月待食堂へようこそ
雨の日は、客足が遠のく。
それはどこの店でも大して変わらないのだろうが、古い商店街の端にひっそりと建つ月待食堂では、その傾向が特に顕著だった。
夕方から降り始めた雨は、夜になっても止む気配を見せない。商店街を歩く人影もほとんどなく、向かいの八百屋はとっくにシャッターを下ろしている。少し離れたところにあるクリーニング店も、その隣の古本屋も同じだった。
雨に濡れたアスファルトが街灯をぼんやりと反射し、軒先から落ちる雫が、一定の間隔で地面を叩いている。
店内には、テレビの音と換気扇の低い唸り、それから厨房で味噌汁が煮立つ音だけが響いていた。
「今日は暇だな」
カウンターの内側からそう言うと、厨房に立っていた店主が振り返った。
「さっきから暇だ暇だって、三回くらい聞いた気がするけど」
「三回も言った?」
「今ので三回目」
「じゃあ、本当に暇なんだな」
「そういう問題じゃないでしょう」
店主は呆れたように言いながらも、口元にはわずかに笑みを浮かべていた。
俺がここで働き始めてから、それなりに時間が経っている。けれど、店主との会話はいまだにこんな調子だった。
必要以上に踏み込まないくせに、妙なところではよく見ている。
今日だって、俺が暇を持て余していることくらい、最初から分かっていたはずだ。
「これなら、もう閉めてもいいんじゃない?」
店主が味噌汁の火を弱めながら言った。
「まだ八時だよ」
「八時だよ、じゃなくて。外、見てみなさいよ」
顎で入口のほうを示される。
俺はカウンター越しに外を見た。
雨の向こうには、ほとんど人通りがない。たまに車が商店街の入口を横切るくらいで、わざわざこの店に入ってくる人間がいるとは思えなかった。
「……確かに暇だな」
「でしょう?」
「でも、まだ閉めなくていいだろ。誰か来るかもしれないし」
「誰かって、誰が?」
「知らないよ。客」
「便利な答えね」
店主は小さく笑うと、冷蔵庫を開けた。
「じゃあ、コーヒー飲む?」
「店が暇だから?」
「そう。暇な店員を見てると、こっちまで暇になるから」
「俺のせいなの?」
「半分くらいはね」
「残り半分は?」
「雨」
「雨にまで責任を押しつけるのはどうなんだ」
「じゃあ、あなたが全部悪いことにする?」
「それは納得できないな」
店主は返事をせず、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
やがて店内に、豆の香ばしい匂いが広がる。
こういう何でもないやり取りは、嫌いではなかった。
むしろ、好きなのだと思う。
特別なことが起きるわけでもない。面白い話をするわけでもない。ただ、同じ場所で同じような時間を過ごしていると、妙に落ち着く。
「はい」
差し出されたカップを受け取る。
「ありがとう」
「砂糖は?」
「いらない」
「珍しい。前は入れてたでしょう?」
「そうだっけ」
「三杯くらい」
「三杯?」
「そう。しかも山盛り」
「……俺、そんなに甘党だった?」
「知らないわよ。あなたのことなんだから、自分で覚えておきなさい」
「言われてみればそうだな」
俺はカップに口をつけた。
苦い。
確かに、これに砂糖を三杯入れていたのなら、今よりずっと飲みやすかっただろう。
それでも、昔の自分が本当にそんな飲み方をしていたのかは、どうにも思い出せなかった。
まあ、どうでもいいことだ。
そう思って、カップを置く。
そのときだった。
入口の引き戸が開き、からん、と小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかける。
入ってきたのは、七十歳くらいの男だった。
灰色のジャンパーに古びた帽子をかぶり、手には透明なビニール傘を持っている。肩や袖には雨粒が残っていた。
男は入口で一度立ち止まると、店内を見回した。
「今日は空いてるね」
「今日は、というか、今日は特にですね」
俺が答えると、男は少しだけ目を細めて笑った。
「それなら、ゆっくり食べられる」
「いつもゆっくり食べてるじゃないですか」
「そうだったか?」
「そうですよ。いつも一番最後までいますから」
「それは知らなかった」
「本人が知らないんですか」
男は楽しそうに笑いながら、いつもの席へ向かった。
カウンターの一番端。
窓から外の雨が見える席だ。
男は腰を下ろすと、帽子を脱いで隣に置いた。
「いつもの?」
俺が聞く。
「ああ、頼むよ」
「焼き魚定食で?」
「それ以外を頼んだこと、あったかな」
「俺が知ってる限りでは、一度もないですね」
「じゃあ、それで」
「分かりました」
厨房へ注文を伝えると、店主は振り返りもせずに「はいはい」と答えた。
魚を焼く音が聞こえる。
男はカウンターに置かれた水を一口飲み、窓の外へ目を向けた。
「まだ降ってるな」
「結構降ってますね。帰るころには止んでるといいんですけど」
「そうだな。雨の中を歩くのは、年を取ると少し面倒だ」
「傘、持ってるじゃないですか」
「傘があっても濡れるだろう」
「まあ、それはそうですけど」
「君は若いから分からないんだよ」
「俺だって雨に濡れたら嫌ですよ」
「そうか?」
「そうですよ。濡れた靴下とか最悪じゃないですか」
「それは年齢に関係ないな」
「ですよね」
男がまた笑った。
この人は、よく笑う。
大きな声を出すわけではない。ただ、くだらない話をすると、いつも少し嬉しそうに笑うのだ。
やがて、焼き魚定食ができ上がった。
白いご飯に、焼き魚、ほうれん草のおひたし、漬物。それから豆腐とわかめの味噌汁。
特別な料理ではない。
けれど、この店では昔からよく出る定食だった。
「お待たせしました」
「ありがとう」
男は箸を手に取り、焼き魚に手をつけた。
魚の身をほぐし、骨を一本ずつ丁寧に取り除いてから、口へ運ぶ。
「……うん」
「どうです?」
「いつも通りだな」
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
「ならよかった」
男は満足そうに頷き、そのまま食事を続けた。
俺は空いた皿を片づけたり、カウンターを拭いたりしながら、時々男のほうを見る。
特に話しかけることもない。
男も、こちらに話しかけてくるわけではない。
けれど、こうして同じ空間にいることに不思議な居心地の良さがあった。
しばらくして、男がぽつりと言った。
「明日は晴れるかな」
「天気予報では、昼には雨が上がるみたいですよ」
「そうか」
「どこか行くんですか?」
「いや、別に予定はないよ」
男は少し考えてから、窓の外を見た。
「ただ、晴れているほうが気分がいいだろう」
「それは確かに」
「雨も嫌いじゃないんだけどな」
「どっちなんですか」
「年を取ると、好き嫌いも曖昧になるんだよ」
「便利ですね、それ」
「君もそのうち分かる」
「じゃあ、覚えておきます」
男はまた笑った。
食事を終えるころには、外の雨も少し弱くなっていた。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
会計を済ませた男は、帽子をかぶり直し、傘を開いた。
引き戸を開ける前に、一度こちらを振り返る。
「じゃあ、また来るよ」
「はい。またお待ちしてます」
鈴が鳴り、男の姿が雨の向こうへ消えていく。
俺はしばらく入口を見ていた。
「毎日来るね、あの人」
背後から店主の声がした。
「そうですね」
「何か気になる?」
「別に。焼き魚が好きなんだろ」
「そうね」
店主はそれ以上何も言わなかった。
俺もそれ以上考えなかった。
この店には、ああいう常連が何人かいる。
決まった席に座り、決まったものを食べ、決まったような話をして帰っていく。
それでいい。
食堂なんて、そういう場所なのだろう。
午後八時を少し回ったころ、カウンターの隅に置いていたスマートフォンが震えた。
ブブッ、と短い振動音がする。
画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
「電話、鳴ってるよ」
店主が言う。
「うん」
「出ないの?」
「知らない番号だから」
「知ってる番号からだったら出るの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まあ、相手によるかな」
そう答えてから、俺は画面を見つめた。
なぜか、胸の奥が妙にざわついている。
知らない番号なのだから、出る必要はない。
そう思っているのに、指が画面の上から離れない。
着信はしばらく続いた。
けれど、結局出なかった。
やがて振動が止まる。
「切れたね」
「うん」
「かけ直す?」
「しない」
「そう」
店主は、それだけ言って厨房へ戻った。
俺はスマートフォンを伏せる。
雨音が、さっきより近く聞こえた。
どうしてだろう。
ただの知らない番号からの電話なのに、妙に引っかかる。
何かを思い出しそうな気がした。
けれど、その感覚を追いかける前に、店主が声をかけてきた。
「コーヒー、もう一杯いる?」
俺は少しだけ考えてから、笑った。
「もらおうかな」
「砂糖は?」
「……いらない」
「本当に?」
「本当に」
店主は満足そうに頷き、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
ほどなくして、店内に香ばしい匂いが広がっていく。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
俺はその音を聞きながら、明日もここに来るのだろうと思った。
朝になれば起きて、この店へ来て、料理を作って、客を迎える。
特別なことなんて、何もない。
ただ、いつも通りの一日が続いていく。
――そう思っていた。
この店で過ごす時間が、自分に残された最後の時間になるなんて、そのときの俺は知るはずもなかった。
翌日の夕方も、俺は月待食堂のカウンターに立っていた。
昨日と同じように、店の前を掃き、暖簾を出して、冷蔵庫の中身を確認する。仕込みを手伝いながら、店主に今日のおすすめを聞くと、「昨日と同じ」と返ってきた。
「昨日も聞いた気がするんだけど」
「昨日も同じだったから」
「じゃあ、聞く意味ないじゃん」
「確認は大事よ」
そう言って店主は、味噌汁の鍋を覗き込んだ。
この人は、たまにこういうよく分からないことを言う。
もっとも、俺も似たようなものかもしれない。特に深く考えずに返事をしていることが多いから、他人から見れば十分変な会話をしているのだろう。
六時を過ぎると、ぽつぽつと客が入り始めた。
仕事帰りらしい男が生姜焼き定食を頼み、近所の主婦らしい二人組がテーブル席で今日の特売の話をしている。昨日より少しだけ客が多く、それだけで店の空気が違って感じられた。
俺は注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げる。
忙しいというほどではない。でも、暇でもない。
こういうくらいがちょうどいいのかもしれない、とふと思った。
やることが決まっていて、余計なことを考えなくて済む。
八時を少し回ったころ、昨日の老人が入ってきた。
「ああ、今日も来たね」
俺が声をかけると、老人は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「覚えてくれたのか」
「昨日一回会っただけだけど」
「それでも嬉しいもんだよ」
老人は昨日と同じ席に座った。
「いつもの?」
「それで頼むよ」
焼き魚定食。
今日も同じだった。
厨房から魚を焼く音が聞こえる。皮が網に触れる音と、脂が落ちる小さな音。しばらくすると、香ばしい匂いが店の中に広がった。
「魚、好きなんですか?」
料理を運びながら聞くと、老人は箸を持ったまま少し考えた。
「好きだったんだろうな」
「過去形?」
「今も好きだよ。……ただ、昔ほど食べられなくなった」
「じゃあ、なんで毎回これなんです?」
老人は焼き魚を見ながら笑った。
「これじゃないと、落ち着かないんだ」
その言い方が妙に気になった。
けれど、聞き返すほどでもない。
俺は「そういうものですか」とだけ答えて、カウンターに戻った。
しばらくして老人が言った。
「兄ちゃんは、ここで働き始めたばかりか?」
「昨日からです」
「そうか。じゃあ、まだ店のことを何も知らないんだな」
「まあ、そうですね」
「なら、そのうち分かるよ」
「何がです?」
「いろいろだ」
老人はそれ以上言わず、焼き魚を一口食べた。
俺は思わず店主のほうを見た。
店主は何も言わず、別の客の注文を聞いている。
別に怪しいことを言われたわけじゃない。
昔からある食堂なんだから、常連が「そのうち分かるよ」と言うくらい、よくあることだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はグラスを拭いた。
食事を終えた老人は、いつものようにゆっくり立ち上がった。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
会計を済ませ、老人が暖簾をくぐる。
俺はその背中をなんとなく目で追った。
