「君は飾りでいい」と婚約者が言うので、飾りらしく黙っていたら、隣国の大使の通訳ができるのがわたしだけでした
「いいかい、イザベル。今夜の晩餐会では、君は飾りでいい」
馬車の中で、婚約者のウィルフレッド様は、手袋のボタンを留めながら言った。
「にこにこして僕の隣に座っていればいい。余計な口はきかないこと。外務省の上の方々がいらっしゃるんだ。君が何か妙なことを言ったら、僕の出世に響く」
「……妙なこと、ですか」
「たとえば、この前の茶会みたいにさ。サフィール王国の詩がどうとか、伯爵夫人に話しかけていただろう。ああいうのは女性が人前でする話じゃない」
ウィルフレッド様は、窓の外の街灯に目をやって少し得意そうに顎を上げた。
「今夜は、サフィールの大使を迎える晩餐会だ。僕は外務省の書記官として初めて招かれた。わかるね? 大事な夜なんだよ」
わかっている。
三日前から、ウィルフレッド様は、そのことしか話さなかった。新しい礼服を仕立てて髪油を三種類も試している。
わたしは膝の上で扇を握った。
淡い金色の、薄い扇。骨には、細い蔓草の模様が彫ってある。サフィールの職人の手によるもので、亡くなった母の形見だった。
「……承知しました。今夜は黙っております」
「それでいい。君は見た目だけは悪くないんだから」
ウィルフレッド様は、満足そうに笑った。
だけは。
わたしは扇を開いて、口元を隠した。唇が少しだけ、ふるえていたからだ。
悲しいのではなかった。悔しいのとも、少し違った。
ただ、胸の奥のどこかで、小さな扉が、またひとつ、音もなく閉まった気がした。婚約してから一年。ウィルフレッド様の前で、扉は一枚ずつ閉まっていった。詩の扉。サフィールの扉。母の思い出の扉。
あと何枚、残っているのだろう。
全部閉まってしまったら、わたしは、本当に、ただの飾りになるのかもしれない。
馬車の窓に、自分の顔がぼんやりと映っていた。結い上げた髪と、真珠の耳飾りと、にこにこと笑う口元。きれいに飾られた、知らない娘が、そこにいた。
カーライル侯爵家の次女、イザベル。十九歳。
わたしは、東の隣国、サフィール王国で生まれた。父が、サフィール駐在の公使をしていたからだ。母はサフィールの古い学者の家の出で、わたしは、母の膝の上で、古いサフィールの詩を聞いて育った。
十二歳の年に、父の任期が明けて、一家でこの国へ移った。父にとっては帰国でも、わたしにとっては、初めて暮らす父の国だった。
この国に来て七年。サフィールの言葉を使う機会は、ほとんどなかった。
サフィールの王都の屋敷には、裏庭に、小さな睡蓮の池があった。
夏の夕暮れになると、母は、池のほとりの石に腰かけてわたしを膝の上に乗せた。白い睡蓮が水の上に、ぽっかりと浮かんでいた。
「イザベル。睡蓮はどうして水に流されないと思う?」
「……わからない。重いから?」
「いいえ。根があるからよ」
母は水面に指先を浸してゆっくりと輪を描いた。
「泥の底に、目に見えない根を張っているの。だから、どんなに風が吹いても、花はどこへも行かない。人も同じよ。言葉は根なの。忘れなければ、どこへ行っても、あなたはあなたでいられる」
母の声は低くてやわらかかった。古い詩を唱えるときだけ、少しだけ節がついた。
この国に来た翌年、母は熱病で亡くなった。
あれから、睡蓮の池を見ていない。古い詩を声に出して唱えたこともない。根は泥の底で、もう枯れてしまったのかもしれないと、ときどき思った。
ウィルフレッド様は、婚約してからずっと、わたしに「その話はやめてくれ」と言い続けてきた。異国かぶれの娘だと思われたら、外務省で恥をかく、と。
だから、やめた。
詩の話も、サフィールの話も。気がつけば、ウィルフレッド様の前で、わたしはほとんど何も話さなくなっていた。
馬車が王宮の門をくぐった。
王宮の大広間は東の国の色で飾られていた。
壁には、深い藍色の布が垂らされ、そこに金の糸で、サフィールの国花である睡蓮が刺繍されている。卓の上には、銀の燭台と、東の国から運ばれた白磁の器。
懐かしい、と思った。
七年ぶりに、サフィールの匂いがした。乳香を焚いた、甘くて少し苦い香り。
