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「君は飾りでいい」と婚約者が言うので、飾りらしく黙っていたら、隣国の大使の通訳ができるのがわたしだけでした

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/31


「いいかい、イザベル。今夜の晩餐会では、君は飾りでいい」


 馬車の中で、婚約者のウィルフレッド様は、手袋のボタンを留めながら言った。


「にこにこして僕の隣に座っていればいい。余計な口はきかないこと。外務省の上の方々がいらっしゃるんだ。君が何か妙なことを言ったら、僕の出世に響く」


「……妙なこと、ですか」


「たとえば、この前の茶会みたいにさ。サフィール王国の詩がどうとか、伯爵夫人に話しかけていただろう。ああいうのは女性が人前でする話じゃない」


 ウィルフレッド様は、窓の外の街灯に目をやって少し得意そうに顎を上げた。


「今夜は、サフィールの大使を迎える晩餐会だ。僕は外務省の書記官として初めて招かれた。わかるね? 大事な夜なんだよ」


 わかっている。


 三日前から、ウィルフレッド様は、そのことしか話さなかった。新しい礼服を仕立てて髪油を三種類も試している。


 わたしは膝の上で扇を握った。


 淡い金色の、薄い扇。骨には、細い蔓草の模様が彫ってある。サフィールの職人の手によるもので、亡くなった母の形見だった。


「……承知しました。今夜は黙っております」


「それでいい。君は見た目だけは悪くないんだから」


 ウィルフレッド様は、満足そうに笑った。


 だけは。


 わたしは扇を開いて、口元を隠した。唇が少しだけ、ふるえていたからだ。


 悲しいのではなかった。悔しいのとも、少し違った。


 ただ、胸の奥のどこかで、小さな扉が、またひとつ、音もなく閉まった気がした。婚約してから一年。ウィルフレッド様の前で、扉は一枚ずつ閉まっていった。詩の扉。サフィールの扉。母の思い出の扉。


 あと何枚、残っているのだろう。


 全部閉まってしまったら、わたしは、本当に、ただの飾りになるのかもしれない。


 馬車の窓に、自分の顔がぼんやりと映っていた。結い上げた髪と、真珠の耳飾りと、にこにこと笑う口元。きれいに飾られた、知らない娘が、そこにいた。


 カーライル侯爵家の次女、イザベル。十九歳。


 わたしは、東の隣国、サフィール王国で生まれた。父が、サフィール駐在の公使をしていたからだ。母はサフィールの古い学者の家の出で、わたしは、母の膝の上で、古いサフィールの詩を聞いて育った。


 十二歳の年に、父の任期が明けて、一家でこの国へ移った。父にとっては帰国でも、わたしにとっては、初めて暮らす父の国だった。


 この国に来て七年。サフィールの言葉を使う機会は、ほとんどなかった。


 サフィールの王都の屋敷には、裏庭に、小さな睡蓮の池があった。


 夏の夕暮れになると、母は、池のほとりの石に腰かけてわたしを膝の上に乗せた。白い睡蓮が水の上に、ぽっかりと浮かんでいた。


「イザベル。睡蓮はどうして水に流されないと思う?」


「……わからない。重いから?」


「いいえ。根があるからよ」


 母は水面に指先を浸してゆっくりと輪を描いた。


「泥の底に、目に見えない根を張っているの。だから、どんなに風が吹いても、花はどこへも行かない。人も同じよ。言葉は根なの。忘れなければ、どこへ行っても、あなたはあなたでいられる」


