異世界で、二人乗り 第二部 第8話 「港町」
海は、匂いで先に来た。
森の湿り気が薄れ、風が少しだけ軽くなる。土と葉の匂いの奥に、塩の気配が混ざった。
見えていないのに、空気が違う。胸の奥にまで入り込む湿った匂いが、どこか懐かしいようで――同時に落ち着かなかった。
ジュリオのスロットルを少し緩める。ポコポコという小さな鼓動みたいな音が、街道の石を跳ねていく。
背中に、あおいの体温がある。
軽いのに、確かに重い。寄りかかっているわけじゃない。支え合っている、という方が近い。
風が変わった瞬間、背中の気配が微かに動いた。
「……海」
あおいが、短く言った。
「分かるのか?」
「うん。風が、湿ってる。匂いも……違う」
まだオレの視界には入ってこなかったが、もうゴールは近いんだという気持ちにさせる。
あおいの言葉は少ない。その少なさが、いまは助かった。オレの中で、言葉にしたくないものがまだ形を持っていない。
触れたら崩れる。崩れたら、止まれない。モヤモヤする、そういう事。
幌馬車は少し遅れて続く。前を行くセイルは振り返らない。彼らにとっては「目的地が近い」だけの話だ。
ローディス氏が負傷している。だから急ぐ。理由が明確で、仕事の手順が明確で――その明確さが、逆に怖い。
夜襲のことを、誰も口にしない。
口にしないまま、朝を越え、昼に入って、こうして海へ向かっている。
それが、この世界の仕事なのだと、体が先に覚えてしまいそうだった。
街道が緩やかに下り、視界の先が開ける。
遠くに、低い屋根の群れが見えた。建物の向こうに、空が少し広い。
空と地面の境目が、どこか揺れて見える。水面だ。
「あれがルーメルだ」
セイルが、馬上で指を指して知らせてくれる。
港町ルーメル。
名前を聞いただけだった町が、匂いと風と、湿った光を連れて現実になっていく。町が見えてくるにつれ、人の気配が増える。
荷車の軋む音。遠くから聞こえる怒鳴り声。鳥の鳴き声。森の音とは違う、雑多な音の重なり。
ジュリオの音が、その中に混ざるのが分かる。
町に入る直前、御者席のガレンが短く言った。
「余計な寄り道はせずに、宿へ直行する。医者を呼ぶ。まずはローディス氏を安静にさせる」
「了解」
セイルが返す。タイラーも頷いた。
余計な寄り道。そう言い切れるのが、少し羨ましい。オレの頭の中には、余計なものがいくつも残っている。夜の森の匂い。刃の光。腕を断った手応え。胸に沈む感触。焦げた匂い。叫び声。
思い出そうとしていないのに、勝手に浮かぶ。
町門で止められる。入町銭は先頭のセイルが全員分の通行証を見せた。初めてのオレとあおいの分も、商会0が立て替えてくれるのだそうだ。セイルから通行許可証の銀プレートを受け取る。
港の仕事で人の出入りが多いのだろう。受付の兵士が二人、それ以外にも門の脇に何人か立っていて目だけが鋭い。視線が馬車を、ジュリオを、護衛の剣を、順に追っていく。
石畳に入ると、音が変わる。ジュリオのタイヤが小刻みに跳ね、エンジン音が反射して広がる。ポコポコ、という音が通りの壁で跳ね返り、思ったより目立った。
人が振り返る。
子どもが立ち止まる。
露店の女が一瞬だけ手を止める。
この視線にも、もう慣れた。説明する必要はない。魔導機械を従えた魔術師。そう認識されているのだろう。
否定も肯定もしない。何が変わるわけでもない。だから、いつも通り進む。
通りには魚の匂いが漂っていた。干した魚。生の魚。塩漬け。そこに香辛料の刺激が混ざり、鼻の奥が少し痛い。網を担いだ男がすれ違う。荷車に木箱を積んだ女が怒鳴る。言葉が、ところどころ聞き取れない。発音が違う。響きが違う。
「外国の船も来るのか」
タイラーが呟くと、セイルが「そりゃそうだ」とでも言いたげに鼻で笑った。
「ここは港町だ。外から来る。外へ出る。そういうとこだよ」
外。という言葉が、妙に引っかかる。
オレの外。あおいの外。森の外。
