五章 第五話
「何をおっしゃるんですかハリティア様!」
横で聞いていたタムリトがとんでもないと言わんばかりに大声を上げる。
「うるさいの、おぬしは」
ハリティアが指で耳栓をしてとがめるように言う。
「しかし、そのような事、この者は捕虜です!その上貴族ですらなく、領地すら持っていません!」
「何も持っておらんならその身一つだけで良いのじゃから、面倒がなくて好都合じゃ。それに領地などこれからわらわの物を分け与えたりしておけば、格好などどうとでも付く」
うるさいというように手をひらひらさせる。
「そのような、教会の者に帝国の領土を分け与えるなど、ムロギア様がお許しになるわけがありません!」
「キリク殿と会うて見ろと言うたは父じゃ。それにわらわの婿となれば当然帝国の人間になるのじゃからな。何も問題なかろうに」
「そ、そんな、ムロギア様、が」
力無く二、三歩後ろに下がると、そのままヘたり込むタムリト。
「というわけでじゃな、式は後々挙げるとして、わらわの元に来るは今日からでもかまわぬが、お主の主人にも話を通さねばならぬし、明日改めてという事でよいかの?」
キリクは目の前で話されていることが遠い世界の話で、自分のことなのだと理解するのにしばらく時間がかかっていた。
「いえ、あの、申し訳ありません」
「そう改まらなくても良いのじゃぞ?キリク殿はその身一つで婿に来てもらえれば他に何もいらんのじゃ」
ハリティアの笑顔がキリクには重かった。
「いえ、そういうことではなくて、婿には行けません、申し訳ありません」
キリクはなるべくハリティアを傷つけたくはなかったものの、他に適当な言葉も浮かばず、単刀直入に答えることにした。
「き、貴様!断るなど!元々おまえがハリティア様となど釣り合うわけなどないのだ!それを貴様!」
タムリトが激高してキリクの胸ぐらを掴む。しかし元々反対していた事もあり、怒りの持っていき方の訳が分からなくなっていた。
「ん?よくわからなかったが、今日からの方が良かったかの?」
ハリティアはキリクの言葉がよく理解できないと言ったように、小首を傾げている。
「申し訳ありません。婿に行くことはできません」
キリクは胸ぐらを掴まれたまま、苦しそうに同じ答えを繰り返していた。
ハリティアはまだよくわからないという風に、隣でおろおろしている侍女に話しを聞き、驚いた表情になり、その後感情をなくした様に無表情になった後、そのまま侍女に寄りかかったと思うと、倒れるように気を失ってしまった。
「ハリティア様!」
タムリトがあわててハリティアの体を支え、他の使用人たちとともに丁重に馬車に運び込むと、自身も急ぐように馬にまたがる。
「戻るぞ!」
あわただしく帰りの準備を終えた一団に、タムリトが号令をかけると、来たときとは段違いに遅い速度で帰途につく。
行きとは違い、集団の半ばで兵に前後を挟まれる格好で馬に乗るキリクの横に、タムリトが馬を並べてくる。
「ハリティア様に恥をかかせて、ただで済むと思うなよ」
キリクは恥をかかせるつもりも、傷つけるつもりもなかった。ただただ穏便に事を運び、イセリとキリクにとって味方とは言わないまでも、友好的な関係を築ければ、そう考えていたのだ。
――なんと答えておけば正解だったのか。何度も自分に問いかけてみるものの、返ってくる答えは虚ろな現状でしかなく、帰路の記憶がほとんど残っていない
キリクが我に返ると、居室となっている部屋の床に、倒れている自分に気がつく。部屋まで連行され、中へ押し込むように背中を蹴られたのだ。
床から体を引きはがすように立ち上がると、よろよろとソファーに体を沈めるように座り、また今日の失態に対しての後悔を始める。
馬を追い、狩りをしている最中に起こったことはすべてうまく行っていたような気がキリクにはしていた。あるいはがんばりすぎたのかもしれない。
キリクの脳裏にハリティアの喜ぶ顔が浮かび、その後に失望したような無表情に変化していく。
――もし、あの申し出を受けていたらどうなっていたのか、ハリティアの元に嫁ぐ?という言い方は変だが、そうしたらハリティアは笑顔のままここに帰ってくることができただろう。そしてイセリに対していろいろな便宜も図れたはずだ。場合によってはイセリを何らか方法で安全に帰国させることも可能だったかもしれない。
――ではなぜ即座に断ってしまったのだろうか。ハリティアの笑顔と引き替えになる物を想像したのだ。イセリの悲しげな顔を。
――キリク、キリク、
「キリク!」
キリクが気がつくと、目の前に自分の肩を掴んで、必死に声をかけているイセリが目に入った。
「どうしたのよ!灯りもつけずに」
とても心配した表情でキリクを見つめている。
「あぁ……イセリ様、お帰りなさい」
陽が半ば落ち、カーテンも開けていない薄暗がりの中、キリクの目にはイセリのシルエットだけが見えていた。