 母の声は低くてやわらかかった。古い詩を唱えるときだけ、少しだけ節がついた。


 この国に来た翌年、母は熱病で亡くなった。


 あれから、睡蓮の池を見ていない。古い詩を声に出して唱えたこともない。根は泥の底で、もう枯れてしまったのかもしれないと、ときどき思った。


 ウィルフレッド様は、婚約してからずっと、わたしに「その話はやめてくれ」と言い続けてきた。異国かぶれの娘だと思われたら、外務省で恥をかく、と。


 だから、やめた。


 詩の話も、サフィールの話も。気がつけば、ウィルフレッド様の前で、わたしはほとんど何も話さなくなっていた。


 馬車が王宮の門をくぐった。




 王宮の大広間は東の国の色で飾られていた。


 壁には、深い藍色の布が垂らされ、そこに金の糸で、サフィールの国花である睡蓮が刺繍されている。卓の上には、銀の燭台と、東の国から運ばれた白磁の器。


 懐かしい、と思った。


 七年ぶりに、サフィールの匂いがした。乳香を焚いた、甘くて少し苦い香り。


 ウィルフレッド様は、広間に入るなり、知り合いの書記官たちを見つけてそちらへ歩いていった。わたしは言いつけどおり、その後ろについて、にこにこと笑っている。


「ウィルフレッド、それが噂の婚約者か。美人じゃないか」


「まあね。おとなしくて口答えもしない。妻にするなら、こういうのがいちばんだよ」


 ウィルフレッド様と、書記官たちが、声を合わせて笑った。


 わたしは笑ったまま、扇の骨を指でなぞった。


 蔓草の模様の溝を一本、また一本と。そうしていないと、顔が崩れそうだった。


「それにしても、サフィールの大使ってのは、気難しい爺さんらしいな」


 書記官の一人が声をひそめた。


「今度の交易の条約、向こうがなかなか首を縦に振らないんだろう?」


「ああ。リヒター公爵閣下が、半年も粘ってるのに、まだ話がまとまらない。古くさい国だからな。大使も、きっと頭が固いんだ」


 ウィルフレッド様が、肩をすくめた。


「どうせ、こっちの言葉なんか、ろくにわからないだろうさ。通訳を通さなきゃ、挨拶もできない」


 わたしは扇を持つ手を止めた。


 それは違う。


 サフィールの貴族は、たいていこちらの言葉を少しは聞き取れる。話すのは苦手でも、聞くほうは、子供のころから家庭教師に習うのが普通だ。父が昔そう言っていた。


 ウィルフレッド様に、そう言おうとした。


 口を開きかけて閉じた。


 君は飾りでいい。余計な口はきかないこと。


 わたしは扇をゆっくりと閉じた。




 晩餐の卓は長い一列だった。


 中央に、サフィールの大使ファルーク卿。白い髭を長く伸ばした、小柄な老人だった。深い藍色の長衣に、金の帯を締めている。


 大使の右隣に、外務卿のマクシム・リヒター公爵閣下。


 黒髪を後ろへ撫でつけた、三十前の人だった。若くして外務卿に就いた切れ者で氷の公爵と呼ばれている。笑ったところを見た者はいない、と噂されていた。


 大使の左隣には、王宮づきの通訳、ボールドウィン先生が座った。


 わたしとウィルフレッド様の席は、卓のずっと端のほうだった。それでも、大使の声はよく聞こえる。


 最初の料理が運ばれてきたところで、大使が、杯を手に立ち上がった。


 広間が静かになった。


 大使はゆっくりと、歌うような声で話しはじめた。


 わたしは息をのんだ。


 それはふだんのサフィールの言葉ではなかった。古サフィール語。何百年も前の、宮廷の詩の言葉。今のサフィールでも、学者と年寄りの貴族くらいしか、話せる者はいない。


 母がよく、この言葉で子守唄を歌ってくれた。


 大使の言葉は短い詩になっている。


 客人の卓に、睡蓮は咲くか。根のない花は水の上でただ揺れるのみ。


 ボールドウィン先生の顔がさっと青ざめた。


 先生は口を開いて、閉じてまた開いた。それから、隣の外務卿閣下に、何かを小声で囁いた。


 閣下の眉がわずかに寄った。


 広間に、ざわめきが広がった。


「……何だ? 何と言ったんだ?」


 ウィルフレッド様が、わたしの隣で首を伸ばした。


 わたしは膝の上で扇を握りしめた。


 わかる。全部、わかる。


 あれは問いかけだ。古いサフィールの宮廷では、大事な客を迎えるとき、主人が詩で問いを投げる。客がそれに詩で答えられたら、心を許す。答えられなければ、話はそこまで。


