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空気聖女機

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/04/16

花粉がね。黄砂がね。

誤字だらけでご迷惑をおかけしました。

 神は言った。

 ——汝、六ヶ月に一度はフィルターを交換せよ。


 これは聖典『エアリファイ書』第七章第二節に記された、大地の教会における最も重要な戒律である。

 破った者には穢れた空気が肺を満たす呪いが降りかかるとされ、実際に破った修道士が三名ほどくしゃみが止まらなくなって還俗した。


 宗教とは信仰である。信仰とは空気のようなものである。

 ——そう、空気のように。


 そしてこの世界において「空気」とは、聖女そのものであった。


 ***


「聖女様ッ!魔王軍の瘴気が南方より迫っております!推定瘴気濃度、PM——えー、なんでしたっけ?」

「2.5」

「PM2.5です!」


 騎士が叫び、聖女が補足した。


 大聖堂の大広間。荘厳なるステンドグラスの光を背に、静かに立っている女性がいる。

 白銀の修道服。額に浮かぶ淡い聖紋。背中に折り畳まれた一対の翼は白く、美しく、そして微かに唸っている。


 聖女・清浄院ヘパ。


 異世界より召喚されし浄化の巫女。聖女としての霊格は歴代最高位。適用——もとい、浄化可能範囲は大聖堂クラス。三重霊核搭載。

 HEPAの名を冠する、この国最後の希望。


 その希望が、いま静かに目を開いた。


「PM2.5ですか。……粒径が大きいですね」

「は、はあ……」

「それよりも」


 ヘパは袖から一枚の羊皮紙を取り出した。


「先月提出したフィルター交換の予算申請、まだ決裁が降りていないのですが」

「い、いまそれを——」

「今です」


 空気が変わった。

 文字通りヘパの周囲半径三メートルの空気が、急速に清浄化された。

 騎士の鼻腔を満たしていた大広間特有のカビ臭さが消え、代わりに高原の朝のような冷涼な気配が広がる。


 これは怒りの兆候である。


 聖女の感情が昂ると、自律浄化機能が活性化する。いわゆる「自動運転モード」。

 ヘパ自身は無自覚だが、彼女の不機嫌はいつも周囲の空気品質向上という形で表出する。

 怒れば怒るほど空気がきれいになるため、臣下はしばしば彼女を意図的に怒らせようとして粛清された。


「フィルターの交換が滞れば浄化効率は低下します。低下すれば瘴気の除去率が下がります。除去率が下がれば国民の健康被害に直結します。これは安全保障の問題です。騎士団の新しい剣を百本買う予算があるなら、フィルター十二枚の予算くらい通してください」

「ぼ、暴論だ……」

「正論です。というか去年も同じことを言いました。一昨年も言いました。毎年言っています。記録に残っています」

「聖女様が記録を……?」

「他に誰がやるんですか」


 正論が痛い。

 空気がきれい。


 相関関係があるのか因果関係があるのか、騎士にはもうわからなかった。


 ***


 この世界には「瘴気」がある。


 魔王軍が撒き散らす穢れた空気である。

 吸えば病む。長く吸えば死ぬ。人類はこの瘴気に対抗するため、異世界より「聖女」を召喚する術を編み出した。

 聖女は体内の霊核で瘴気を吸引・ろ過し、清浄な聖気として排出する。人類の生存圏は聖女の浄化範囲に依存しており、つまるところ聖女とは——。


 生きた空気清浄機である。


 言い方は悪いが事実だ。聖女本人たちも薄々気づいている。

 気づいているが、口にしない。口にした聖女が過去に一人いたが、翌日の聖典に「聖女は聖なる浄化の器であり、断じて家電ではない」という一節が追加された。追加が早すぎて逆に怪しい。


