三章 第三話
「父上、お聞きしたいことがあります」
扉が勢いよく開かれて、足音荒くイムニがムロギアの部屋へ入ってくる。
「なんだ騒々しい」
夕食時に来ていたガウンをそのままに、深く腰掛けて書類に目を通しているムロギアが答える。ちらりとイムニを確認しただけで、視線を机の上に積まれた次の書類に移す。
「イセリ姫をアリハルに与えたという噂を聞きましたが、真でしょうか」
広げていた書類から顔を上げ、右目にはめていたモノクルをはずす。
ムロギアは一瞬反射的に「誰から聞いた」と聞きそうになったものの、その質問の持つ意味のなさから言葉を飲み込み、与えたという言葉の意味を考える。どこかの誰かの御注進なのか、自分で考え出したものか。その両方か。
「与えたのではない。世話を任せただけだ」
小声で「あれはそういう仕事に向いているからな」と付け加える。
「今後どのように扱うのか、獲物を捕ってきた身としてとても気になるのですが」
両足を肩幅に広げ、両手を後ろ手で組み、姿勢を崩そうとしない。
鼻梁を揉みながら椅子に深く座り直すムロギア。
「さて、おまえには新たに領地を、その部下にも十分な報酬を与えたはず」
イムニが少しむっとした顔をする。
「だが、獲物の行く末が気になるというのも分からないではない。正直惑うておる。失った領地を回復するにはダマスクは離れすぎている。単純に金銭の授受だけでは何の面白味もない。はてさて」
「私が預かっても問題はないのでは?剣の息子など、首を送り付けてやればよいのです。あの冷静な男がどんな顔をするか、見物ではありませんか」
自分の思いつきに気をよくしたのか、両の手を机に勢いよく付き、前のめりに熱弁を振るう。
「イムニよ。今年でいくつになる」
「は?次で二十になりますが」
「まだお前には早い、か」
「機会があれば私はやれます!どんな状況でも私は自分の道を切り開いて見せますよ!」そう言うと、イムニは来た時よりもさらに足音高く退室していった。
どっと疲れが出たように、椅子の背に体を預けるムロギア。
「お前が選んだ道なら、良いのだが……」
「イムニ様」
肩を怒らせながら、足音高く自室に向かうイムニを呼び止める者がいる。
「おぉ、ダルバか」
最近副大臣になったダルバだった。
「どうされました?あまりお顔色がよろしくないようですが」
でっぷりとした腹の前で手を組み、人なつこそうな笑みを浮かべている。背があまり高くないことも手伝ってか、穏和な印象を受ける。
「父上は何も分かっておられぬ。国内のことばかりに捕らわれ、外に目を向けようともしない。私がせっかく手に入れた駒も、懐にしまいこんで活用しうよともしない」
「イムニ様、声を、声を落とされますよう」
「かまうものか。前の戦争のときもそうだ。せっかくとった領地を停戦交渉でみすみす明け渡す始末。今回の獲物もそのまま引き渡すのではないかと皆が危惧しておるわ」
確かに領地を明け渡したのは事実ではあったが、不利な条件での合意というわけではなかった。
(その停戦交渉のおかげで、より良き地を得たというのに)とは思っても口には出さないダルバだった。
「ムロギア様も考えあってのことでしょう。今何も功のないアリハル様に、何らかの実績を積ませようとのお考えーーがっっっぐっっ」
イムニがダルバの首を力任せにつかみ、そのまま壁に押しつけ力を込める。
「そして王位を継がせるとでも言うつもりか?ん?」
そのまま持ち上げようとするかの勢いだったが、ダルバの体重のおかげか、押しつけられるだけで手を離す。
「げほっ……がはっ……」
ずるずると壁に背を預けたまま崩れ落ちるダルバを見下し、そのまま立ち去るイムニ。
イムニの姿が見えなくなったのを確認し、よろよろと立ち上がるダルバ。
「ふん、すねをかじるだけのガキが踊らされているとも知らずに」
首をさすりながら不敵な笑みを浮かべる。
「アリハル。あの二人を見た感想はどうだ」
ゆったりとクッションのよく効いた長いすに体を預けるように腰掛け、向かいに立っているアリハルに問いかけるムロギア。先ほどイムニが出ていった後に、書類を片づけ、アリハルを呼んだのだった。
「まだ良くは分かりません。ですが二人きりで捕らわれているというのもあるかもしれませんが、とても強い信頼関係にあるのは良く分かります。あと、二人とも頭の回転は良さそうです」
自分の胸の紋章をちらりと見る。
「あぁ、そういった感想ではない。人としての感想を聞きたかったのだ。単純に好きか嫌いかでも良い」