「今灯りをつけますね」
ソファーから体を引きはがすように立ち上がり、壁につけられたランプに種火から火を移す。
「いったいどうしたの?ひどい色を、纏ってるわ」
イセリの目には濃い青色が波のようにキリクの体から広がっているように見えた。
「それは……お話します」
キリクは、イセリに知られたくはないと思うのだが、隠しても追求されるのが目に見えており、且つそのことでさらにイセリを心配させるのもわかりきっていたので、ソファに戻りありのままを話し始める。
イセリはキリクの話す中で鷹の話に強く興味を示したが、ここは先を促すようにうなずくだけで止めていた。
「……そして、私がしとめた獲物を持ち帰ると、ハリティア様はとても喜ばれ……」
キリクが言い淀むように強くため息をつく。
今のところイセリには何も問題があるようには思えなかった。それどころかハリティアの好意を得られ、良い方向に向かっているようにすら感じていた。しかし内容とは逆にキリクの纏う色はどんどん濃さを増していき、動揺を示すように波打っている。
「それで、どうしたの?」イセリが話の先を促す。
「……その、私を、婿に迎えたいと……」
キリクがとても言いにくそうに話す。
「はぁ!?」
イセリが驚いた勢いでテーブルに手をついて立ち上がる。
「何その展開は!いきなり、そんな!」
立ち上がった勢いをどこに持っていくこともできず、宙を掴むように両手をわたわたとさせている。
「それでどう――」
「即座にお断りしました」
「そ、そう」
イセリが虚を突かれたように、力無くソファーに座り込む。心に安堵感ともやもやした物が混在する。
「そのあとハリティア様が倒れられてしまい、そのまま狩りはお開きになって、今、ここにいます」
「倒れてって、気を失ったの?」
キリクは肯定するようにうなずく。
イセリは伝え聞くハリティアの噂を思い出していた。帝国に大変美人のお姫様がいるのだが、とてもやんちゃで婚約者候補を片っ端から袖にしているという話だった。それを聞いたとき、とんでもなくお高く止まったお姫様だと思ったものの、自分の意に添わない相手と結婚されそうになるのもかわいそうだとも思ったのだった。
そして今回、そのハリティアを逆に袖にする男が現れた。教会にこの噂が広がれば、お高く止まったお姫様の醜態、痛快な笑い話として尾ひれが付いて語り継がれていくところだったろう。身内に起きた事件でなければ。
「それで、向こうはなんて言ってきているの」
当然ハリティア側のことだ。
「帰るときにお付きの人にただで済むと思うなと言われた以外は、何も」
ハリティアを傷つけただろう事は、色恋に疎いキリクでも苦しく思う部分ではあった。だが累が及ぶのが自分だけなのか、それとも自分の主人にも及ぶのか、キリクの心を今占めているのは、主にこの部分であった。
「なら、今悩んでも仕方ないわ。向こうもまさか自分が捕まえた捕虜に振られた話なんて広めたくはないでしょうし、もしかしたら何事もなく立ち消えになるかもしれないわ」
待遇が悪くなる可能性以外は。
「でも、少し困ったわね」
「どうかしたのですか?」
「今日、私たちは釣りに行っていたのだけれど、その釣った魚を夕食に出そうという話になったの」
「それは、楽しみですね」
何か問題が?と思いつつも、キリクのいない所でイセリが釣ってきた魚。何かわからないがすっきりしない物がキリクの中に流れる。
「そうね。ムロギア帝とハリティア姫に招待を出してある事以外は、だわ」
キリクはそのメンツが並ぶ食卓を想像し、全く盛り上がらないその映像に気の滅入りそうな気分になった。
「それなら、私は出席しない方がよろしいかと」
あんな事があったその日の晩に、ハリティアがキリクと顔を合わせたいとは思えなかった。
「でも、ムロギア帝も招待しているのよ。呼んでおいてこっちの人間が欠席、とても失礼だわ」
キリクはハリティアの言葉を思い出していた。――キリク殿とおうて見ろと言うたは父じゃ――
「しかし、おそらくこの話は、すでにムロギア帝もご存じかと思われますが」
自分の娘に恥をかかせた男を、ムロギアはどうするだろうか。
「ムロギア帝も知っているの?」
「はい、私と会うように進めたのはムロギア帝だと、ハリティア様自身がおっしゃられていました」
その言葉を聞いて、イセリは思案顔になる。
「なら、なおさらキリクは出席するべきだわ」
「なぜ、でしょうか」
「この騒動に対しての答えがすぐにわかるからよ」
キリクはイセリのこの一言で出席することを決意し、晩餐の為の準備を始める。
「出席者はムロギア帝にアリハルとハリティアぐらいだから、服はゆったりした楽なものでいいそうよ。イムニは呼んでも来ないでしょうし」
そのうちにアリハルの使いとしてニタが顔を出し、晩餐の準備が整ったことを告げる。
「さあ、いくわよ!」