外はもう暗い。
老人は通りを少し歩いたところで、ふと立ち止まった。
振り返る。
店のほうを見ているようだった。
何か忘れ物でもしたのかと思ったが、老人はそのまま歩いていった。
「……何だったんだろ」
「何が?」
後ろから店主の声がした。
「いや、今の人。店のほう見てたから」
「そう」
「知り合い?」
「さあ」
「さあって……」
店主は小さく笑った。
「長くいると、いろんな人が来るのよ」
それだけ言って、また皿を洗い始めた。
俺は少しだけ首を傾げた。
長くいると、という言葉が妙に引っかかった。
でも、それ以上考えることはなかった。
その夜、閉店後に店の掃除をしていると、カウンターの端に古い灰皿が置いてあるのに気づいた。
「これ、使うんですか?」
「使わないわよ」
「じゃあ、なんで置いてあるの?」
「昔からそこにあるから」
「それだけ?」
「それだけ」
ずいぶん物を大事にする人らしい。
俺は灰皿を持ち上げようとしたが、店主に「そこはそのままでいい」と言われたので、元の場所に戻した。
帰り際、店主から明日の仕込みについて簡単に説明された。
朝は来なくていい。夕方からでいい。
俺はその言葉に頷きながら、ふと時計を見た。
十一時四十分。
「あれ?」
「どうしたの?」
「昨日もこのくらいの時間だった気がする」
「何が?」
「閉店」
店主は少し考えてから、
「そうだったかしら」
と答えた。
店を出る。
昨日と同じように、商店街は静かだった。
シャッターの閉まった店が並び、ところどころに古い街灯が立っている。少し先にあるコンビニだけが明るく、そこだけ別の場所みたいに見えた。
歩きながらスマートフォンを見る。
母親から着信が一件入っていた。
画面を見た瞬間、足が止まった。
知らない番号ではない。
よく知っている番号だった。
しばらく画面を見つめたまま、俺は通話履歴を閉じた。
今さら何を話すんだよ。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
別に喧嘩をしたわけじゃない。
最後に話したときだって、いつものような言い合いだった。将来のことを聞かれて、放っておいてくれと言った。それだけだ。
だから、別に大したことじゃない。
明日でもいい。
そう思って、スマートフォンをポケットにしまった。
その瞬間、雨の匂いがした。
けれど空を見上げても、雨は降っていない。
なぜか、濡れたアスファルトの上を走っていたような感覚だけが、一瞬だけ蘇った。
ヘッドライト。
ブレーキの音。
手の中にあったスマートフォン。
そして――誰かが、自分の名前を呼んでいた。
「……」
立ち止まったまま、俺は目を閉じた。
すぐに、その感覚は消えた。
思い出そうとすると、頭の奥が妙に重くなる。
だから、考えるのをやめた。
仕方ない。
そう思った。
いつものように。
そして翌日も、俺は月待食堂へ向かった。
翌日の夕方、店に入ると、昨日の老人がすでにカウンターの端に座っていた。
「早いですね」
声をかけると、老人は新聞から顔を上げた。
「そうか? いつもこれくらいだと思うが」
「昨日も同じくらいでしたよ」
「じゃあ、覚えてるんだな」
「二日目ですからね」
そう言うと、老人は嬉しそうに笑った。
「若いのに、よく人の顔を覚えてる」
「顔というより、席と注文を覚えてます」
「それでも十分だよ」
老人はそう言って新聞を畳んだ。
その日の注文も、やっぱり焼き魚定食だった。
料理を出してからしばらくすると、老人は珍しく自分から話しかけてきた。
「兄ちゃん、ここで働く前は何してたんだ?」
「特に決まったことはしてないですよ。まあ、いろいろです」
「いろいろっていうのは、一番分からない答えだな」
「じゃあ、何て言えばいいんですか?」
「自分で考えなさい」
「急に厳しいな」
老人が声を上げて笑った。
こうして話していると、昨日よりずっと普通の人に思える。昨日はどこか不思議な印象があったが、今日はただの話好きな老人だ。
「俺のことなんて聞いてどうするんです?」
「別にどうもしないさ。暇だから聞いてるだけだよ」
「なるほど」
「それに、ここに来る人間は、店の人間と少しくらい話したほうがいい」
「ここに来る人間?」
「客って意味だ」
老人はそう言い直した。
俺は特に気に留めなかった。
焼き魚の皮を箸で丁寧に剥がしながら、老人は昔の話を始めた。
若い頃はこの辺りで働いていたこと。商店街が今よりずっと賑やかだったこと。昔は映画館も本屋もあって、休日になると子どもが通りを走り回っていたこと。
「この店も昔からあるんですか?」
「俺が若い頃には、もうあったよ」
「へえ。じゃあ、かなり古いんですね」
「そうだな。俺より少しだけ若いくらいじゃないか」
「それ、店が相当おじいちゃんじゃないですか」
「失礼なことを言うな。店は人間より長生きするんだぞ」
「それはそうかもしれないけど」
老人は味噌汁を一口飲んで、窓の外を見た。
「昔はな、この辺りにもっと店があったんだ」
「店主からも聞きました」
「そうか」
それきり老人は黙った。
何気なく言ったつもりだったのかもしれないが、その横顔だけが少し寂しそうに見えた。
俺は余計なことを聞かないほうがいいと思い、別の客の注文を取りに行った。
それから十分ほどして戻ってくると、老人は焼き魚の皿を見つめたまま、箸を止めていた。
「どうしました?」
「いや……」
老人は少し迷うようにしてから、ぽつりと言った。
「昔、女房がよくこれを焼いてくれたんだ」
「奥さんが?」
「ああ」
老人は笑った。
「料理が特別うまい人じゃなかったけどな。焼き魚だけは上手だった」
「それは失礼じゃないですか」
「本人にもよく言ってたよ。そしたら毎回怒るんだ」
そう言って笑ったあと、老人は少しだけ視線を落とした。
「……もう、ずいぶん前の話だ」
俺は何も言わなかった。
老人は箸を置き、湯気の消えかけた味噌汁を見ている。
「最後に食べたのも、これだったんだ」
「最後に?」
「ああ」
それ以上は聞かなかった。
老人も話すつもりはないらしい。
しばらくして、老人は残っていた魚をゆっくり食べ始めた。
店内にはテレビの音と、厨房から聞こえる食器の音だけが響いていた。
やがて食事を終えると、老人は会計のために立ち上がった。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
老人は財布をしまいながら、ふとこちらを見た。
「兄ちゃん」
「はい?」
「誰かに何か言いたいことがあるなら、言えるうちに言っといたほうがいいぞ」
一瞬、何の話か分からなかった。
「急にどうしたんですか?」
「年寄りの説教だ。気にするな」
「説教にしては重いですね」
「そうか?」
「結構重いですよ」
老人はまた笑った。
「じゃあ、覚えておきなさい」
そう言って、店を出ていった。
暖簾が揺れ、冷たい夜風が一瞬だけ店内に入ってくる。
俺はその背中を見ながら、なぜか胸の奥がざわつくのを感じていた。
誰かに言いたいこと。
言えるうちに。
その言葉が、頭から離れなかった。
閉店後、店主に「今日の人、奥さん亡くなったんですかね」と聞いてみた。
「そうかもしれないわね」
「聞かないんですか?」
「本人が話したいなら、話すでしょう」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
店主は布巾を畳みながら、こちらを見た。
「あなたは?」
「俺?」
「言いたいこと、ある?」
唐突な質問だった。
俺は少し考えてから笑った。
「別にないですよ」
「そう」
「……何ですか、その顔」
「別に」
店主はそれ以上何も言わなかった。
その夜は、いつもより少し早く眠った。
夢を見た気がする。
誰かと話していた。
相手の顔は見えない。
雨の音がしていた。
何かを言われて、俺は苛立っていた。
もういいだろ。
そう言った。
夢の中の自分が、誰かに背を向ける。
その瞬間、目が覚めた。
部屋は暗かった。
スマートフォンを見ると、午前二時十七分。
喉が妙に乾いていた。
水を飲んでから、もう一度眠ろうと目を閉じる。
けれど、さっきの夢が気になって眠れなかった。
誰と話していたんだろう。
考えてみても、思い出せない。
それでも、不思議と分かっている気がした。
たぶん、俺はその人に何かを言われた。
そして、自分から話を終わらせた。
そこまで考えて、俺は布団の中で小さく息を吐いた。
夢なんて、そんなものだ。
意味なんかない。
翌日の夕方、月待食堂へ行くと、店主が珍しく入口のほうを気にしていた。
「どうしたんです?」
「今日は、少し変わった子が来るかもしれない」
「変わった子?」
「来たら分かるわ」
「なんですか、それ」
店主は答えず、いつものように鍋の火を確認した。
俺は仕方なく準備を続けた。
そして七時を少し過ぎたころ、店の扉が開いた。
「こんばんはー!」
明るい声と一緒に、制服姿の女の子が入ってきた。
高校生くらいだろうか。
肩まで伸びた髪を揺らしながら店内を見回し、空いている席を見つけると、迷うことなくそこへ座った。
「ここ、いいですか?」
「どうぞ」
俺が答えると、女の子はメニューを開いた。
「えーっと……あ、これにしよう」
「決まりました?」
「はい。クリームソーダとプリンください」
「食事は?」
「いらないです。甘いもの食べに来たので」
「なるほど」
「お兄さん、店員さんですよね?」
「一応」
「昨日はいなかったですよね?」
「昨日?」
「この店、昨日も来たんです」
俺は少し驚いた。
「そうなんですか?」
「はい。でも、お兄さんはいなかった」
「昨日からなんです」
「やっぱり。じゃあ新しい人なんだ」
女の子はそう言って、楽しそうに笑った。
俺は注文を厨房に伝えながら、ふと妙なことに気づいた。
店主は、さっきから一度も女の子を見ていない。
いつもなら客が入れば必ず一度は顔を上げるのに、今日は背中を向けたまま鍋をかき混ぜている。
俺は気になったが、特に聞かなかった。
クリームソーダを作り、プリンを皿に乗せて、女の子の前に置く。
「お待たせしました」
「わあ、ありがとうございます」
女の子は目を輝かせた。
「この店、なんかいいですね」
「古いだけですよ」
「そういうところがいいんです」
スプーンを持った女の子は、嬉しそうにプリンを一口食べた。
そして、少しだけ笑ってから言った。
「……卒業式、出たかったなあ」
その言葉だけが、店の中に妙にはっきり残った。
翌日の夕方。
月待食堂の入口には、昨日と同じように暖簾が下がっていた。夕暮れの商店街にはまだ人の姿がちらほら見えるものの、閉まった店のシャッターが増えてくるにつれて、通り全体が少しずつ夜の静けさへ向かっている。
俺はいつものように店の中を一通り確認してから、カウンターの奥に立った。
「今日は遅いわね」
店主がそう言ったので、壁に掛けられた時計を見ると、いつもより五分ほど遅れていることに気づいた。
「五分くらいでしょ」
「五分でも遅刻は遅刻よ」
「厳しいな」
「そういうところだけはちゃんとしてるの」
店主は淡々と言いながら、冷蔵庫から食材を取り出していく。こういう何気ない会話にも、最近は少しずつ慣れてきた気がする。
この店で働き始めて、まだ何日も経っていない。それなのに、夕方になればここへ来て、暖簾を出して、店内を掃除し、注文を取って料理を運ぶという流れが、いつの間にか自分の生活の一部になりつつあった。
ただ、ひとつだけ気になることがある。
昨日まで毎日のように来ていた女の子が、今日は姿を見せなかった。
昨日、彼女が置いていった小さな紙切れは、まだ俺のポケットに入っている。
――卒業式の日に言うこと。
その下には、「ありがとう」「ごめん」「また遊ぼう」と書かれていて、その先だけが途中で途切れていた。
あれを見つけたときから、なぜか気になって仕方がない。
「今日は来ないのかな」
思わず口にすると、店主が手を止めた。
「誰が?」
「昨日の子」
「ああ」
店主はそれだけ言って、少しだけ考えるように視線を落とした。
「来るかもしれないし、来ないかもしれないわね」
「なんだそれ」
「そういうものよ」
いつもの調子だった。
俺はそれ以上聞かなかった。店主がこういう言い方をするときは、聞いたところで答えてくれないことが多い。
それよりも、今日は少し妙な感じがする。
昨日の夜、眠っているときに夢を見た。
雨が降っていた。
誰かと話している。顔はよく見えなかったが、その人の声だけは妙に近く、耳元で話しているようにはっきり聞こえた。
何を言われたのかは覚えていない。ただ、自分が苛立っていたことだけは覚えている。
――もういいだろ。
夢の中で、俺はそう言った。
そして、その人に背を向けた。
そこで目が覚めた。
起きてからしばらく天井を見つめていたが、結局、その夢について考えるのをやめた。誰との会話だったのかも、なぜあんなに苛立っていたのかも分からない。
分からないことを無理に考えても仕方がない。
そう思った。
最近、自分はこの言葉をよく使っている気がする。
その日の夜、母親からメッセージが届いていた。
――元気にしてる?