 根のない花は水の上でただ揺れるのみ。


 あなたがたは根を持って、この話し合いに臨んでいるのか。それとも上辺だけの交わりか。大使はそう訊いているのだ。


 答えなければ、条約の話はきっとここで終わる。


 ボールドウィン先生は額の汗を拭いていた。先生が知っているのは、今のサフィールの言葉だけなのだろう。


 外務卿閣下がゆっくりと立ち上がった。


「失礼。どなたか、古サフィール語を解する方は、この場におられないだろうか」


 低く、よく通る声だった。広間じゅうがしんと静まりかえった。


 誰も手を上げなかった。


 わたしの心臓がどくどくと鳴っている。


 手を上げるべきだ。わたしなら、答えられる。


 でも。


「……イザベル。じっとしていろよ」


 ウィルフレッド様が、卓の下でわたしの手首をつかんだ。


「こういうときに、女が出しゃばると、ろくなことにならない。君は飾りなんだから」


 ウィルフレッド様の指が手首に食いこんだ。


 わたしはうつむいた。


 飾り。


 七年間、黙ってきた。サフィールの詩も、母の子守唄も、全部、胸の中にしまいこんで。黙っていれば、ウィルフレッド様は満足した。黙っていれば、誰も困らなかった。


 でも今、黙っていたら。


 大使はこの国を根のない花だと思って帰っていく。半年かけた条約の話が、何もかも、水の上で揺れて消える。


 膝の上の扇がかすかに、ふるえていた。


 そのとき、大使が、卓の端のほうを見た。


 わたしのほうを。


 正確には、わたしの膝の上の、金色の扇を。


 大使の白い眉がぴくりと動いた。それから、大使は、古サフィール語でゆっくりと言った。


「そこの、蔓草の扇をお持ちの娘御。その扇はアルーシャの家の紋ではないか」


 アルーシャ。母の生家の名前だった。


 広間じゅうの目がわたしに集まった。


 ウィルフレッド様が、ぎょっとしてわたしの手首を放した。


 わたしはゆっくりと立ち上がった。


 足がふるえている。でも立った。


 飾りは話しかけられたら、答えてもいいはずだ。




「……ご明察にございます、大使閣下」


 わたしは古サフィール語で答えた。


 七年ぶりに口にする言葉は、最初、少しだけ舌にもつれた。でも、二言目からはなめらかに出てきた。母の声が耳の奥で、一緒に唱えてくれているようだった。


「わたくしの母は、アルーシャの家の者でございました。この扇は母の形見にございます」


 大使の目が大きく見開かれた。


 広間がどよめいた。


 わたしは卓に向かって深く膝を折った。それから、背筋を伸ばして大使の目をまっすぐに見た。


「先ほどのお問いかけに、母に代わって、お答えしてもよろしゅうございますか」


 大使は杯を持ったまま、ゆっくりとうなずいた。


 わたしは目を閉じた。


 母の膝の上。夕暮れの、睡蓮の池のほとり。母が指で水面に触れながら、教えてくれた詩。


 根のない花はない。


 息を吸って唱えた。


「睡蓮は、水の上にて揺れども、その根は泥の底に深く張る。目に見えぬ根こそが、花を支える。客人の卓に咲く花も、また然り」


 広間は静まりかえっていた。


 誰も、わたしの言葉の意味はわからなかったはずだ。でも、誰も、息をする音さえ立てなかった。


 大使が杯を置いた。


 そして、両手を胸の前で合わせて、わたしに向かって深々と頭を下げた。サフィールで、いちばん丁寧な礼だった。


「アルーシャの詩を異国の卓で聞くとは思わなかった。……この国には、根があるようだ」


 大使の声は少しだけ、ふるえていた。


 外務卿閣下がわたしを見ている。


 灰色の目だった。冷たいと噂の目。でも、今、その目は、何かに驚いたように、わずかに見開かれていた。


「……失礼だが、あなたは」


「カーライル侯爵家の次女、イザベルと申します」


「カーライル……元サフィール公使の」


「父でございます」


 閣下はほんの一瞬、目を閉じた。それから、大使に向き直って何かを言った。今のサフィールの言葉だった。少したどたどしいけれど、正確な発音だった。


 大使が笑ってうなずいた。


 閣下はもう一度、わたしを見た。


「カーライル嬢。今夜、この卓の通訳をお願いできるだろうか。ボールドウィン先生は、今のサフィール語の名手だが、古語は専門外だ。大使閣下は今夜は古語でお話しになりたいとおっしゃっている」


