五章 第四話
釣りをしに湖に向かう途中、アリハルは困っていた。イセリの機嫌が全く直らないのだ。しかもその原因も取り除く手段も自分の手の中には無いようで、対応に苦慮していた。
「これから向かう湖は、この帝都の水源にもなっているところで、雨期には氾濫したりもする場所なのですが、そのおかげか結構広範囲にわたって緑が生い茂るオアシスになっているところなんですよ」
「ふ〜ん」
折れるな、折れるな心よ。自分に言い聞かせるアリハル。
「乾期でも豊富な水があり、川から流れ込む水量も多いので、帝都の重要な漁獲資源にもなっています。なので今日はかなりの大物も期待できます」
ちらりと横目でイセリの様子をうかがう。
「大物?これ位のが釣れる?」
イセリの中でキリクが釣った一番の大物である、五十センチほどのサイズを手で示す。
「そのサイズならまだ子供ですね。大きい物は二メートルを超える物が釣れる場合もありますよ」
頭の中で二メートルの魚を想像したのだろう、イセリがすごく微妙な顔をする。
「あ、いえ、二メートルは言い過ぎだったかもしれません」
イセリの表情で察したのか、アリハルがあわてて言い直す。本当は三メートル超えるのもいると言ったらどんな顔をするだろうとは思った物の、せっかくの会話に水を差すようなことはしなかった。
「あ、湖が見えてきましたよ」
アリハルが馬車の窓から顔を出して知らせると、イセリも気になったのか少しだけ窓から覗いてみる。
「お、おぉ!あれは海じゃないの?あれが湖なの?」
対岸が見えないことに驚いているイセリが思わず声を出す。
「正真正銘、湖ですよ」
目的地に到着したのか、停止した馬車よりアリハルが降りて、水辺の方へ歩いていく。
「波も海ほどありませんし、それに」
湖の水をひとすくいし、そのまま口元に持っていきゴクリと飲み干す。
「しょっぱくありません」
どうですかと言わんばかりに笑顔で披露すると、イセリが真顔のまま「しょっぱい?」とアリハルに聞く。
「ええ、塩辛くありませんよ」
「なぜ塩が出てくるの?」
「いえ、ここが湖であるという証拠と思いまして」
少し説明が子供っぽかったかと思ったものの、イセリの表情はまだ納得言っていないと言うか、あからさまに「なにを言っているのだお前は」と言っていた。
「あ〜、その、イセリ様は海に行かれたことはおありですか?」
「いえ、一度もないわ。ダマスクより外と言えば、教都とムルタラに行ったことがある位だから」
「なるほど。それでわかりました」
アリハルが海と湖の違い、海には大きい波があり「こんな小さな波ではなく」水がすべて塩水であることを説明する。
「なら海の近くに住めば、塩は買わなくてすみそうね」
イセリが少し面白がるように言う。
「そうですね、海の水を直接料理に使うのは微妙ですが、塩はとても安く購入できるでしょう」と、アリハルも内陸であるダマスクや帝都では少し高い調味料である塩に対しての感想を言う。
「釣った魚にも塩味がついていたら、焼くだけでおいしそうだわ」
「それは手間が省けてよいですね」
アリハルはイセリの顔に浮かんだ笑顔をみて、安堵していた。このまま釣りを始めて、一メートル以下のかわいいサイズの魚だけがかかってくれれば、今日の遠出は大成功といえるだろう。
「こちらへどうぞ」
アリハルがイセリを先導するように、湖に作られた桟橋の方へ向かい、そこに係留されている屋根付きの豪華な装飾が施された、少し大きめの船に誘導される。
「ふ、船に、乗るの?」
「ええ。少し沖に出た方が、良く釣れるらしいので」
アリハルの実体験ではなく、イセリのために調べまくったのだった。この船自体も、父ムロギアに頼んで出してもらったものだ。
「さぁ、どうぞ」
先に船に渡り、手を差し伸べるアリハル。
イセリは僅かに戸惑いの表情を浮かべたものの、アリハルの手を取り船に乗り込み、舷側に設けられた長いすに座る。