たったそれだけだった。
俺は画面を開き、返信欄に指を置いた。
元気だよ。
そう入力してから、しばらく眺める。
送ればいいだけなのに、なぜか指が動かなかった。
結局、そのまま画面を閉じた。
別に喧嘩をしているわけじゃない。嫌いなわけでもない。ただ、今さら何を話せばいいのか分からなかった。
だから、もういい。
そう思ってしまった。
「いらっしゃいませ」
入口の鈴が鳴った。
反射的に顔を上げると、そこには見覚えのない男が立っていた。
年齢は俺とそう変わらないように見える。二十代半ばくらいだろうか。髪は少し伸びていて、服装もどこかくたびれていたが、不潔という感じではない。ただ、妙に疲れているように見えた。
男は店内を見回してから、空いている席に腰を下ろした。
「何にしますか?」
メニューを渡すと、男はしばらく黙ったまま眺めていた。
「……何か、食べやすいものあります?」
「食べやすいもの?」
「はい。あまり腹が減ってなくて」
それなら無理に食べなくてもいいのではないかと思ったが、口には出さなかった。
「だったら、うどんとか。あとはお茶漬けもありますよ」
「じゃあ、お茶漬けで」
「はい」
注文を厨房へ伝え、俺は準備を始めた。
しばらくして、お茶漬けを男の前へ置く。
「熱いので気をつけてください」
「ありがとうございます」
男は小さく頭を下げた。
それから箸を持ったものの、なかなか口をつけようとしなかった。
俺は少し離れた場所からその様子を眺めていたが、やがて男が顔を上げた。
「……ここ、前からありました?」
「え?」
「この店」
男は店内を見回しながら続けた。
「なんか、初めて来た気がしないんですよね」
「そうなんですか?」
「たぶん」
男自身も確信がないらしく、困ったように笑った。
その笑い方に、どこか引っかかるものがあった。
「この辺、昔よく来てたとか?」
「いや……どうだったかな」
男は考え込むように視線を落とした。
そして、ようやくお茶漬けを一口だけ食べた。
「……うまい」
「それならよかったです」
「なんか、こういう味だった気がする」
「こういう味?」
「いや、分からないです。すみません」
「謝らなくていいですよ」
そう答えると、男はまた少し笑った。
それからしばらく、店の中には食器の音だけが響いていた。
男は結局、お茶漬けを半分ほど食べたところで箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
「もういいんですか?」
「はい。十分です」
会計を済ませ、男は立ち上がった。
そのまま出口へ向かうのかと思ったが、暖簾の手前で一度振り返った。
「……あんた」
「はい?」
男は少し迷ったように俺を見る。
「どっかで会ったことない?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
「……いや」
俺はできるだけ自然に答えた。
「たぶん、ないと思います」
「そうですよね」
男は納得したような、していないような顔で頷いた。
「俺も、そんな気がしてました」
そう言って、男は暖簾の向こうへ消えていった。
入口の鈴が、小さく鳴った。
俺はしばらく、その音を聞いていた。
「知り合い?」
背後から店主の声がする。
「いや。知らない人です」
「そう」
それだけ言うと、店主は何事もなかったように皿を洗い始めた。
俺もカウンターへ戻った。
けれど、さっきの男が残した言葉だけが、いつまでも頭の中に引っかかっていた。
どこかで会ったことがある。
そんなはずはない。
そう思うのに、なぜかその声を聞いた瞬間から、昔の記憶をどこか遠くで探しているような感覚が消えなかった。
その翌日から、俺は妙に入口を気にするようになった。
暖簾の向こうに誰かの姿が見えるたび、昨日の男ではないかと思ってしまう。別に、もう一度会いたいわけではない。ただ、あの「どこかで会ったことがないか」という言葉が、どうにも頭から離れなかった。
自分でも少しおかしいと思う。
たった一度会っただけの、それも名前すら知らない相手のことを、こんなに気にするなんて。
「今日は落ち着かないわね」
開店前、店主にそう言われて、俺は手にしていた布巾を止めた。
「そう見えます?」
「見えるわよ。さっきから同じところを三回拭いてるもの」
言われてテーブルを見ると、確かにそこだけ妙に綺麗になっている。
「……暇なんですよ」
「まだお客さん来てないものね」
「だったら仕方ないでしょう」
「便利な言葉ね、それ」
店主は笑った。
その言い方が妙に引っかかったが、俺は何も言わず、布巾を畳んでカウンターの端に置いた。
夕方を過ぎても、昨日の男は来なかった。
代わりにいつもの老人が、六時を少し回った頃に暖簾をくぐってきた。
「お、今日もいるな」
「そりゃいますよ。ここで働いてるんだから」
「そうだったな。最近、顔を見ると安心するようになってきたぞ」
「それはどうも」
老人はいつもの席に腰を下ろした。
「いつもの?」
「もちろん」
注文を聞くまでもない。焼き魚定食。それが、この人の決まった注文だった。
魚を焼く匂いが店内に広がり始めると、老人は新聞を開きながら、「今日はいい匂いだ」と小さく呟いた。
料理を出すと、老人は箸を持ったまま、ふと思い出したように俺を見る。
「そういえば、昨日の若いのは何だったんだ?」
「昨日の?」
「ほら、俺が帰るときに入れ違いになっただろ。若い男だよ」
「ああ……」
やっぱり、見ていたらしい。
「知り合いなのか?」
「違います。昨日初めて会いました」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。
けれど、焼き魚を一口食べたあと、何気ない口調で続けた。
「人ってのは、意外なところで会うもんだからな」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ。昔の知り合いに何十年ぶりかで会ったと思ったら、向こうはこっちのことを覚えてなかったりするしな」
「それはちょっと寂しいですね」
「まあ、そんなもんだ」
老人は笑いながら味噌汁を飲んだ。
その笑顔を見ていると、以前聞いた話を思い出す。
亡くなった奥さんが作ってくれた焼き魚。
最後に食べたのも、それだったという話。
あのとき、この人は何かを言いかけていた。
俺はずっと、その続きを聞けずにいた。
「……奥さんのこと、今でもよく思い出します?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
老人は箸を止めた。
「そりゃ思い出すさ」
「毎日?」
「毎日ってほどじゃない。でも、魚を食べるときは思い出すな。あと、味噌汁が少し薄いときも」
「それ、奥さんに失礼じゃないですか」
「本人にもそう言ってたよ。そしたら怒られた」
老人は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑う。
「でもな」
老人はしばらくしてから、少しだけ声を落とした。
「言っておけばよかったことってのは、後からいくらでも出てくるもんだ」
俺は黙って聞いていた。
「ありがとう、とかな。あのときは言わなくても分かってると思ってた。夫婦なんだから、そんなこといちいち口に出さなくてもいいだろってな」
老人は焼き魚を箸でほぐしながら、続けた。
「でも、分かってると思うのと、実際に聞くのとじゃ違うんだろうな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが触れた。
けれど、何なのかは分からなかった。
「……そうかもしれませんね」
それだけ答えると、老人は俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「お前さんも、何か言えなかったことがあるのか?」
「俺?」
「いや、なんとなくだ」
俺は笑ってごまかそうとした。
「特にないですよ」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。
ただ、帰り際にいつものように会計を済ませると、入口のところで振り返った。
「もし何かあるなら、言えるうちに言っとけよ」
その言葉だけを残して、老人は店を出ていった。
暖簾が揺れ、夜の風が少しだけ店内へ入ってくる。
俺はしばらく入口を見ていた。
「……言えるうちに、か」
小さく呟いたとき、店主が後ろから声をかけた。
「今日はよく聞くわね」
「何をです?」
「人の話」
「別に、いつも聞いてるでしょう」
「そうだけど、今日は自分から聞いてる」
俺は返事をしなかった。
店主はそれ以上何も言わず、洗い物へ戻っていった。
その夜、閉店してから一人で店内の片付けをしていると、カウンターの端に小さな紙が置かれているのに気づいた。
昨日の女の子が残していったものではない。
見覚えのない、白い紙だった。
拾い上げて裏返す。
何も書かれていない。
表にも、何もない。
なのに、なぜかその紙を見た瞬間、昨日の男の顔が浮かんだ。
――どっかで会ったことない?
その声が、頭の中で妙にはっきり蘇る。
俺は紙をカウンターへ戻した。
そして、何気なく店の窓へ目を向ける。
向かいの店のガラスに、店内の様子がぼんやり映っていた。
カウンター。
椅子。
テーブル。
厨房に立つ店主。
そして、その手前に立っている俺。
いつも見ている景色のはずだった。
けれど、その夜はなぜか違って見えた。
自分の姿だけが、少し遠い。
ガラス一枚を隔てているというより、もっと別の場所から眺めているような、不思議な距離感があった。
俺は目を逸らした。
疲れているだけだ。
きっとそうだ。
そう思って、店の電気を一つずつ消していく。
最後の照明を落としたところで、暗くなった店内に、外から月明かりが差し込んだ。
その光の中で、カウンターの端に置いた白い紙だけが妙に目立っていた。
俺はそれを手に取って、店主へ尋ねる。
「これ、誰のですか?」
店主は紙を見ると、ほんの少しだけ目を細めた。
「知らないわ」
「……本当に?」
「ええ」
それだけ答えて、店主は戸締まりの準備を始めた。
俺も紙を置こうとした。
そのときだった。
紙の端に、薄い文字が浮かんでいることに気づいた。
最初から書いてあったのか、それとも月明かりのせいで見えたのかは分からない。
ただ、そこには一行だけ、見覚えのない文字があった。
――あの日、電話に出ていれば。
息が止まった。
俺は紙を見つめたまま動けなくなった。
「……何これ」
店主が振り返る。
「どうしたの?」
「これ……」
紙を見せようとした。
けれど、次の瞬間には文字が消えていた。
白い紙には、何も残っていない。
「……いや」
俺は紙を裏返し、もう一度確かめた。
やっぱり何もない。
「どうしたの?」
「何でもないです」
そう答えたものの、自分でも声が少し震えているのが分かった。
電話。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
そして気づけば、ポケットの中のスマートフォンを握っていた。
画面をつける。
そこには、母親から届いたままのメッセージが残っていた。
――元気にしてる?
昨日、返さなかったメッセージ。
ただ、それだけのはずだった。
なのに今は、その短い言葉がひどく遠いところから届いたもののように思えた。
俺は画面を閉じた。
まだ、何も思い出してはいない。
けれど、胸の奥には、雨の音だけがかすかに蘇り始めていた。
翌日の夕方になっても、昨夜見た文字のことが頭から離れなかった。
――あの日、電話に出ていれば。
たった一行の言葉だったのに、なぜあれほど胸に引っかかったのか、自分でもよく分からない。
店へ向かう途中も、信号待ちをしている間も、何度かスマートフォンを取り出しては、母親とのメッセージ画面を開いた。
最後に届いているのは、昨日と同じ「元気にしてる?」という短い文だけだった。
返信欄には、昨日入力した「元気だよ」が残っている。
俺はそれを消して、スマートフォンをポケットへ戻した。
元気だよ、と送ればいい。
たったそれだけなのに、送信ボタンを押す理由が見つからなかった。
店へ着くと、いつものように暖簾を出して、店内の椅子を並べ直した。窓を開けると、夕方の少し湿った風が入り込み、古い木の匂いと厨房に残った出汁の香りが混ざる。
「今日は早いわね」
店主が厨房から顔を出した。
「昨日より五分早いです」
「昨日は五分遅かったから、帳尻を合わせたの?」
「そういうことにしておいてください」
「便利ね、その性格」
「褒めてます?」
「どうでしょうね」
店主は笑いながら鍋の蓋を開けた。
いつもと変わらない。
それなのに、俺の中だけが妙に落ち着かなかった。
六時を過ぎた頃、いつもの老人がやってきた。昨日と同じ席に座り、昨日と同じように新聞を広げる。
「今日は魚、何だ?」
「鯖です」
「それならいい」
「魚でそんなにテンション変わるんですか?」
「変わるさ。人間、歳を取ると食べ物くらいしか楽しみがなくなるからな」
「まだ他にもあるでしょう」
「そうだな。食堂に来ることも楽しみだ」
そう言われると、少しだけ嬉しかった。
焼き上がった鯖を定食にして運ぶと、老人は「いただきます」と手を合わせてから、いつものようにゆっくり食べ始めた。
その姿を見ていると、昨日の会話を思い出す。
言えるうちに言っておけ。
俺は何となく、その言葉を自分に向けられたもののように感じていた。
「そういえば」
老人が味噌汁を飲みながら顔を上げた。
「昨日の若い男、また来ると思うか?」
「さあ。俺には分からないですけど」
「そうか」
「何か気になるんですか?」
「いやな」
老人は少し考えてから、箸で焼き魚をほぐした。
「ああいう顔をした若いのを見ると、昔の自分を思い出すんだよ」
「昔の自分?」
「何か言いたいことがあるくせに、自分からは言わない顔だ」
俺は返事をしなかった。
老人はそれ以上続けず、黙々と食事を続けた。
しばらくして店の入口の鈴が鳴る。
俺が顔を上げるより先に、老人が入口を見た。
「おや」
そこに立っていたのは、昨日の男だった。
男は一瞬だけ店内を見回し、俺と目が合うと、少し気まずそうに笑った。
「……また来ちゃいました」
「いらっしゃいませ」
自分でも驚くほど普通の声が出た。
男は昨日と同じ席には座らず、カウンターの端へ腰を下ろした。
「今日は何にします?」
「昨日と同じので」
「お茶漬けですね」
「はい」
注文を通してから、俺は男の横顔を見た。
昨日よりも少し顔色が悪い気がする。
「大丈夫ですか?」
「何がです?」
「いや、なんとなく」
「大丈夫ですよ」
そう答えたものの、男は笑わなかった。
お茶漬けを出すと、男は昨日と同じようにしばらく箸を持ったまま黙っていた。
老人はそんな男をちらりと見たが、何も言わず食事を続けている。
やがて男が口を開いた。
「昨日、変なこと言いましたよね」
「どっかで会ったことがないかってやつですか?」
「そうです」
「気にしてないですよ」
「俺は気になってるんです」
男はそう言って、湯呑みを両手で包んだ。
「昨日ここを出てから、ずっと考えてたんです。あなたの顔をどこで見たのかって」
「それで、思い出しました?」
「……それが、思い出せないんです」
男は苦笑した。
「顔は分かる。でも、どこで会ったのかだけが出てこない」
「それなら、たぶん人違いですよ」
「そうかもしれません」
男は素直に頷いた。
けれど、少し間を置いてから、こちらを見る。
「でも、あなたも俺を見たとき、何か思いませんでした?」
「何かって?」
「懐かしいとか」
その言葉に、俺は一瞬答えられなかった。
正直に言えば、あった。
昨日、初めて顔を見たはずなのに、声を聞いたときから妙な既視感があった。
けれど、それを認めてしまうのが少し怖かった。
「……少しだけ」
結局、そう答えた。
男はほっとしたように息を吐いた。
「やっぱり」
「でも、本当に知らない人だと思います」
「俺も、そう思いたいです」
「思いたい?」
聞き返すと、男は視線を落とした。
