逢魔時
暗い――――
蛍光灯の切れた、薄暗い部屋が目の前に広がっている。
ぴちゃん、ぴちゃんと水の滴る音がしている。その音は天井に、床に、壁に、オレの耳に反響して来る。
「――嫌だよ」
背後で、声がした。
振り向くと、ヌラリとした鈍く赤黒い光を発するナニかが見えた。その根元は、細く伸びた少女の腕と繋がっている。
「もう、嫌だよ――どうして――は、そんな――を―――だよ――――」
その声はとてもか細いもので、ところどころ聞き取れない。
ゆらり。
その影は、ゆっくりとオレに近づいて。
「――もう、いいや」
その手に持った、赤い刃を振り下ろした―――
「――――ッッッッ!?」
目を開けると、木目の天井が目に映った。
嫌な夢を見ていたらしい。オレは枕から頭を上げる。冷房が効いているのに、背中にはびっしょりと嫌な汗が滲んでいた。
自然と息が上がる。激しい鼓動を押さえつけようと、胸に手を添える。
「――ッ、は――――」
動悸で、うまく呼吸が出来ない。まともに機能しない肺を無理やり動かした。
あの夢は――
いや、夢なんかじゃない――あれは……あの記憶は……
「――ただの夢だ。あんなの、オレは知らない」
靄を取り払うように、頭を振る。
先ほど自分が考えていた事の反対の事を、オレは結論付けていた。
時計を仰ぎ見る。短針は、まだ5時を指していた。
「何か目、冴えちまったな…」
オレはベッドから腰を浮かすと、まだ寝ているであろう茜を起こさないよう静かに部屋を出た。
「―――あ。おはよう、お兄ちゃん」
階段を下りた先には、ソファに座ってココアを飲む茜がいた。
「どうしたんだよ、こんな朝早くに…ちゃんと寝ないと、大きくなれねーぞ」
彼女は、ムッと顔をしかめさせる。
「べ、別に背が小さいのは寝ないからじゃないもんっ、私はほら、こんな身体だから……」
そう抗議すると、彼女は自分自身の身体をまじまじと見つめる。パジャマ姿の妹の肌は、雪のように白く透き通っていた。
「それより、どうしてお兄ちゃんはこんな時間に起きてるの?」
「ああ、それは――」
言いかけて、躊躇した。嫌な夢、と言ってしまえばそれだけだが、どちらにしても不吉極まりないのは違いなかった。
「寝苦しくてベッドから落ちた。冷房ガンガンかけてんのに、夏になると本当に暑いよな」
「ああ、うん。皐月だったら完全に暴走してるよね」
上手く彼女を煙に巻けたようだ。いや、煙に巻く必要も無いっちゃ無いんだが。
「――ん?茜、ソレ気に入ってるのか?」
背の小さな妹。その胸には、今日見つけた例のブローチが飾られていた。
「私も、何でかは分からないんだけど――何だか懐かしくって」
「ふぅん…あれ、それって確か昔は紫色じゃあ…なかったっけ?」
妹は、カクンと首を傾げる。少し考え込むと、考えを放棄したように首を振った。
「どうだったかな?多分、この色だったと思うよ」
安っぽい子供じみた彼女のブローチは、血液を煮詰めたような黒みがかった赤に染まっている。
しかし、オレの記憶の中ではただの紫色となっていた。
しばらく、部屋の中に沈黙が降りる。時計を仰ぎ見る。時間は未だ早く、ようやくうっすらと日が上り始めていた。
―――暇だ。何か時間潰しに話す事はないか、と記憶の中を漁る。
「――そういえば、さ」
苦し紛れに出た話題が、例の跳び膝蹴り女だった。
「舞さん?それ、生徒会長さんだよ」
東雲 舞。彼女の名前が出ると、妹はそう答えた。
彼女は人当たりが良く、人脈もある程度通っている。オレとは正反対の人間だった。
「その生徒会長さんがオレに飛び膝蹴りを…ね。もう少し強く蹴ってもらっておけば良かったな」
「お、お兄ちゃん……?一体何を考えているのかな?」
ヒクヒクと、茜の顔が引き攣る。相変わらずのオレの性癖に、ドン引きしていた。
「何か追いかけてるとかどうとか言ってたぞ……オレに一言も謝罪しないで」
「うーん、何を追ってたんだろ?」
「スーパーの特売セールでもやってたんじゃないか?」
そんなワケないでしょ、と茜の嗜めるような目線がオレを突き刺す。
「生徒会長さんが、追いかけてるもの、か――少し気になるけど、他人の事にあまり首を突っ込むものじゃないよね」
よいしょと妹はソファから腰を浮かすと、手に持っていたマグカップをシンクに置いた。とうに日は差し込み始めており、朝の到来を告げていた。
と、彼女は何か思い出したように振り返る。
「そういえば昨日、皐月が――」
ばぁーーーーんっっ!!
「おっはよーーっ!!……ってあれ?良人、今日は早いね、どうしたの?」
噂をすれば何とやら。茜は言いかけて、そのまま口をつぐんでしまった。何でもない、と彼女は首を振る。
「ああ、いやベッドから墜落して」
「ふーん……なんとも良人らしいね」
「余計なお世話だ」
そんないつも通りの朝を迎えて、くすくすと茜は笑っている。平凡な朝の訪れだった。