 わたしは卓の端の、自分の席を振り返った。


 ウィルフレッド様が、口を半分あけたまま、わたしを見上げている。


 わたしは閣下に向き直って膝を折った。


「喜んでお引き受けいたします」




 その夜、わたしは、大使の左隣、ボールドウィン先生の席に座った。


 先生は自分から席を譲ってくれた。わたしの手を握って、「助かりました、本当に助かりました」と、三回も言った。


 大使はよく話した。


 古い詩を引いて、冗談を言い、昔の交易の話をした。わたしはそれを一つずつ、こちらの言葉に直して外務卿閣下に伝えた。閣下の返事をまた古語に直して大使に伝えた。


 話すたびに、喉の奥が、温かくなっていく。


 七年間、しまいこんでいた言葉たちが、胸の中から、次々に飛び出してくる。息をするのがこんなに楽だったなんて忘れていた。


「娘御。そなたの母御は詩をよく詠まれたか」


「はい。睡蓮の池のほとりで毎晩のように」


「であろうな。そなたの古語には、アルーシャの家の訛りがある。わしの若いころ、宮廷で、アルーシャの姫君の詩を聞いたことがある。そなたと、よく似た声であった」


 わたしは言葉に詰まった。


 大使が言っているのは、たぶん、祖母のことだ。母の母。わたしが生まれる前に亡くなった人。


「……ありがとうございます」


 声がかすれた。


 閣下が隣で、わたしの手元の杯に、黙って水を注いでくれた。


 晩餐の終わりごろ、大使が、ふと、卓の端のほうに目をやった。


「ところで外務卿。今夜、あちらの若い書記官殿が、わしのことを頭の固い爺さんだと言っていたが」


 大使はこちらの言葉ではっきりとそう言った。


 広間が凍りついた。


 卓の端で、ウィルフレッド様の顔から、さあっと血の気が引いていくのが見える。


「こちらの言葉など、ろくにわからぬだろう、とも言っていた。たしかに、話すのは不得手だ。しかし、聞くのは四十年やっておる」


 大使は白い髭を撫でながら、のんびりと言った。


「まあ、よい。今夜はアルーシャの詩を聞けた。それで帳消しにしておこう」


 閣下が立ち上がって大使に深く頭を下げた。


 それから、卓の端を振り返った。


「ウィルフレッド・ハモンド書記官」


 閣下の声は静かだった。静かすぎて、広間じゅうの人が、首をすくめた。


「明日の朝、外務省の私の部屋に来るように」


 ウィルフレッド様は、椅子の上で小さく縮こまった。


 晩餐会が終わったとき、わたしは、膝から力が抜けて椅子から立てなかった。


 三時間、話し続けた。喉がひりひりと痛んだ。頭の芯が熱を持ったようにぼうっとしていた。


「カーライル嬢」


 顔を上げると、外務卿閣下が、わたしの前に、蜂蜜を溶かした湯の杯を置いていた。


「大使の侍従に頼んでもらってきました。サフィールでは詩を詠みすぎた喉に、これを飲ませるそうですね」


「……ご存じなのですか」


「半年、あの大使と付き合っていますから。半分は愚痴を聞かされているだけですが」


 閣下は真顔のまま言った。わたしは杯を両手で持ってひと口飲んだ。甘くて少しだけ生姜の味がした。母が風邪をひいたわたしに作ってくれたのと、同じ味だった。