ウィルフレッド様は、広間に入るなり、知り合いの書記官たちを見つけてそちらへ歩いていった。わたしは言いつけどおり、その後ろについて、にこにこと笑っている。
「ウィルフレッド、それが噂の婚約者か。美人じゃないか」
「まあね。おとなしくて口答えもしない。妻にするなら、こういうのがいちばんだよ」
ウィルフレッド様と、書記官たちが、声を合わせて笑った。
わたしは笑ったまま、扇の骨を指でなぞった。
蔓草の模様の溝を一本、また一本と。そうしていないと、顔が崩れそうだった。
「それにしても、サフィールの大使ってのは、気難しい爺さんらしいな」
書記官の一人が声をひそめた。
「今度の交易の条約、向こうがなかなか首を縦に振らないんだろう?」
「ああ。リヒター公爵閣下が、半年も粘ってるのに、まだ話がまとまらない。古くさい国だからな。大使も、きっと頭が固いんだ」
ウィルフレッド様が、肩をすくめた。
「どうせ、こっちの言葉なんか、ろくにわからないだろうさ。通訳を通さなきゃ、挨拶もできない」
わたしは扇を持つ手を止めた。
それは違う。
サフィールの貴族は、たいていこちらの言葉を少しは聞き取れる。話すのは苦手でも、聞くほうは、子供のころから家庭教師に習うのが普通だ。父が昔そう言っていた。
ウィルフレッド様に、そう言おうとした。
口を開きかけて閉じた。
君は飾りでいい。余計な口はきかないこと。
わたしは扇をゆっくりと閉じた。
晩餐の卓は長い一列だった。
中央に、サフィールの大使ファルーク卿。白い髭を長く伸ばした、小柄な老人だった。深い藍色の長衣に、金の帯を締めている。
大使の右隣に、外務卿のマクシム・リヒター公爵閣下。
黒髪を後ろへ撫でつけた、三十前の人だった。若くして外務卿に就いた切れ者で氷の公爵と呼ばれている。笑ったところを見た者はいない、と噂されていた。
大使の左隣には、王宮づきの通訳、ボールドウィン先生が座った。
わたしとウィルフレッド様の席は、卓のずっと端のほうだった。それでも、大使の声はよく聞こえる。
最初の料理が運ばれてきたところで、大使が、杯を手に立ち上がった。
広間が静かになった。
大使はゆっくりと、歌うような声で話しはじめた。
わたしは息をのんだ。
それはふだんのサフィールの言葉ではなかった。古サフィール語。何百年も前の、宮廷の詩の言葉。今のサフィールでも、学者と年寄りの貴族くらいしか、話せる者はいない。
母がよく、この言葉で子守唄を歌ってくれた。
大使の言葉は短い詩になっている。
客人の卓に、睡蓮は咲くか。根のない花は水の上でただ揺れるのみ。
ボールドウィン先生の顔がさっと青ざめた。
先生は口を開いて、閉じてまた開いた。それから、隣の外務卿閣下に、何かを小声で囁いた。
閣下の眉がわずかに寄った。
広間に、ざわめきが広がった。
「……何だ? 何と言ったんだ?」
ウィルフレッド様が、わたしの隣で首を伸ばした。
わたしは膝の上で扇を握りしめた。
わかる。全部、わかる。
あれは問いかけだ。古いサフィールの宮廷では、大事な客を迎えるとき、主人が詩で問いを投げる。客がそれに詩で答えられたら、心を許す。答えられなければ、話はそこまで。
根のない花は水の上でただ揺れるのみ。
あなたがたは根を持って、この話し合いに臨んでいるのか。それとも上辺だけの交わりか。大使はそう訊いているのだ。
答えなければ、条約の話はきっとここで終わる。
ボールドウィン先生は額の汗を拭いていた。先生が知っているのは、今のサフィールの言葉だけなのだろう。
外務卿閣下がゆっくりと立ち上がった。
「失礼。どなたか、古サフィール語を解する方は、この場におられないだろうか」
低く、よく通る声だった。広間じゅうがしんと静まりかえった。
誰も手を上げなかった。
わたしの心臓がどくどくと鳴っている。
手を上げるべきだ。わたしなら、答えられる。
でも。
「……イザベル。じっとしていろよ」
ウィルフレッド様が、卓の下でわたしの手首をつかんだ。
「こういうときに、女が出しゃばると、ろくなことにならない。君は飾りなんだから」