「いや……なんでもないです」
そのとき、老人が横から口を挟んだ。
「お前さんたち、知り合いなら知り合いでいいじゃないか」
「いや、だから違うんですよ」
「そうか?」
「そうです」
「じゃあ、これから知り合いになればいい」
あまりにも老人らしい言い方だったので、俺は思わず笑ってしまった。
男も少しだけ笑った。
「……それもそうですね」
ほんの一瞬だけ、店の空気がいつもの食堂らしいものに戻った気がした。
食事を終えた男が会計を済ませ、帰ろうとしたとき、俺はふと呼び止めた。
「名前、聞いてもいいですか?」
男が振り返る。
「俺ですか?」
「昨日からずっと『男』って呼ぶのも変なので」
「それもそうですね」
男は少し考えてから、自分の名前を名乗った。
俺も自分の名前を伝える。
たったそれだけのやり取りだった。
けれど、男は俺の名前を聞いた瞬間、表情を変えた。
「……やっぱり」
「何ですか?」
「いや」
男は何かを言いかけて、口を閉じた。
「すみません。今日は帰ります」
そう言って、暖簾の向こうへ出ていく。
俺はその背中を見送った。
店の外へ出た男は、しばらくその場に立ったまま動かなかったが、やがて商店街の奥へ歩いていった。
「変な人だったな」
老人が言った。
「そうですね」
「でも、お前さんも少し変だったぞ」
「俺も?」
「名前を聞いたときの顔だ。何か思い出したんじゃないのか?」
俺は答えなかった。
思い出したわけではない。
ただ、名前を名乗った瞬間、頭の奥で何かが引っかかった。
それは記憶というより、感覚に近かった。
雨の音。
濡れた道路。
遠くから近づいてくる車のライト。
そして、手の中で震えていたスマートフォン。
俺は無意識に、自分のポケットへ手を入れた。
そこにスマートフォンがあることを確かめる。
「……どうした?」
「いえ」
俺は手を抜いた。
「ちょっと、昔のことを思い出しかけただけです」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、食事を終えた老人が席を立つ。
「今日もごちそうさん」
「ありがとうございました。また明日」
「明日も来るさ」
老人はそう言って笑い、暖簾の向こうへ消えていった。
店内が静かになる。
店主は何も言わず、空いた皿を片付けている。
俺はカウンターに立ったまま、さっきの男が出ていった入口を眺めていた。
「店主」
「なに?」
「あの人、知ってます?」
店主の手が一瞬だけ止まった。
「どうして?」
「なんとなく」
「知らないわ」
「本当に?」
「ええ」
店主はそう答えてから、こちらを見た。
「ただ、あなたがあの人を気にする理由は、少し分かる気がするけど」
「どういう意味ですか?」
店主は答えなかった。
代わりに、洗った皿を棚へ戻しながら、静かに言った。
「思い出したくないことほど、向こうから近づいてくることってあるのよ」
俺はその言葉を聞いて、何も言えなくなった。
その夜、閉店して店を出たあと、雨が降り始めた。
傘を開こうとして、ふと立ち止まる。
街灯に照らされた道路が濡れている。
遠くから車のライトが近づいてくる。
その光を見た瞬間、頭の中で何かが弾けた。
――着信。
スマートフォンが震えている。
画面には、母親の名前。
俺はそれを見つめていた。
電話に出るか、出ないか。
ただ、それだけのことだった。
なのに、なぜか俺は電話に出なかった。
そこで記憶が途切れた。
俺は雨の中に立ったまま、しばらく動けなかった。
胸が苦しい。
理由は分からない。
ただ、さっきまで遠かったはずの何かが、もう手を伸ばせば届きそうなところまで来ている気がした。
雨は、店を出てからもしばらく降り続いていた。
最初は気にならない程度だった雨脚が、歩いているうちに少しずつ強くなり、気づけばシャツの肩や髪までしっとりと濡れている。それでも俺は傘を取りに戻ろうとはしなかった。月待食堂へ戻る理由もなければ、どこかへ急いで帰る理由もない。ただ足だけが勝手に前へ進んでいて、自分がどこへ向かっているのかさえ、よく分からなかった。
古い商店街を抜け、見覚えのない道を曲がったところで、小さな公園が目に入った。
街灯の明かりに照らされた滑り台と、雨に濡れたベンチ。子どもの頃に一度くらい遊んだことがあるような気がするのに、いつ、誰と来た場所なのかは思い出せない。そんな曖昧な記憶だけが残っている。
その前を通り過ぎようとしたとき、ふと足が止まった。
何かを探すようにポケットへ手を入れる。
当然、何も入っていない。それなのに指先には、そこにあるはずのないスマートフォンの感触が妙に鮮明に残っていた。
――電話。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥がざわついた。
母親からの電話だった。
画面に表示された名前も、着信音も、電話を手にしたときの感覚も、今なら少しずつ思い出せる。俺は画面を見つめながら、出るべきかどうか迷っていた。そして結局、電話には出なかった。
そこまでは覚えている。
問題は、その先だった。
何度思い出そうとしても、そこだけが妙に暗い。まるで記憶そのものに蓋をされているようで、手を伸ばすほど遠ざかっていく。
目を閉じると、雨の音の向こうから、別の音が聞こえてきた。
濡れた道路を車が走る音。タイヤが水を跳ねる音。遠くで変わった信号の電子音。そして、そのすべてを切り裂くような短いクラクション。
その音を聞いた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
俺は思わず目を開け、息を止める。
何かがあった。
そう思うのに、それが何なのかまでは思い出せない。
ただ、あの夜の自分が何かを諦めていたことだけは、なぜか分かった。
もういい。
仕方ない。
終わったことだ。
そんな言葉を、俺は何度も自分に言い聞かせていた気がする。
「……俺、何から逃げてるんだ」
雨の中でそう呟いても、答えてくれる人はいない。
けれど、その問いを口にしたことで、今まで自分が避けていたものが少しだけ形を持ったような気がした。
翌朝、月待食堂へ向かう道でも、俺は昨夜のことを考え続けていた。
ほとんど眠れていない。布団に入って目を閉じるたびに、雨に濡れた道路とスマートフォンの画面が浮かび、そのたびに母親の名前から先へ進めなくなった。
それでも店の前まで来ると、不思議なもので、いつもの景色が少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。古びた看板も、軒先に掛かった暖簾も、昨日までと何も変わっていない。
中へ入ると、店主が湯を沸かしていた。
「おはようございます」
「おはよう。……今日はずいぶん眠そうね」
「そんなに分かります?」
「分かるわよ。毎日顔を合わせてるんだから」
店主はそう言ってから、俺の顔を少し眺めた。
「でも、何を考えてるかまでは分からないわ」
「そこまで分かったら怖いですよ」
「そうね。食堂の店主より占い師になったほうが儲かりそうだけど」
いつもの調子だった。
俺も笑った。
ただ、笑いながらも、昨夜の記憶について店主に話してみようかという考えが頭の片隅に残っていた。
結局、口には出さなかった。
昼前になると、いつもの老人が暖簾をくぐった。
「おう、今日もいるか」
「いますよ。今日は少し遅かったですね」
「途中で猫と目が合ってな。あいつが道を譲らんから困った」
「猫に負けたんですか」
「人間が猫に道を譲るのが礼儀だろう」
「初めて聞きましたよ」
そんなやり取りをしながら、老人はいつもの席に腰を下ろした。注文もいつも通りで、焼き魚定食を頼んでから湯飲みを手に取る。
俺が厨房へ向かおうとしたところで、老人がふと思い出したように言った。
「そういや兄ちゃん、昨日ちょっと変な顔してたな」
「昨日?」
「ほら、帰る前だよ。何か考え込んでただろう」
「……昔のことを、少し思い出しただけです」
そう答えると、老人は「そうか」とだけ言って、しばらく窓の外を眺めた。
「昔ってのは不思議なもんだな。忘れたつもりでも、向こうから勝手に顔を出してくる」
「向こうから、ですか」
「昔の自分とか、昔の誰かとかな。こっちはもう終わったつもりでも、向こうはまだ終わってないことがあるんだろう」
その言葉が、妙に胸に残った。
俺が焼き魚を皿に盛っていると、老人は続ける。
「だからまあ、誰かに言いたいことがあるなら、言えるうちに言っといたほうがいい」
「前にも、それ言ってましたよね」
「そうだったか?」
「はい」
「じゃあ、俺も同じことを何度も言うくらい気にしてるってことだな」
老人は照れたように笑った。
俺もつられて笑ったが、その笑顔の奥に何か引っかかるものがあることには気づいていた。
この人も、まだ誰かに言えていないことがある。
そう思ったところで、店主がカウンターの向こうからこちらを見た。
何も言わなかったが、その目には何かを知っているような静けさがあった。
昼を過ぎても、あの若い男は来なかった。
俺は気にしていないつもりだったが、時計を見るたびに、今日は来ないのだろうかと考えてしまう。
「昨日の子、今日は来ないわね」
まるで俺の考えを読んだように、店主が言った。
「……そうですね」
「また来ると思う?」
「分かりません。ただ、来るような気はします」
「そう」
店主はそれ以上何も言わなかった。
そして夕方、そろそろ暖簾を下ろそうかと思っていた頃、本当に男が店の前に立っていた。
昨日までと同じように、しばらく店内を覗いている。
俺と目が合うと、男は少し迷ってから扉を開けた。
「……まだ大丈夫?」
「閉店までは大丈夫ですよ」
「じゃあ、お茶漬け」
「今日もそれでいいんですか?」
「ああ。なんか、これが一番落ち着くから」
男はいつもの席に座った。
俺がお茶漬けを用意している間も、背中に視線を感じる。振り返ると、男はやはりこちらを見ていた。
「……なあ」
「はい?」
「昨日、あんたの名前を聞いただろ」
「ええ」
「やっぱり、知ってる気がするんだ」
俺は手を止めた。
「どこで会ったのかは思い出せない。でも、名前を聞いた瞬間に、ああ、やっぱりって思った」
「俺も、最近そういうことがあります」
「昔のこと?」
「はい。覚えてるはずなのに、肝心なところだけ抜けてるんです。思い出そうとすると、別のことばかり浮かんでくる」
男は少し考えるように湯気の向こうを見つめた。
「……俺たち、似てるのかもな」
「何がです?」
「忘れてるところが」
男はそこで言葉を切り、お茶漬けに箸をつけた。
しばらくして、ほとんど食べないまま箸を置く。
「俺、ここに来ると何か思い出せそうな気がするんだ」
「月待食堂で?」
「ああ。でも、何を思い出したいのかは分からない」
その言葉を聞いたとき、俺はなぜか嫌な予感がした。
この店に来る人たちは、みんな何かを探している。
それなら、自分は何を探しているのだろう。
そう考えたところで、男がふいにこちらを見た。
「……あんたも、そうなんじゃないか?」
「え?」
「何かを思い出すために、ここにいるんじゃないのか」
返事ができなかった。
店内の時計が、静かに秒針を進めている。
やがて男は立ち上がった。
「今日は帰るよ」
「まだ外、雨が――」
そう言いかけて、俺は言葉を止めた。
外を見る。
雨は降っていない。
それなのに、男の手には傘があった。
そして男は、店主のほうを一度だけ見た。
店主も男を見返している。
二人の間に、俺には分からない何かが流れた。
「……また来ます」
男はそう言って店を出た。
扉が閉まったあと、俺は店主に尋ねた。
「店主さん。あの人、何者なんですか?」
店主はすぐには答えず、カウンターに置かれた湯飲みを片づけながら、静かに言った。
「あなたと同じように、ここへ来る理由がある人よ」
「それだけですか?」
「それ以上を知りたいなら、本人に聞けばいいわ」
あまりにも普通の答えだった。
だからこそ、余計に引っかかった。
その夜、店を閉める前に、俺はふと窓の外を見た。
向かいの店のガラスに、自分の姿が映っている。
けれど、昨夜と同じように、ほんの少しだけ違和感があった。
雨に濡れているわけでもないのに、ガラスの中の俺だけが、どこか遠くにいるように見える。
そのとき、ポケットの中で何かが震えた気がした。
反射的に手を入れる。
もちろん、何もない。
それでも頭の中には、あの夜のスマートフォンが浮かんだ。
母親からの着信。
出なかった電話。
そして、まだ思い出せない、その後の時間。
俺はしばらく窓の前に立ったまま、自分の姿を見つめていた。
もし、あの電話に出ていたら。
何を話したのだろう。
母親は、何を言おうとしていたのだろう。
そして俺は、何を言わずに終わったのだろう。
考えているうちに、胸の奥で、またあの言葉が浮かんだ。
――今さら、何を話すんだよ。
その言葉を思い出した瞬間、なぜかひどく寂しくなった。
電話に出なかったことよりも、そのときの自分が、本当に「今さら」だと思っていたことのほうが苦しかった。
何かを諦めるには、あまりにも簡単な言葉だった。
そして俺は、その言葉をこれまで何度も使ってきた。
仕方ない。
もう終わったことだ。
今さらどうしようもない。
そうやって、考えることをやめてきた。
そのことに気づいたとき、背後から店主の声がした。
「……そろそろ、思い出してもいい頃かもしれないわね」
振り返ると、店主はいつもの場所に立っていた。
問い返そうとしたのに、声が出なかった。
ただ、その言葉だけが胸の奥に残り続けていた。
店主の言葉が、しばらく頭から離れなかった。
「思い出してもいい頃って……どういう意味ですか」
ようやくそう尋ねると、店主はカウンターの上に置かれた湯飲みを手に取り、残っていたお茶を一口飲んだ。いつものように落ち着いた仕草だったが、その沈黙には、何かを知っている人間だけが持つような妙な重さがあった。
「そのままの意味よ」
「俺が何か忘れてるって、最初から知ってたんですか」
「忘れているというより、思い出さないようにしているように見えたの」
胸の奥を見透かされたような気がして、俺は返す言葉を失った。
確かに、思い出したくなかった。
母親からの電話も、その夜のことも、記憶の中には断片的に残っている。それなのに、そこへ深く入り込もうとすると、いつもどこかで思考を止めてしまう。何かを思い出そうとして苦しくなるくらいなら、分からないままでいい。そうやって今まで過ごしてきたのだと思う。
店主はそんな俺を急かすことなく、カウンターの端に置かれた湯飲みを布巾で静かに拭いていた。
「……俺は、ここに来る前のことを、どれくらい覚えてるんでしょうね」
「それはあなたにしか分からないわ」
「でも、店主さんは知ってるんでしょう?」
「何を?」
「俺が、どういう人間なのか」
店主は少しだけ考えるように目を伏せ、それから穏やかな声で答えた。
「働き始めてからのあなたなら、知ってるわよ。朝は少し早く来ること、忙しくなると頼まれていなくても片づけを始めること。それから、自分のことより人のことを気にすることもね」
「……そんなところまで見てたんですか」
「毎日いるんだから、そのくらいは分かるわ」
俺は苦笑しながら、しばらくカウンターを見つめていた。
それから、どうしてそんなことを聞いたのか、自分でもよく分からないまま口にした。
「じゃあ、俺が死んでるかどうかも?」
言ってしまってから、店の空気がわずかに変わった気がした。
店主はすぐには答えなかった。
けれど、その沈黙こそが答えなのではないかと、俺には思えてしまった。
壁に掛かった時計が、一定の間隔で音を刻んでいる。その音を聞きながら、俺は頭の中で自分の言葉を何度も反芻した。
死んでいる。
そんなはずがない。
俺は普通に歩いているし、人と話すこともできる。眠くなることもあれば、腹が減ることだってある。昨日だって雨の中を歩いたし、この店では毎日のように誰かと話をしている。
だから、死んでいるわけがない。
そう考えたところで、ふと別の疑問が浮かんだ。
俺は、最後にいつ腹が減った?
最後に、いつ眠った?
