第三話 色を変えるアレキサンドライト(後編)
元宝石詐欺師の宝石商が、偽物に隠された真実を鑑る。
第三話「色を変えるアレキサンドライト」後編です。
昼と夜で色を変える石が導くのは、十年前の証言の揺らぎ。
水城玲央が「偽物」と断じた青の王冠に、別の可能性が浮かび上がります。
三鷹正臣が入院している病院は、港の見える丘の近くにあった。
夕方の横浜は、昼と夜の境目に沈みかけていた。
西の空にはまだ薄い金色が残り、建物の窓には早くも夜の灯りが点り始めている。
その曖昧な時間が、玲央にはひどく落ち着かなかった。
昼でもない。
夜でもない。
アレキサンドライトが、もっとも判断を迷わせる時間。
病室の前で、三鷹怜子は足を止めた。
「父は、あなたに会いたがっていません」
彼女は玲央を見た。
「それでも、来ますか」
玲央は少しだけ笑った。
「会いたがっていない人ほど、会う理由があります」
「詐欺師らしい言い方ですね」
灰原律が横から言った。
「宝石商らしいと言っていただきたいところです」
「言いません」
律の返答は冷たい。
だが、その声にはもう最初の頃のような単純な敵意だけではなかった。
警戒。
疑念。
そして、知ろうとする意志。
玲央はそれに気づいていた。
怜子は病室の扉に手をかけた。
「父は、長く話せません。医師からも、刺激を与えないようにと言われています」
「わかっています」
「本当に?」
「努力します」
怜子は小さく息を吐いた。
扉が開いた。
病室には、白い光が満ちていた。
ベッドの上に、三鷹正臣が横たわっている。
七十代半ば。頬は痩せ、目元には深い皺が刻まれていた。だが、その目だけはまだ鋭かった。
かつて法廷で多くの人間を見てきた目。
嘘を聞き、嘘を暴き、ときに嘘を守ってきた者の目。
三鷹正臣は、玲央を見るなり、眉を寄せた。
「呼ぶなと言ったはずだ」
声は弱い。
けれど、棘は残っていた。
怜子がベッドの横に立つ。
「父さん、話を聞かせて。あの指輪のこと。青の王冠のこと」
正臣は娘を見たあと、ゆっくり玲央へ視線を戻した。
「まだ、その顔で笑うのか」
玲央は微笑まなかった。
「今日は、笑わないほうがよさそうですね」
「白河に似てきた」
その言葉に、律の表情が変わった。
玲央は静かに受け止める。
「それは、かなり重い侮辱です」
「褒めていない」
「わかっています」
正臣は苦しそうに息をした。
怜子が心配して身を乗り出す。
「無理しないで」
「無理をしないまま十年黙った。もう充分だ」
正臣は天井を見た。
「指輪を見たか」
「はい」
玲央が答える。
「石座の裏に紙片がありました」
「読んだか」
「夜の証言を信じるな。昼の光で、彼女を見ろ」
正臣は目を閉じた。
「そうか」
律が一歩前に出る。
「彼女とは誰ですか」
正臣はすぐには答えなかった。
病室の機械音が、一定の間隔で鳴っている。
やがて、正臣は言った。
「王冠を最後に持っていた女だ」
玲央の指がわずかに動いた。
「女性だったんですか」
律が尋ねる。
「十年前の記録では、王冠を保管していたのは鳴海家の当主と、その代理人である三鷹先生、鑑定に関わった白河周吾、そして……」
律は玲央を見る。
「当時、白河の補助者だった水城玲央」
正臣は低く笑った。
「記録に残る人間など、いつも半分だ」
「その女性の名前は?」
「鳴海硝子」
玲央の胸の奥で、何かが音を立てた。
鳴海硝子。
鳴海家の親族。
表向きには、事件当時すでに海外にいたとされていた女性。
青の王冠の所有家である鳴海家の中で、ほとんど語られなかった名。
律がメモを取る。
「鳴海硝子さんは、事件当時海外にいたと記録されています」
「それが、夜の証言だ」
正臣は言った。
「夜の証言?」
「十年前、王冠が消えた夜、私たちは皆、夜の光の中で王冠を見た。青い石は青く見えた。赤い石は赤く見えた。偽物は偽物に見えた。だが、それは本当だったのか」
玲央は黙っていた。
正臣は玲央を見る。
「お前は、あのとき言った。王冠は偽物だと」
律の目が玲央へ向く。
「あなたが?」
玲央は小さく頷いた。
「はい」
正臣の声が低くなる。
「白河はそれを利用した。王冠が偽物だという証言があれば、本物が消えても騒ぎは小さくなる。偽物の王冠が盗まれた。それなら、誰も本気で追わない」
律が顔を険しくする。
「つまり、水城さんの証言が事件を隠した?」
「結果的には」
玲央が言った。
その声には言い訳がなかった。
怜子が玲央を見る。
「あなたは、本当に偽物だと思ったんですか」