ウィルフレッド様の指が手首に食いこんだ。
わたしはうつむいた。
飾り。
七年間、黙ってきた。サフィールの詩も、母の子守唄も、全部、胸の中にしまいこんで。黙っていれば、ウィルフレッド様は満足した。黙っていれば、誰も困らなかった。
でも今、黙っていたら。
大使はこの国を根のない花だと思って帰っていく。半年かけた条約の話が、何もかも、水の上で揺れて消える。
膝の上の扇がかすかに、ふるえていた。
そのとき、大使が、卓の端のほうを見た。
わたしのほうを。
正確には、わたしの膝の上の、金色の扇を。
大使の白い眉がぴくりと動いた。それから、大使は、古サフィール語でゆっくりと言った。
「そこの、蔓草の扇をお持ちの娘御。その扇はアルーシャの家の紋ではないか」
アルーシャ。母の生家の名前だった。
広間じゅうの目がわたしに集まった。
ウィルフレッド様が、ぎょっとしてわたしの手首を放した。
わたしはゆっくりと立ち上がった。
足がふるえている。でも立った。
飾りは話しかけられたら、答えてもいいはずだ。
「……ご明察にございます、大使閣下」
わたしは古サフィール語で答えた。
七年ぶりに口にする言葉は、最初、少しだけ舌にもつれた。でも、二言目からはなめらかに出てきた。母の声が耳の奥で、一緒に唱えてくれているようだった。
「わたくしの母は、アルーシャの家の者でございました。この扇は母の形見にございます」
大使の目が大きく見開かれた。
広間がどよめいた。
わたしは卓に向かって深く膝を折った。それから、背筋を伸ばして大使の目をまっすぐに見た。
「先ほどのお問いかけに、母に代わって、お答えしてもよろしゅうございますか」
大使は杯を持ったまま、ゆっくりとうなずいた。
わたしは目を閉じた。
母の膝の上。夕暮れの、睡蓮の池のほとり。母が指で水面に触れながら、教えてくれた詩。
根のない花はない。
息を吸って唱えた。
「睡蓮は、水の上にて揺れども、その根は泥の底に深く張る。目に見えぬ根こそが、花を支える。客人の卓に咲く花も、また然り」
広間は静まりかえっていた。
誰も、わたしの言葉の意味はわからなかったはずだ。でも、誰も、息をする音さえ立てなかった。
大使が杯を置いた。
そして、両手を胸の前で合わせて、わたしに向かって深々と頭を下げた。サフィールで、いちばん丁寧な礼だった。
「アルーシャの詩を異国の卓で聞くとは思わなかった。……この国には、根があるようだ」
大使の声は少しだけ、ふるえていた。
外務卿閣下がわたしを見ている。
灰色の目だった。冷たいと噂の目。でも、今、その目は、何かに驚いたように、わずかに見開かれていた。
「……失礼だが、あなたは」
「カーライル侯爵家の次女、イザベルと申します」
「カーライル……元サフィール公使の」
「父でございます」
閣下はほんの一瞬、目を閉じた。それから、大使に向き直って何かを言った。今のサフィールの言葉だった。少したどたどしいけれど、正確な発音だった。
大使が笑ってうなずいた。
閣下はもう一度、わたしを見た。
「カーライル嬢。今夜、この卓の通訳をお願いできるだろうか。ボールドウィン先生は、今のサフィール語の名手だが、古語は専門外だ。大使閣下は今夜は古語でお話しになりたいとおっしゃっている」
わたしは卓の端の、自分の席を振り返った。
ウィルフレッド様が、口を半分あけたまま、わたしを見上げている。
わたしは閣下に向き直って膝を折った。
「喜んでお引き受けいたします」
その夜、わたしは、大使の左隣、ボールドウィン先生の席に座った。
先生は自分から席を譲ってくれた。わたしの手を握って、「助かりました、本当に助かりました」と、三回も言った。
大使はよく話した。
古い詩を引いて、冗談を言い、昔の交易の話をした。わたしはそれを一つずつ、こちらの言葉に直して外務卿閣下に伝えた。閣下の返事をまた古語に直して大使に伝えた。
話すたびに、喉の奥が、温かくなっていく。
七年間、しまいこんでいた言葉たちが、胸の中から、次々に飛び出してくる。息をするのがこんなに楽だったなんて忘れていた。
「娘御。そなたの母御は詩をよく詠まれたか」
