思い出
自宅に帰るや否や、自室のある二階から凄まじい振動と共に埃が舞い降りてきた。少女がむせる声が聞こえる。煙の中からひょこっと現れたのは、妹の茜だった。
「――帰ってくるなり何の騒ぎだよ」
「ケホッ――ケホッ――ああ、お兄ちゃん。おかえり」
「随分と凄い音がしてたぞ――大丈夫か?」
「あ、うん。ちょっと部屋の整理してて――うわっ、と」
バサバサ、と本が落ちる音が聞こえた。古い本に堆積した埃が、衝撃で空気中に舞う。彼女の部屋は今、かなり散らかっていた。
「最近本が溜まっちゃってて。幾らか捨てないと――って思ってたんだ」
「ああ、そうか……まあ、埃とか気をつけろよ」
妹は生まれつき、身体が弱い。
彼女は先天性の心臓病を患っており、生まれてすぐに大手術が行われた。その後遺症として、重い喘息を抱える事となっている。
埃を吸うだけで、咳が止まらない時も度々あるのだ。
コトリ。
茜が立ち上がろうと。彼女の足元に何かが落ちてきた。それは、一つのブローチだった。
「わあっ!!懐かしいっ」
「何だ、お前こんなの持ってたのか?」
オレの言葉を聴き取ると、彼女は首を傾げた。
「覚えてないの?お兄ちゃん。これ、パパとママが買ってくれたやつだよ」
「ああ……そうだった」
完全に不意打ちだった。
オレ達の両親は、七年前に原発事故でどちらとも亡くなっている。彼女がまだ小学三年生の頃の事だった。
しかし情けない事に、オレはその事についての記憶を失ってしまっている。だから、両親の事は覚えているが事故以降しばらくの間の記憶は無い。
「私がまだ小さかった時かな?お店でコレが欲しいって、泣き喚いたんだよ」
黒歴史だな、と答えると、彼女は笑った。
「それにしても、よくそんな昔の事覚えてるよな…まだ小学一年くらいの頃だろ?」
所詮子供用に作られたブローチ。その作りはとても安っぽく――幼き日々を思い出させるものだった。
「私の――宝物だもん」
愛おしそうに、ブローチの上を撫でるように指を滑らせる茜。中心に嵌まった宝石を模した赤いルビーが、蛍光灯の光を反射する。
「お兄ちゃん、パパとママの事、忘れちゃってるんだよね……ごめんね、こんな話しちゃって」
「いや、いい。オレが忘れちまったのが悪いんだし」
実を言うと、両親の事はおぼろげに覚えている。
覚えて――いるが――
「――お兄ちゃん?」
妹と、皐月と、記憶が食い違っていた。
オレの知る両親の最期は、原発事故なんかじゃない――
――むしろ、それは事故とは言えないものだった。
だって――
「――ぃちゃん、お兄ちゃんっ!!」
気付くと、茜が大きな声でオレの事を呼んでいた。
「どうしたの?顔色悪いよ」
「ああ…大丈夫」
だって――親父とおふくろは事故で死んだんじゃない――
殺されたんだ――
頭の中にノイズが走り、耳鳴りがした。
視界は歪み、耳の中で鳴り続ける音は次第に大きくなり、俺を暗闇と騒音とで包んだ。
――ピチャン。
水の滴る音が、どこからともなく聞こえる。
真っ暗な闇。光の差し込まない、目を細めないと分からないほどの、暗闇。
そこは部屋だった。
外と隔離され、ここだけが時間が止まったような、異様な空間。
――ピチャン。
静寂だけが包むこの部屋に、水の落ちる音だけが響いている。
否、それは水ではない。
目の前に大きな影が転がっていた。
雨上がりの少し寒い空気の中で、生暖かい液体がその影から流れ出ている。
――ピチャン。
再び何かが零れ落ちる。水溜りを作っていたソレは大きく跳ね、幼いオレの顔にかかる。
それは血液だった。
影の塊は横たわり、キッチンと思われる場所にはもう一つ、大きな黒い――黒い、死体が転がっていた。
ぴちゃぴちゃと、文字通りの血の海を掻き分ける音が聞こえる。
その細い足はただ無機質にオレの方ににじり寄ってきた。
オレは――
オレは――――
気がつくと、オレは妹の部屋にいた。
「どうしたの?もしかして具合悪い?」
心配した茜が、不安な目をこちらに向ける。大丈夫だとオレは無言で手を振り、自室へと向かっていった。
ムクムクと膨れ上がる不安は、留まる事無く大きくなっていく。
彼女の思い出と、オレの思い出。
何一つ交わることは無く、ただそれぞれの道を進んでいく。
それは樹木が枝葉を伸ばすように、それぞれが闇の帳のように――
インクを水をたらしたような、少しずつ闇が降りていくのを感じた。
ベッドに飛び込むと、今日起きた出来事が瞼の裏にフラッシュバックされる。
―ワケの分からない先輩――
―食い違う記憶――
――殺された両親。
嫌な予感がした。
これから、何かが起こる――そんな予感。
茜や皐月と違う、二人と異なる記憶――皐月?
「そういやアイツ、何で今日はいないんだ――?」
いつもは彼女が晩飯を作ってくれる時間だが……今日は、いない。
ズボンのポケットに仕舞われたスマートフォンを手繰ると、ディスプレイが発光する。
青いランプが点滅していた。メールだ。
「――皐月からか」
探し物があるから帰りが遅くなる、との事だった。
「……そういえば最近、帰りが遅いよな。皐月のやつ――」
随分と前から、彼女が探し物があるから、と言って帰りが決まって遅くなる時がある。
この前は確か13日前。その前はまたさらに13日前。
彼女は13日おきに探し物をしているようだった。
確か、学校でも周期的に失踪事件が起きているとかどうとか…彼女はその事件に関係しているのだろうか?
「――はあ」
ため息が一つ。
全く、悩みのタネだけが増えるばかりだった。