玲央は目を伏せる。
「思いました」
「なぜ?」
「中心のサファイアの色が、不自然だった。石の内部も、天然らしい奥行きがなかった。周囲の石の並びも、修復記録と合わなかった」
「でも、それは夜だったから?」
玲央は小さく息を吐いた。
「今は、そうかもしれないと思っています」
正臣は言う。
「王冠に使われていた石の一部は、光で表情を変えるものだった。アレキサンドライトだけではない。処理された石、古いカットの石、内部に色帯を持つ石。白河はそれを知っていた」
「白河が仕組んだんですか」
律が尋ねる。
「私はそう思っている」
「証拠は?」
「ない」
正臣ははっきり言った。
「だから十年黙った」
律の声が硬くなる。
「弁護士であるあなたが?」
「弁護士だからだ」
正臣の目に、苦い光が宿る。
「証拠のない真実は、法廷ではただの物語だ。そして白河は、物語を作るのが誰よりもうまかった」
玲央はその言葉に、微かに唇を結んだ。
白河周吾。
石を売るのではない。
物語を売る男。
偽物に歴史を与え、安物に悲劇をまとわせ、誰かが信じたい本物を作る男。
玲央は、かつてその横で学んだ。
人が何を見れば信じるのか。
どんな言葉に価値を感じるのか。
どの沈黙が、もっとも相手の想像を育てるのか。
それは鑑定ではなかった。
演出だった。
正臣は玲央を見た。
「お前は、自分が騙されたと思っているのか」
玲央はすぐに答えられなかった。
律が見ている。
怜子も見ている。
誤魔化すことはできた。
昔の玲央なら、きっとできた。
けれど今、黒い布の上に石はない。
あるのは、人間の目だけだった。
「半分は」
玲央は言った。
「半分は、自分で騙されにいったんだと思います」
正臣は黙った。
「私は白河さんを信じたかった。自分が見抜いたと思いたかった。偽物の王冠を偽物だと言える自分でいたかった」
「だから、見たいものを見た」
「はい」
病室に沈黙が落ちる。
律は何も言わなかった。
怜子が父の手を握る。
「父さん。鳴海硝子さんは、今どこにいるの?」
正臣は目を閉じた。
「死んだことになっている」
「なっている?」
「戸籍上は死亡している。だが、私は信じていない」
「生きていると?」
「少なくとも十年前の夜、彼女は生きていた。そして王冠を持っていた」
律が尋ねる。
「なぜ彼女は表に出なかったんですか」
正臣は答えた。
「守るためだ」
「何を」
「王冠ではない」
玲央が低く言った。
「人を、ですね」
正臣の目が玲央に向く。
「少しは見えるようになったか」
玲央は答えなかった。
正臣は苦しそうに息をしながら続けた。
「青の王冠は、ただの宝飾品ではなかった。鳴海家の財産でも、展示品でもない。あれは、古い取引の記録だった」
「取引の記録?」
律が聞く。
「石の配置が、名前を示していた」
玲央の顔が変わる。
「名前……」
「中心のサファイア。周囲のダイヤ。ルビー。アレキサンドライト。オパール。石の種類、数、配置。それらが、ある取引に関わった人間たちを示していた」
律は眉を寄せた。
「暗号ですか」
「そうだ」
正臣は小さく頷く。
「王冠は、見た目は宝飾品だった。だが実際には、密輸と資産隠しの記録を隠すための暗号でもあった」
怜子が息を呑む。
「父さんは、それを知っていたの?」
「すべてではない。気づいたのは事件の直前だ」
「だから、アレキサンドライトを隠した?」
正臣は娘を見る。
「お前にだけは、関わってほしくなかった」
怜子の目が揺れた。
「でも、結局渡した」
「私が死ねば、白河が動く。そう思った」
「死んでない」
「まだな」
「そんな言い方しないで」
怜子の声が震えた。
正臣は娘の手を弱く握り返した。
「すまない」
律が静かに聞いた。
「三鷹先生。あなたを倒れさせたのは誰ですか」
正臣は目を伏せた。
「わからない」
「本当に?」
「私は、自分で薬を飲んだ」
怜子が顔を上げる。
「父さん?」
「眠れなかった。少し強い薬を飲んだ。それだけだ」
律の目が鋭くなる。
「その薬は誰が用意したものですか」
正臣は黙った。
玲央が言う。
「白河さんですね」
正臣は答えない。
だが、その沈黙は答えに近かった。
「白河さんはあなたを殺すつもりはなかった」
玲央は続けた。
「眠らせたかった。もしくは、証言できない状態にしたかった」
律が言う。
「なぜ殺さない」
「白河さんは、証人をすぐには殺しません」
「詳しいですね」
「ええ」
玲央の声は静かだった。