「はい。睡蓮の池のほとりで毎晩のように」
「であろうな。そなたの古語には、アルーシャの家の訛りがある。わしの若いころ、宮廷で、アルーシャの姫君の詩を聞いたことがある。そなたと、よく似た声であった」
わたしは言葉に詰まった。
大使が言っているのは、たぶん、祖母のことだ。母の母。わたしが生まれる前に亡くなった人。
「……ありがとうございます」
声がかすれた。
閣下が隣で、わたしの手元の杯に、黙って水を注いでくれた。
晩餐の終わりごろ、大使が、ふと、卓の端のほうに目をやった。
「ところで外務卿。今夜、あちらの若い書記官殿が、わしのことを頭の固い爺さんだと言っていたが」
大使はこちらの言葉ではっきりとそう言った。
広間が凍りついた。
卓の端で、ウィルフレッド様の顔から、さあっと血の気が引いていくのが見える。
「こちらの言葉など、ろくにわからぬだろう、とも言っていた。たしかに、話すのは不得手だ。しかし、聞くのは四十年やっておる」
大使は白い髭を撫でながら、のんびりと言った。
「まあ、よい。今夜はアルーシャの詩を聞けた。それで帳消しにしておこう」
閣下が立ち上がって大使に深く頭を下げた。
それから、卓の端を振り返った。
「ウィルフレッド・ハモンド書記官」
閣下の声は静かだった。静かすぎて、広間じゅうの人が、首をすくめた。
「明日の朝、外務省の私の部屋に来るように」
ウィルフレッド様は、椅子の上で小さく縮こまった。
晩餐会が終わったとき、わたしは、膝から力が抜けて椅子から立てなかった。
三時間、話し続けた。喉がひりひりと痛んだ。頭の芯が熱を持ったようにぼうっとしていた。
「カーライル嬢」
顔を上げると、外務卿閣下が、わたしの前に、蜂蜜を溶かした湯の杯を置いていた。
「大使の侍従に頼んでもらってきました。サフィールでは詩を詠みすぎた喉に、これを飲ませるそうですね」
「……ご存じなのですか」
「半年、あの大使と付き合っていますから。半分は愚痴を聞かされているだけですが」
閣下は真顔のまま言った。わたしは杯を両手で持ってひと口飲んだ。甘くて少しだけ生姜の味がした。母が風邪をひいたわたしに作ってくれたのと、同じ味だった。
「おいしい……」
「それはよかった」
閣下はそれだけ言って、少しだけ、目元をゆるめた。氷の公爵は笑わない、と噂で聞いている。噂は半分だけ本当だった。笑い声は立てない。でも目は笑う。
晩餐会が終わったあと、わたしは、王宮の回廊でウィルフレッド様に呼び止められた。
ウィルフレッド様の顔は真っ赤だった。
「イザベル! なんで黙っていたんだ!」
「黙っていろと、おっしゃいました」
「そういう意味じゃない! 古語が話せるなら、話せると言ってくれればよかったじゃないか! そうすれば、僕が……僕の婚約者として閣下に紹介できたのに!」
わたしは扇を開いた。
金色の蔓草の模様が、回廊の燭台の光を受けてきらりと光った。
「ウィルフレッド様。わたし、婚約してから、何度もサフィールのお話をしようとしました」
「それは……」
「そのたびに、その話はやめてくれ、とおっしゃいました。異国かぶれだと思われたら困る、と。ですから、やめました」
ウィルフレッド様は言葉に詰まった。
「今夜も、飾りでいいとおっしゃいました。わたし、言いつけどおり、飾りらしく黙っておりました。大使閣下に話しかけられるまでは」
わたしは扇をぱちんと閉じた。
「飾りは、持ち主の出世のお役には立てません。申し訳ございません」
ウィルフレッド様の口がぱくぱくと動いた。
「イザベル、待ってくれ。僕は……」
「カーライル嬢」
回廊の奥から、低い声がした。
外務卿閣下だった。
「お父君に、お話がある。馬車まで、ご一緒させていただけるだろうか」
閣下はウィルフレッド様には目もくれずに、わたしに腕を差し出した。
わたしはほんの少しだけ迷った。それから、閣下の腕に、そっと手を置いた。
背中で、ウィルフレッド様が、何か言いかけてやめるのが聞こえる。
屋敷に戻ると、父が、書斎で待っている。
閣下が晩餐会のことを父に手短に話してくださった。父は黙って聞いている。閣下が帰られたあと、父は、長いあいだ、暖炉の火を見つめていた。