「では参りましょう」
数人の使用人なども乗せ、船は沖へ漕ぎ出す。
秋が深まってきた時期ではあるものの、ダマスクに比べれば南にある帝都付近は、天気が良い時は少し暑いぐらいだった。そんなこともあって、揺れは気になるものの船が進むことで生まれる風が、イセリには心地よかった。
一人の使用人が進み出て、アリハルと二、三言葉を交わすと、船がゆっくり停止し、碇が降ろされる。
「さぁ、始めましょうか」
アリハルが、何とか水面に手が届かないかとがんばっているイセリに仕掛けと餌がセットされた竿を渡し、どうぞと促す。針には餌となる何かの魚の切り身がぶら下がっている。
イセリは受け取った竿をそのまま船の外に振り出すと、浮かんでいる浮きを注視する。小さな波が水面の浮きを上下に揺らし、乗っている船も僅かに揺らす。
船が止まったせいで心地よい風も止まり、穏やかに感じる波も一定のリズムで体を横に揺さぶる。そして、まだ四半刻もたっていないというのに、浮きを見つめるイセリに変化が出始める。だんだん浮きが揺れているのか自分が揺れているのか、わからなくなってきていた。
イセリは、反応がない浮きにちらちらとアリハルを見ていた。
「この辺だと一刻も粘れば大きめの物が釣れるようです」
アリハルは当然一メートル以下を願っている。
一刻という言葉に微妙に困った顔をするイセリだったが、浮きに注目する作業に戻る。
さらに少し時間がたち、イセリにさらに変化が訪れる。顔色が少し青くなり、呼吸が僅かに浅くなっている。
アリハルを横目で眺めるが、なにが嬉しいのかにこにこしながらイセリを見つめ返してくる。
(キリクならすぐに気がついてくれるのに……)
イセリはだんだん腹が立ってきていた。釣りをしたいからといってなにも船に乗ることはないじゃない。こう言うのは準備の前に強いとか弱いとか聞くものじゃない?だいたい今現在気分が悪い事に気がつきなさいよ!
もう限界が近かった。
「今すぐ船を岸に戻して」
「え?」
きょとんとするアリハル。
「今すぐ私を陸の上に返して!」
そう大きい声を出した瞬間、こみ上げてくる物があり、あわてて飲み込むように押さえる。
近くにいた女性使用人があわててアリハルに耳打ちし、驚いた顔をしたアリハルがすぐに船を戻すよう指示すると、来たときの半分の時間で桟橋に少し荒く着岸する。
「さぁこちらへ」
アリハルの手を借りて桟橋にあがると、すぐに倒れ込むように膝をつくイセリ。それに併せて使用人が分厚い敷物をイセリのすぐ横に広げる。
イセリはその使用人の行動に深く感謝しつつ、そのままばふっと倒れ込む。
「これはなんというか、その、申し訳ないことを……」
おろおろするアリハルにイセリは右手を小さく挙げて反応だけするが、言葉をかける余裕は未だ戻ってきていなかった。
強い吐き気を我慢していたせいなのか、口の中が粘つくように乾いてきて、さらに頭痛までしてきており、他人に配慮ができるような状況ではなかった。
「イセリ様、お水を飲まれますか?」
あぁ、なんて気が利くの。
「ありがとうキリク」
水の入ったグラスを受け取った時、何ともいえない表情と色を纏ったアリハルが目に入る。
「あっ……ごめんなさい」
「いえ、いいんですよ。でもキリク殿がうらやましい。あなたのふつうの笑顔が見られるほど、信頼されているのですね」
グラスを受け取るために振り向いた瞬間の、
イセリの笑顔。本当に作っていない、素のままのイセリ。
「そう、そうね。キリクは……特別なの」
イセリは、アリハルが向けてくる好意の色に気がついていた。その色に対しての答え、そんなつもりでの返答だった。
「私もいつか、そう思ってもらえれば、そう願っています」
悲しげな色をたたえ、イセリの方ではなく湖を眺めながらアリハルが言う。
「では、戻りましょうか」