「彼は、人間を証拠として残すのが好きなんです。生きているほうが、あとで使えるから」
怜子が青ざめる。
「父は、利用されたんですか」
「まだです」
玲央は言った。
「でも、このままだと利用されます」
律が問う。
「どうするつもりですか」
玲央は三鷹正臣を見た。
「昼の光で、彼女を見る」
正臣の目が微かに動く。
「鳴海硝子さんに会いに行きます」
「どこにいるか、知っているのか」
玲央は首を振った。
「いいえ。でも、アレキサンドライトが示しています」
「石が?」
怜子が言う。
玲央は彼女を見た。
「三鷹先生は、指輪に紙片を隠していました。けれど、本当に隠したかった情報は紙ではない」
「では何ですか」
「石そのものです」
病室に静けさが落ちた。
玲央は続ける。
「アレキサンドライトは、昼と夜で色が変わる。つまり、違う光を当てることで見えるものが変わる。その性質を利用して、何かを示しているはずです」
律が言う。
「石の色が場所を示すと?」
「可能性があります」
正臣がわずかに笑った。
「白河よりは、ましな目になった」
玲央は褒め言葉として受け取らなかった。
正臣は弱々しく言った。
「横浜には、昼にしか本当の色が見えない場所がある」
「どこですか」
律が問う。
「昔、鳴海硝子が好きだった場所だ」
「名前は」
正臣はゆっくりと口を開いた。
「港の見える丘公園の、古い温室跡」
怜子が眉を寄せる。
「温室跡?」
「今はほとんど人が気に留めない。だが、昼の光だけが入る角度がある」
正臣は目を閉じた。
「そこに行け。夜ではだめだ。昼の光で見ろ」
玲央は頷いた。
「わかりました」
病室を出る前、正臣は玲央を呼び止めた。
「水城」
玲央は振り返る。
「はい」
「お前は十年前、嘘をついたのではない」
玲央は何も言わなかった。
正臣は続けた。
「だが、間違えた。間違いを嘘として使われた」
「同じことです」
「違う」
正臣の声は弱かったが、はっきりしていた。
「同じにして逃げるな」
玲央は、しばらく動けなかった。
律も怜子も黙っていた。
やがて玲央は、深く頭を下げた。
「覚えておきます」
正臣は目を閉じた。
「昼の光で見ろ。玲央」
その声は、もうほとんど眠りに沈んでいた。
「今度は、夜の色に騙されるな」
翌日の正午。
港の見える丘公園は、穏やかな光に満ちていた。
観光客の声。
遠くに見える港。
木々の葉を揺らす風。
昨日の病室で聞いた話が嘘のように、世界は明るかった。
だが玲央には、その明るさがかえって不気味に思えた。
夜は嘘を隠す。
けれど昼は、嘘を暴きすぎることがある。
律は周囲を見回していた。
「温室跡というのは、あちらですか」
「おそらく」
玲央は、怜子から預かったアレキサンドライトの指輪を持っていた。
石は昼の光の下で、青緑に見える。
昨日の瑠璃窓で見た赤紫とは、まるで別の石だった。
「本当に不思議ですね」
怜子が言った。
彼女も同行していた。
「昨日はあんなに赤かったのに」
「光が変われば、見える色も変わります」
玲央は石を見つめた。
「ただし、石そのものが変わっているわけではありません」
律が言う。
「人間も?」
「そう思いたいですね」
「あなた自身の話ですか」
「今日は鋭いですね」
「いつもです」
玲央は少し笑った。
三人は、公園の奥にある古い温室跡へ向かった。
今は建物の一部だけが残り、硝子はほとんどない。鉄の骨組みと低い壁が、植物に半ば飲み込まれている。昼の光が斜めから差し込み、床に細長い影を作っていた。
怜子が小さく言う。
「父は、ここを知っていたんですね」
「鳴海硝子さんが好きだった場所だと言っていました」
「同じ硝子ですね」
律が呟く。
怜子が振り向く。
「え?」
「鳴海硝子さんの名前と、温室の硝子」
玲央は頷いた。
「偶然ではないかもしれません」
彼は指輪を取り出し、光にかざした。
アレキサンドライトの青緑が、温室跡の光を受ける。
すると、石の内部に小さな線が浮かび上がった。
内包物。
普通なら、宝石の価値を下げるもの。
だが、この石では違った。
針のような内包物が、ある方向に並んでいる。
玲央は石を少しずつ回した。
青緑の中に、細い光の筋が現れる。
その筋が、温室の床に小さな点を落とした。
「これは……」
怜子が息を呑む。
律が身を乗り出す。
「光が指している?」
玲央は答えず、石の角度を調整した。
光の点は、床の一角を指していた。
古い石板。
苔に覆われた、何の変哲もない床。
律が近づき、苔を払う。
そこには、浅く刻まれた文字があった。
MI.
