裏にパンとサラダと何も載っていない皿が並べられたテーブルが浮かぶ。
「まだ時間もありますし、食べ終わったら少し場所を変えてみましょう」
パンにハムとサラダを挟みイセリに手渡すと、浮かない顔のまま小さく口を開けてもしゃもしゃと食べ始める。
キリクは自分の食事を終えると立ち上がり、鞄から岩塩を取り出し、自分が乗ってきた馬、タイニーに舐めさせる。
「あ、ストームには私が舐めさせる」と言ってイセリは立ち上がり、キリクから岩塩を受け取るとストームと呼んだ自分の馬に舐めさせに行く。
本当はタイニーがイセリに送られた馬だった。なにをするにも従順で、暴れたり人を噛んだりしたこともなく、スマートでなにより真っ白なその毛色がきれいな馬だ。
だが実際にイセリが気に入った馬は、キリクの父、シリウスが乗っていたストームだった。
理由は「この子の方が優しい馬だから」
イセリが声をかけると、ストームが鼻息荒く小走りにやってくる。
小柄なイセリが横に来ると、ストームの異様な風体が際だつように見える。巨大な体躯に黒褐色の肌。鞍はイセリの頭上まだ頭二つは上だろうか。腹部に大きめの傷があるのも目立つ。首周りからしっぽの先まで、キリクの乗ってきたタイニーより二周りは大きく、体積的には二倍近くあるようなイメージがある。そしてストームというそのイメージ通り、とても凶暴で荒々しく、気に入らない者は乗せない所か容赦のない蹴りで骨を折るものも出る状態だった。
そんな手の負えないストームも、なぜかシリウスとイセリにだけは従順だった。今もイセリから差し出された岩塩を、イセリの顔に頭をこすりつけるようにして、とても穏やかに舐めている。
これがキリクだとこうはいかない。まず噛まれてもいいように皮手袋をはめ、岩塩の端をしっかり持って、ストームの強く荒い舌に耐えるように持たなければならない。いつも(どこが優しいのだろう)と思っていたものの、手から餌を食べてくれるだけ、まだましな方だった。
「はい、おしまい。遊んでおいで」とイセリが首筋をたたくと、穏やかに首を振り、川辺の方へ歩いていき、草を食んでいる。
と、ストームがブルッと小さく鳴いて頭をもたげる。
それと全く同じタイミングで、イセリが街道につながる橋の向こう側、林の中に道が消えている方を凝視しながらキリクの袖をつかみ、不安そうに「……何か嫌な物がくる……」とつぶやくようにいう。
キリクも同じ方向を眺めるが、何も見えない。しかしキリクはイセリに問い直すようなことをせず、少し乱暴に紅茶のセットを鞄にしまい、イセリの手を引いて先ほど釣りをしていた場所にもどり、イセリをいすに座らせると、自分は横に立ち、イセリをマントで覆い隠した。
こう言うときのイセリの言葉を軽くとると、あまり良くない状況になる事を、キリクはこの一年経験していた。
「しばらく我慢して下さい」と言うと、マントの下に吊した剣の掛けがねをはずし、竿を握って何もない風に釣りを始める。
すると、林の中から馬に乗った人影が四つほど進み出て、街道をこちら側へ向かって進んでくる。さほど急いではいない、ゆったりした速度だ。
その一団が橋を渡ると歩みを止め、中の一騎が道を逸れてこちらにやってくるのが見える。
キリクの体に緊張が走るのを、イセリはマントに包まれながら感じた。左手を剣に添えつつ、親指の付け根をマッサージしているのが見える。キリクが気分を落ち着かせるときによくやっている癖だ。イセリは少し恐怖を感じた物の、しがみついて邪魔をするようなことはせず、邪魔にならないように小さくなっていた。
キリクはこちらに走り寄ってくる相手の装備を確認し、思考を巡らせる。
こちらにくるのが一人と言うことは、物盗りのたぐいではない。それに乗っている男の胸甲の上に羽織られたサーコートは夏神の赤に縁取られ、四季神を表す丸に十字のシンボルが描かれている。
(教会騎士だ)ととっさに判断したものの、最近は秩序が乱れがちで、盗賊まがいの行為に及ぶ者も出ているという。警戒を解く理由にはならなかった。
「そこのもの」馬上から騎士が居丈高に叫ぶ。
一瞬聞こえない振りをしようかという考えが脳裏をよぎったが、マントの中にいるイセリの温もりがそういう判断を打ち消す。
「なんでしょう騎士様」
釣り竿を持ったまま、顔だけ相手に向けて答える。
「ダマスクへの道はこの街道でいいのか」
キリクの反応に気を良くしているのか、さらに胸を反らすように言う。
「ええ。騎士様の馬なら一刻(一時間)もかからず着くでしょう」
騎士は「そうか」と言いながら腰の袋からゴソゴソと銀貨を一枚取り出すと、キリクの前に放り投げる。その投げられた銀貨が地面に落ちて乾いた音を立てた瞬間、水面の浮きが強く引かれる。
キリクが浮きに合わせるように竿を上げ、岸に引き寄せると、三十cmほどの見事な魚が釣り上がった。
マントの隙間から覗いていたイセリが「おぉ」と小さい声を上げる。
「寛大なる騎士様に秋神のご加護がありますように」
釣り上げた魚を引き寄せ、針から魚をはずし、水に浸けた網の中に入れる。
騎士は自分の想像していた結果にならなかった事に不満そうな顔を見せたが、馬首を返して一団の方へ戻っていった。
イセリが静かにマントの隙間から顔を出し、一団が去るのを眺めている。
「あの気分の良くない騎士は何?」
「おそらく中央の夏神騎士団ですね」
「それはわかるわ。ダマスクに何をしに来たのか知りたいの」
「時季的にみて、教会に納める税の査定のためかと思いますが……」
イセリが人に対する感想で「嫌な」「気分の良くない」(時にはもっと辛辣に)と言う評価が出た場合、まず確実にキリクにとって出来れば避けたい人物のカテゴリーに入った。
中央の騎士で税の査定をしにきた一団。その一団に付いた評価がそれでは、父はあまり気分の良くない対応が迫られるだろう、キリクはそう思わずにはいられなかった。
「とりあえあずまだ時間もありますし、続けましょうか」
イセリを覆うような位置から移動し、針に餌を付け直して竿を渡す。
その後日が傾き、引き上げる時間までに、イセリは小振りながらも二匹つり上げるのに成功していた。