「おいしい……」


「それはよかった」


 閣下はそれだけ言って、少しだけ、目元をゆるめた。氷の公爵は笑わない、と噂で聞いている。噂は半分だけ本当だった。笑い声は立てない。でも目は笑う。




 晩餐会が終わったあと、わたしは、王宮の回廊でウィルフレッド様に呼び止められた。


 ウィルフレッド様の顔は真っ赤だった。


「イザベル! なんで黙っていたんだ!」


「黙っていろと、おっしゃいました」


「そういう意味じゃない! 古語が話せるなら、話せると言ってくれればよかったじゃないか! そうすれば、僕が……僕の婚約者として閣下に紹介できたのに!」


 わたしは扇を開いた。


 金色の蔓草の模様が、回廊の燭台の光を受けてきらりと光った。


「ウィルフレッド様。わたし、婚約してから、何度もサフィールのお話をしようとしました」


「それは……」


「そのたびに、その話はやめてくれ、とおっしゃいました。異国かぶれだと思われたら困る、と。ですから、やめました」


 ウィルフレッド様は言葉に詰まった。


「今夜も、飾りでいいとおっしゃいました。わたし、言いつけどおり、飾りらしく黙っておりました。大使閣下に話しかけられるまでは」


 わたしは扇をぱちんと閉じた。


「飾りは、持ち主の出世のお役には立てません。申し訳ございません」


 ウィルフレッド様の口がぱくぱくと動いた。


「イザベル、待ってくれ。僕は……」


「カーライル嬢」


 回廊の奥から、低い声がした。


 外務卿閣下だった。


「お父君に、お話がある。馬車まで、ご一緒させていただけるだろうか」


 閣下はウィルフレッド様には目もくれずに、わたしに腕を差し出した。


 わたしはほんの少しだけ迷った。それから、閣下の腕に、そっと手を置いた。


 背中で、ウィルフレッド様が、何か言いかけてやめるのが聞こえる。


 屋敷に戻ると、父が、書斎で待っている。


 閣下が晩餐会のことを父に手短に話してくださった。父は黙って聞いている。閣下が帰られたあと、父は、長いあいだ、暖炉の火を見つめていた。


「……イザベル。すまなかった」


「お父様?」


「ハモンド家との縁談を決めたのは私だ。おまえがサフィールの話をしなくなったのにも、気づいていた。気づいていて、何も言わなかった」


 父の声がかすれていた。


「おまえの母は、よく言っていた。言葉は根だ、と。私はおまえの根をここで枯らすところだった」


 わたしは父の椅子の横に膝をついて、父の手を握った。父の手は思っていたよりも、ずっと細くなっている。


「枯れていませんでした、お父様。今夜、わかりました」


 暖炉の薪がぱちん、とはぜた。父はわたしの頭に、そっと手を置いた。子供のころ以来だった。




 ウィルフレッド様との婚約は、ひと月後に解消された。


 ハモンド伯爵家のほうから、申し入れがあった。ウィルフレッド様は、外務省の書記官の職を解かれて、伯爵家の領地へ戻ったと聞いた。大使を侮った書記官を閣下が外務省に置いておくはずがなかった。