この町の外には、海がある。海の向こうに何があるのかは、まだ知らない。知らないのに、なぜか「ここから先はもう戻れない」みたいな気配が、風に混ざっている気がした。
通りを抜け、港へ近づくにつれ、空が広くなる。遠くで帆が揺れている。船の腹が黒い影になり、水面に映る。潮の匂いが濃くなる。
その一角だけ、空気が変わる場所があった。
港の奥。倉庫が並ぶ区画。木造の大きな建物が並び、門がある。門の前に、王国兵が立っていた。鎧が違う。目の鋭さが違う。仕事の匂いが違う。
荷馬車が一台、門の中へ入っていく。積み荷に布がかけられていて、形が分からない。兵士が無言で近づき、布の端を持ち上げて中を確認する。確認が終わると、布を戻し、門が開く。荷馬車が入る。門が閉まる。
早い。無駄がない。誰も声を上げない。
「……あそこは?」
タイラーが聞くと、ガレンは視線だけで答えた。
「王国軍の倉庫だ」
それだけだった。
それ以上は言わない、という線が引かれている。引かれている線の位置が、はっきり見える。聞けば聞くほど面倒になる。そういう空気だ。
タイラーは頷いて、視線を戻した。
知る必要はない。今は護衛だ。目的地に着く。ローディス氏が生きる。それが優先だ。
宿は港から少し離れた場所にあった。三階建て。外壁は塩気で少し白っぽい。看板には波の絵が描かれている。港町らしい宿だ。
ガレンが先に降り、宿の扉を押し開けた。宿の主人に用件を言う。
「商会の主がいる。上等な部屋を。あと護衛の部屋を二つ。医者を呼べるか。負傷者がいる」
主人の顔が一瞬固まり、それから慌てて奥へ走った。
「すぐに! すぐに呼びます!」
マレイア夫人が馬車の扉を開け、ローディス氏の名を呼ぶ。
「エドヴァル、着きました。ここで休めます」
ローディス氏はうっすら目を開けた。顔色は良くない。それでも、笑う。
今朝、移動中に意識を取り戻した。かなり出血したし、体が重いのだろう。
「……海の匂いがするな」
「ええ」
それだけで、マレイア夫人の声が詰まる。泣きそうなのに泣けない声。泣いたら崩れると分かっている声。昨夜の焚き火の前と同じだ。
ガレンとセイルが肩を貸し、宿の中へ運ぶ。タイラーも反対側に回り、支える。ローディス氏は軽かった。商人の身体だ。剣の重さではなく、仕事の重さを背負ってきた身体。
宿の中は木の匂いがした。塩気と、古い木の湿り気。階段の軋む音がする。二階の奥の部屋へ運び込み、ローディス氏を寝かせる。主人が水を持ってくる。医者が来るまでの間、できることは少ない。
マレイア夫人は手を握ったまま離れない。握っていることで、自分を保っているように見えた。
医者は思ったより早く来た。道具袋を持った老人だった。声は淡々としていて、目が忙しい。傷を確認し、布を外し、消毒の匂いが広がる。ローディス氏が歯を食いしばる。マレイア夫人が息を止める。
「深くはない。だが出血したな。縫うからな。動かすな」
老医師の言葉は簡潔だった。
縫う針が布を通る音が、部屋に妙に大きく響いた。タイラーはその音を聞きながら、昨日の刃の音を思い出しそうになって、目を伏せた。
その時間が終わると、医師は言った。
「傷は大丈夫だ。治癒術の処置が早かったな。だが今夜は熱が出るかもしれん。水を切らさない。起き上がらない。これを守れ」
マレイア夫人が深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
医師が去り、部屋に残ったのは静けさだった。ローディス氏は疲れた顔で目を閉じた。マレイア夫人は、ようやく息を吐いた。吐いた瞬間、肩がほんの少し下がる。その“ほんの少し”が、どれほど大きいかを、タイラーは知っている。
廊下に出ると、港町の音が遠い。宿の木の壁が、外の喧騒を薄めている。波の音だけが、かすかに残る。
