異世界で、二人乗り 第一部 第4話「仮説」
時間が過ぎる。体が冷えてくる。風は暖かいままだが、体温は奪われる。暖かい風でも、夜は夜だ。疲労は回復しない。
むしろじわじわ削られる。上杉はどこか、隠れられる場所を探した。
草むらの陰に、岩のような盛り上がりがある。近づくと、それは岩ではなく、土の小さな丘だった。丘の向こうは見えない。
見えないものの向こうに入るのは避けたい。だがここで立ち尽くすのも危険だ。
上杉は、丘の手前でジュリオを停め、座り込んだ。スマートフォンのライトは必要な時だけ点ける。バッテリーを温存する。寒さを避けるため、ジャケットの前を閉め、膝を抱えた。
スーツは夜露を弾かない。じわじわと湿る。これだけでも気力が削れる。
座り込んでどのくらいの時間が経過しただろうか。静寂の世界。
上杉は右手につけている腕時計で、時間を確認した。今は時間よりも大切な事がある気がしたが、この動作が癖になっていた。深夜を過ぎている。自宅のマンションで寝ている時間だ。
いつもなら、こんな時間まで起きていれば、明日の仕事を考えて憂鬱になる。今は、明日の仕事を考える余裕がない。仕事のことを考えられない状態は、本来なら解放のはずだ。だが解放は、安心とセットでなければただの不安になる。
静かだ。静かすぎる。
代わりに、光を消した。スマートフォンのライトを完全に切り、暗闇に目を慣らす。
暗闇の中で、先ほどの匂いがまた強くなった。風が吹いたわけではない。匂いだけが、ふっと近づく。
落ち着く。落ち着くことが、怖い。
上杉は、無意識にその匂いを追いそうになり、踏みとどまった。追えば、足が勝手に動く。足が勝手に動くのは、判断の放棄だ。
――今は判断を放棄できない。
数時間、上杉はそうやって、動いたり止まったりを繰り返した。少し進んで、戻って。耳を澄まして、匂いを感じて。気になる場所に近づき、何も無く、そして離れる。夜の中で、何かを決めないまま、決めるための材料だけを集め続けた。
夜が薄くなる。空の色が変わり始める。それだけで、少し安心する。夜が終わることは、何かが進むことに似ている。
朝になれば、見えるものが増える。見えるものが増えれば、判断できる。判断できれば、行動できる。
上杉はそう信じた。信じないと、足場がなくなる。
やがて、東の方が淡く白み、草の輪郭が浮かび上がってきた。土の色が見える。砂利の色が見える。そして――遠くに、森のような影が見えた。
森。
東京で森という言葉を使うとき、それは公園や保護林のことになる。だがあの影は、そういう「管理された森」ではない。境界がない。広がりがある。勝手にそこにある感じがする。
上杉は喉の奥が乾くのを感じた。水が必要だ。人が必要だ。情報が必要だ。
だが、ここで一番必要なのは――自分が今どこにいるのか、という結論だ。
上杉は、もう一度、昨夜からの「あり得ない」を頭の中で並べた。
帰り道が切り替わった。電柱がない。電波がない。夜空が違う。道が土で、森が広い。匂いが未知で、それが落ち着く。
これを「都内で起きた珍しい事故」として説明するのは無理がある。
もしインタビューされても、「なんか、知らない星空が広がっていました。」としか言いようがない。
説明のための説明を重ねるほど、不自然が増える。
上杉は、ひとつの仮説に辿り着いた。最も単純で、最も受け入れがたい仮説だ。
――ここは、日本ではない。――少なくとも、自分が知っている世界の日本ではない。
上杉は、その仮説に名前を付けるのを躊躇った。名前を付けた瞬間、現実になるからだ。
だが、名前を付けなければ、次の行動計画を立てられない。上杉は、乾いた笑いを喉の奥で噛み殺した。
「……異世界、ってやつか」
口に出してしまうと、拍子抜けするほど軽かった。軽い言葉で呼べるほど、現象が重い。
異世界転移。アニメや漫画でよくある話だ。流行っている、と誰かが言っていた。オレも見た事ある。
会社の若い連中が、昼休みに話題の作品の話をしていた。
上杉はその輪に入らなかった。入る必要がないと思っていた。必要がないというより、入れる余裕がなかった。
「……おれ、オッサンだぞ」
自嘲が混じる。
こんな展開は、もっと若い子が楽しむものじゃないのか。人生に不満を抱えた高校生が、急に剣と魔法の世界で無双して、そこで初めて自分の価値を――。
上杉は首を振った。自分は無双できない。剣も魔法も知らない。持っているのは、仕事で身につけた癖と、疲れと、たまたま壊れない古いスクーターだけだ。
それでも、仮説としては成立してしまう。成立してしまうから、次にやるべきことが見えてくる。
第一に、ここがどんな場所かを確認する。第二に、人を探す。第三に、安全を確保する。第四に、帰る方法があるかを探る。
上杉は、会社でプロジェクトを立ち上げるときと同じように、頭の中で優先順位を組み替えた。
帰る方法は最後だ。今は生き延びることが先だ。
上杉はジュリオのエンジンをかけた。朝の空気にエンジン音が溶ける。匂いがまた、ふっと寄る。落ち着く匂い。落ち着いてはいけないのに、落ち着く。
上杉はアクセルを開けた。森の影のほうへ、慎重に、ゆっくりと進む。土道の先に、微かな気配がある。音ではない。光でもない。気配、としか言いようのないもの。
まずは、そこに行ってみるか。
上杉はハンドルを握り直した。結論を出したつもりでも、それは仮説だ。仮説は、外れれば修正する。外れたら、外れたでいい。外れた方がいい。異世界なんて、そんなバカな話、あるか。外れてほしい。
それでも――朝の風は暖かく、匂いは見知らぬまま落ち着いていて、世界は知らない輪郭をしていた。
上杉は、息を吐いた。
「……さて。どこだ、ここ」
問いは、答えを求めているようで、実は自分を保つためのものだった。
そしてその問いに、返事はまだない。