 さて、聖女の性能には個体差がある。


 ある聖女は小さな村ひとつ分しか浄化できず、ある聖女は城塞都市を丸ごとカバーする。

 この差は霊核の種類——集塵、脱臭、抗菌——の組み合わせと数に依存し、教会はこれを「適用床面積」と呼ぶ。


 呼ぶな、と思うかもしれない。私もそう思う。

 しかし教会は大真面目だ。聖女の適用床面積は国家機密であり、同時に外交カードでもある。

 隣国より適用床面積が広いことは軍事力に直結し、狭いことは弱さの証明になる。


 かくして聖女は、崇められ、比較され、カタログに載る。

 清浄院ヘパの適用床面積は、公式には非公開。


 だが、噂は流れている。

 大聖堂二十七棟分。

 化け物じみた数値である。が、ヘパ本人はこの評価に不満がある。


「測定条件が明記されていないんです」


 彼女はよくそう言う。


「密閉空間での数値なのか、外気流入を考慮しているのか。風速は?瘴気の粒径分布は?条件を統一しなければ比較に意味はありません」


 正しい。正しいが、正しさの方向がおかしい。

 しかし誰も指摘しない。指摘すると空気がきれいになるからだ。


 ***


「——で、瘴気です」


 大広間に戻ろう。

 騎士はフィルター予算の件をいったん保留にして、状況を説明した。


「南方の平原に魔王軍の瘴気部隊が展開。推定兵力およそ三千。瘴気散布型の魔獣を前衛に、毒霧の術師を後衛に配置しているとのことです」

「編成は?瘴気の種類です。粗大粒子主体ですか、微粒子主体ですか。花粉は混じっていますか」

「か、花粉……?いえ、その……偵察部隊からはそこまでの報告は」

「使えませんね」

「厳しい……!」


 ヘパは小さくため息をついた。

 彼女が息を吐くと、吐息そのものが浄化フィルターを通過して排出されるため、半径一メートルがほのかに清浄化される。

 ため息すら機能的。本人はそれが少し嫌だった。ため息くらい、ただの二酸化炭素でありたかった。


「現地で確認した方が早い。出撃します。……風量は『中』で」


 ヘパがそう呟いた瞬間、背中の翼が展開した。


 白い羽根に見えるそれは、正確には五十四枚の聖翼ブレードがシロッコファン状に配列された浄化機構である。

 見た目は天使。機能は換気扇。聖なる風を生み出し、同時に周囲の瘴気を強制吸引する。

 風量設定は「弱」「中」「強」の三段階。加えて「おやすみモード」と、禁じられた「ターボ」がある。


「中」で翼が回転を始めると、大広間にさわやかな風が吹いた。騎士の癖毛が揺れた。

 騎士が声を漏らした。


「いい風ですね」

「……ありがとうございます」


 ヘパは少しだけ嬉しかった。

 嬉しかったが、騎士は次の瞬間には他の兵士と別の話をしていた。

 空気がきれいなことは、当たり前すぎて話題にならないのだ。


 ——文字通り、空気みたいな扱い。

 ヘパは無言で窓から飛び立った。翼の回転音は「中」設定で約38デシベル。図書館より静かだった。

 誰もその出発に気づかなかないほどだ。


 ***


 平原。

 魔王軍の瘴気は、確かに濃い。


 空は黒紫に染まり、大地は灰色のもやに覆われている。

 常人なら数分で意識を失う濃度だ。鳥は落ち、草は枯れ、風すら淀んでいる。


 その上空を聖女が飛んでいた。

 無音ではない。微かに「フォォォォ」と回転音がしている。静音設計とはいえゼロにはならない。ヘパはこの音が少し恥ずかしい。

 天使のように飛んでいるのに、音が完全に空気清浄機のそれだから。


 眼下に魔王軍が見えた。

 黒い鎧の兵士たち。瘴気を吐く巨大な魔獣。そしてその後方に——。


「あれは」


 ヘパの目が細くなった。

 後方に陣取る術師たちの手から放たれている瘴気。その色が通常と違う。

 黒ではなく、灰色がかった微細な霧。


「……PM2.5」


 呟きは風に消えた。

 PM2.5。通常のフィルターでは捕集しきれない微粒子瘴気。吸えば肺の奥深くまで侵入し、霊核を持たない一般人には致命的。

 そしてこの粒径の瘴気を操る存在は、この世界にただ一つ。


「魔王の直轄部隊……」


 魔王ゲルニド・PM2.5。

 その名を冠する瘴気の王。微粒子の支配者。アレルゲンの——いや、本人の前でそれを言うと酷く傷つくので、やめておく。