護衛用の部屋に戻ると、セイルは窓際の椅子に座り、剣を外していた。ガレンは卓の上に酒の器を置き、黙って窓の外を見ている。
話題がない。
ないのが普通だ。
この世界では、戦いは仕事で、仕事は仕事で、終われば次に移る。そういう流れがある。流れに乗れないのは、自分だけのような気がする。
タイラーは窓辺に立った。港の灯りが小さく揺れている。帆の影が黒く動く。空が広い。雲の形が見える。森の夜は黒い壁だったが、港町の夜は黒い水に似ていた。
あおいが、隣に立つ。
「……静か」
「港って、もっと騒がしいのかと思った」
「うん。風が……落ち着いてる」
風。あおいの言葉は、いつも感覚の話になる。説明ではない。判断でもない。感覚。それが、いまは救いだった。オレの頭の中は判断と説明でいっぱいになりそうで、そうなる前に止めたい。
ガレンが、短く言った。
「明日も頼む。荷の受け渡しがある」
荷。何の荷かは言わない。言わないままでも、仕事は進む。
セイルが「了解」と返した。
タイラーも頷いた。
それで終わり――のはずだった。
ガレンが、タイラーを見た。視線が合う。鋭い目ではない。確認の目だった。昨日、森で見た目とは違う。
「……よくやってくれた」
ガレンはそれだけ言った。
褒め言葉というより、報告の確認に近い声だった。仕事をした者に向ける声。感情が少ないぶん、嘘がない。
タイラーは一瞬、返す言葉を探したが、出てきたのは頷きだけだった。
「……あぁ、ありがとう」
それも、声が薄い。自分の声が空っぽに聞こえて嫌になる。だが、ガレンは気にした様子もなく、酒の器を手に取った。
セイルが、少しだけ笑った。
「ガレンがそれ言うの、滅多にないんだぜ」
「黙れ」
二人のやり取りは短い。
短いが、それがいつも通りの空気で、港の夜と同じくらい静かだった。
タイラーは部屋を出た。
あおいがついてくる。足音がほとんどしない。廊下の木が軋む音だけがする。宿の二階の奥。扉を開ける。
中は簡素だった。木のベッドが二つ。小さな机。水差し。窓。窓の外に、港の灯りが見える。
湯浴みで、ここ数日の汚れを落とす。
再び部屋の扉を閉めると、音がさらに遠くなる。波の音だけが残る。
タイラーは立ったまま、しばらく動けなかった。
落ち着いているように見えて、落ち着いていない。昨日からずっとそうだ。戦っている時だけが静かで、終わってからずっと騒がしい。
オレは昨日――いや、今日か。三人の命を奪った。
数字が、頭の中で硬い塊になって転がる。
人を殺した。
その言葉は、口に出すと別の現実になる気がして、出せない。
剣の重さはまだ手に残っている。血の匂いも、どこかに引っかかっている。洗ったはずなのに、指の間に残っている気がする。視界の端が、時々白くなる。雷の反動のせいか、疲労のせいか。
どちらでもいい。どちらにしても、体は嘘をつかない。
あおいが、ベッドの端に座った。
「……タイラー」
呼ぶ声が小さい。
「大丈夫?」
何が、とは言わない。言わないのが、あおいらしい。
タイラーは息を吐いた。
「分からない」
分からないのが、正直だった。大丈夫と言えば嘘になる。大丈夫じゃないと言えば、余計な説明が必要になる。説明したところで、きっと自分が壊れる。
あおいは頷いた。
そして、ただ言った。
「仕事だった」
短い。冷たいわけではない。事実を置いただけだ。置いた事実が、妙に温かい。事実は嘘をつかないからだ。
「……うん」
タイラーはそれだけ返して、あおいを見た。
そこにいる。
水色の髪。赤い目。
森の匂いではなく、港町の湿った匂いをまとっている。
あおいは、昨日と同じなのに、昨日と違う。オレの方が変わったからだ。
タイラーは、考える前に動いていた。
あおいを抱き寄せる。
思ったより強く、腕に力が入る。自分でも驚く。驚くのに止められない。
止めたら、何かが崩れる気がした。
胸の奥に残っているものが、あの夜の光景が、
このまま離したら、自分の中に沈んでしまいそうだった。