そして――最後に、この店以外の場所で誰かと話したのは、いつだっただろう。
考えてみても、答えが出てこない。
月待食堂に来る前の生活について、俺はそれなりに覚えているつもりだった。仕事をしていたことも、街を歩いたことも、母親と話したことも覚えている。けれど、それらを一つずつ思い返してみると、どれも自分の記憶というより、昔撮った写真を眺めているような感覚に近かった。
確かに自分がそこにいたはずなのに、その時間を本当に生きていたという実感だけが薄い。
「……おかしいな」
思わず呟くと、店主は何も言わず、カウンターの端に置かれていた小さな鏡をこちらへ向けた。
「見てみたら?」
「何を?」
「自分を」
言われるまま鏡を覗き込む。
そこには、いつも通りの自分が映っていた。少し疲れた顔をしていて、髪も乱れている。寝不足のせいか頬には薄い影ができているものの、特別おかしなところはない。
なのに、しばらく見つめていると、昨日から感じていた違和感が少しだけ形を持ちはじめた。
鏡の中の顔は間違いなく自分なのに、どこか他人を見ているような感覚がある。
自分の顔なのに、最近の自分だという実感がない。
「……いつからだろう」
「何が?」
「この顔を見ても、自分だって思わなくなったの」
店主は答えなかった。
ただ、俺がそれ以上鏡を見ないようにするみたいに、そっと元の位置へ戻した。
「今日はもう帰ったら?」
「帰るって……どこに?」
何気なく返したつもりだった。
けれど、その言葉が口から出た瞬間、店主の手が止まり、俺自身も妙な引っかかりを覚えた。
帰る場所。
俺には、帰る場所があったはずだ。
そう思ったのに、具体的なものが何一つ浮かばない。
住んでいた部屋の間取りも、最寄り駅も、玄関を開けたときに最初に見えるものも、鍵をどこに置いていたかさえ思い出せなかった。
母親の家なら、なんとなく分かる。
けれど、自分が暮らしていた場所は――。
「……俺、どこに住んでたんだ?」
声に出してしまうと、その事実が急に怖くなった。
必死に記憶を探すと、玄関や机、ベッド、スマートフォンといった断片はいくつか浮かんでくる。けれど、それらは一つの生活として繋がってくれない。まるで誰かが、俺の人生から必要な部分だけを切り取ってしまったみたいだった。
「……母親」
その言葉だけは、妙にはっきりと浮かんだ。
母親なら、俺がどこにいるのか知っている。
そう考えた瞬間、胸の奥が痛んだ。
俺はスマートフォンを探すようにポケットへ手を入れたが、もちろん何も入っていない。そこで初めて、今まで何度も母親から連絡が来たことを思い出した。
なのに、どうして一度も返信しなかったのだろう。
どうして電話をかけ直そうと思わなかったのだろう。
そもそも、なぜ店主にスマートフォンがないことを相談したことすらなかったのだろう。
考えれば考えるほど、自分の記憶の中に妙な穴があることに気づいていく。
「……店主さん」
「なに?」
「俺、ここに来る前のことを話したことありますか」
「ほとんどないわね」
「俺自身も、あまり話してないですよね」
「ええ」
「なのに、俺が死んでるかもしれないって言ったら、否定しないんですね」
店主はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ困ったように笑うと、静かな声で言った。
「あなたが自分で答えを探してるのに、私が先に答えを言ってしまったら、きっと意味がなくなるから」
それ以上、店主は何も教えてくれなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
聞いてしまえば、本当に何かが変わってしまうような気がしたからだ。
店を出ると、夜の商店街は静まり返っていた。シャッターの閉まった店が並ぶ通りには人影もほとんどなく、遠くから車の走る音だけが聞こえている。そのいつもと変わらない景色の中を歩きながら、俺は今まで当たり前だと思っていたことを、一つずつ思い返していた。
月待食堂で働き始めてから、外へ出ることはほとんどなかった。
買い物をした記憶もない。
財布を使った記憶もない。
給料をもらった覚えもなければ、銀行へ行ったこともない。
それなのに、俺は何の疑問も持たずに生活していた。
考えてみれば、あまりにもおかしい。
それでも、俺はどこかでまだ「まあ、そういうこともある」と考えようとしていた。
考えたって仕方ない。
そう思いかけたところで、足が止まった。
――仕方ない。
その言葉が、今までとは違う響きで聞こえた。
誰かに言われたわけではない。
俺が、自分自身に言い聞かせてきた言葉だった。
何かを諦めるときも、誰かとの話を途中で終わらせるときも、向き合うことから逃げるときも、最後には決まってそう言っていた気がする。
仕方ない。
もう終わったことだ。
今さらどうしようもない。
そうやって、考えることをやめてきた。
そして、あの夜も――。
「……そうか」
思わず声が漏れた。
俺がここへ来た理由は、誰かに何かをしてもらうためではなかったのかもしれない。
何かを探していた。
ただ、それが何なのかを自分で認めたくなくて、ずっと見ないふりをしていただけなのだ。
そのとき、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、あの若い男が立っていた。
「……やっぱり、ここにいた」
少し息を切らしながら、男は俺の前まで歩いてくる。
「どうして?」
「分からない。でも、ここにいる気がした」
男はそう言ってから、俺の顔をじっと見た。
いつものような曖昧な視線ではなかった。何かを確かめようとしているようにも見えたし、同時に、自分自身の記憶を探しているようにも見えた。
「話したいことがある」
「俺に?」
「ああ」
男は一度だけ言葉を選ぶように黙り、それから静かに続けた。
「俺、あんたが死んだことを知ってる」
その言葉を聞いた瞬間、商店街の音が一気に遠ざかったように感じた。
けれど、不思議なことに、驚きより先に胸の奥から浮かんできたのは、否定する言葉ではなかった。
――やっぱり。
そんな、妙に静かな納得だった。
しばらくの間、俺たちは何も言わなかった。
商店街を抜ける風が、閉じたシャッターの隙間を通り抜けていく。どこかの店先に吊るされた看板が風に揺れ、その金属音だけが妙に耳に残った。
「……どうして知ってるんだ?」
ようやく尋ねると、男はすぐには答えなかった。俺の顔を見るでもなく、少し先の暗い道路を眺めながら、何かを思い出そうとするように黙っている。
「俺も、最初から分かってたわけじゃない」
「じゃあ、いつ分かった?」
「この店に何度か来て、あんたを見てるうちに」
「それだけで?」
「いや……それだけじゃない」
男は一度言葉を切ってから、ゆっくりと俺を見る。
「俺、あんたを知ってる」
胸の奥がざわついた。
「さっきも言ってたな。でも、俺には覚えがない」
「うん。たぶん、あんたは覚えてない」
「いつ会ったんだ?」
「……あの夜」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に何かが浮かんだ。
雨。
濡れた道路。
街灯に照らされた白い光。
そして、遠くから近づいてくる車のヘッドライト。
ほんの一瞬の景色だった。
思わず目を閉じると、男の声が少し遠くから聞こえた。
「今、何か思い出した?」
「分からない。ただ……雨が降ってた」
「そう」
「夜だった」
男が静かに頷く。
「車の音もした」
「ああ」
その反応を見て、俺は目を開いた。
「本当に、知ってるんだな」
「うん」
男はしばらく迷ったあと、静かに話し始めた。
「俺はあの日、たまたま近くにいたんだ。雨が強くて、駅まで歩いて帰ろうとしてた。そこで事故が起きた」
その先を聞くのが怖かった。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「……俺の?」
「そう」
喉がひどく乾く。
「俺は、何をしてた?」
「道路の近くで、スマホを見てた」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
暗い夜の中で浮かぶ、小さな画面。
濡れた指先。
そこに表示されていた名前。
着信。
母親。
「……電話」
「うん」
「母親からだった」
「たぶん、そうだと思う」
男がそう答えたことで、かえって胸がざわついた。
「たぶん?」
「俺は電話の内容までは知らない。ただ、あんたが画面を見てたのは覚えてる。それから、電話に出なかったことも」
胸の奥が強く締めつけられる。
記憶の中に、あの夜の景色が少しずつ戻ってきた。
雨粒がフロントガラスを叩く音。
濡れたアスファルトに滲む信号。
手の中のスマートフォン。
そして、画面に表示された母親の名前。
俺は電話に出なかった。
それだけは、はっきりと思い出せた。
「……そのあと、俺は?」
男はすぐには答えなかった。
「車が来た」
「それだけ?」
「俺も、全部を見たわけじゃない」
男は言葉を選ぶように続けた。
「急ブレーキの音がして、そのあとに大きな音がした。俺が走っていったときには、もう人が集まり始めてた」
俺は何も言えなかった。
事故そのものを思い出したわけではない。けれど、その直前まで自分が何をしていたのかは、少しずつ分かってきた。
母親から電話が来ていた。
俺は出なかった。
そして、その直後に事故に遭った。
それだけなら、まだ事実として受け止められる気がした。
けれど、その先にあるものを考えた途端、胸の奥が重くなる。
「……俺、死んだんだな」
今度は疑問ではなかった。
誰かに確認するためでもなく、自分の中に残っていた最後の抵抗を静かに手放すための言葉だった。
男は何も言わなかった。
否定する必要がないことを、きっと分かっているのだろう。
俺は空を見上げた。
雨は降っていない。月も見えない。
それなのに、あの夜の冷たさだけが、まだ身体のどこかに残っているような気がした。
「……じゃあ、俺がここにいるのは」
「月待食堂に来たからだと思う」
「それって、死んだ人間なら誰でも来られるのか?」
「分からない」
「じゃあ、あんたは?」
男は少しだけ笑った。
「俺も死んでる」
その答えは、思っていたよりずっと静かだった。
「……そうだったのか」
「うん」
「いつ?」
「俺も、よく分からない」
「じゃあ、どうしてここに来た?」
男は少し考えるように黙った。
「何かを思い出したかったんだと思う」
その声には、どこか自分自身に言い聞かせているような響きがあった。
「俺には、ずっと引っかかってることがあった。誰かに何か言われた気がするんだけど、それが何だったのか思い出せなくて。それを思い出せたら、俺もここから出られる気がしてた」
「ここから出る?」
「うん」
「出たら、どうなるんだ?」
「分からない。でも、たぶん……終わるんだと思う」
その言葉を聞いたとき、以前の老人の顔が頭に浮かんだ。
いつも同じ席に座り、焼き魚を食べていた老人。
それから、クリームソーダとプリンを頼んでいた女子高生。
二人とも、何かを抱えてこの店に来ていた。そして、ある日を境に、ふっと姿を見せなくなった。
これまでは、それをただ不思議に思っていただけだった。
けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
きっと二人にも、それぞれ何かが終わったのだ。
「……あの二人も」
「え?」
「いや、なんでもない」
言葉を濁すと、男はそれ以上聞かなかった。
しばらく歩いたあと、男がふいに口を開いた。
「俺さ」
「ん?」
「事故のあと、あんたのことがずっと気になってた」
「どうして?」
「最後に見たとき、あんたが電話に出なかったから」
心臓が一つ、大きく鳴ったような気がした。
「それが何か関係あるのか?」
「分からない。でも、あのときのあんたの顔が、ずっと残ってたんだ」
「どんな顔だった?」
「怒ってるようにも見えたし、困ってるようにも見えた。ただ……誰かと話したくないっていう顔には見えた」
俺は何も言えなかった。
それは、あまりにも自分らしい気がした。
何か嫌なことがあれば一人になりたがる。誰かに心配されれば「大丈夫」と言い、話したくないことがあれば「もう終わったことだから」と片づけてしまう。
そして、母親からの電話にも出なかった。
「……俺、あのとき何を考えてたんだろうな」
「それは、俺には分からない」
「そうだよな」
男は少しだけ間を置いてから、俺を見る。
「あんたなら分かるんじゃないか?」
「俺なら?」
「あのとき、自分が何を考えてたのか。たぶん忘れてるんじゃなくて、思い出したくないだけなんだと思う」
その言葉に、店主から言われたことが重なった。
思い出さないようにしている。
俺はずっと、自分の中にあるものから目を逸らしていたのだ。
事故のことも、母親からの電話も、あの夜、自分が最後に考えていたことも。
全部、「もう終わったことだ」と思い込むことで、考えなくて済むようにしていた。
けれど、本当に終わったのなら、どうして俺は今もここにいるのだろう。
「……店に戻ろう」
「ああ」
男と並んで、俺たちは月待食堂へ向かって歩き出した。
その途中、ポケットに何かが入っているような感覚がした。
反射的に手を入れる。
もちろん、何もない。
それでも、指先には確かにスマートフォンの感触が残っていた。
暗い画面。
雨に濡れた手。
母親の名前。
そして、鳴り続ける着信音。
俺は足を止めた。
「……思い出した」
男が振り返る。
「何を?」
俺はすぐには答えられなかった。
まだ全部ではない。
けれど、あの夜、電話に出なかった理由だけは、もう分かっていた。
「母親に……言ったんだ」
「何を?」
雨の音を思い出しながら、俺はゆっくりと息を吐いた。
「もう子どもじゃないんだから、放っておいてよって」
口にした瞬間、胸の奥に残っていた何かが、静かに崩れた。
口にした瞬間、胸の奥に残っていた何かが、静かに崩れた。
男は何も言わなかった。ただ、少し先にある月待食堂の看板を見ながら、俺が自分で言葉を続けるのを待っているようだった。
「……あの電話、出なかったんだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「母親からだった。たぶん、何か話したかったんだと思う。でも、その前に俺たち、ちょっと揉めててさ」
「将来のこと?」
「……まあ、そんなところ」
母親は昔から、俺のことを心配しすぎるところがあった。大学を出たらどうするのか、仕事は決まっているのか、ちゃんと食べているのか。そんなことを、顔を合わせるたびに聞いてくる。
子どもの頃なら素直に答えられたのに、大人になるにつれて、それがだんだん鬱陶しく感じるようになっていた。心配してくれていることくらい、本当は分かっていた。分かっていたからこそ、余計に面倒だったのだと思う。
「そのとき、俺、言ったんだよな」
男は黙って頷いた。
「もう子どもじゃないんだから、放っておいてくれって」
言葉にすると、思っていたよりも普通だった。怒鳴ったわけでもないし、ひどい言葉を並べたわけでもない。ただ、少し苛立った声で、そう言った。
たったそれだけだった。それなのに、その一言だけが、妙に鮮明に残っている。
「そのあと、母親から電話がかかってきた」
「うん」
「俺は……出なかった」
雨の音が、遠くから聞こえた気がした。
実際には、空は晴れている。けれど記憶の中では、あの夜も同じように雨が降っていた。