 わたしはその知らせを外務省の小さな部屋で聞いた。


 サフィールとの条約の、通訳兼相談役。それが閣下がわたしに用意してくださった仕事だった。


「侯爵令嬢を役所の机に座らせるなど、前代未聞だと言われましたよ」


 閣下は書類の山の向こうでペンを走らせながら言った。


「誰にですか」


「外務省の古株たちに。それと、王妃陛下に」


「王妃陛下にまで……」


「陛下は、面白いとおっしゃった。古株たちは黙らせた」


 閣下は顔を上げずに言った。わたしは思わず噴き出しそうになって慌てて口元を押さえた。


 条約の話し合いはそれから三月続いた。


 大使は毎回、古語で話した。ときどき、わざと難しい詩を引いて、わたしを試した。わたしが答えると、白い髭を撫でて満足そうにうなずいた。


 ひと月ほどたったころ、大使が、わたしの知らない詩を引いた。


 北の砂漠の、さらに古い時代の詩だった。母からも、聞いたことがなかった。言葉の半分は聞き取れたけれど、残りの半分は、意味がわからなかった。


 大使は白い眉の下から、じっとわたしを見ている。外務省の古株たちが、部屋の後ろで、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。ほら見ろ、小娘には荷が重い。


 手のひらが汗でじっとりと濡れた。


 知ったふりをして、それらしく答えることもできた。大使にはきっと見抜かれる。そうしたら、半年と一月の話し合いが、また振り出しに戻る。


 わたしは息を吸った。


「大使閣下。申し訳ございません。その詩をわたくしは存じません」


 部屋の後ろがしんとした。閣下が隣で、わずかに顔を上げる気配がした。


「母から習った詩の中に、ございませんでした。ですから、今、わたくしの言葉で、お返しを詠ませていただいてもよろしいでしょうか。古い詩の形には、きっと合いませんが」


 大使はしばらく黙っていた。


 それから、白い髭の奥でにやりと笑った。


「詠んでみよ。知らぬと言える者の詩をわしは聞いてみたい」


 わたしは目を閉じて言葉を探した。睡蓮の池でもなく、宮廷の広間でもなく、この国の、この部屋の窓から見える、灰色の冬の空のことを詠んだ。拙い詩だった。


 詠み終えると、大使は、両手を胸の前で合わせて頭を下げた。あの晩餐会の夜と、同じ礼だった。


 部屋の後ろの囁き声は、それきり、聞こえなくなった。


 閣下は話し合いのあと、いつもわたしに意見を訊いた。


「大使は、今日、港の税の話をするとき、三度、言葉を言いかえた。あれはどういう意味だと思いますか」


「……たぶん、港の税より、港の水の権利のほうを気にしておられます。サフィールの古い言い回しでは、税と水は、同じ根の言葉から来ていますから」


 閣下はペンを止めてわたしを見た。


「なるほど」


 それだけ言ってまた書類に向かった。でも、次の話し合いで、閣下は、水の権利の話から始めた。


 大使は目を丸くして、それから、大きな声で笑った。


 その日の夕方、外務省の小さな部屋で、閣下が、紙の包みを一つ、わたしの机の上に置いた。


「昼食を食べていないでしょう」


「え……どうして」


「あなたの部屋の前を昼に三度通りました。三度とも、あなたは辞書を引いていた」


 包みを開けると、焼いた鶏と香草を挟んだ、まだ温かいパンが入っていた。


「閣下も、召し上がっていないのでは」


「私は慣れています」


「慣れるのはよくありません」


 わたしはパンを半分に割って閣下に差し出した。閣下は少しのあいだ、それを見下ろしている。それから、黙って受け取って机の向かいの椅子に座った。


 二人で、窓の外の夕焼けを見ながら、パンを食べた。閣下はひと口が大きかった。半分のパンはあっというまになくなった。


「……もう半分、買ってくるべきでしたね」


 閣下が真顔でそう言ったので、わたしは、声を立てて笑ってしまった。


 条約はその日のうちに、まとまった。


 話し合いが終わって、部屋を出ようとしたとき、大使に呼び止められた。


「娘御。これをそなたに」