 ヘパは高度を下げた。翼の回転数が上がる。


「風量——『強』」


 38デシベルが52デシベルに跳ね上がった。会話がやや困難になるレベル。

 しかし聖女は会話の相手がいないので問題ない。いつも問題ない。いつも一人だ。


 ——泣いてない。泣いてない。集中する。

 ヘパは両手を広げた。


 三重霊核が起動する。

 第一霊核——集塵フィルター。粗大粒子の瘴気を捕集。

 第二霊核——脱臭フィルター。瘴気に含まれる呪詛成分を吸着・分解。

 第三霊核——HEPAフィルター。0.3マイクロメートル以上の微粒子を99.97%捕集する、最後にして最強の浄化機構。


 ヘパの名は、この霊核に由来する。

 High Efficiency Purification of Air。——聖なる頭文字。

 実家の母は「もっと可愛い名前にすればよかった」と今でも言っている。


「——浄化、開始」


 聖女が息を吸った。

 正確には吸引を開始した。


 平原を覆う瘴気が——動いた。黒紫の空気が渦を巻き、灰色の霧が螺旋を描き、すべてが聖女の体内へと吸い込まれていく。

 魔王軍の兵士たちが目を見開いた。自分たちの武器である瘴気がたった一人の女性に、掃除機のように——。


「掃除機じゃありません」


 ヘパは誰にともなく訂正した。


「空気清浄機です」


 ——いや、聖女だろう。

 突っ込む者は、いなかった。


 数分後、平原の空は青かった。

 風は清く、草は息を吹き返し、鳥の声が戻った。魔王軍の瘴気部隊は瘴気(正気)を失って棒立ちになり、駆けつけた騎士団にあっさり制圧された。

 騎士団は互いの武勇を讃え合い、勝利を祝い、凱旋の歌を歌い始めた。


 ヘパは上空に浮いていた。

 誰も見上げなかった。


「……」


 翼の回転を「弱」に落とす。

 戦闘は終わった。いつもこうだ。瘴気を浄化するのは聖女で、手柄を得るのは騎士団。構造的にそうなる。

 瘴気が消えた後の敵は、ただの兵士だ。剣で倒せる。剣で倒した者が英雄になる。


 空気をきれいにしただけの女性は、英雄にならない。

 だって空気はきれいなのが当たり前だから。

 汚れてはじめて気づく。きれいな間は、誰も何も思わない。

 ——空気みたいなもの。


「……帰ろ」


 呟いて、旋回。王都へ。

 翼の回転音だけが、誰にも聞かれずに空へ溶けていった。


 ***


 大聖堂に戻ると、大広間では祝宴の準備が始まっていた。


「おお、聖女様!お帰りなさい!」


 声をかけてきたのは——騎士団長、ダズキン・フォン・レーヴェンシュタイン。


 金髪碧眼、長身痩躯。絵に描いたような騎士然とした女性である。腰には聖剣を携帯し、白銀の鎧を纏い、マントを風になびかせている。

 ただしその聖剣は一度も抜かれたことがなく、鎧は装飾品で、マントの裏ポケットには交換用フィルターが三枚用意されている。


「おかえりなさい。見事な浄化でした」

「……見てたんですか」

「遠見の水晶で。風量『強』を使ったでしょう。帰還後のフィルター点検を——」

「お願いします」


 素直だった。

 ダズキン・フォン・レーヴェンシュタイン。聖女メンテナンス騎士。略して聖騎士。

 その肩書きに本人は複雑な感情を抱いているが、彼女はこの仕事に誇りを持っていた。

 聖女の性能を最大限に引き出すのは、適切な整備あってこそ。ダズキンの信条は「メンテナンスなき聖女は、ただの女性である」。


 格好いいことを言っているようで、内容は完全に家電量販店の店員である。


「では、フィルター点検室へ」

「はい」


 二人は大広間を横切った。

 祝宴の喧騒の中を。

 誰も、二人に気づかなかった。


「……ダズキン。私たち、すごく存在感がないですね」

「存在感なら以前からないかと」

「……知ってた」


 フィルター点検室——聖女の私室に隣接する祈りの間——やっぱりフィルター点検室。

 部屋には作業台があり、聖水の入った洗浄槽があり、交換用フィルターの在庫棚がある。

 在庫は残り四枚。ヘパは棚を見て眉をひそめた。


「少ないですね」

「予算が降りていませんので」

「だから言ったんです」


 空気がきれいになった。


 ダズキンは慣れた動きでヘパの背後に回り、翼の基部に触れた。