暗い道路。濡れたアスファルトに反射する街灯。ポケットの中で震えるスマートフォン。画面には、母親の名前が表示されていた。
俺はそれを見て、一度だけ迷った。出ようと思えば、出られた。
けれど、そのとき頭に浮かんだのは、「今さら何を話すんだよ」という、ひどく冷めた考えだった。明日でいい。少し時間が経てば、母親のほうも落ち着くだろう。
俺だって、明日になれば普通に話せる。そう思って、画面を伏せた。そして、そのまま歩き出した。
「……それで、事故に遭った」
男の声は静かだった。
俺は頷いた。
「そうみたいだな」
「みたいって」
「まだ、全部は思い出せないんだ」
そう答えながら、俺は自分でも分かっていた。全部思い出せないのではない。
全部思い出してしまうのが、怖かったのだ。
食堂の前まで戻ってくると、店主が入口のところに立っていた。俺たちを見ると、何も言わずに扉を開ける。
「遅かったわね」
「ちょっと話してました」
「そう」
店主はそれ以上聞かなかった。
俺は店の中へ入り、いつもの席に座った。見慣れたカウンター、壁に掛かった時計、少し古びた照明。厨房から漂う、出汁と醤油の匂い。
何度もここで過ごしたはずなのに、今日は全部が少し違って見えた。
「何か食べる?」
店主が聞いた。
「……いつもの、お願いします」
「分かったわ」
ほどなくして、湯気の立つ椀が目の前に置かれた。
箸を手に取る。けれど、すぐには食べられなかった。
「なあ」
俺が呼びかけると、店主が顔を上げた。
「俺って、ここに来てからずっと……死んでたの?」
店主は少しだけ目を細めた。それから、否定も肯定もしないまま、椀の中を見た。
「あなたは、どう思う?」
「……たぶん、そうなんだろうな」
「そう」
「最初から知ってた?」
「ええ」
あまりにもあっさり答えられて、思わず笑ってしまった。
「やっぱりか」
「怒らないの?」
「怒る理由もないだろ」
少し考えてから、俺は続けた。
「たぶん、俺が聞こうとしなかっただけだ」
店主は何も言わなかった。その沈黙が、不思議と嫌ではなかった。
俺は椀の中身を一口食べた。温かかった。
死んでからも、こういうものはちゃんと温かいらしい。
「……変だな」
「何が?」
「死んでるのに、腹が減るし、味もするし、眠くもなる」
「そういうものよ」
「便利な言葉だな、それ」
店主が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。それからしばらく、二人とも何も話さなかった。
食事を終えた頃、さっきの男が席を立った。
「俺、もう行くよ」
「どこへ?」
「分からない。でも、たぶん大丈夫」
男はそう言って、入口の前で一度だけ振り返った。
「……あんたも、話したほうがいいと思う」
「誰と?」
「自分自身と」
それだけ言って、男は扉を開けた。
夜の街へ消えていく背中を見送りながら、俺はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
自分自身と話す。
そんなことを、俺は今までほとんどしてこなかった。
誰かに相談されれば、その人の話は聞いた。困っている人がいれば、できることを探した。
けれど、自分のことになると、いつも同じだった。
仕方ない。もう終わったことだ。今さらどうしようもない。
そうやって、考えるのをやめる。諦めてしまえば、傷つかずに済むし、面倒なことを考えずに済む。
それを俺は、ずっと大人になることだと思っていた。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
俺は箸を置き、暗くなった窓の外を見た。
母親からの電話。あの夜の雨。事故。そして、電話に出なかった自分。
もし、あのとき電話に出ていたら。
何を話しただろう。
謝っただろうか。母親も謝っただろうか。それとも、いつものようにくだらない話をして、最後には何事もなかったように笑っていたのだろうか。
答えは分からない。
分からないけれど、一つだけ確かなことがあった。
俺は、電話に出ることくらいはできた。明日話せばいいと思った。次があると思った。
そして、その「次」が来なかった。
「……俺、馬鹿だったな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
店主は何も言わない。ただ、いつものようにカウンターの向こうで食器を拭いていた。
その音を聞いているうちに、胸の奥にあった苦しさが、少しずつ形を変えていく。
ずっと俺は、母親に謝れなかったことが心残りなんだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
謝れなかったことだけじゃない。本当は、まだ何かできたのに、自分から「もう仕方ない」と決めてしまったこと。
話すこともできた。聞くこともできた。次の日に電話をかけ直すことだってできた。
なのに俺は、その全部を「今さら」と片づけた。そうして、最後まで自分の気持ちに蓋をした。
俺がここにいる理由は、母親に謝るためだけじゃなかったのかもしれない。
あの夜の自分に、もう一度問い直すためだったのだ。
――本当に、もう何も変えられなかったのか、と。
時計の針が、静かに進んでいた。
店の外では、古い商店街の明かりが一つ、また一つと消えていく。
俺は窓に映った自分の顔を見た。そこにいたのは、いつもと変わらない俺だった。
ただ、もう一つだけ分かっている。
俺は死んでいる。
そして、それを受け入れることと、諦めることは、たぶん同じじゃない。
その違いが、ようやく少しだけ分かった気がした。
翌朝、目を覚ますと、昨日までとは少しだけ違う朝に感じた。
何かが変わったわけではない。窓から差し込む光も、古い時計の針が刻む音も、いつもと同じだった。それでも、胸の奥にあった曖昧なものを一つだけ認めたことで、見える景色がほんの少し変わった気がした。
俺は死んでいる。
そして、それを受け入れることと、諦めることは、たぶん同じじゃない。
そのことを考えながら月待食堂へ向かうと、店の前にはまだ人の気配がなかった。いつものように扉を開けると、奥から店主が顔を出す。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけのやり取りだったのに、不思議と少しだけ安心した。昨日までなら、この店に来ることが当たり前になりつつあることに違和感を覚えていたかもしれない。でも今は、ここに来れば誰かがいるということが、妙にありがたかった。
「今日は早いのね」
「なんとなく、目が覚めちゃって」
「そう」
店主はそれ以上聞かなかった。いつも通り、必要以上に踏み込まない。その距離感が、今の俺にはちょうどよかった。
しばらくすると、入口の鈴が鳴った。
「おう」
聞き慣れた声だった。
いつもの老人が、いつもの席へ向かって歩いてくる。椅子を引いて腰を下ろすと、まるで昨日までのことが何もなかったように、メニューを見ることもなく言った。
「今日も焼き魚定食」
「はい」
注文を受けながら、俺は少しだけ笑った。こういう変わらないものが、今はありがたかった。
料理を運ぶと、老人は箸を手に取り、焼き魚を一口食べた。それから、ふと俺の顔を見て目を細める。
「昨日より、少し自分の顔になったな」
「……そうですか?」
「ああ。昨日までは、どこか他人の顔をしてた」
どう返していいのか分からず、俺は曖昧に笑った。老人はそれ以上追及せず、焼き魚をほぐしながら、ぽつりと口を開く。
「俺も昔はな、女房に言わなくても分かると思ってたんだ」
「ありがとう、とか?」
「ああ」
老人は少し照れくさそうに笑った。
「毎日一緒にいたんだ。わざわざ口にしなくても、分かってるだろうってな」
焼き魚の身を箸で丁寧にほぐしながら、老人は続けた。
「でもな、いなくなってから気づいたんだ。分かってたかどうかなんて、もう確かめようがないんだよ」
俺は何も言わず、その言葉を聞いていた。
「だから、伝えたいことは、伝えたつもりじゃ駄目なんだってことをな」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
母さんのことが浮かんだ。最後に電話がかかってきた夜のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ重くなる。
「……俺も、言えばよかったのかな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
老人は俺を見る。
「何を?」
「……分からないです」
正直に答えると、老人は少しだけ笑った。
「なら、これから考えればいい」
「これから……」
「ああ。分からないことを、分からないままにしておく必要はないだろ」
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
やがて老人は食事を終え、いつものように湯飲みを手に取った。しばらく黙ってお茶を飲んでから、ふと思い出したように尋ねる。
「そういえば、あの嬢ちゃんは?」
「……まだ来てないですね」
「そうか」
老人は入口の方へ目を向けた。
「もう、来ないかもしれんな」
「え?」
「昨日、そんな顔をしてた」
俺には、よく分からなかった。
「どんな顔ですか?」
「もう行かなくちゃいけない人の顔だよ」
それだけ言うと、老人は立ち上がった。
「今日は、うまかった」
「ありがとうございます」
いつもの言葉だった。
なのに、なぜか今日は、それが最後の挨拶のように聞こえた。
「……また明日」
俺がそう言うと、老人は一瞬だけ足を止めた。
「そうだな。また明日」
そう言って、老人は店を出ていった。
扉が閉まり、鈴の音が小さく響く。
「本人が決めることよ」
カウンターの向こうから、店主が言った。
「……そうですよね」
俺はそう答えながら、ふとテーブルの隅に置かれた紙に目を向けた。
あの少女が残していった紙だった。
そこには、相変わらず四つの言葉が並んでいる。
ありがとう。
ごめん。
また遊ぼう。
それから――
最後の一行だけが、途中で途切れている。
俺は紙を手に取り、しばらく眺めた。
「それから、何だったんだろうな」
独り言のように呟く。
ありがとう、だったのかもしれない。もう一度会いたい、だったのかもしれない。それとも、もっとくだらないことだったのかもしれない。
本人にしか分からない。
そう思ったところで、ふと母さんの顔が浮かんだ。
俺が最後に言った言葉。
――もう子どもじゃないんだから、放っておいてよ。
あのとき、本当に放っておいてほしかったのだろうか。
もう一度考えてみる。
たぶん、違う。
心配されることが嫌だったわけじゃない。ただ、自分でもどうしたらいいのか分からないことを、母さんに見られたくなかっただけだ。
大丈夫じゃない自分を見られるのが嫌で、分からないことを分からないまま話すのが怖くて、それなら最初から話さなければいいと思った。
そして、電話がかかってきたときも、俺は同じことを考えた。
今さら何を話すんだよ。
もう終わったことだ。
仕方ない。
そうやって、一つずつ蓋をしていった。
俺は紙をテーブルの上に戻した。
「……ごめん」
小さな声が、誰もいない店内に落ちる。
でも、それだけじゃない気がした。
謝りたかった。
それは確かだ。
けれど、それだけなら、こんなに長い間ここにいる理由にはならない気がする。
俺が本当に言いたかったことは、もっと別のところにある。
けれど、それが何なのか、まだ言葉にならない。
俺は目を閉じた。
焦らずに、もう一度だけ、自分の中を探してみる。
忘れていたわけじゃない。
思い出したくなかっただけなのかもしれない。
そして、その奥にはまだ、俺自身がずっと見ないふりをしていた何かが残っていた。
目を閉じたまま、俺はしばらく動かなかった。店の中には、冷蔵庫の低い音と、壁に掛けられた時計の針が進む音だけが聞こえている。その音を聞いているうちに、いつの間にか別の音が重なってきた。
雨の音だった。細い雨が、窓ガラスを叩いている。どこか遠くで車が走り、水たまりを踏んだタイヤが大きな音を立てる。濡れたアスファルトに街灯の光が伸び、その向こうから白いヘッドライトが近づいてくる。
俺は目を開けた。
そこは月待食堂ではなかった。けれど、事故の瞬間でもない。もっと前の時間だった。
俺は自分の部屋にいて、ベッドの端に座っていた。スマートフォンを手にしたまま、画面をぼんやり眺めている。母さんと喧嘩をした日の夜だ。
何を話したのか、全部は思い出せない。ただ、母さんが俺のことを心配していたことだけは覚えている。
「別に、何も決まってないだけだろ」
たぶん、そんなことを言った。
就職のことだったのか、これからの生活のことだったのか、それとももっと別のことだったのか、今となっては細かいところが曖昧になっている。母さんは、いつものようにいろいろ聞いてきた。
大丈夫なのか。ちゃんと考えているのか。困ったことがあるなら言いなさい。
その一つ一つが、あのときの俺には鬱陶しかった。
「分かってるよ」
そう言ったあと、母さんが何か返した。その言葉は、まだ思い出せない。
俺は苛立っていた。心配されることが嫌だったというより、自分でも答えを出せていないことを、見透かされるのが嫌だったのだと思う。
「もう子どもじゃないんだから、放っておいてよ」
口にした瞬間、母さんが黙った。その沈黙だけは、はっきり覚えている。
俺も何も言わなかった。しばらくして、母さんが「分かった」と言った。
その声は怒っていなかった。だから余計に、俺は何も言えなくなった。
そこで記憶が途切れる。
俺はもう一度、目を開けた。月待食堂の天井が見えた。
「……嫌な夢でも見た?」
店主が、少し離れたところからこちらを見ていた。
「夢じゃないと思います」
「そう」
「たぶん、記憶です」
店主は何も言わなかった。その代わり、俺の前に湯飲みを置いた。
湯気がゆっくりと上がっている。
「飲む?」
「……はい」
湯飲みを手に取ると、温かさが指先に伝わってきた。ひと口飲んでから、俺はぽつりと尋ねる。
「店主さん」
「なに?」
「ここに来る人って、みんな何かを思い残してるんですよね」
「そういう人もいるわね」
「じゃあ、俺もそうなんですか」
店主はすぐには答えなかった。少しだけ視線を落として、それから俺を見る。
「どうして、そう思ったの?」
「思い出したからです」
俺はスマートフォンを見つめた。ポケットの中に入っているはずなのに、そこにある感触だけは妙に鮮明だった。
「母さんから電話が来た夜のことを」
言葉にした途端、胸の奥がざわついた。
「喧嘩したあとだったんです。たぶん、母さんは何か話したかったんだと思います」
「出なかったのね」
「はい」
その返事をするだけで、喉が少し苦しくなった。
「なんで出なかったんだろうって、ずっと考えてました」
「答えは出た?」
「……まだです」
店主は頷いた。
「じゃあ、もう少し考えてみればいい」
「それだけですか?」
「それだけよ」
あまりにもあっさり言われて、俺は少し笑った。
「ずいぶん簡単に言いますね」
「難しく考えても、答えが近くなるとは限らないもの」
確かにそうかもしれない。
俺は湯飲みを両手で包みながら、もう一度記憶を辿った。
電話が鳴った。
画面には「母さん」と表示されていた。俺はそれを見た。
少しだけ迷った。
けれど、出なかった。
電話が切れたあと、しばらく画面を見ていた。そして、そのままスマートフォンを伏せた。
あのとき俺は、何を考えていた?