そう言いながら、自分の向かいの席に座るよう促す。
「あと、今はほかに誰もおらんぞ」
そういって唇の端を上げてニヤッとする。
途端。勢い良く少し跳ねるように、ムロギアの長椅子に座るアリハル。反動で少しムロギアの体が持ち上がる。
「何?ってことは父さんとして感想を聞きたいって事でいいの?」
今までとは打って変わって砕けた口調になるアリハル。両手を頭の上にのばして延びをする。
そうだな、と一言返事をしながら、自分のグラスともう一個のグラスにワインをそそぐと、「ほら」とアリハルにグラスを渡す。
アリハルは渡されたグラスから一口だけ飲み、若く軽い味を楽しむ。
「そうだね、イセリ姫はうん、とても好感の持てる知的な女性……女性と言うにはまだ早い気がするんだけど、そうとは感じないほど落ち着いていて、今まで出会ったことがないようなタイプの人だ。幼い感じの口から少し凛とした感じの言葉が出てくるのがとてもいい」
そう言いながらさらにグラスに口を付ける。
「ほう。女に興味など無さそうなお前の口から、そんな感想がでるとはな」
「ここで俺に寄ってくるのは、父さんの権力目当てで媚びてくる女性ばかりだからね。誰も僕なんか見てないよ」
対等な態度が新鮮に感じただけでも無さそうだな、そう見て取ると、悪くはない反応だと自然少し頬がゆるむムロギア。
「あ、なんか変な想像してるね?別に良いけどさ」
またグラスに口をつける。
「付き人のキリク君はどうだ?」
君?父が君付けで人を呼ぶのは珍しい。
「家令の彼だね」
それだけいうと、少し思案げに首を傾ける。
「はっきりとした事はわからないけど、彼が友人、もしくは忠実な部下であってくれれば、おそらくうれしくなると思う。現実は敵同士になるのかな。なぜかそれがすごく残念に思う」
そうして本当に少し表情を曇らせる。
「確かに今この瞬間は彼らは捕虜であり、こちら側の人間ではない。だがそんなものはいくらでも覆せるぞ」
「どうやってさ。捕虜から解き放ったら、すぐにダマスクに帰ってしまう」
アリハルの頭に、イセリの最初の願い(すぐに私たちをダマスクに帰して)がよぎっていた。
「簡単ではないかもしれないが、いくつか手はある。一番簡単なのは、そうだな……」
思案するように白いものが混じり始めたあごひげさする。
アリハルは答えを待つ間にワインを一口含む。
「おまえがイセリ姫と結婚すればいい」
ムロギアが言い終わると同時に、アリハルの口からワインが吹き出た。
「全く父さんはいつも何考えてるか良く分からないよ」
ムロギアの部屋から自室に戻る途中で一人ごちる。
「そもそも本気かどうかも全くわからないし……悪い気はしないけど」
「どうされました?」
ちょうど通りがかったかのようにダルバがアリハルに話しかける。本当はイムニの後にアリハルがムロギアの所に呼ばれたという報告を聞いて、待ちかまえていたのだが、そんなことはおくびにも出さず人なつこい笑みを浮かべながら話しかける。
「あぁ、ダルバか。そんな大したことじゃないんだけど」
少し思案するような顔をして続ける。
「ムロギア様が私の結婚相手にイセリ様はどうかって、冗談なのか本気なのか、悩むようなことを言うんだよ」
「それはそれはまた、おめでたいお話ですな」
内心の驚きはおくびにも出さない。
「もしそれが実現すれば、ダマスクはアリハル様の物となり、教会圏との和平も短期的なものではなく、長くなりそうで喜ばしい限りですな」
先の戦争で財をなした者の言葉とは思えない台詞だ。
「結婚してもダマスクは僕の物にはならないよ。領地の権利はそれぞれが持ち続けることになるだろうし。子供が出来れば引き継いでいくことになるんだろうけどね」
(イセリ姫に何もなければですがね)
アリハルの言葉に内心付け加えるダルバ。
「ところでダルバ。あなたのお店から教会産の魚を持ってきてほしいんだ。イセリ姫が食べたがるかもしれない」
その言葉に内心ぎょっとなるダルバ。教会圏の魚介類を保存用に調理したものをごく最近取り引き始めたばかりで、まだ市場にも出していなかった。
いや、市場どころか教会圏の人間との取り引き自体、内密に進めているものだった。
「そ、そうですね、手に入れられるかさっそく戻り、家の者に確認してみましょう」
わずかに声がうわずる。
何気ない風を装い、礼をしアリハルの前から退出する。
(ふん、脳天気な王子が、ただの偶然だ)
戻って確認しなくても、昨日初めての荷が届いたのを、ダルバ自身が確認していた。