あおいが、少しだけ息を止めた。
でも、離れない。
背中に手が回る。指先が服の上から押さえるように触れる。
強くはない。だが、引き離そうともしない。
逃げない、というより、受け止めるための触れ方だった。
「……怖かった?」
あおいが、囁くように言った。
タイラーは一瞬、答えに詰まった。
怖かった。
だが、怖かったのは刃ではない。死でもない。
自分の中の何かが、あまりにも簡単に変わってしまうことだった。
人を殺した事実が、自分を別の人間にしてしまうことだ。
今でも脳裏に、はっきりと残っている。
最初に襲ってきた男の、
あの、人を殺そうとしている目。
現代社会に生きてきて、オレはあんな目を人から向けられたことはなかった。
怒りや抗議、皮肉。
それなら、いくらでも受けてきた。
会社にいれば、そんなものは日常だった。
だが、あの目。
そして腕を切り落とした後の、あの男の驚いた顔。
必死になって、オレはあの男を殺した。
あおいの赤い瞳が、こちらを見ている。
湯浴みの後なのだろう。
港町の湿った空気の中に、ほのかにあおいの匂いが混ざる。
「……分からない」
答えは出てこない。
あおいは、それでも頷いた。
「うん」
それ以上、理由を探そうとはしなかった。
それだけ言って、タイラーの肩に額を寄せた。
額の温度が、少しだけ伝わる。
呼吸の音が近い。波の音が遠い。
タイラーは、あおいの髪に指を通した。
柔らかい。
森の夜に触れたときと、同じ柔らかさ。
昨日と同じ。だから、少しだけ安心する。
――確認したい。
オレは、ここにいるのか。
あおいは、ここにいるのか。
オレがやったことは消えない。それでも、オレは壊れていないのか。
確認の仕方が、言葉じゃない方へ流れていく。
タイラーはあおいを見た。あおいも見返す。視線が逸れない。
逸らさないのは、強がりではない。
ここにいる、と伝えるための目だった。
あおいの強さは、いつも声じゃない。
タイラーは、あおいを求めた。
激しく、というより、止まれない。
押しつけるのではなく、沈む。
沈んで、確かめる。
体温を重ねて、逃げ場をなくすように。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
苦しいのに、その苦しさが生きている証拠みたいで、
余計に止まれない。
あおいの手が、背中を押さえた。
押し返すのではなく、逃がさないように、支えるように。
「……大丈夫」
小さな声だった。
慰めなのか、
許しなのか、
それともただの確認なのか。
分からない。
分からないままでも、いい。
いまは言葉が少ない方がいい。
言葉にした瞬間、壊れるものがある。
しばらくして、ようやく落ち着く。
二人の呼吸が整っていく。
波の音が戻る。
窓の外の灯りが、まだ揺れている。
タイラーは天井を見た。
ここにいる。
それだけは、確かだった。
オレは今日、三人殺した。
その事実も、確かだ。
確かが二つ並ぶと、人はどうしたらいいのか分からなくなる。
正しさではない。
納得でもない。
ただ、事実がそこにある。
あおいが横で、小さく息を吐いた。
タイラーの腕に、手が触れている。
触れているだけで、何かが戻ってくる気がした。
遠くで、船の鐘が鳴った。
低く、ゆっくりとした音。
港町の夜が、深くなっていく。
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その頃、港の奥の倉庫には灯りがついていた。
重い箱が一つ、兵士たちに見守られながら奥へ運ばれていく。誰も声を上げない。ただ、慎重に。荷を扱う手つきが、商人のそれではない。扱い慣れているのに、怖がっている。怖がっているのに、淡々としている。
箱の中身を知る者は少ない。
知る必要がある者だけが、知っている。
港の夜は、何も知らないまま、静かに過ぎていった。