そして、その下にもう一つ。
S.
怜子が声を震わせた。
「MI……三鷹?」
「あるいは、Mitaka」
律が言う。
「Sは?」
玲央は石板を見つめた。
「硝子。Shoko」
怜子が息を呑む。
「鳴海硝子……」
律がさらに苔を払った。
すると、石板の端に細い隙間があることに気づいた。
「外せそうです」
三人で慎重に石板を動かす。
下には、小さな金属ケースが隠されていた。
古びた銀色のケース。
湿気を防ぐためか、厳重に蝋で封がされている。
その封蝋は、赤かった。
玲央は、山下公園で拾った赤い蝋片を思い出した。
紙コップのそばに落ちていた、あの小さな欠片。
偶然にしては、色が似すぎていた。
律も気づいたのか、封蝋を見つめる目が少し鋭くなった。
玲央は息を止める。
律が言う。
「開けます」
ケースの封を慎重に剥がす。
中には、古い写真と一通の手紙が入っていた。
写真には、若い女性が写っていた。
白いワンピース。
風に揺れる黒髪。
そして胸元には、小さな王冠型のブローチ。
怜子が呟く。
「この人が、鳴海硝子さん……?」
玲央は写真を見つめた。
その女性の顔には、どこか見覚えがあった。
十年前の夜、雨の向こうに一瞬だけ見た横顔。
王冠を抱えていた影。
彼女だったのか。
律は手紙を開いた。
宛名はなかった。
ただ、こう書かれていた。
『夜に見た王冠を信じないでください。
白河は、すべてを夜に見せようとします。
夜の灯りでは、石は違う顔をします。
人も同じです。
もし私が消えたことになっていたら、昼の光で王冠を見てください。
中心の青ではなく、周囲の石を見てください。
王冠は宝物ではありません。
罪の目録です。
私はそれを持って逃げます。
守るためではありません。
終わらせるためです。
鳴海硝子』
律が読み終えたあと、しばらく誰も話さなかった。
風が温室跡を通り抜ける。
昼の光の中で、アレキサンドライトは青緑に光っていた。
怜子が震える声で言う。
「父は、この手紙を知っていたんでしょうか」
「おそらく」
玲央が答える。
「でも、取りに来られなかった。あるいは、あえて残した」
「なぜ?」
「証拠だからです」
律が低く言った。
「鳴海硝子が、王冠を持って逃げたと書いている。十年前の事件の見方が変わる」
「彼女が犯人ということですか」
怜子が言う。
玲央は首を振った。
「まだわかりません」
「でも、王冠を持って逃げると」
「守るためではなく、終わらせるため、と書いています」
玲央は手紙の文字を見た。
細く、強い筆跡だった。
「彼女は盗んだのではなく、持ち出したのかもしれません。何かを暴くために」
律が問う。
「では、王冠はどこに?」
その問いに答えるように、玲央のスマートフォンが震えた。
非通知。
律が険しい顔になる。
玲央は通話を押した。
「水城です」
白河周吾の声が聞こえた。
「昼の顔は見えたかい」
玲央は温室跡の光を見た。
「ええ」
「なら、夜の顔も見なくてはいけない」
「鳴海硝子さんは、どこにいますか」
電話の向こうで、白河が笑った。
「彼女を探すのは早い」
「王冠は彼女が持っている」
「そう思うかい?」
玲央は黙った。
白河は、楽しそうに続けた。
「玲央。君はまだ、中心の青を見ている」
「周囲の石を見ろ、と彼女は書いていました」
「そう。なら、次は虹だ」
「オパール」
律が玲央を見る。
白河の声が低くなる。
「虹は、美しいだけではない。見る者によって、色を変える。隠したものを、もっとも美しく見せる」
「次はオパールですか」
「最後の余白だよ」
通話が切れた。
玲央はスマートフォンを下ろした。
律が尋ねる。
「何と言っていました」
「次は、虹だと」
「オパールですね」
「ええ」
怜子が手紙を握りしめる。
「父は、これを私に見せたかったんでしょうか」
玲央は彼女を見る。
「たぶん、あなたに見せたかったのではありません」
「では誰に?」
「私に」
怜子は目を見開いた。