 大使の侍従が小さな陶器の鉢をわたしの両手に乗せた。鉢の中には、湿った黒い泥と、親指ほどの、茶色くしなびた塊が一つ、埋まっている。


「アルーシャの家の池から、株分けしてきた睡蓮の根だ。そなたの母御が子供のころに遊んだ池の」


 わたしは鉢を抱えたまま、動けなくなった。


「こちらの国の水でも、根づくかどうかはわからぬ。しかし、そなたの国にも、根のある者がおると、わしは知った。ならば、睡蓮も、きっと根を張ろう」


 大使は白い髭を撫でて目を細めた。


 鉢の泥から、かすかに、懐かしい水の匂いがした。睡蓮の池のほとり。母の膝の上。夕暮れの、低くてやわらかい声。


 わたしは鉢を胸に抱きしめて、深く、深く、頭を下げた。顔を上げたとき、頬が濡れている。大使は何も言わずに、わたしの肩をぽんぽんと二度叩いた。




 条約の調印式の夜、王宮の露台で、わたしは閣下と二人きりになった。


 広間からは祝いの楽団の音が聞こえている。大使は上機嫌で、ボールドウィン先生と古い詩の話をしていた。


 露台の手すりの向こうに、月が出ている。


「カーライル嬢」


「はい、閣下」


「三月のあいだ、ずっと訊きたいことがありました」


 閣下は手すりに肘をついて、月を見上げていた。


「あの晩餐会の夜。大使があなたに話しかける前、あなたは、手を上げようとしていましたね」


 どきりとした。


「……見ていらしたのですか」


「私が、古語のわかる者はいないかと訊いたとき、あなたの肩が少しだけ動いた。それから、隣の婚約者に手首をつかまれてうつむいた」


 閣下は手すりから体を起こしてわたしのほうを向いた。


「あのとき、私は、あなたのところへ歩いていこうとしていました。大使が先に、あなたの扇を見つけた」


 灰色の目が月の光の中で静かにわたしを見ていた。


「あなたは飾りなどではない。この三月、私は、あなたの声に何度も救われた。条約がまとまったのは、あなたの声のおかげです」


 胸の奥がきゅっと熱くなった。


 七年間、誰も、わたしの声を聞こうとしなかった。わたし自身も、自分の声を胸の奥にしまいこんでいた。


「閣下……」


「マクシムと、呼んでいただけますか」


 閣下は少しだけ、言いにくそうに言った。それから、小さく咳払いをした。


「実は、この三月、ボールドウィン先生に、古語を一つだけ習いました。発音が正しいかどうか、自信はありませんが」


 閣下はわたしの手を取った。


 そして、たどたどしい古サフィール語でゆっくりと言った。


「そなたの声をわが生涯の、朝ごとに聞かせてほしい」


 古いサフィールの、求婚の言葉だった。


 発音はひどかった。「朝ごと」が「鍋ごと」に聞こえる。


 わたしは笑ってしまった。笑いながら、涙がこぼれた。


「……閣下、今のは、鍋ごと、と聞こえました」


「……そうですか」


 閣下が珍しく、目をそらした。月明かりの中で、耳の先が、少しだけ赤くなっているのが見える。


 氷の公爵が照れている。


 わたしは閣下の手を両手で包んだ。


 それから、古語ではなく、この国の言葉で答えた。いちばん大事な返事は、自分の言葉で言いたかった。


「はい、マクシム様。毎朝、お聞かせします」


 マクシム様がわたしの手を強く握り返した。


 広間の楽団が新しい曲を奏ではじめた。わたしは扇を開いて、熱くなった頬をそっとあおいだ。


 金色の蔓草の模様が、月の光の中でゆっくりと揺れた。




(完)


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― 新着の感想 ―
こんな感じで職場結婚とかって始まるのかなあ、と思いました。
婚約者だった彼は、婚約を結ぶ前に相手の家の経歴と婚約者の女性の事を調べなかったの?最低限のことくらい知って無いと可笑しいし、教えてもらっていたとしたら今回の会合相手国を考えて女の経歴から話すなと言う時…
特定の国との外交における必須技能と言うか外交儀礼を外務官達が修めていないのは怠慢ではなかろうか
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