今さら話しても仕方ない。さっき喧嘩したばかりだ。どうせまた同じことを言われる。明日になれば、また普通に話せる。
そんなことを考えていた。
だから、出なかった。
謝りたくなかったわけでもない。母さんが嫌いだったわけでもない。ただ、その瞬間に向き合うのが面倒で、怖くて、それを「仕方ない」という言葉で片付けた。
「……そういうことか」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
店主は何も聞かない。だから俺は、そのまま続けた。
「俺、電話に出なかったことをずっと後悔してるんだと思ってました」
「違った?」
「少し違うみたいです」
俺は笑った。うまく笑えているかは分からない。
「電話に出なかったことより、その前からずっと逃げてたんだと思います」
母さんとのことだけじゃない。
自分の将来も、やりたいことも、決められないことも、失敗するかもしれないことも。
何かを決めるたびに、もし駄目だったらどうするんだと考えた。だから決めなかった。
決めなければ失敗しない。
分からないなら、仕方ない。
今さらなら、もう遅い。
そんなふうに、一つずつ諦めてきた。
そして最後には、自分の母親からの電話にさえ、「今さら何を話すんだ」と背を向けた。
「俺……」
言葉が止まる。
涙が出るわけでもない。声が震えるわけでもない。ただ、胸の奥にずっと固まっていたものが、少しずつ形を変えていくような感覚があった。
「本当は、話したかったのかもしれません」
店主は黙って聞いている。
「でも、何を話せばいいのか分からなかった。だから、分からないままでもいいってことにした」
そこで、初めて気づいた。
俺が怖かったのは、母さんに怒られることでも、説教されることでもなかった。
何も決まっていない自分を見られることだった。
「……情けないな」
「そうかしら」
「だって、ただ電話に出ればよかっただけなのに」
「そうね」
店主は否定しなかった。その代わり、静かに続ける。
「でも、人って案外そういう簡単なことができないものよ」
俺は顔を上げた。
「後からなら、いくらでも簡単に見えるから」
その言葉が、不思議と胸に残った。
あの夜、電話に出ることはできなかった。
事故も起きた。
そして、俺は死んだ。
そこだけは、もう否定できない。
でも。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
初めて、そんな言葉を口にした。
店主は少しだけ笑った。
「それを考えるために、ここにいるんじゃない?」
俺は返事をしなかった。けれど、その言葉を聞いても、もう逃げたいとは思わなかった。
今までなら、「仕方ない」と言ってしまえば、それで終わりにできた。
けれど、今はもう分かってしまった。
仕方ないと言うたびに、俺自身が何かを終わらせていたのだ。
だから、最後に一つだけ確かめたい。
電話の向こうにいた母さんが、あの夜、本当は何を言おうとしていたのか。
そして俺自身が、本当は何を言いたかったのか。
それだけは、諦めたくなかった。
その日の夜、俺は一人で店の奥に座っていた。客はもういない。店主も片付けを終えると、カウンターの奥で静かに本を読んでいる。時計の針が進む音を聞きながら、俺はポケットの中のスマートフォンを取り出した。
画面には、何も表示されていない。それでも、あの夜と同じように、母さんから電話がかかってくるような気がした。もちろん、そんなことは起こらない。分かっている。それでも俺は、画面を見つめたまま動けなかった。
「……何を言おうとしてたんだろうな」
誰に聞かせるでもなく呟く。喧嘩のあとだった。だから、どうせ謝れと言われるんだと思っていた。あるいは、また将来のことを聞かれるのだろうと思っていた。
でも、本当にそうだったのだろうか。
俺は記憶を辿るように、目を閉じた。
電話が鳴った。俺は画面を見る。母さんだった。指を伸ばしかけて、止めた。そのとき、何か通知が来ていたわけでもない。母さんからメッセージが届いていたわけでもない。ただ、着信画面に表示された名前を見て、俺は一瞬だけ迷った。
出ようと思った。ほんの一瞬だけ。けれど、そのあとに「今さら何を話すんだ」という気持ちが出てきた。だから、やめた。
電話は切れた。そのときの俺は、それでいいと思った。明日になれば、また話せる。そう思っていた。
けれど、明日は来なかった。
「……そうだった」
目を開ける。店の中は、さっきと何も変わっていない。なのに、自分の中だけが少し違って見えた。
俺はずっと、電話に出なかったことを後悔していると思っていた。でも、本当に悔やんでいるのは、電話に出なかったことだけじゃない。その前に何度もあった「また今度」を、全部そのままにしてしまったことだ。
忙しいから。疲れているから。今は話したくないから。もう少し落ち着いてから。そうやって先延ばしにしているうちに、いつでもできると思っていたことが、いつの間にかできなくなっていた。
「仕方ない」
口にしてみる。今までなら、その言葉で終わらせられた。事故が起きたことも、死んだことも、母さんに謝れなかったことも、もう会えないことも。全部、「仕方ない」と言ってしまえば、それ以上考えなくて済む。
でも、今はその言葉が妙に空しく聞こえた。
「……本当に、仕方なかったのかな」
自分で口にしてから、しばらく黙り込む。事故は仕方なかった。死んだことも、もう変えられない。母さんに直接会うことだって、きっとできない。
それなら、何が仕方なかったのだろう。
電話に出なかったことか。謝らなかったことか。それとも、自分が何も決められないことを隠し続けたことか。
考えているうちに、胸の奥に一つの言葉が浮かんだ。
――助けてほしかった。
「……え?」
思わず声が出た。そんなことを考えたことはなかった。母さんに助けてほしいなんて、一度も思っていなかったつもりだった。
でも、違った。
俺は自分のことを分かってほしかった。何も決まっていないことも、不安なことも、うまくいかないことも、それでも大丈夫だと言ってほしかった。
だけど、それを自分から言うことができなかった。
だから、心配されると腹が立った。「大丈夫なの?」と聞かれるたびに、自分が大丈夫じゃないことを突きつけられているような気がした。そして、そんな自分を見られるのが嫌で、母さんを遠ざけた。
「……馬鹿だな、俺」
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
そこまで考えたところで、店主が本を閉じた。
「少し分かった?」
突然の声に、俺は顔を上げる。
「……はい」
「何が?」
俺は少し考えてから答えた。
「俺、母さんに謝りたかったんだと思ってました」
「うん」
「でも、それだけじゃなかったみたいです」
店主は何も言わない。
「本当は、もう一回話したかったんだと思います」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。「仲直りしたかったし、たぶん……大丈夫だって言ってほしかった」
それは、今まで認めたくなかった自分だった。大人になったつもりで、何でも一人でできると思っていた。でも本当は、分からないことだらけで、怖くて、誰かに大丈夫だと言ってほしかった。
それを母さんに知られるのが嫌だった。だから、「放っておいて」と言った。そして母さんは、本当に放っておいた。
「……俺が言ったんですよね」
「そうね」
「放っておいてって」
「うん」
「だったら、母さんは悪くないですよね」
店主は少しだけ考えるように目を伏せた。
「誰か一人だけが悪いことなんて、案外少ないものよ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ息を吐いた。
母さんが悪かったわけじゃない。俺が全部悪かったわけでもない。ただ、お互いに言葉が足りなかった。
そして俺は、その「それだけ」を、取り返しのつかないところまで持ってきてしまった。
しばらくして、入口の鈴が鳴った。俺は反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、あの若い男だった。
「……まだいたんだ」
「お前もな」
男は少し笑った。前に会ったときより、顔つきが穏やかになっている気がする。
「どうだった?」
「何が?」
「思い出した?」
俺は一瞬黙って、それから頷いた。
「少しだけ」
「そっか」
男は空いている席に座った。
「俺も、ここに来たばかりの頃は、自分が何を探してるのか分からなかった」
「今は?」
「なんとなく分かる」
男は窓の外を見た。
「俺が探してたのは、事故のことじゃなかったんだと思う」
俺は黙って聞いた。
「事故で死んだことを思い出すために来たんだと思ってた。でも違った。あのとき、俺が何を見て、何を思ったのか……そこを思い出したかったんだ」
「何を思った?」
男は少しだけ笑った。
「怖かったよ」
あまりにも普通の答えだった。
「誰かが死ぬ瞬間なんて、見たくなかった。でも、そのあとずっと考えてた。あの人は最後に何を思ってたんだろうって」
俺は何も言えなかった。
男は続ける。
「だから、あんたのことを覚えてたんだと思う」
「俺のことを?」
「ああ。事故の直前、あんたがスマホを見てたのを見た」
その言葉に、胸が詰まる。
「電話、鳴ってたよな」
「……うん」
「たぶん、あれが母親からの電話だったんだろ?」
「そうだと思う」
男はしばらく黙ってから、静かに言った。
「だったら、もう分かってるんじゃないか?」
「何が?」
「最後に何をすればいいのか」
俺は答えられなかった。
けれど、胸の奥では、もう分かっていた。
母さんに会うことはできない。電話をかけ直すこともできない。あの夜をやり直すこともできない。
それでも、まだ終わっていないものが一つだけある。
俺はポケットの中のスマートフォンを握った。
「……俺、もう一回だけ電話してみたい」
男は何も言わなかった。店主も何も言わない。
ただ、月待食堂の時計だけが、いつもと変わらない音で時を刻んでいた。
俺はスマートフォンを握ったまま、画面を見つめていた。もちろん、電話をかけるつもりで言ったわけじゃない。そもそも、この場所から母さんに電話がつながるとは思っていなかった。
ここが普通の世界じゃないことくらい、もう分かっている。それでも、「もう一回だけ電話してみたい」という言葉は、口に出した瞬間、自分でも驚くほどしっくりきた。
「……電話したら、何を言うんだ?」
男が聞いた。
俺はしばらく考えた。謝る。ありがとうと言う。元気で、と伝える。最初はそんな言葉ばかりが浮かんだ。
でも、それだけじゃない気がした。
「分からない」
正直に答えると、男は少し笑った。「じゃあ、考えればいいんじゃないか」
「簡単に言うなよ」
「俺だってそうだったよ」
男はそう言って、湯気の消えかけたお茶を一口飲んだ。
「何を言えばいいか分からなかった。だから、ずっと探してたんだと思う」
その言葉を聞きながら、俺はスマートフォンをテーブルに置いた。画面は暗いままだった。
そこに映っているのは、自分の顔だけだった。思っていたより普通の顔をしている。死んだ人間には見えないし、何か特別なものが見えるわけでもない。
ただ、少し疲れているように見えた。
「……俺、母さんに何を言いたかったんだろうな」
誰に聞くでもなく呟く。
店主は答えなかった。男も何も言わなかった。その沈黙が、今はありがたかった。
誰かに答えを教えてもらうのではなく、自分で考えなければいけないことくらい、もう分かっていた。
俺は目を閉じた。
あの夜のことを、もう一度思い出す。
母さんと喧嘩をした。将来のことを聞かれて、俺は苛立った。何も決まっていないことを、自分でも気にしていたからだ。
心配されるほど、余計に自分が情けなく思えた。だから、「もう子どもじゃないんだから、放っておいてよ」と言った。
あの言葉を思い出したとき、胸の奥が少し痛んだ。
でも、そこで終わりじゃなかった。
母さんは何か言い返した。俺も何か言った。細かいところは、まだ曖昧だった。ただ、一つだけ覚えている。
最後に母さんが、少し黙ったこと。
怒っていたわけじゃない。泣いていたわけでもない。ただ、何か言おうとして、言葉を探していたような気がする。
俺は、その沈黙から逃げた。それ以上聞くのが怖かったからだ。
「……そういうことだったのか」
目を開ける。
「何か思い出した?」
男が聞く。
「母さんが何を言ったかじゃなくて」
俺はゆっくりと言葉を続けた。
「俺が、何を聞きたくなかったのかが分かった」
母さんが「どうするの」と聞くことが怖かった。これから何をしたいのか、どう生きたいのか、ちゃんと考えているのか。
そんなことを聞かれたら、俺には答えられなかった。だから、「放っておいて」と言った。
答えを持っていない自分を見られたくなかった。母さんに失望されたくなかった。そして、そんな自分を認めたくなかった。
「俺、母さんに怒ってたんじゃなかったんだな」
そう言うと、店主が静かに顔を上げた。
「じゃあ、何だったの?」
「……怖かったんだと思う」
言葉にした途端、妙に納得できた。
怒りだと思っていたものの中に、怖さがあった。不安を隠すために怒っていた。
自分でも分からないことを聞かれるのが嫌で、分からないことを知られるのが嫌で、相手を遠ざけた。そして、そのまま終わった。
「俺さ」
少しだけ笑う。
「ずっと、母さんが電話してきたことを後悔してたんだと思ってた」
「どうして?」
「出なければよかったって意味じゃない。逆だよ。出ればよかったって」
そこで一度、言葉を止めた。
「でも、違った」
俺が後悔しているのは、電話に出なかったことだけじゃない。
電話に出なかった自分を、そのままにしてしまったことだった。
「明日話せばいいって思った」
男が黙って聞いている。
「また今度でいいって。時間はあるって。だから、そのときは何も決めなくていいと思ってた」
けれど、時間は勝手に続いてくれるわけじゃない。
いつでもあると思っていた明日は、ある日突然なくなる。
そんな当たり前のことを、俺は自分が死んでから知った。
「……皮肉だな」
小さく笑う。
「死んでから、やっと時間のことを気にするなんて」
店主は少しだけ目を細めた。
「そういうものよ」
「そういうものですか?」
「生きているときは、時間がなくなるなんて考えないもの」
店主の声は、いつもと変わらなかった。
「だから、後になってから気づくのよ。もっと話しておけばよかったって。もっと聞いておけばよかったって」
俺は黙っていた。
「でもね」
店主は続けた。
「後悔することと、誰かを責めることは別だから」
「……はい」
「あなたが後悔しているからって、お母さんが悪いことになるわけじゃない。お母さんが後悔していたとしても、あなたが悪いことになるわけじゃない」
その言葉は、思っていたより深く胸に残った。
俺はずっと、どちらか一方に答えがあると思っていたのかもしれない。
母さんが悪いのか。俺が悪いのか。どちらかを決めてしまえば、話は簡単になる。
でも、本当はそんなに簡単じゃなかった。
俺にも悪いところがあった。母さんにも、きっとあった。それでも、二人とも相手を嫌いだったわけじゃない。
むしろ、その逆だった。
大事だったからこそ、言葉がぶつかった。
そのことに気づいたとき、胸の奥にあった何かが少しだけほどけた。
男が席を立った。
「俺、そろそろ行くよ」
「……そっか」
「たぶん、俺ももう大丈夫なんだと思う」
そう言って、男は入口へ向かった。扉の前で一度だけ振り返る。
「なあ」
「ん?」
「あんたなら、ちゃんと話せると思うよ」
俺は少し笑った。
「話す相手、もういないけどな」
「それでもだよ」
男はそう言って、店を出ていった。
鈴の音が、夜の静けさに溶けていく。
俺はしばらく入口を見つめていた。それから、ゆっくりと席を立った。
「店主」
「なに?」
「俺、少し外に出てきます」
店主は驚かなかった。
「行ってらっしゃい」
まるで、普通の店の店員が客を送り出すような声だった。
俺は扉を開けた。
外には、静かな夜が広がっていた。商店街の明かりは少なく、遠くから車の走る音が聞こえる。
風が少し冷たかった。
俺は空を見上げた。
月は、雲の向こうに隠れている。それでも、そこにあることだけは分かった。
「……母さん」
もう一度だけ、名前を呼ぶ。
返事はなかった。
けれど今度は、それでよかった。
返事をもらうために呼んだわけじゃない。ただ、自分の中に残っていた言葉を、初めて逃げずに口にしたかった。