「三鷹先生は、私にもう一度見ろと言っていたんです。十年前の自分の証言を。夜の光で見た王冠を」
律が言う。
「そして間違いを認めろ、と」
玲央は頷いた。
「はい」
風が吹いた。
温室跡の影が、昼の光の中で揺れる。
玲央はアレキサンドライトを手のひらに乗せた。
青緑の石。
夜になれば、赤紫になる石。
石そのものは変わらない。
変わるのは、見る側の光。
「私は、王冠を偽物だと言いました」
玲央は静かに言った。
「その証言が、白河さんに利用された」
律は黙って聞いている。
「でも、間違いだったなら、訂正できます」
「十年経っていても?」
「十年経ったからです」
玲央は手紙を見た。
「偽物として片づけた王冠に、本物の罪が隠れていた。なら、もう一度鑑定し直します」
律が言う。
「王冠は消えています」
「ええ」
玲央は、温室跡の奥に落ちる影を見た。
「だから、残った石を追うんです」
Sapphire。
Ruby。
Alexandrite。
Opal。
青。
赤。
変色。
虹。
そして、まだ名前のない誰か。
律は小さく息を吐いた。
「次は、オパールですね」
「おそらく」
「白河は罠を張っている」
「でしょうね」
「それでも行くんですか」
玲央は少しだけ笑った。
「宝石商ですから」
律は呆れたように言った。
「元詐欺師でしょう」
「ええ」
玲央はアレキサンドライトをケースに戻した。
「だから、罠の形も少しはわかります」
怜子が二人を見た。
「父に、この手紙を見せます」
「そうしてください」
玲央は頷いた。
「三鷹先生は、ずっとこの昼の光を待っていたのかもしれません」
怜子は手紙を胸に抱いた。
「父は、怖かったんだと思います」
「ええ」
「でも、残したんですね」
「人は本当に大事なものほど、まっすぐ渡せないことがあります」
玲央の言葉に、怜子は小さく笑った。
「それも、宝石商の言葉ですか」
「今回は、ただの経験談です」
怜子は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
玲央は何も言わず、軽く会釈した。
温室跡を出るころには、太陽が少し傾いていた。
アレキサンドライトの色も、わずかに変わり始めている。
青緑の奥に、赤紫の気配が混じる。
昼と夜の境目。
玲央はその色を見ながら思った。
十年前の自分は、あの境目で何を見落としたのだろう。
そして白河は、その見落としをどこまで計算していたのだろう。
隣で律が言った。
「水城さん」
「はい」
「あなたは、青の王冠事件の証人です」
「そうなりますね」
「同時に、関係者でもある」
「はい」
「必要なら、あなたを調べます」
玲央は頷いた。
「そうしてください」
律は少し意外そうに彼を見た。
「抵抗しないんですか」
「抵抗したら、余計に怪しいでしょう」
「そういう問題ではありません」
玲央は、港のほうを見た。
「私は、自分の記憶を信用しすぎました」
「だから?」
「次は、誰かに疑ってもらう必要があります」
律はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「なら、遠慮なく疑います」
「お願いします」
二人は並んで歩き出した。
背後で、古い温室跡が昼の光を浴びて静かに佇んでいる。
そこに隠されていた手紙は、十年分の夜を越えて、ようやく読まれた。
だが、青の王冠はまだ見つからない。
本物か偽物かも、まだ定まらない。
ただひとつだけ、玲央にはわかっていた。
王冠は、どこかでまだ光っている。
誰かの嘘の中で。
誰かの記憶の中で。
そして、次に現れる虹色の石の奥で。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
第三話「色を変えるアレキサンドライト」はこれで完結です。
光によって色を変える宝石は、玲央自身の記憶と証言を揺さぶる存在になりました。
次回は、虹色の輝きを持つオパールにまつわる事件です。




