異世界で、二人乗り 第一部 第8話「対応可能」
午前中は、周囲の探索に使った。拠点を中心に、円を描くように歩く。目印を決め、時間を測り、戻れる距離だけを進む。スマートフォンはもう電源を入れない。バッテリーを温存する意味が薄れている。
いつか尽きる。それがわかってしまった。
昼を過ぎ、森の影が濃くなった頃、上杉は違和感を拾った。風が止まる。虫の声が薄れる。森が、息を潜める。
上杉は立ち止まり、耳を澄ませた。足音。草を踏む音。重い。
人の足音ではない。四足の動物の歩幅だ。上杉は一歩、後ずさった。視界の端、草むらが割れた。
出てきたのは、獣だった。獣に似ているが、知っている獣とは違う。体格は大型犬より大きい。狼に近い。だが輪郭が荒い。デカい。熊よりヤバそう。毛並みが硬い。目が、妙に光る。口元から唾液が糸を引いている。
上杉の体が先に動いた。退く。山で熊に遭遇した時は全力ダッシュはダメだと聞いた。距離を取る。様子を伺い、相手の動きに合わせる。
獣は、低く唸った。唸り声が腹に響く。上杉は背中の汗が冷たくなるのを感じた。
武器がない。手にあるのはさっきたまたま拾った枝一本と、空っぽの手だ。
ジュリオは少し離れた場所にある。走って戻れば間に合うか。間に合わないか。
鍵を回してエンジンを始動して、そしてアクセルを入れる。そんなタイミングは掴めるか。
判断する前に、獣が動いた。
速い。上杉は横に跳んだ。爪が空を切り、風圧が頬を撫でる。かわした――はずだった。
右肩に熱い痛みが走った。布が裂ける感触。血が出たかどうかはわからない。だが痛い。確実に痛い。メッチャ痛い。上杉は歯を食いしばり、体勢を立て直す。
獣がまた来る。野生の狼が人を襲った場合、殺処分の対象になるんじゃなかったか。そんなこと、考えている場合じゃない。
次は避けられるか。避けられても、いつまで避け続けられる。
上杉は後ろへ下がりながら、ジュリオに向かって走った。不思議なことに自分の足が軽い。軽すぎる。自分の足がこんなに動くはずがない。それでも動く。動いてしまう。
ジュリオが見える。メットイン。上杉の頭が、同時に結論を出す。
毛布が出た。必要だと思ったら、出た。
なら――。
「頼むぞ……!」
上杉は叫んだ。叫ぶしかなかった。
獣の唸りが背後で近づく。鍵を回す。蓋を開ける。一か八かで手を突っ込む。
そこに、剣があった。
大きすぎない。片手でも扱えそうな長さ。だが、明らかに高そうだった。柄と鍔に宝石が散りばめられ、金属の光沢が生々しい。現代の装飾品の感覚ではない。それでも上杉は理解してしまう。これは価値がある。価値があるものほど、怖い。それどころではない。
剣技なんて知らない。
どうせなら、拳銃とか爆弾とか。そっちが良かったとも思う。一瞬。オレは武道も剣道もやっていない。大学まで水泳部だった。体力づくり程度の、ただのエンジョイ勢だ。アスリートではない。戦士でもない。ただの会社員だ。
なのに、手は剣を握ることを躊躇しなかった。
獣が飛びかかる。上杉は反射で身を捻り、剣を前に出した。突き、という意識はなかった。ただ、距離を拒否する動作が突きの形になった。
刃が何かに当たる感触。獣が呻き、着地が乱れる。怯んだ。
上杉は後退しながら間合いを取った。蹴りを入れる。足が軽く動く。足が勝手に距離を作る。脚で守り、脚で生き延びる。剣より先に、足が戦っている。こんな脚技、オレは知らない。
獣はもう一度迫る。上杉は呼吸を吐き、剣先を定めた。理屈ではない。目が勝手に「ここだ」と言う。上杉はもう一突き入れた。
獣が大きくよろめく。上杉はその瞬間、剣を横に払った。首のあたりに刃が走る。感触があまりにも軽い。抵抗がない。刃が通った次の瞬間、獣の頭が、すぱっと飛んでいった。
飛んだ頭が草の上に転がり、目だけがまだ光っている。胴体が数歩進み、崩れ落ちる。血が土に広がる。赤が、森の色と混ざる。
上杉は立ち尽くした。剣を握った左手が、震えて‥いない。右肩は痛む。痛むが、倒れるほどではない。息は荒い。荒いのに、どこか冷静だ。