 聖翼ブレードの一枚一枚を丁寧に確認する。瘴気の吸引で付着した微粒子を聖布で拭き取り、回転軸の聖油を差す。


「右翼第十七ブレード、微細な亀裂があります」

「交換ですか?」

「いえ、補修で対応できます。……ただ、次にターボを使えば折れるかもしれません」

「ターボは使いません」

「使わざるを得ない状況が来たら?」

「……」


 沈黙。


 ターボ。

 聖女の最大出力モード。翼の回転数を設計限界まで引き上げ、全霊核をフル稼働させる。適用床面積は通常の十倍に跳ね上がるが、フィルターへの負荷も桁違いで、一度の使用で全フィルターが使い捨てになる。騒音値は推定78デシベル。掃除機と同等。


 ——掃除機じゃない。聖女だ。


「来ないことを祈りましょう」


 ダズキンは黙々とメンテナンスを続けた。

 ヘパは作業台に座って足をぶらぶらさせていた。聖女としての威厳はどこにもなかった。


「ダズキン。今日、私が平原の瘴気を浄化したこと、誰か覚えてると思いますか」

「……」

「正直に」

「……明日には忘れてると思います」

「ですよね」


 足をぶらぶらさせるのをやめた。


「空気がきれいなことに、人はお礼を言わないんですよ」

「……」

「汚れたら文句を言うのに。きれいな間は当たり前だと思ってる。……私、たぶん一生感謝されないんだと思います」


 ダズキンは手を止めた。

 それから聖布を丁寧に畳み、ヘパの正面に回った。


「清浄院ヘパ様。私は毎日、感謝しています」

「……」

「あなたのフィルターを整備するたびに。この国の空気がきれいなのは、あなたのおかげだと知っていますから」


 ヘパは目を見開いた。


 ——それから、ほんの少しだけ、翼の回転数が上がった。

 風量「弱」。かすかな、かすかな風。

 ダズキンの前髪が、ふわりと揺れた。


「……それは、照れてるんですか」

「照れてません。自動運転です」

「自動運転で風量が上がるのは感情起因では?」

「仕様です」


 空気が、とてもきれいになった。

 ダズキンはそれ以上追及しなかった。追及すると空気がきれいになりすぎて酸素濃度に影響が出るのだ。

 以前、それで軽い酸素酔いを起こした。きれいすぎる空気にも限度がある。


 ***


 翌日。

 ヘパの予感通り、平原の戦いは「騎士団の大勝利」として記録された。

 聖女の名前は一行だけ——末尾に。


「『なお、瘴気の浄化は聖女が担当した』」


 ヘパは報告書を読み上げ、静かに机に置いた。


「一行ですね……私、ターボ使おうかな。建物ごと浄化してやろうかな」

「フィルターの在庫が足りません。あと予算も」

「……はい」


 清浄院ヘパ。

 歴代最高位の聖女。適用床面積は大聖堂二十七棟分。三重霊核搭載。PM2.5対応。


 存在感は——測定不能。

 限りなくゼロに近い。


 だが、この国の空気はいつもきれいだった。

 それだけは、確かだった。

【次回予告!】

聖女のフィルター交換時期を告げる額の聖紋が赤く点滅し始めた!

しかし予算が降りない!ヘパは自らフィルターの素材を調達するため街に出るが、誰にも聖女だと気づいてもらえない!

「すみません、聖女です」「はいはい、聖女ね。で、何の用?」

——存在感ゼロの聖女、はじめてのおつかい編、開幕!


※嘘です。こういうのやってみたかっただけです。


連載中の「聖女のナナメ後ろにいるメイド」もよろしくお願い致します。

https://ncode.syosetu.com/n7076ma/

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― 新着の感想 ―
こんにちは。 >聖女は聖なる浄化の器であり、断じて家電ではない。 もうこのへんからじわじわ来まして、 ダスキンさんの登場にさすがに吹きました。 まあ、空気は見えないですからね。 「綺麗」「汚い」は…
 道具奴隷扱いでなく、空気という扱いの聖女ヘパさん……中盤の話し相手不在などに関しての涙には少々悲哀を感じますが、鳥などを悩ませる瘴気への対処に感謝する理解者ダスキンさんとの仲は良好なようでなによりで…
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