「……イザベル。すまなかった」
「お父様?」
「ハモンド家との縁談を決めたのは私だ。おまえがサフィールの話をしなくなったのにも、気づいていた。気づいていて、何も言わなかった」
父の声がかすれていた。
「おまえの母は、よく言っていた。言葉は根だ、と。私はおまえの根をここで枯らすところだった」
わたしは父の椅子の横に膝をついて、父の手を握った。父の手は思っていたよりも、ずっと細くなっている。
「枯れていませんでした、お父様。今夜、わかりました」
暖炉の薪がぱちん、とはぜた。父はわたしの頭に、そっと手を置いた。子供のころ以来だった。
ウィルフレッド様との婚約は、ひと月後に解消された。
ハモンド伯爵家のほうから、申し入れがあった。ウィルフレッド様は、外務省の書記官の職を解かれて、伯爵家の領地へ戻ったと聞いた。大使を侮った書記官を閣下が外務省に置いておくはずがなかった。
わたしはその知らせを外務省の小さな部屋で聞いた。
サフィールとの条約の、通訳兼相談役。それが閣下がわたしに用意してくださった仕事だった。
「侯爵令嬢を役所の机に座らせるなど、前代未聞だと言われましたよ」
閣下は書類の山の向こうでペンを走らせながら言った。
「誰にですか」
「外務省の古株たちに。それと、王妃陛下に」
「王妃陛下にまで……」
「陛下は、面白いとおっしゃった。古株たちは黙らせた」
閣下は顔を上げずに言った。わたしは思わず噴き出しそうになって慌てて口元を押さえた。
条約の話し合いはそれから三月続いた。
大使は毎回、古語で話した。ときどき、わざと難しい詩を引いて、わたしを試した。わたしが答えると、白い髭を撫でて満足そうにうなずいた。
ひと月ほどたったころ、大使が、わたしの知らない詩を引いた。
北の砂漠の、さらに古い時代の詩だった。母からも、聞いたことがなかった。言葉の半分は聞き取れたけれど、残りの半分は、意味がわからなかった。
大使は白い眉の下から、じっとわたしを見ている。外務省の古株たちが、部屋の後ろで、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。ほら見ろ、小娘には荷が重い。
手のひらが汗でじっとりと濡れた。
知ったふりをして、それらしく答えることもできた。大使にはきっと見抜かれる。そうしたら、半年と一月の話し合いが、また振り出しに戻る。
わたしは息を吸った。
「大使閣下。申し訳ございません。その詩をわたくしは存じません」
部屋の後ろがしんとした。閣下が隣で、わずかに顔を上げる気配がした。
「母から習った詩の中に、ございませんでした。ですから、今、わたくしの言葉で、お返しを詠ませていただいてもよろしいでしょうか。古い詩の形には、きっと合いませんが」
大使はしばらく黙っていた。
それから、白い髭の奥でにやりと笑った。
「詠んでみよ。知らぬと言える者の詩をわしは聞いてみたい」
わたしは目を閉じて言葉を探した。睡蓮の池でもなく、宮廷の広間でもなく、この国の、この部屋の窓から見える、灰色の冬の空のことを詠んだ。拙い詩だった。
詠み終えると、大使は、両手を胸の前で合わせて頭を下げた。あの晩餐会の夜と、同じ礼だった。
部屋の後ろの囁き声は、それきり、聞こえなくなった。
閣下は話し合いのあと、いつもわたしに意見を訊いた。
「大使は、今日、港の税の話をするとき、三度、言葉を言いかえた。あれはどういう意味だと思いますか」
「……たぶん、港の税より、港の水の権利のほうを気にしておられます。サフィールの古い言い回しでは、税と水は、同じ根の言葉から来ていますから」
閣下はペンを止めてわたしを見た。
「なるほど」
それだけ言ってまた書類に向かった。でも、次の話し合いで、閣下は、水の権利の話から始めた。
大使は目を丸くして、それから、大きな声で笑った。
その日の夕方、外務省の小さな部屋で、閣下が、紙の包みを一つ、わたしの机の上に置いた。
「昼食を食べていないでしょう」
「え……どうして」
「あなたの部屋の前を昼に三度通りました。三度とも、あなたは辞書を引いていた」