現実世界なら。たとえ動物でも、これは犯罪だ。そう思った瞬間、吐き気が来そうになって、飲み込んだ。飲み込めてしまうことが、さらに怖い。
上杉は自分の肩を押さえた。ヒリヒリする。動かすと嫌な痛みが走る。腫れそうだ。利き腕じゃないのが幸いだ。だが感染したら終わる。終わる、という現実が、ここにはある。
それでも、絶望感はなかった。不思議なほどに。怖い。吐き気もある。なのに、底が抜けない。
上杉は気づいた。森を彷徨っていた数日、疲労を強く感じていない。眠れない夜もあったのに。歩き続けたのに。体が動く。足が動く。息が持つ。最近の自分なら、駅の階段で息が上がっていたはずなのに。
上杉は、獣の死体を見下ろしながら、喉の奥で笑いそうになった。笑えないのに、笑いが出る。笑いは防衛反応だ。
こんな現実を、真顔で受け止めたら壊れる。
「……生きていける、のか」
口に出してから、怖くなった。
火も水も、食料も暖も取れる。そして脅威も払うことができる。
生きていける、という言葉は希望だ。希望は、選択肢になる。選択肢になった瞬間、人は戻れなくなる。
それでも――この世界で生きていくことが、できてしまうのではないか。
そう考えてしまう自分がいる。そして、考えたところで、嫌悪より先に現実的な判断が出てくる。
拠点を移す。森の中だけでは限界がある。治療が必要だ。情報が必要だ。人が必要だ。人里を探すしかない。
上杉は剣を見た。自分の命を救ってくれた剣。宝石のついた高そうな剣が、土と血で汚れている。汚れているのに、刃は鈍っていないように見える。
上杉は剣をメットインに戻そうとして、止めた。メットインは、もうただの収納ではない。必要だと思ったものが出てくる。それが自分の思考と連動しているなら、なおさらだ。
本来なら、ガソリンが心許ないジュリオを連れて移動する必要はない。歩いた方が合理的だ。リスクも下がる。燃料を温存できる。置いていく、という判断は正しいはずだった。
だが上杉は、ジュリオから目を離せなかった。
ジュリオのメットイン――そこが、自分の「命綱」になりつつある。
毛布が出た。ライターが出た。鍋が出た。そして剣が出た。
偶然だと片づけるには、整いすぎている。整いすぎているものは、意図を感じさせる。意図が誰のものかはわからない。自分のものだと認めたくもない。
それでも、いまの上杉にとっては結論が一つしかない。
ジュリオを置いていけば、次に必要なものが出せない。出せないなら、死ぬ可能性が上がる。死ぬ可能性を上げる判断は、合理的ではない。
上杉は剣をメットインに戻した。本来は、こんな剣がこのメットインに収まるはずはない。
それを分かっていたが、蓋を閉めた。毛布もライターも鍋もここに入っている。
鍵をかける。問題なく閉まった。
アイテム収納。4次元ポケット。とか。
そんな言葉が頭に浮かび、苦笑しそうになった。
「……一緒に行くぞ」
誰に言ったのか、自分でもわからない。ジュリオに言ったのか。それとも、自分自身に言ったのか。
右肩が痛む。それが、現実だった。
そして現実は、次の行動を要求している。
上杉は拠点の方向を見た。小川。焚き火。果実。あの生活は、しばらく続けられる。続けられるが、続けてはいけない気がした。危険が増えている。人を襲う獣がいる。そして自分は、殺してしまった。
上杉は目を閉じ、息を吐いた。結論はもう出ている。仮説ではなく、行動計画として。
人里を探す。治療できる場所を探す。情報を得る。そのために、移動する。その移動には、ジュリオが必要だ。燃料が尽きるかもしれない。それでも必要だ。必要だと思ってしまった時点で、もう切り離せない。
上杉はジュリオのハンドルを握った。森の向こうへ目を向ける。見えない。だが、行くしかない。
上杉はエンジンをかけた。音が森に響き、森が少しだけ距離を取る。その距離が、いまはありがたい。
「……さて」
上杉は小さく呟き、アクセルを開けた。拠点は後ろに遠ざかる。たった2日の滞在だったが、名残惜しい気もする。小川の音が薄れる。生活の輪郭が、森の中に溶けていく。
上杉は前を見た。自分が生き残ってしまった現実と、一緒に。