俺は歩き出した。
どこへ行くのかは、まだ分からない。
それでも、もう「仕方ない」と言って立ち止まるつもりはなかった。
朝の月待食堂は、夜とは少し違って見えた。窓から差し込む光が店の奥まで届き、古びた木の机やカウンターの傷まで、昨日よりはっきりと見える。昨夜までなら気にも留めなかったものが、妙に懐かしく感じられた。
俺は開店前の店内を眺めながら、何となく箸や皿を並べていた。やることは別に決まっていない。それでも手を動かしていると落ち着いた。こうしていると、ここで過ごした時間が本当にあったことのように思える。
「今日は早いわね」
店主が奥から出てきて、俺の並べた箸を見た。
「昨日から寝てない気がしてさ」
「そう」
「なのに眠くないんだよな」
「そういう日もあるわよ」
いつもの調子だった。何かを知っているようにも、何も知らないようにも聞こえる。その曖昧さが、今は嫌ではなかった。
俺は椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めた。商店街では、まだ開いている店は少ない。八百屋の前に荷物が積まれ、向かいの店ではシャッターを上げる音がしている。どこにでもある朝の風景だった。
「なあ」
「なに?」
「俺、ここで働いてていいのかな」
店主は少しだけ手を止めた。
「どうして?」
「いや……もう、ここにいる理由がなくなったような気がして」
自分で言っておきながら、少し違う気がした。理由がなくなったというより、ここにいる意味を知ってしまったからなのだろう。
魚を食べていた老人も、クリームソーダを飲んでいた女の子も、あの青年も、ずっとここにいたわけではない。何かを抱えてやってきて、少しずつそれを手放して、それぞれの場所へ戻っていった。
だったら俺も、そろそろここを出るときなのかもしれない。
「理由なんて、あとからついてくるものよ」
店主はそう言って、いつものように布巾でカウンターを拭いた。
「最初から全部分かっている人なんて、そんなにいないでしょう」
「……それ、俺に言ってる?」
「さあ」
俺は笑った。
この人は本当に、最後までこういう人なのだろう。
何かを教えてくれるわけでもなく、答えを決めてくれるわけでもない。ただ、こちらが自分で答えを見つけるまで、余計なことを言わずにそこにいる。
それが、今になって少しありがたかった。
しばらくすると、店の戸が開いた。
「おはようございます」
近所の客だった。
俺は反射的に「いらっしゃいませ」と声を出した。その声が店の中に響いて、少しだけ可笑しくなる。もう何度もやってきたことなのに、今朝は初めてやったような気がした。
客はいつもの席に座り、朝食を注文した。店主が厨房へ向かうと、俺も自然にその後ろをついていく。味噌汁をよそい、焼いた魚を皿に乗せ、飯を盛る。そんな何でもない作業をしていると、不思議と心が穏やかになっていった。
俺がいなくなったあとも、こういう朝は続いていくのだろう。
誰かが店を開け、誰かが「おはよう」と言い、誰かが腹を空かせて飯を食べる。特別なことなんて何もない。それでも、その繰り返しの中に人の生活がある。
以前の俺なら、そんなことを深く考えなかったと思う。
明日もあると思っていたからだ。
明日になれば話せる。明日になれば考えればいい。今じゃなくても構わない。そうやって、目の前のことを後回しにしていた。
でも、明日が必ず来るわけじゃないことを、俺はもう知っている。
だからといって、何でも今日のうちに片付けなければいけないわけでもない。大切なのは、後回しにしたことを「仕方ない」で終わらせないことなのだと思う。
できなかったことは、できなかった。
戻れないものは、戻れない。
それでも、自分が何を思っていたのかまで諦める必要はない。
朝食を運び終えると、俺は厨房の隅に立ったまま、しばらく客の様子を眺めていた。
味噌汁を飲む音。
箸が皿に触れる音。
新聞をめくる音。
どれも静かな音だった。
それなのに、妙に胸に残った。
「なあ、店主」
「なに?」
「俺、ちょっと行ってくる」
店主は顔を上げた。
「どこへ?」
「……分からない」
「そう」
「でも、たぶん大丈夫」
自分でも驚くほど自然に、そう言えた。
店主は少しだけ笑った。
「そう」
それだけだった。
俺は店の裏口から外へ出た。
朝の空気は少し冷たかった。夜の名残がまだ道路の端に残っていて、遠くでは自転車のベルが鳴っている。商店街の店が一軒、また一軒と開いていく。
俺は歩きながら、母さんのことを考えていた。
会いたい、とは思わなかった。
会えるとも思っていない。
ただ、母さんが今どうしているのかを考えた。
たぶん、普通に朝を迎えている。
顔を洗って、朝ご飯を作って、テレビをつけて、いつものように一日を始めているのかもしれない。俺がいなくなってから、どんなふうに毎日を過ごしているのかは分からない。
きっと、俺には分からないことがたくさんある。
そして、分からないままでいいこともあるのだろう。
それでも一つだけ、伝えたいことがあった。
俺は公園の前で足を止めた。
あの日と同じように、空を見上げる。
今は雨が降っていない。
雲の向こうから朝の光が差し込んでいた。
俺はポケットに手を入れた。
やっぱり、スマートフォンの感触はなかった。
少しだけ笑ってしまう。
「……そうだよな」
もう、電話をかける必要はない。
いや、正確には、電話をかけることはできない。
だったら、別の形でいい。
母さんに届くかどうかなんて分からない。それでも、自分の中にある言葉を、今度こそ途中で捨てたくなかった。
俺は目を閉じた。
そして、誰もいない朝の道で、ゆっくりと言葉にした。
「母さん」
声は風に混ざって消えた。
「この前は、ごめん」
少し間を置いて、続ける。
「……いや、それだけじゃないな」
俺は苦笑した。
「ずっと、話すのを後回しにしてた。何か言われるのが嫌で、面倒で、今さら話しても仕方ないって思ってた。でも、本当は……ただ怖かったんだと思う」
母さんに何を言われるのが怖かったのか、今なら分かる。
期待されること。
心配されること。
自分が何も決められていないことを見透かされること。
そして、そんな自分を認めなければならないこと。
「だから、逃げたんだと思う」
誰も答えない。
当然だった。
それでも、不思議と寂しくなかった。
「母さんも、たぶん色々言いたかったんだろうな」
あのときは、自分のことしか考えていなかった。
母さんだって、きっと正しいことばかり言えたわけではない。心配するあまり余計なことを言ったかもしれないし、俺がどう感じるかまで考えられなかったこともあっただろう。
でも、それは俺も同じだった。
どちらか一方が悪かったわけじゃない。
ただ、二人とも不器用だった。
「……もう、仕方ないとは言わないよ」
その言葉だけは、今度こそ自分に向けて言った。
過ぎた時間は戻らない。
死んだ人間が、生きている人間のところへ戻ることもできない。
それでも、あの日の自分が間違っていたと思うなら、間違っていたと認めればいい。話したかったと思うなら、話したかったと認めればいい。
それだけでも、何も変わらないわけではない気がした。
俺はゆっくり目を開けた。
朝の光が、商店街の屋根を照らしている。
その向こうに、月待食堂の看板が小さく見えた。
あの店には、今日も誰かが来るのだろう。
言えなかったことを抱えた人が、何も知らずに戸を開けるかもしれない。
その人に、俺が何かできるかは分からない。
でも、もしまた誰かが「仕方ない」と言ったなら、そのときくらいは、少しだけ立ち止まってもらえるような言葉をかけられるかもしれない。
そう思った。
俺は踵を返した。
月待食堂へ戻るためではない。
母さんのところへ行くためでもない。
ただ、自分がこれからどこへ行くのかを知るために、歩き始めた。
その先に何があるのかは、まだ分からなかった。
けれど、今度は分からないことを理由に、立ち止まるつもりはなかった。
それから、何日経ったのかは分からない。
月待食堂では、時間が少しだけ曖昧だった。朝になれば朝の客が来て、昼になれば昼の客が来る。日が暮れれば灯りをつけ、夜になれば静かに店を閉める。それを繰り返していると、昨日と今日の境目なんて、あまり重要ではないように思えてくる。
俺は相変わらず店を手伝っていた。皿を洗ったり、箸を並べたり、客が帰ったあとの椅子を戻したりする。最初の頃は、ここで働くことに何か意味があるのだと思っていたけれど、今はそんなことを考えなくなった。ただ、誰かが必要としていることをする。それだけでよかった。
ある日の夕方、店の戸が開いた。
「こんばんは」
入ってきたのは、見覚えのない女性だった。三十代くらいだろうか。少し疲れた顔をしていて、店の中を見回したあと、空いている席に静かに座った。
「何にしますか?」
俺が尋ねると、女性はメニューを眺めながら少し迷って、それから「温かいものを」と答えた。
店主が厨房から顔を出し、俺と目が合う。
「じゃあ、今日はうどんにしましょうか」
「はい」
女性は小さく頷いた。
しばらくして、湯気の立つうどんが運ばれる。女性は箸を持ったものの、なかなか口をつけなかった。何かを考えているようだった。
俺は声をかけるべきか迷ったけれど、結局何も言わなかった。
以前の俺なら、何か言ってあげなければと思ったかもしれない。でも今は、誰かの答えを自分が決める必要はないと分かっている。
しばらくして、女性はようやくうどんを一口食べた。
「……おいしい」
その声は、少しだけ震えていた。
店主は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ、女性がゆっくりと食事を続けるのを見ていた。
やがて食べ終えると、女性は財布を取り出した。それから、何かを思い出したように顔を上げる。
「あの……ここって、また来てもいいですか?」
店主はいつものように、穏やかに答えた。
「ええ。来たければ、いつでも」
女性は小さく笑った。
「ありがとうございます」
そう言って店を出ていった。
引き戸が閉まる。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。
「……また来るかな」
「どうかしらね」
店主はそう言って、空になった器を片付けた。
それ以上は何も言わなかった。
俺も、それでよかった。
きっとあの人には、あの人の時間がある。
いつかまた来るかもしれないし、もう来ないかもしれない。どちらでもいいのだと思う。ここで少しだけ温かいものを食べて、自分の中にある何かと向き合うことができたのなら、それで十分なのだろう。
その夜、閉店後に店の外へ出ると、空には月が出ていた。
以前見た月と同じなのか、違う月なのかは分からない。
ただ、あの日よりも少し近く感じた。
「……月待、か」
俺は看板を見上げた。
どうしてこの名前なのか、結局店主に聞いたことはなかった。
今さら聞こうとも思わなかった。
たぶん、待っているものが月なのか、人なのか、それとも自分自身なのかなんて、決める必要はないのだろう。
俺は店の中を振り返った。
カウンターには、今日使った器がきれいに片付けられている。椅子も机も元の場所に戻っていて、明日の朝になれば、また誰かがここに座る。
俺がいなくても、この店は続いていく。
それは少し寂しいことのようにも思えたけれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、それでいいのだと思えた。
人がいなくなったあとも、残った人たちの時間は続いていく。悲しいことも、嬉しいことも、腹が減ることも、眠ることも、全部そのまま続いていく。
それは冷たいことではない。
生きているということは、そういうことなのだろう。
俺はふと、母さんのことを思い出した。
あれからどうしているのかは、やっぱり分からない。
俺が最後に残した言葉が何だったのかも、もう変えることはできない。
それでも、いつか母さんが俺のことを思い出したとき、最後の言葉だけが残らなければいいと思った。
怒った顔だけでもなく、電話に出なかった夜だけでもなく、もっと前の、何でもない日の記憶も一緒に残っていてほしい。
一緒に食べた夕飯。
くだらないことで笑ったこと。
朝、眠そうな顔で「行ってらっしゃい」と言われたこと。
そんな小さな記憶が、いつか悲しみの隙間から顔を出してくれれば、それで十分だった。
俺が何かを伝えられるとしたら、きっとそういうものなのだろう。
突然現れて言葉を届けることではない。
死んだ人間が、生きている人間の時間に戻ることでもない。
残された人の中に、思い出として残っていくこと。
それだけなのだ。
「……母さん」
今度は、謝らなかった。
何かを頼むこともしなかった。
ただ、心の中で一度だけ呼んだ。
それから、俺は店の戸を閉めた。
翌朝。
月待食堂には、いつもと同じように朝の光が差し込んでいた。
店主がカウンターを拭き、俺は箸を並べる。しばらくすると、近所の老人が戸を開けて入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
俺がそう返すと、老人はいつもの席に座った。
「今日は焼き魚にしてくれ」
「はいはい」
店主が笑う。
俺も笑った。
焼き魚の匂いが店いっぱいに広がっていく。
その匂いを嗅いでいると、あの老人のことを思い出した。もうここには来ないけれど、彼が最後に残していった言葉は、今でも俺の中に残っている。
言えるうちに言っておいたほうがいい。
あのときは、その意味を全部分かっていたわけではなかった。
でも今なら少し分かる。
大切なのは、間に合うことだけじゃない。
間に合わなかった自分を、ずっと責め続けることでもない。
言えなかった言葉があるなら、それを言えなかったと認めること。そして、それを次に誰かと向き合うときに忘れないこと。それだけでも、残された時間の使い方は少し変わるのだと思う。
クリームソーダの女の子も、今はどこにいるのだろう。
あの紙に残された「それから――」の続きは、結局聞けなかった。
でも、最後の一行がなくても、あの子が伝えたかったことは十分伝わっていたような気がする。
ありがとう。
ごめん。
また遊ぼう。
誰かを大切に思う気持ちは、きれいに言葉にならなくても残る。
そして、それを受け取った人の中で、また別の誰かへと続いていくのかもしれない。
そう考えると、月待食堂という場所も、少し違って見えた。
ここは、死んだ人間が最後に立ち寄る場所なのかもしれない。
でも、それだけではない。
誰かが残したものを、誰かが受け取る場所なのだ。
俺も、たぶん何かを受け取った。
だから今度は、俺がそれを持っていけばいい。
どこへ行くのかは、まだ分からない。
それでも、もう怖くはなかった。
店主がカウンターの向こうから俺を見る。
「どうしたの?」
「いや」
俺は少し考えてから笑った。
「そろそろ、行こうかなと思って」
店主は驚かなかった。
ただ、静かに頷いた。
「そう」
「今まで、ありがとう」
「こちらこそ」
それだけだった。
もっと何か言うべきなのかもしれないと思ったけれど、言葉はそれ以上出てこなかった。
それでいい気がした。
俺は店の外へ出た。
朝の商店街には、昨日までと変わらない音が流れている。シャッターが上がり、自転車が通り、どこかの店から味噌汁の匂いがする。
振り返ると、月待食堂の看板が朝日に照らされていた。
俺はしばらくそれを眺めてから、ゆっくり歩き出した。
もう、戻る必要はない。
戻れないからではなく、前へ進むことを選んだからだ。
母さんのところへは行けない。
あの日にも戻れない。
それでも、俺があの日に抱えていた気持ちまで、消えてしまったわけではない。
それはこれからも、どこかに残り続ける。
誰かの記憶の中に。
自分が過ごした時間の中に。
そして、きっと知らない誰かの言葉の中にも。
だから俺は、もう「仕方ない」とは言わなかった。
できなかったことを抱えたままでも、歩いていける。
終わってしまったものを抱えたままでも、その先へ進むことはできる。
朝の光の中で、俺は一度だけ振り返った。
月待食堂の戸は、もう閉まっていた。
けれど、その向こうではきっと、また誰かのために鍋が火にかけられている。
今日も誰かがやって来て、温かいものを食べ、言えなかったことを少しだけ思い出すのだろう。
そして、いつかまた誰かが店を出ていく。
残された人たちの時間は、何事もなかったように続いていく。
それでいい。
俺はそう思いながら、朝の商店街を歩いていった。
月の見えない空の下を、今度は迷わずに。