包みを開けると、焼いた鶏と香草を挟んだ、まだ温かいパンが入っていた。
「閣下も、召し上がっていないのでは」
「私は慣れています」
「慣れるのはよくありません」
わたしはパンを半分に割って閣下に差し出した。閣下は少しのあいだ、それを見下ろしている。それから、黙って受け取って机の向かいの椅子に座った。
二人で、窓の外の夕焼けを見ながら、パンを食べた。閣下はひと口が大きかった。半分のパンはあっというまになくなった。
「……もう半分、買ってくるべきでしたね」
閣下が真顔でそう言ったので、わたしは、声を立てて笑ってしまった。
条約はその日のうちに、まとまった。
話し合いが終わって、部屋を出ようとしたとき、大使に呼び止められた。
「娘御。これをそなたに」
大使の侍従が小さな陶器の鉢をわたしの両手に乗せた。鉢の中には、湿った黒い泥と、親指ほどの、茶色くしなびた塊が一つ、埋まっている。
「アルーシャの家の池から、株分けしてきた睡蓮の根だ。そなたの母御が子供のころに遊んだ池の」
わたしは鉢を抱えたまま、動けなくなった。
「こちらの国の水でも、根づくかどうかはわからぬ。しかし、そなたの国にも、根のある者がおると、わしは知った。ならば、睡蓮も、きっと根を張ろう」
大使は白い髭を撫でて目を細めた。
鉢の泥から、かすかに、懐かしい水の匂いがした。睡蓮の池のほとり。母の膝の上。夕暮れの、低くてやわらかい声。
わたしは鉢を胸に抱きしめて、深く、深く、頭を下げた。顔を上げたとき、頬が濡れている。大使は何も言わずに、わたしの肩をぽんぽんと二度叩いた。
条約の調印式の夜、王宮の露台で、わたしは閣下と二人きりになった。
広間からは祝いの楽団の音が聞こえている。大使は上機嫌で、ボールドウィン先生と古い詩の話をしていた。
露台の手すりの向こうに、月が出ている。
「カーライル嬢」
「はい、閣下」
「三月のあいだ、ずっと訊きたいことがありました」
閣下は手すりに肘をついて、月を見上げていた。
「あの晩餐会の夜。大使があなたに話しかける前、あなたは、手を上げようとしていましたね」
どきりとした。
「……見ていらしたのですか」
「私が、古語のわかる者はいないかと訊いたとき、あなたの肩が少しだけ動いた。それから、隣の婚約者に手首をつかまれてうつむいた」
閣下は手すりから体を起こしてわたしのほうを向いた。
「あのとき、私は、あなたのところへ歩いていこうとしていました。大使が先に、あなたの扇を見つけた」
灰色の目が月の光の中で静かにわたしを見ていた。
「あなたは飾りなどではない。この三月、私は、あなたの声に何度も救われた。条約がまとまったのは、あなたの声のおかげです」
胸の奥がきゅっと熱くなった。
七年間、誰も、わたしの声を聞こうとしなかった。わたし自身も、自分の声を胸の奥にしまいこんでいた。
「閣下……」
「マクシムと、呼んでいただけますか」
閣下は少しだけ、言いにくそうに言った。それから、小さく咳払いをした。
「実は、この三月、ボールドウィン先生に、古語を一つだけ習いました。発音が正しいかどうか、自信はありませんが」
閣下はわたしの手を取った。
そして、たどたどしい古サフィール語でゆっくりと言った。
「そなたの声をわが生涯の、朝ごとに聞かせてほしい」
古いサフィールの、求婚の言葉だった。
発音はひどかった。「朝ごと」が「鍋ごと」に聞こえる。
わたしは笑ってしまった。笑いながら、涙がこぼれた。
「……閣下、今のは、鍋ごと、と聞こえました」
「……そうですか」
閣下が珍しく、目をそらした。月明かりの中で、耳の先が、少しだけ赤くなっているのが見える。
氷の公爵が照れている。
わたしは閣下の手を両手で包んだ。
それから、古語ではなく、この国の言葉で答えた。いちばん大事な返事は、自分の言葉で言いたかった。
「はい、マクシム様。毎朝、お聞かせします」
マクシム様がわたしの手を強く握り返した。
広間の楽団が新しい曲を奏ではじめた。わたしは扇を開いて、熱くなった頬をそっとあおいだ。
金色の蔓草の模様が、月の光の中でゆっくりと揺れた。
(完)