「ちょっと待って」
立ち上がりかけたアリハルをイセリが止める。
「ここからでは、この桟橋からじゃ釣れないかしら?」
「でも御気分が優れないのでは」
「お水をもらってゆっくりしゃべってたら、だいぶましになったわ。それにせっかくここまで来て、何も釣れずに帰るって言うのは、少し悔しいし」
それを聞いてアリハルが使用人と二言三言言葉を交わす。
「あまり大きい物を狙わなければ、そこそこ釣れるようですね」
「なら決まりね」
そういってイセリは少しゆったりと立ち上がると、竿を受け取って桟橋の先端の方へ行き、腰掛けて竿を振り出す。
だいぶましになった、その言葉は少し嘘が含まれていた物の、浮きを見ないようにして腰掛けていれば、気持ちの良い風に吹かれて休んでいるような気分でもあった。
(キリクはどうしているかしら)そう思った瞬間、昨日のキリクが思い出され、ハリティアと楽しそうにしているキリクを想像して、気分が落ち込んでいった。
(絶対大きいのを釣って帰るんだから)
そう思わずにはいられないイセリであった。
「イムニ様」
イムニが居室から出てきたところを、副大臣のダルバに呼び止められる。
「ダルバか。なんだ」
イムニのその答えに(鈍い、本当にムロギア帝の血を引いているのか)ダルバはそう思ってしまう。
「今日のアリハル様とハリティア様のご予定はご存じですか?」
「知らん。そんな事を聞きに私のところに来たのか?」
他の者に聞けと言わんばかりにダルバを無視して歩きだそうとする。
「アリハル様はムロギア様の船まで借りだして、あの捕虜と釣りに向かわれましたよ」
イムニの足が止まる。
「ふん。あの小娘を籠絡してダマスクでも手に入れようと言うのか、ご苦労なことだ。隣接していない土地など、教会に没収されて敵が喜ぶだけだろうに」
くだらないと、また歩み去ろうとする。
「ハリティア様は、剣の息子と鷹狩に向かわれましたぞ」
「なんだと?」
今度は足を止めただけではなく、ダルバの方に向き直るイムニ。
「どうせ気まぐれであろう、あの姉上の目にかなうような男などそうそうおるわけないからな」
口では軽く言っているが、ダルバの元を去ろうとはしていない。気になっているのだ。
「それが最新の情報では、ハリティア様はは大変気に入っているご様子で、ご自分のお気に入りの馬まで貸し出され、剣の息子もその御期待に応えてしっかりと後に続いたとか」
「どういう事だ、姉上は何を考えておられる」
ダルバに歩み寄ってその両肩を乱暴につかむ。
「うっ、私めなどにはそのお考えはわかりかねますが」
そう答えたが、内心は過去にハリティアが男を鷹狩に連れていった場合、それは婚約者候補であり、相手を見定めるための行為であることは、一部貴族の間では半ば常識になりつつあった。
「あいつは領地どころか何も持っていないではないか。剣の息子と言うことは貴族ですらない!」
ダルバの肩を激しく揺さぶる。
「ハ、ハリティア様はそういうことに頓着されない方ですので」
「なんだと!もし姉上と結婚などとふざけた事態になって見ろ、剣の息子が姉上が持つ帝国の領地を手に入れるようなものだぞ!そんな事父上も許されるはずがない!」
さらに強く詰め寄る。
「しかし、こ、この件はムロギア様もご存じのようで」
ダルバが身をよじり逃れるようにもがく。
「ばか、な」
ダルバの肩をつかんだ腕より、力が抜ける。
イムニの脳裏に、先日ムロギアにまみえた時の会話がよみがえる。『お前にはまだ早い』その言葉が何を意味するにせよ、イムニには自分のすべてを否定されたような気分がよみがえっていた。
「そんな事、認めんぞ、誰が許そうと、この俺が……」
ぶつぶつとつぶやきながら、足取り重くダルバの前から立ち去るイムニ。
「馬鹿はどっちだ」
ダルバは強く掴まれた部分が痛むのか、肩をさすりながらニヤリと笑う。